【コラム】槿と桜(136)
韓日の優先席
日本の電車やバスに「優先席」というものがあり、その席の窓には高齢者、障がい者、妊娠している方などを視覚的にわかるステッカーが貼られています。この「優先席」、導入された当初は「シルバーシート」という名称だったようです。1973年9月15日、敬老の日(当時は9月15日)に合わせて、伊豆箱根鉄道の大雄山線と駿豆線、それに国鉄(現在のJR)中央線に設けられたのが最初で、その後は次第に全国の鉄道、バス路線に広がっていったことになります。この「シルバーシート」、名称からもわかりますが、当初は高齢者、そして体の不自由な人のための優先席として始まりました。
その後、高齢者や体の不自由な人だけでなく、ケガや体調不良の人、妊婦や乳幼児連れ(ベビーカー含む)の人などが優先的に座れる席として「優先席(Priority Seat)」に改称されました。この「優先席」の名称への変更は鉄道会社によって時期が異なっているようですが、JR東日本は1997年4月にそれまでの「シルバーシート」を「優先席」に名称を変更しました。
一方、韓国にも日本と同じく電車、バスに「優先席」があって、「노약자석」(ノヤクチャソク 老弱者席)と言います。漢字表記を見るとなんとなくわかると思いますが、まさに日本の最初の名称だった「シルバーシート」の意味です。もっとも韓国では「경로석」(キョンノソク、敬老席)も同じように使われていて、〝高齢者の席〟の意味がはっきりしています。韓国での導入時期は明確ではありませんが、手元の資料では1980年12月にソウルのバス路線に「敬老席」が設けられています。
韓日とも当初は高齢者のために設けられた席でしたが、その後の両国での利用状況は大きく異なることになりました。
韓国の電車に乗ってすぐ気がつくのは、どんなに混雑していても、「노약자석」(「老弱者席」だけは空いていて、韓国の高齢者ではない人は座らず立っています。日本では考えられないことです。日本では、若者が「優先席」に当然のように座っていて、目の前に高齢者や体の不自由な人が乗ってきても席を譲ろうとしない人も珍しくありません。
こうした韓日の違いは、よく言われるのは韓国では、儒教的文化風土が根づいていて、年長者を敬う意識から席を譲るのが当然と考えているからというものです。確かに日本に比べると儒教的な考えは韓国人の生活と結びついています。この点を私は否定するつもりはありませんが、韓国の若者が「老弱者席」に座らない大きな理由は、「老弱者席」という名称が使われているからで、〝高齢者のための席〟と認識しているからでしょう。その認識は若者だけでなく一般の韓国人も同様で、そのため若者が「老弱者席」に座ると非難の目が注がれてしまいます。しかも、非難の目に留まらず、なかには座っている若者を叱責する人もいます。高齢者のための席という指定があるのですから、若者がそこに座ってはいけないことになります。そのため高齢者でない人がこの席に座るとなると、かなりの勇気、あるいは無神経さが必要になります。
でも、「老弱者席」は漢字を見ればすぐわかるのですが、本来は「老」と「弱」者のための席ですから、助けが必要な人、つまり障がい者、妊娠した女性や乳幼児連れの人が利用してよいのですが、韓国では高齢者のための席のように思われる傾向が強いのです。これには韓国ではハングルだけで漢字が使われていないため、「약자」が「弱者」という漢字であることを知らないことから生じる漢字をなくした弊害もあるように思います。
いずれにしても「老弱者席」は「敬老席」と認識する韓国人は多く(高齢者は言うまでもなく)、妊婦や障がい者がためらってしまう雰囲気が生まれて、地下鉄では2005年に「交通弱者席」と名称を変えました。また、大田都市鉄道公社は2011年に韓国の鉄道会社として初めて妊産婦の優先席を設置し、その後、設置する交通機関が増えていきました。
でも、その結果ですが、残念ながらあまり事態は改善されず、「交通弱者席」は相変わらず高齢者席で、「妊婦席」になると、高齢者だけでなく一般の人たちも座っていて、妊婦専用席としての利用からはほど遠いのが現状です。
ここには韓国の深刻な少子高齢化という社会問題も絡んでいるように思います。車内に占める高齢者と妊婦を比較すれば、圧倒的に高齢者が多く、しかも65歳以上の人は乗車賃が無料ですから、高齢者の利用率が上がっていると考えられます。
日本も「シルバーシート」という名称であった頃は高齢者の専用席という認識が人びとに浸透していて、「高齢者に譲るべき席」が定着していたということです。でも、1990年代になると「シルバーシート」には高齢者だけでなく、障がい者や妊婦、ケガをした人なども優先的に利用できるようにということから、名称が次第に「優先席」に改められていきました。
ところが〝優先〟という言葉からは〝強制〟という意味合いが薄れてしまい、「高齢者に譲るべき席」という明確性が弱まってしまったと言えそうです。その結果、日本では「優先席」に高齢者ではない人が座ってしまうことが多く見られ、韓国のように座っている人に高齢者に席を譲るようにと、時には強い言葉で言う人も少なく、高齢者が立ったままでいるケースも珍しくありません。もちろん、席を高齢者に譲る人もいますが。
このように韓国では「老弱者席」が「交通弱者席」と名称を変更しても、「妊婦席」と新たに優先席が設けられても、相変わらず高齢者がその席を占めることが多く、日本では「優先席」に名称を変えたために、高齢者や障がい者、妊婦などが座れず立ったままでいるという状況が生まれているのです。
韓国の「老弱者席」は、本来は高齢者だけの席ではなく、身体的に助けが必要な人も座れる席でした。それが妊婦や障がい者が利用しにくくなっているのは、制度導入当初の「敬老席」の認識から高齢者たちが抜け切れていないため、高齢者が独占することになっているのです。高齢者を敬い、親切にすることはいうまでもありませんが、こういう事態になりますと、身体的弱者にも目を向け、たとえ高齢者であっても譲り合う気持ちを醸成する大きな啓発運動も必要になってきているのではないでしょうか。
一方、日本では、札幌市営地下鉄の「専用席」が大変、示唆に富んでいると思います。札幌市営地下鉄では「優先席」の代わりに日本国内の公共交通機関では唯一「専用席」という名称を使っているそうです。
ある調査結果によりますと、「専用席」と「優先席」に座っていた人のうち札幌市営地下鉄では10人中9人が高齢者で、関東圏の「優先席」に座っていた高齢者は10人中2人だけで、残りの8人は高齢者ではなかったというのです。更に混雑時になりますと「専用席」は同じように9割が高齢者だったのに対し、関東圏での「優先席」での高齢者の着席率は1割以下だったそうです。
韓国の「交通弱者席」、「老弱者席」「妊婦席」には、ほとんど高齢者が座ってしまい、日本の「優先席」には、高齢者や妊婦、障がい者以外の人が座ることが多く、どちらも本来の目的を果たしていません。
それならば、韓日両国の関係者が連携したらどうでしょうか。そうすればそれぞれが抱える問題点に対してすばらしい解決策が見いだせるかもしれません。
大妻女子大学教授
(2026.1.20)
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