【アフリカ大湖地域の雑草たち】25
誰が問われているのか
大賀 敏子
I 酷似
2022年末の安保理決議
2022年12月20日、国連安保理はコンゴ民主共和国(以下、「コンゴ」)について二つの決議をあげた。一つは、国連軍*の任期を延長するもの、もう一つは、外国からの武力支援に課せられてきた規制を緩和するものである。
報道によると、2023年1月現在、コンゴ東部地域では外国人傭兵(いわゆる「白人」たち)が続々と到着してきており、安保理の規制緩和を待っていたのかのようだという(The East African “European mercenary question in the DR Congo conflict”, 22 January 2023)。今回の安保理決議の背景とそのインパクトについてはここでは触れないが、ひとつ明確なことがある。
それは、「地質学上の奇跡」と言われるほど天然資源に恵まれたこの国に、国連軍が展開し続け、かつ、武装した現地人に外国人傭兵も加わり、流血がやまないことである。
酷似している。いま起きていることと、1960年代のコンゴ動乱とがである。単純に比較するなと言われるかもしれないが、あまりに似ている。
本稿と、先行する7稿(『アフリカ大湖地域の雑草たち(17)-(19)、(21)-(24)(それぞれオルタ広場2022年5-7月号、9-11月号、2023年1月号掲載)』※編集部注参考)は、コンゴ動乱と、それをめぐる国連と諸外国の動きを題材にしている。
コンゴ動乱は、けっして、昔の出来事ではない。
*United Nations Organization Stabilization Mission in the Democratic Republic of the Congo (MONUSCO)。前身であるUnited Nations Organization Mission in the Democratic Republic of the Congo (MONUC)は1999年から活動している。
わんわん泣いたベルギー高官
コンゴでは1960年6月30日の独立からわずか数日後、ベルギー軍がカタンガ州に侵攻した。これは、中央政府(ルムンバ内閣)の依頼もないのに州政府と手を結び、在留ベルギー人の安全と財産の保護を理由にして、権益をまもろうとする「植民地主義」「帝国主義」との非難を受けた。
国連安保理は「コンゴの独立と領土をまもれ」と国連軍の設置を決め、そのコンゴ到着に伴い、ベルギー正規軍は順次撤退した。前者が後者に代わって、治安と秩序の維持に当たるという理解だ。つまり、ニューヨークの会議室での。
カタンガ州エリザベートビルで、8月14日、要人と観衆が集まり式典が開かれた。国連軍スウェーデン兵到着に伴い、ベルギー軍が撤退する、つまり、ベルギー政府とカタンガ州政府の歴史的な関係の終わりを記念したものだ。
ベルギー軍指揮官(Gen. Roger Gheysen)がモイゼ・チョンべ州代表の手を握り、「かぎりなく感謝している、幸運を祈る」と語る、その言葉が震えた。ベルギー政府代表の高官が両者の長く、固い握手を見守っていたが、その彼は人目もはばからずわんわん泣いた。軍楽隊の演奏のなか、観衆たちもみな涙を流した。ベルギー軍は悪者で、すごすごと追い出されていった、というわけでは必ずしもなかったようである(The New York Times “Belgium Soldiers Formally Yield Katanga Capital”, 15 August 1960)。
わんわん泣いたベルギー高官は、リンデン(Harold d’Aspremont Lynden)だ。この直後の組閣(9月2日)で、もっとも難しいポジションと言われたアフリカ問題大臣に任命された。この式典ではガストン・エイスケンス首相(Prime Minister Eyskens)代理の立場であり、在カタンガ公館の責任者だった。当時、誰よりもカタンガ情勢に精通していた。
三つの調査報告書
1961年のパトリス・ルムンバ初代首相の死をめぐって、この62年間、公的機関のメジャーなものだけでも次の三つの調査報告書がまとめられた。1961年の国連、1975年のアメリカ議会、2001年のベルギー議会によるものである(国連報告書は別稿で、米議会報告書は後に、それぞれ触れる)。
ベルギー議会は事件への政府の関与について調べるためイニシアティブをとり、2001年11月、オランダ語とフランス語の1000ページの報告書**をまとめた。前稿(⋆編集部注:23年1月号)でもふれたように「政府に道義的責任がある」と結論した。本稿のII節ではこの報告書を紹介(誤解を避けるため、引用は「」をつけた。)し、III節では他のソースからの情報を加えて書く。
