【アフリカ大湖地域の雑草たち】(54)

The winner takes it all

大賀 敏子
 
 I 投獄され
 
 生き証人がまた一人
 

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 2025年10月15日、ケニアのライラ・オディンガ元首相が、療養先のインドで亡くなったと報じられた。1945年生まれの80歳。アフリカ解放の生き証人が、また一人姿を消した(写真、ウィキペディアから転写)。

 ライラ・オディンガは、ついに政権のトップに就くことはなかった。若いころは投獄され亡命を余儀なくされ、長じてからは5回大統領選挙に出馬したが一度も当選しなかった。確かに一時期首相職にあった(2008‐2013年)が、これは暫定的な政治的妥協の措置で、ケニアには制度上首相ポストはない(表1)。
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 獄中の1980年代
 
 1980年代の大半をライラは獄中で過ごした。KANU一党独裁のモイ政権時代(1978‐2002年)のことだ。
 ライラの父、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ(1911‐1994年)は、ジョモ・ケニヤッタ初代大統領らとともに独立闘争を指導し、初代副大統領(在任1964–1966年)を務めた。冷戦下のことだ。African socialismを唱え東寄りのジャラモギ・オディンガは、やがて親西側のケニヤッタと袂を分かち(1966年)、設立した野党(KPU)が禁止され(1969年)てからは、反政府的危険分子となった。
 ライラは、その父が1994年に亡くなるまで「ジャラモギ・オディンガの息子」として知られ、やはり危険視された。最初の投獄(1988年まで6年間)は、クーデター未遂(1982年7月)への関与についての容疑だ。
 
 1991年亡命、1992年初当選
 
 クーデター未遂からほぼ10年かかって、モイ政権は複数政党制の再導入に踏み切った(1991年12月)が、これに先立つ抵抗運動のなかで、ライラはさらに二度投獄された(1988‐89年、1990‐1991年それぞれ1年間ほど)。狙撃事件に遭遇(1991年9月)し、命の危険を感じてひととき国外亡命を余儀なくされたこともある(ノルウェー経由のスウェーデン亡命)。このとき、女装して脱出したという武勇伝がある。
 ライラの国会議員としての初当選は1992年12月の国政選挙でのことだ。
 
 II 初入閣、国民的指導者へ
 
 2002年政権交代
 
 さらに10年後の2002年12月、選挙でキバキ新大統領が誕生した。独裁が終わり明るい時代が来ると多くの国民が歓迎し、欧米諸国がほっと胸をなでおろす政権交代が実現したのは、ライラをはじめ、主だった野党指導者が出馬しなかったためだ。出馬せず、その代わり野党は団結し「Kibaki tosha(キバキで行こう、直訳は「キバキで十分」)」―候補者をキバキ一人にしぼる―キャンペーンをはった。
 新政権にライラは公共事業・住宅大臣として入閣した。
 
 2005年国民投票
 
 政権交代から3年後の2005年11月、新憲法案の是非を問う国民投票が行われた。ライラは、政府提出案に反対する「ノー」キャンペーンを指導し、反対派を勝利に導いた。強大すぎる大統領権限に制限を加えることなどをはじめ、政府案は不十分であるとしたものだ。
 憲法案の白紙撤回を余儀なくされたキバキ大統領は反対派閣僚を更迭し、ライラは内閣を離れたが、このときの勝利は、彼の全国規模の指導力を明らかにするものとなった。
 こうして、いよいよ次期選挙(2007年12月)ではライラ・オディンガ大統領誕生かとの期待が高まった。
 
 III 未憎悪のクライシス
 
 2007年の大混乱
 
 2007年12月、大統領選挙が実施され、キバキが再選され、ライラは落選した。
 期待が高ければ高いほど、失望も強い。選挙結果が発表されるや否や「盗まれた選挙」だと抗議行動が起き、それはライラの出身であるルオ(エスニック・グループ)と、キバキの出身であるキクユとの対立という、エスニック抗争の様を呈した。おりしも普及しつつあった携帯電話の情報拡散能力のおかげで、暴力はあっという間に全国各地に飛び火し、「こんなに全国でいっせいに暴力が広がるなんて、いままで経験したことがない」というのは、当時交わされた言葉だ。
 犠牲者1000人超、国内避難民数十万人という、独立以来最悪、未憎悪のクライシスとなった(post-election violence)。
 コフィ・アナン元国連事務総長が国際仲裁に入り、キバキ大統領とオディンガ首相とのパワーシェアリング内閣がつくられた。ただし、冒頭で述べたように、これは臨時法改正による暫定的な措置であり、ケニアには制度上首相ポストはない。後に制定された2010年憲法は首相ポストを正式に廃止した。
 
 出ると負け
 
 2013年、2017年、2022年の3回の大統領選挙で、ライラはいずれも落選し、かつ、結果に不服だとして裁判所に提訴した。2013年、2022年は棄却されたが、2017年は、最高裁から、ウフル・ケニヤッタ再選の第1回投票(8月8日)の結果は無効、全国でやり直し投票を命じるという判決を引き出した(9月1日)。結果的には、第2回投票(10月26日)をライラ陣営はボイコットし、ケニヤッタが再選された(註)。
 この判決は「ケニアの裁判所は強い」ことを印象づけた。
 
