【コラム】神社の源流を訪ねて(78)

聖林と始祖、昔脱解の降臨

栗原 猛

◆ 新羅4代王、昔脱解(そく・たるへ)は日本人?

 新羅は朴、昔、金の3つの姓によって王朝が交代していく。新羅四代王は、昔氏出身の始祖脱解王である。注目されるのは脱解の父は多婆那国から来たとされることだ。多婆那国とは丹後地方との説があり、古墳時代は丹波地方の中心として栄えている。となると脱解王は日本人ということになるのかもしれない。                              
 「三国史記」は、「海を渡ってきた瓠公つまり脱解が新羅王室に入り、二代南解王の長女と結婚し、大輔(軍事と政事)に起用される。三代儒理王を補佐し、四代の新羅王に即位した倭人である」と記している。倭人は、列島だけでなくアジアに広く分布していたとされるが、文脈から見ると日本から来たように思える。                               
 僧一然が書いた「三国遺事」では「昔 脱解」は、「倭人の賢者」になっている。「三国史記」では、瓠公(ここう)は、新羅の建国時(紀元前後)に、金氏王統の始祖となる金閼智(きむ・あるち)を見つけ出すなど、新羅の3王統の始祖誕生にかかわったとある。                               
 瓠(瓢箪)を腰にぶら下げて海を渡ってきたので、瓠公と名がついたとされるが、ただ初代新羅王の朴赫居世の「朴姓」も同じ瓠のことなので、同一人物ではないかと見る向きもある。韓国の農村に秋に行ったら、農家のかやぶきの屋根や軒に、瓢箪がぶら下がっているのを見たことがある。なかなか風情がある光景だった。         
                      
 その瓠公だが母親のお腹の中に7年もいて、大きな瓠のような卵で生まれてきたので、不吉だと言われて何度か海に流された。新羅に流れ着き、箱を開けると男の赤ん坊がいた。たくさんの鵲(かささぎ)が、箱の周りを守るように飛び回っていたので、赤ん坊の名前を「鵲」の字のから「鳥」を外して「昔」とし、箱を解いて出てきたので「脱解」と名付けた。成長すると賢く、学問に励み立派な大人に成長した。                       
 脱解はある日、慶州にある吐含山に登り、四方を眺めて風水を占うと、慶州の南の土地が気に入った。「三国史記」によると、所有者は大輔瓠公(この人も倭人)なので、どのように手に入れるか思案した。脱解はある案を思いつく。それは屋敷の周りに鍛冶職人が使う砥石や炭を埋めておいて、この土地は私の先祖のものですから返してほしいと主張することだった。案の定、談判は決裂して、脱解は前もって埋めておいた砥石と炭を掘り起こし、これを証拠にくだんの土地を手に入れたという。                         
 脱解はその後、新羅の第二代の南解王の王女に婿入りし、三代王の王位を継ぎ第四代王となった。即位したときの脱解は62歳になっていた。日本からやってきた卵はここで王になり、この月城を居城にすることになった。 
                 
 新羅と大和政権の関係で見ると、記紀神話には第一代天皇、神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)つまり、神武天皇には3人の兄がいて長兄は東征の途中で戦死し、2人の兄は途中で海が荒れるので東征をあきらめて、新羅に行って新羅王になったという言い伝えを載せている。                                
 天橋立の近くにある元伊勢と呼ばれる籠神社を訪ねた際、神社の関係者から「大昔、この地から1人の日本人が新羅に渡って、新羅王になったという言い伝えがありますよ」と聞いたことがある。当時、既に朝鮮半島を含めた東アジアは、人とものの交流が予想以上に盛んだったようだ。

(2025.5.20)
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