**本稿の多くは、英訳の「Parliamentary Committee of enquiry in charge of determining the exact circumstances of the assassination of Patrice Lumumba and the possible involvement of Belgian politicians THE CONCLUSIONS OF THE ENQUIRY COMMITTEE, conclusions (lachambre.be)」に基づく。
II ベルギー議会報告書
気持ちがついていかない
独立は急ぎすぎだった。「1950年代のベルギー政府は、一般に脱植民地問題を軽視」しており、独立が可能性として俎上に上ったのは1959年の反ベルギー暴動以降である。にもかかわらず「準備作業が始まったブリュッセル円卓会議(1960年1-2月)から(わずか)5ヶ月後には、すでに現実になっていた」
なぜ急いだのか。コンゴ人がそう望んだからであるとともに、「急いで独立させるのは、ベルギー権益を外国から守るうえで不可欠だ」とする考えもあった。「フランスのアルジェリアとインドシナでの経験が他山の石となったのは疑いがない」(フランスについては後述)。
急いだ結果、「植民地から独立国家へと性急な動きに、ベルギー人のメンタリティーが必ずしも追いついていかなかった」高官も軍人も観衆も、そろってわんわん泣いたのは、このためか。「(独立後も残った)大勢のベルギー人公務員たちは、新しい国づくりに役割を果たすことを期待されていると考えた」つまり、なにごともコンゴのためなのだと考えた。
議会は、殺害への一連の出来事を「the unaccepted past(受け入れられない過去)」と呼び、コンゴ人はもとよりベルギー人も、いかにして「過去と折りあいをつける」のか苦しんでいるという。悪気はなかった、いまは後悔しています、ということだろう。
反ルムンバ政治工作
こうしてせっかく独立させたのであり、ベルギー政府の「目的は必ずしも(有力州の)分離独立ではなく」、あらためて植民地支配をしようと望んだわけでもない。ただ、独立から1ヶ月もしないころ(7月中旬)には「ルムンバ内閣に見切りをつけ、内政の立て直しを図った」。コンゴ憲法も諸法も、ベルギー政府が起草したものだ。首相の罷免、議会の停止などを合法的に執り行うにはどうすればいいかについて、反ルムンバの指導者たちにたんねんなアドバイスをした。
こうしながら、和解や連立内閣づくりの芽はひとつひとつ、徹底的に摘んだ。ルムンバの再起だけは、何としても阻止するためだ。
要人の名前
活躍した要人は、エイスケンス総理大臣とその特使、ピエール・ウィグニー(Pierre Wigny)外務大臣とその特使、上述の(わんわん泣いた)リンデン・アフリカ問題大臣(前・駐カタンガ責任者)とその軍事顧問らである。在レオポードビル(いまのキンシャサ)ベルギー大使館のほか、在エリザベートビル公館、さらに、コンゴ河対岸ブラザビル・コンゴ(1960年8月フランスから独立)のベルギー公館が活発に働いた。さらに、有力民間企業と密接な連携があったのは言うまでもない。
反ルムンバ身体的危害
「いくつかの殺害計画は確かにあった」ベルギー政府によるもの、民間によるもの、アメリカ政府によるものなど。だが、いずれも実行されなかった。独立運動の指導者の投獄が珍しくない時代だ。獄舎でおとなしくしているのなら、わざわざ殺害するまでもなかった。
ところがなかなか逮捕できなかった。コンゴ政府(モブツ陸軍参謀長)が何度も逮捕しようとするが、こともあろうに国連兵に阻まれた(1960年9月15日、10月10日)。政治勢力のどちらにも加担しないという国連の中立原則を堅持し、要人保護の任務をまっとうしていたためだ。これがベルギー政府を慌てさせた。「(ルムンバを)無効にする」(外務大臣)、「最終的な排除」(10月6日付け、リンデン大臣からエリザベートビルのロスチャイルド大使宛てのテレックス)という用語が使われ始めた。
結局は、1961年1月17日、エリザベートビルで殺害された。関係者―ベルギー政府の閣僚、外交官、警察官、治安関係者など―は阻止できたのに、何もしなかった。死亡発表後問われれば、知らないと偽証した。
タテ割り行政
「ウィグニー外務大臣とリンデン・アフリカ大臣をはじめ、関係省の権限分担があいまいだった」
アフリカ省は、ルワンダ・ブルンディ(国連信託統治下)とともに、コンゴとの経済技術協力の担当であり、議会の承認を必要としない活動資金を管理していた。それどころか、コンゴでのベルギー軍への監督権さえも所管した(1960年10月以降、防衛省から権限移転)。その大臣ポストに、カタンガ情勢に誰よりも精通していたリンデンが座った。この結果、「カタンガには、外務省の監督がほとんど効かなくなってしまった」
