【コラム】槿と桜(125)
韓国と日本の祝日について(1)
私が韓国で小・中学校生だった頃は日曜日以外に学校が休みになって授業がない日があると、とても嬉しかったものです。でもそうした休みの日は特別の意味があって休みになっていますから一日中ずっと自分の時間というわけにはいかなくて、特別の日としての行事に参加しなければならない時もありました。
こうした特別の「休みの日」は韓日両国ともにありますが、両国の歴史的、政治的、文化的な背景に基づいて、両国それぞれの理由によって制定されてきています。
日本が「休みの日」を制定したのは、江戸時代の封建国家から近代国家として動き出した明治6年(1873年)ということですから、今から150年以上も前になります。最初に定められた特別の「休みの日」は8つだったようです。この8つはすべて天皇家に関わっていて、日本の江戸末期に起きた政治変動と強く結びついていました。武士中心の政治から天皇中心の政治を目指した勤王(尊皇)派が実権を握り、新しい国家体制の明治という時代が到来したことと大きく関わっていたからです。明治時代には特別な休みの日は「休暇日」と呼ばれていたということです。その後、日本では1927年に「休日」、1948年に「国民の祝日」と呼び方が変わり、それが受け継がれてきています。
一方韓国は、「大韓民国」という国家が誕生したのは一般的には1948年8月15日とされています(正確にはすでに大統領に選出されていた李承晩(이승만 イスンマン)が大韓民国政府樹立を宣言したのは8月13日でした)。「大韓民国」という国の歴史だけで日本と比べると国の歴史は非常に短く、「休みの日」が制定されたのは1949年6月でした。この「休みの日」は「公休日」と呼ぶと定められ、現在まで続いています。当初の「公休日」は、
○日曜日、○三・一節(3月1日)、○制憲節(7月17日)、○光復節(8月15日)、○開天節(10月3日)、○1月1〜3日、○植木日(4月5日)、○秋夕(チュソク 陰暦8月15日)、◯基督誕辰日(12月25日)
以上9つでした。
日本と異なるのは、公休日ということで「日曜日」が入っている(現在まで変わっていません)ことと、「三・一節」から「開天節」までは〝国慶日〟(국경일 クッキョンイル)として国家にとって祝福すべき日とされ、それを記念して公休日となったものです。
そのほかの「公休日」はすべて大統領令によって定められ、この定め方は現在も同様です。
以下ではそれぞれの「公休日」について、少し見てくことにします。
○1月1日〜3日
当時は国民の意識、意向よりも国の体制を整えることに力点が置かれていて、初代の李承晩大統領はアメリカに長く滞在していたためか新暦(陽暦)を重んじていました。そのため、人びとの日常生活では新暦(陽暦)よりも旧暦(陰暦)が定着していたにもかかわらず、新暦の正月である「1月1〜3日」が特別の呼称がないままに「公休日」とされました。したがって旧暦の正月は普通の日として扱われました。そこには李承晩の正月が2回あってはならないという意向も強く反映されていたということです。それにもかかわらず旧暦に馴染んできた人びとは新暦の正月(新正 신정 シンジョン)を休日と受け入れながらも、旧暦の正月(旧正 구정 クジョン)も休みを取り、正月の行事をおこない続けていました。
○4月5日「植木日」(식목일 シンモギル)
国民の樹木への関心を高め、山間地に植林して樹木を増やし、緑豊かな国土とするために制定されました。4月5日となったのは、朝鮮第9代王の成宗(성종 ソンジォン)が祭祀を行ない、みずから田を耕した日とされていたことと、1910年4月5日に朝鮮第27代王の純宗(순종 スンジォン)が植樹を行ったことからこの日が「植木日」となったと言われています。しかし、2005年6月30日に大統領令によって「植木日」を公休日から除外することが決定され、2006年からは「公休日」ではなくなっています。
○旧暦(陰暦)8月15日「秋夕」(추석 チュソク)
旧暦の「正月」とは違って最初から「公休日」とされました。一年の豊作を祈り、先祖に感謝するため、先祖への祭祀や墓参などをするチュソクは韓国では一年のうちでもっとも重要な行事とみなされていたからでしょう。しかし、最初は旧暦8月15日の1日だけが「公休日」でした。現在では「秋夕」をはさんだ三日間が休みとなっています。
新暦と旧暦に基づいた「公休日」が入り混じっているのは、人びとの生活に旧暦が密接に結びついているからで、いかにも韓国的ですが、完全に陽暦(新暦)に移行し、定着している日本の方には奇異に映るかもしれません。一方、上述しましたように「休みの日」が定められた当初は旧暦の正月(설 ソル)は「公休日」とされませんでしたが、次第に韓国民の思いを無視することができなくなり、1985年に陰暦(旧暦)「1月1日」を「民俗の日」(민속의 날 ミンソゲナル)として「公休日」としました。でも政府の姿勢はあくまでも〝正月〟は陽暦(新暦)の1月1日という前提を崩しませんでした。しかし、その後も旧暦の正月の扱いに不満を持つ人びとの動きが無視できなくなり、1989年に旧暦12月末日と1月1日、2日の3日間を「설날 ソルラル」として「公休日」と定め、それまでの新暦1月1日〜3日の「公休日」を1月1日、2日の2日間の「公休日」に変えました。