 (註)ウフル・ケニヤッタはジョモ・ケニヤッタ初代大統領の息子。
 
 2010年憲法と司法改革
 
 司法の積極性は偶然の産物ではなく、2010年代、さかんに司法改革が進められた結果だ(註)。司法改革のきっかけは、2010年の国民投票で制定された現行憲法であるが、この2010年憲法制定のきっかけは、2007年選挙後の甚大な犠牲を教訓にし、統治形態を根本的に改定せざるを得なくなったためだ。現行憲法は機能的な三権分立と説明責任が重視された、進歩的な憲法であると評価が高い。
 言い換えれば、現行憲法と統治形態の改革は、ライラが落選したおかげで実現したものだと言える。
 
 (註)このほか、2024年1月判決も「強い裁判所」を印象づけた。国連多国籍部隊でケニア警察をハイチに派遣しようとする大統領に対し、「ケニア警察の海外派遣は違憲である」と待ったをかけた判決だ(『ケニア警察の海外派遣は違憲である』オルタ広場2024年4月号)。
 
 ライラを教皇に
 
 ライラ生涯最後の選挙は、2025年2月のアフリカ連合議長選挙だ。彼は国内政治にとどまらず、国際紛争調停(南スーダン、コートジボワールなど)、AUハイレベル特使などの経歴がある。結果的には、ジブチのムハムード・アリ・ユスフ元外相が選出され、ライラは落選した。
 彼のAU立候補については、国内政治から遠ざけるための「政敵側の戦略」と揶揄する見方もあった。ローマ教皇死去(2025年4月)に伴う後任選出が話題になったとき、「ライラを教皇に」とAI加工の写真がSNSに出回り人々の失笑を買ったが、こんなジョークが出回るほど、この老練政治家は、人々の話題になり続けた。ちなみに、支持者たちがつけたニックネームは「Baba(お父さん)」である。
 
 IV 民主主義の父
 
 東へ留学
 
 ライラは東ドイツで機械工学を学んだ(1965‐1970年)。同時期、兄のオブル(1943年生まれ)はソ連のモスクワに留学した。
 飛行機旅行はおろか、自家用車を持つことさえ珍しかった時代だ。エリート政治家の息子でなければ、海外留学など考えることさえできなかったであろう。それでも制約は多々あった。オブルの留学は独立前(1961年)で、まずロンドンに行き、そこでガーナ大使館が発行したガーナ・パスポートを取得し、カイロ経由でモスクワに渡ったというエピソードがある。同じころコンゴで、エンクルマのガーナとナセルのエジプトが東寄り路線をとりながら、ルムンバと後継者たちを熱心にサポートしていたことが思い出される。
 他方、同時期、ケニアからアメリカに留学した著名人には、ワンガリ・マータイ(元環境天然資源副大臣・2004年ノーベル平和賞受賞者、1940‐2011)、バラク・オバマ・シニア(1936‐1982年)などがいる。東西の人材づくり競争については、先稿(『仕事より人間関係がつらいとき』オルタ広場2025年10月号)でもふれた。
 
 冷戦下の青年
 
 ライラもまた、冷戦下の東西競争を、前進の足がかりにした、また、そうするしかなかったアフリカ人青年の一人だった。
 東西ドイツ統一、ソ連崩壊、冷戦終結といった世界史の大転換のとき、獄中か厳しい監視下にあったライラは、どんな思いを抱いたのであろう。東ドイツの恩師、学友の顔が浮かんだだろうか。強固に見えたレジームも崩壊するという現実は、ショックであると同時に、自身の将来へのビジョンにつながったのだろうか。
 
 畳の上で
 
 死因は心停止だったとの報道だ。筆者が知るとある医療従事者は、ジムに通い健康管理に気を配るライラを定期的に診ていて、よくこう言っていた「Raila is fit」 このため、少なくともこの医療従事者は、故人が「糖尿病、高血圧、慢性腎臓病の治療」を受けていたというウィキペディアの記述に疑問を抱いている。要人の健康状態は、どの国でも微妙な情報だ。
 いずれにしても、一つ言えるのは、ライラが「畳の上で」亡くなったことだ。ケニア史には「政治的死」を遂げたと言われる著名人が何人かいる(表2)。
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 負けたからこそ
 
 ルト現大統領は、かつての政敵・対立候補をしのんで「我々の民主主義の父」と呼んだ。確かにライラは、民主化の道のりに重要なマイルストーンをいくつも遺した。しかもそれは、自身が頂点に立たなかったからこそ実現した、逆に言えば、頂点に立っていたら後世に与えられることはなかったかもしれない遺産だ。
 故ネルソン・マンデラ元南ア大統領・1993年ノーベル平和賞受賞者(1918‐2013年)は、アパルトヘイト下の27年を獄中で過ごした闘士で、世界中で知られる英雄だ。ライラ・オディンガもまた、多々批判はあるにしても、不屈の精神で生涯を民主化のために尽くした。それでも、マンデラほどにはアフリカの外でその名が知られていないのは、やはり、「The Winner takes it all」「勝てば官軍」の不条理であろうか。
 ケニア政治はいま、スマホ片手に歌ったり踊ったりしながら反政府抗議に集まる、Z世代の時代に突入した。このような動きを、ライラは最後まで見届けることはなかった。
 
 ナイロビ在住

(2025.11.20)
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