外務省が見てさえいれば、うまく行ったはずだと言うことではないだろうが、ニューヨークの国連交渉をはじめ、外務省は外交の矢面に立つのだから、アフリカ省とは異なる動きもできたのかもしれない。いわばタテ割り行政の弊害である。
連絡調整不十分
指揮命令系統に混乱があった。「閣僚たちが、いつも確実に各方面の情報を把握していたわけではなかった」
極端な例は、ルムンバ殺害のニュースが、担当のアフリカ大臣に、すぐに届いていたのかどうかについて疑いがあることだ。殺害から3日もたった1月20日、同大臣はエリザベートビルに宛て「ルムンバのことをしっかりガードせよ」と、死亡を知っていたらけっして書かないような内容のテレックスを送ろうとしたという記録がある。
ベルギー人公務員の多くは、独立後もアドバイザーという立場でコンゴに残ったが、コンゴ人上司より、ブリュッセル政府やベルギー公館の指示に服していた者が多かった。過渡期の混乱のさなかである。民間資金が公務員の懐に入った事例もあった。
権力チェック機能不全
本国では、「国家元首(国王)と政府がコンフリクト」することがあり、お互いに情報をシェアしない場合もあった。「いまでも国王についてのアーカイブ」は課題である。
さらに議会の政府へのコントロールが行き届いていなかった。現に「議会外交委員会(1960年12月13日)は、ルムンバへの身体的危険を議論した」、つまり、事情を知っていた。しかし、具体的な動きにはつながらなかった。
III ベルギー議会報告書に加えて
急ぎすぎの独立
「急いで独立させるのは、ベルギー権益を外国から守るうえで不可欠だ」と引用した。ここでいう外国とは、東側諸国であるとともに、同じヨーロッパのイギリス、フランスのことも指す。
円卓会議直後、独立準備が急がれていたころのことである。フランスは19世紀末の経緯からコンゴに権益をもつこと(right of preference of France to Congo)を、一方、ローデシア・二アサランド連邦首相(Sir Roy Welensky)はカタンガ州の自国への編入を、それぞれほのめかした。ウィグニー・ベルギー外務大臣は、このような英仏を厳しく批判して、議会の喝さいを浴びたという記録がある(The New York Times “Paris Claim Stirs Anger on Congo”, 9 March 1960)。
地図を見れば一目瞭然だが、カタンガは北ローデシア(いまのザンビア)と国境を接しており、かつ、ほぼいっさいの経済活動がローデシアの輸送網を使っていた。上述のように、ベルギー政府は必ずしもカタンガ州の分離独立を望んで出兵したわけではない。ただ、出兵しなければイギリス軍がローデシア連邦から侵攻する、その可能性が全くなかったわけではないという記録もある(The Times “Right to Intervene”, 12 July 1960)。
小国ベルギー
フランスまた別の動きをとっていた。これは、フランス政府(安保理常任理事国)の国連での態度からもうかがえる。国連は、コンゴに介入してからの1年半だけを見ても、あわせて9本の決議を採択(安保理5(1960年7月14日、22日、8月9日、1961年2月21日、11月24日)、緊急特別総会1(1960年9月20日)、通常総会3(1961年4月15日))し、外国の直接介入を避け、代わり国連を使って協力しあおうという趣旨を繰り返した。このようななかで、フランスは一貫して静観の態度を維持し、いずれの決議(例外は一つ)にも棄権した。
ヨーロッパのパワーゲームについてはその分野の専門家から詳しく学ぶ必要があるものの、よく言われることがひとつある。それは、ベルギーはヨーロッパの中ではいわば小国であり、やっかいな大国と隣り合わせていたということだ。このような立場が、コンゴ独立への政策判断に影響したのかもしれない。
場当たり的
ベルギー内政についてであるが、上述(1960年9月内閣)の首相、外相、アフリカ相は、翌1961年4月25日の連立内閣成立に伴い、みな任を解かれた。またこの時、アフリカ省は廃止され外務省の一局となった。
1960年末から61年初にかけてベルギー議会は、増税案をめぐり、警官が議場に呼ばれるほどの混乱にあった。労働者のストライキ、鉄道の不通、郵便の不配、停電のなかにあり、けっして穏やかなクリスマスと新年を祝ったわけではなかったようだ(The New York Times “Belgium Session Halted in Furor”, 24 December 1960)。
ほかの要因もあったとしても、コンゴ情勢は確かに甚大なインパクトをもたらしており、ベルギーはけっしてゆとりをもって政策決定をしていたわけではなかった様子がうかがえる。これが、場当たり的、その場しのぎとも見える対応につながったのかもしれない。
