【コラム】神社の源流を訪ねて
降臨と詐術
◆骨肉相食む-神功皇后
ちょっと話がそれたので「降臨と詐術」に戻って、神功皇后も九州から列島を北上して大和に向かう。仲哀天皇を父とする香坂、忍熊両皇子と、誉田別(ほむだわけ、後の応神天皇)の母の神功皇后との対立も骨肉相食む争いであった。
神功皇后の父は開花天皇玄孫・息長宿彌王で、母は葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。皇后は沖永氏の出身で、五代前は朝鮮半島から渡来したとされる。母方には新羅王子として渡来した天日槍(あめのひぼこ)がいる。天日槍は妻の阿加流比売が生まれた日本に帰ったので、後を追って渡来したという話が記紀に載っている。
神功皇后は193年(仲哀天皇2年)1月に皇后になり、3月に熊襲征伐、同年10月に、海を渡って新羅を攻め、百済、高句麗を服属させ凱旋。この後、応神を摂政にするために大和に向かう。もっともこの三韓征伐については、いくつかの話を集めたもので、実際にはなかったとする見方が強い。
皇后は香坂、忍熊両皇子が途中の海で待ち伏せしているとの情報を得て、一計を案じた。それは棺を載せた喪船を仕立て、「(応神)はもう崩御された」と偽の情報を流すことだった。
神功皇后の船は、香坂,忍熊の船に近づき、争いに来たのではないと言って、目の前で積まれていた弓の弦切り、刀は海に棄てた。そして香坂・忍熊両皇子にも武器を棄てるよう働き掛けた。皇后軍は武器を処分したのを見届けると、船の底に隠していた刀や弓を取り出して、兄弟軍を打ち破った。神功皇后はこの勝利によって誉田別を皇太子に据え、自らは長いこと摂政を務め政治の実権を握った。
このため明治までは「常陸国風土記」、「扶桑略記」、「神皇正統記」などは、15代天皇、初の女帝(女性天皇)としている。ところが1926(大正15)年に、神功皇后は、天皇から外れることになる。皇后は仲哀天皇の崩御後、長く摂政を務め九州平定や応神天皇を即位させるなど、かなり乱暴な政治運営があったのが理由とされる。
韓国の女性はオンドルでは片膝を立てて座る。姿勢を崩さないで腕を遠くまで延ばせるからといわれる。それに韓服の裾もきれいに見えるという。ずいぶん前の講演で金達寿氏が、薬師寺の八幡宮の神功皇后の神像が片ひざを立てているのでひょっとしたら渡来人かも知れないと、言っていたのを覚えていた。韓国に真冬に行った時に確認したら、やはり片膝を立てる人の方が多かった。片膝を立てると言えば、戦国武者も鎧を着ている時には片膝を立てて座ったといわれる。
以上
(2026.5.20)
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