こうしてようやく現在、韓国の二大名節として日本でも知られる〝ソルラル〟と〝チュソク〟の二つが揃って「公休日」となりましたが、まだ35年ほど前のことで、ソウルオリンピックの1年後でした。
◯12月25日「基督誕辰日」(기독탄신일 キドッタンシンイル)
2024年現在、韓国のキリスト教信者はプロテスタントが全人口の20%、カトリックが11%の合計31%ですから仏教徒の17%よりかなり多いと言えます。しかし、1950 年における韓国のキリスト教信者は全人口の 4.1%、1960 年は 6.4%程度でしたから決して信者が多いとは言えませんでした。それにもかかわらずキリストの誕生日とされるこの日を「公休日」としたのは、当時の李承晩政権の意向が大きく反映されていたのだろうと考えられます。韓国ではその後、キリスト教信者が次第に増えていき、上述しましたような数字にまでなっていますから、現在から見れば「基督誕辰日」が「公休日」となっていても納得できます。
しかし、当時は仏教徒たちからなぜイエスキリストの誕生日は「公休日」で、お釈迦様の誕生日は休みでないのか、という疑問の声が上がっていました。この問題については、裁判沙汰となって最高裁まで争われるという事態になり、結局、政府は1975年に旧暦(陰暦)の4月8日を「釈迦誕辰日(석가탄신일 ソッカタンシニル)」として「公休日」と定めました。政府が国民の声を受け入れて定められた「公休日」と言えます。
以上が大統領令によって定められた「公休日」ですが、〝国慶日〟についても少し説明をしておきます。
○3月1日「三・一節」(삼일절 サミルチョル)
日本の植民地として統治が始まった1910年から9年後の1919年3月1日に起きた日本からの独立を訴えた「三・一運動」(삼일운동 サミルウンドン)を記念しての〝国慶日〟です。
「独立宣言」に署名した33名の宗教指導者たちは当初、京城(現・ソウル)のパゴダ公園(現・タプコル公園)で、この「独立宣言」を読み上げることを計画しましたが、タプコル公園からさほど離れていない仁寺洞(インサドン)の中華料理店・泰和館(テワグァン)に変更して、「独立宣言」を朗読しました(参加したのは29名)。この「独立宣言」を読み上げた人びとは当時の植民地支配者である日本に抵抗して叛旗を翻したわけですから、日本側が政治犯として拘束することを見込んで、みずからそうした行動を起こしたことを通告し、潔く逮捕されるという行動を取りました。
ちなみに現在、泰和館はなく、仁寺洞は伝統工芸品や骨董品など伝統的品物などを扱う店が多いことで知られています。
韓国でこの「3月1日」を〝国慶日〟としたのは、この「三・一運動」をきっかけとして海外で朝鮮独立運動を進めていた李承晩(이승만 イ・スマン)、呂運亨(여운영 ヨ・ウニョン)、金九(김구 キム・ク)たちが上海市で「大韓民国臨時政府」を成立(1919年4月11日)させ、それが現在の大韓民国につながっていると見ているからで、国の誕生日として〝国慶日〟として定めるのは自然の流れでしょう。また日本の支配と抑圧に耐えて頑強に抵抗運動を続けてきた人びとを顕彰する意味も込められていると思います。
○7月17日「制憲節」(제헌절 チェホンジョル)
大韓民国の憲法が制定されたことを記念した〝国慶日〟です。
1949年当時の朝鮮半島の政治情勢は非常に複雑で、日本が第二次世界大戦で敗北した1945年8月15日以降、朝鮮半島はアメリカ、ソヴィエト連邦両国が38度線を境に分割占領して、統一に向けた論議が進められていました。しかし、それらの協議は妥協点が見つからず、結局、朝鮮半島の将来を決めるはずの米ソ共同委員会は決裂して、アメリカが国連に朝鮮問題を持ち込みました。国連は1948年5月10日に国会議員選挙の実施を決議しましたが、北朝鮮がこれを拒否したため、国連は実施可能な地域内(北朝鮮支配地区を除いた)での選挙を実施して政府を樹立することにしました。こうして1948年5月10日の選挙で議員が選出され、制憲国会が開かれ、7月1日に「大韓民国」を正式な国号とすることが決定、7月8日に李承晩が大統領に選出され、7月12日に大韓民国憲法が制定されて7月17日に大韓民国大統領となった李承晩が憲法を公布するに至りました。
しかし、この決定には上海「大韓民国臨時政府」を樹立させた金九らは一部地域だけでの選挙に反対し、選挙のボイコットや一部地域での暴動事件が起きるなど騒然とした空気の中での決定でした。曲がりなりにも大韓民国の憲法は定められましたが、こうした強引な動き等々が金日成率いる北朝鮮側の強い反発を招き、やがて朝鮮戦争勃発につながってしまいました。同じ民族同士が戦い、多くの戦争犠牲者を出すという不幸な事態が起きることをこの「国慶日」制定当時、誰も予測していなかったとは思えないのですが。なおこの「制憲節」は2008年から「公休日」から除外されました。
(未完)
大妻女子大学教授
(2025.2.20)
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