世界の見る前で
そしていっさいが、大規模な国連軍の目の前で、その国連軍を通して世界が注目する中で起きた。さて、国連軍は、はたして期待どおりの成果をもたらしたのかどうか。これについては、別稿に書く。
IV 問題の本質
薄められたインパクト
ルムンバ殺害の「道義的責任」について、2022年6月、ベルギーのフィリップ国王のコンゴ訪問に当たり、アレクサンダー・デ・クロー首相は「殺害される危険を知っていたのに、閣僚、外交官、公務員、兵士らの誰も止めなかった」(The Brussels Times “Coffin of assassinated Congolese leader Lumumba returns home to DRC”, 27 June 2022)と遺憾の意を示した。手を下したわけではないが、かと言って、防ごうともしなかった、つまり、不作為の責任という趣旨であろうか。
発言の引用だけでは首相の真意はつかめない。ただ、少なくともこの報道からは、議会報告書のインパクトも、この20年ですっかり薄められてしまったという印象を持つ。これでは、英雄にされたルムンバと、非難され続けるベルギー政府といった、当事者間の事案であるという以上の考えは、まったく伝わってこない。
民主主義の質
1975年、アメリカ議会は、第二次大戦後の政府のインテリジェンス活動を調査し(議長Senator Frank Churchの名から、通称「チャーチ委員会」)、報告書をまとめた。コンゴについて次のような趣旨の証言がある(Prepared statement of Morton H. Halperin, Director, Project on National Security and Civil Liberties; former Deputy Assistant Secretary of Defense for International Affairs; former Assistant for Planning, National Security Council Staff; former Senior Fellow, Brookings Institutionからの引用の要約)。
キューバ、コンゴ、チリで、アメリカは、どんな政府が良く何が悪いのかを彼らに代わって決める権利があると考え、勝手に内政干渉した。コンゴでは、ルムンバに演説の機会を与えないよう、議会が再開しないように努力を傾けた。ルムンバを復帰させないためだ。問題は、暗殺が計画され試みられたことだけではない。問題の本質は、「私たち(アメリカ人)がよって立ち、世界に公言する原理そのものと相いれないこと」がこれらの外国でなされてしまい、かつ、それを議会や国民は、止めることができなかったことである。
ベトナム戦争が米国世論に大きく影響していたころのことだ。証言者は、自国の民主主義の質を問いかけた。
当事者だけのことなのか
ルムンバ事件は、傀儡政権、旧宗主国、大国のモラルの問題という脈絡で見なされることが多い。確かにそのとおりだが、それだけだろうか。
タテ割り行政の弊害、中央と現場の不十分な連絡調整、議会によるコントロールの不足。外国からの圧力を感じ、それがなければしなかったような政策判断をくだしてしまうこと。国連軍は最善の成果をあげたのかどうかという疑問。そして、民主主義を国是とする国の民主主義の質に対する問い。いっさいはコンゴとベルギーと当時の大国という当事者間の問題だとして、本を閉じてしまって、ほんとうに良いのだろうか。
(ライター・ナイロビ在住)
※編集部注:コンゴ動乱関連の過去の記事はこちら
・アフリカ大湖地域の雑草たち(17)「1960年の国連安保理」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(18)「ベルギー統治時代のコンゴ」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(19)「国連職員のクライアント」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(21)「相手の実力」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(22)「お兄さんと弟」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(23)「生涯感謝している」
・アフリカ大湖地域の雑草たち(24)「国連のきれいごと」
(2023.2.20)
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