【コラム】神社の源流を訪ねて(70)
邪霊の侵入を防ぐ神々(下)蘇塗(そと)
韓国に神社の源を訪ねる11
栗原 猛
◆祖霊とか穀霊を祭る
蘇塗について、後漢書東夷伝・馬韓(中国東方の民族についての記録)は、こう書いている。「常に五月を以て田竟(おわ)り、鬼神を祭るに昼夜酒会、群聚歌舞し、舞うこと輒(すなわち)数十人、相随(つ)いで地を踏み節をなす。十月に農功畢(おわり)、また復してこの如し。諸国邑、各一人を以て天神を祭ることを主(つかさど)らしめ、号(な)づけて天君と為す。又蘇塗を立て、大木を建て以て鈴鼓を掛け、鬼神に事(つか)う」。
人々は田植えや収穫が終わると、蘇塗と呼ばれる大きな木に鈴や太鼓をつけて立てかけて天神を祭る。その周りで人々が昼も夜も酒を飲み歌ったり踊ったりしたという。農作業を中心に一年が回っていたのだ。塗とは竿の先に木製の鳥をつけたもので、朝鮮半島ではソッテ(鳥杆、神竿、鳥竿)などと呼ばれる。ソウル大の教授だった孫晋泰氏は「蘇塗は朝鮮語sot(立つの意)の音訳で、本来〈そびえる木〉の意味で、別邑の入口に立てられ、境界神的性格」(世界大百科事典)としている。また人間の顔を彫った神木はチャンスンで、鳥は天地を行き来して神の使いだと信じられた。大木を立てて、鈴鼓をかけるところは西域の浮屠(ふと)に似ているとされるが、浮屠は天井が丸く仏塔(stupa)を指すという。城邑民俗村から済州空港に向かってタクシーで走っていると、突然、運転手さんが、「搭」ですよと言って、車を止めてくれた。薄暗くなった中を近づいてみると、小石を積み上げた搭は人の背の高さほどの門柱ようだ。辺りはすっかり暗くなり、道を挟んで二基あったから、ここは村の入り口なのかもしれなかった。
「魏志」韓伝では「蘇塗の義は西域の浮屠(円錐状の仏塔)に似るあり」と書かれているが、木とか山、土を積んだ墳や石を積んだものもあるようだ。仏塔は仏教に関係するが、源流に近づくにつれて蘇塗と仏塔は、区別しにくくなる。対馬の県町佐護を流れる佐護川の河口にある、天神多久頭魂(あめのかみたくずだま)神社は、前にも訪ねているが、背景にある天道山がご神体なので社殿はない。拝殿から天道山を拝む。参道の入り口に鳥居と石積み門柱があり、ここからは聖地であることを示している。石積みの上に自然石が一個、置かれている。鳥の形はしていないが鳥の意味が込められているのではないか。
済州大学の玄容駿教授の「済州島巫俗の研究」には、鳥をかたどった板が置かれている石積みとか、二本の門柱の上に渡された笠木の上に、鳥の形の板が何枚も置かれている写真が多数紹介されている。
鳥越憲三郎氏は「古代朝鮮と倭族」で「後漢書東夷伝・馬韓」の指摘について、「馬韓人の自らの習俗であったとは思われない。馬韓を征服した百済人は東北平原にいた扶余族であった。彼らが百済を建国し、その習俗を広めたものであろう」としている。
蘇塗について「三国志」魏志・韓伝を見ると、「諸国、各々別邑有り,之を名づけて蘇塗と為す。大木を立て鈴鼓を県(か)け鬼神に事(つか)う。諸亡,逃れて其の中に至れば,皆之を還さず」とある。この書き方から一種のアジール(聖域、避難場所)のような感じを受けるが、この解釈には異論もあるようだ。
1200年以上の歴史があるとされる長野県・諏訪大社のお祭りの御柱は、浮屠(仏塔)に似た大きな柱を立てる。また佐賀県の吉野ヶ里遺跡では弥生時代の出土品から、杆頭にとりつけられている木製の鳥がよく出土するという。日本でも先祖の人々は収穫が終わると、鳥杆と大木をたて銅鐸をかけ打ち鳴らす音色に合わせて、地を鳴らして舞い踊っていたのであろう。子供のころお盆になると、鎮守の森に神社の名前の入った旗竿が立てられ、やぐらの周りを輪になって踊った思い出がある。諏訪大社の御柱も、東アジアの人々と同じように、神々に収穫への感謝の気持ちを込めたものなのだろう。
◆以上
(2024.9.20)
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