「らい病に取り組まれた」犀川先生の本2冊

■ 書評「らい病に取り組まれた」犀川先生の本2冊    木村 寛

・「門は開かれて」-らい医の悲願―40年の道  みすず書房刊
・「ハンセン病医療ひとすじ」  岩波書店刊
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  『門は開かれて』-らい医の悲願-四十年の道-、みすず書房1989年、
360頁と、『ハンセン病医療ひとすじ』岩波書店1996年、203頁であ
る。
  『門は開かれて』は、琉球新報社からの依頼による新聞の113回、5ケ
月に及ぶ連載に修正、加筆を加えたものである。本の字が小さいので、『ハ
ンセン病ひとすじ』の2.3倍の分量があり、著者の生い立ちから69歳の
退職までを時系列的に網羅している。分厚いが読み始めるとひきこまれる本
である。
  後者(岩波本)は臨床具体例(I、病者とともに)から始まり、II、ハン
セン病ひとすじ(回顧レジメ版)、III、ハンセン病政策の変遷で、特にIIIの中
のらい予防法の廃止に関しては、三園長(光田健輔、林芳信、宮崎松記)の国
会証言(1951)への批判と著者独自の新しい主張が述べられ、全体として
前者よりも読みやすい。

  なお著者による前著に『らい文献目録』1957、『沖縄のらい』1976
、『沖縄のらいに関する論文集』1979、『打たれた傷』1982があり、
沖縄のかつての深刻な事情をもっと詳しく知りたい人には欠かせない文献類だ
と思う。残念ながら大阪府立中央図書館には一冊もなかったので見ていない。

  著者の履歴を簡単に示すと、
1918年東京生まれ
1944年 (府立六中)、東京慈恵会医科大学卒業
1944~1960年、長島愛生園(1944~1946年は軍務)
1960~1964年、台湾派遣、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)
1964~1970年、国連WHO専門官(台湾駐在)
1971~1972年、琉球政府らい専門官&愛楽園長
1972~1987年、愛楽園長、その後退職

  らい病は人類とともに古い病気である。旧約聖書「レビ記」13章には、祭
司が病人を診察し、らい病であると判断したら、「その人は<汚れた者>であ
るから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でな
ければならない」(13-46)とある。2000年以上前の隔離政策の宣言
である。当時から伝染性の病気であることが理解されていた。王でさえこの病
気にかかると、離れて住まねばならなかった(列王記下15-5、歴代志下2
6-21)。
  らい菌が発見されたのは、らい病が広がったノルウェー、ベルゲン市でハン
セン博士によるものであった(1873年、349頁)。これはパスツールが
発酵微生物を顕微鏡下で証明した1861年より約10年後である(コッホは
1872年に牛の炭そ病菌を見ているし、その10年後自身の染色法を用いて
結核菌を発見する。シンガー『科学思想のあゆみ』岩波、1968、525
頁)。顕微鏡による病原菌類の発見は当時の時代風潮であったことから言え
ば、らい菌の発見はわりと早いといえる。しかし有効な化学薬剤の発見まで約
70年を要したので、この70年間にらい病とらい病者をとりまくすべての問
題が濃縮されている。ノルウェーでは治療薬の発見以前にらい病者の発生の根
絶に成功したそうである。隔離を始めてから根絶までに100年を要している
(349頁)。

  「らい病には伝染性の型と非伝染性の型とがあり、学童は非伝染性のものが
多い」(306頁)。伝染性のものでもそんなにひどい伝染性ではないので、
しょせん、運の悪いと考えられた少数者の病気でしかなかった。1941年に
決定的治療薬プロミン(静脈注射薬(DDSとぶどう糖の結合体、169頁)
がアメリカのファーヂェット博士により発見(67頁)される以前と以後とで
は、地獄と天国の差が生まれた。極言すれば治療法の無い時代と、治療法が確
立された時代の違いである。その後プロミンは飲み薬DDS(ジアミノジフェ
ニルスルフォン、硫黄を含む化合物169頁)に進化したので医師による注射
が不要となり、治療が非常に楽になった。

らい病に日本で最初に取り組んだのは、日本に伝道のためにやってきた外国
の宣教師たちであり、イギリスのリデル女史は明治23年に熊本でらい病者の
救済を始めている(290頁)。著者がらい病に関心を持ち始めたのには学生
時代の教会生活の影響が大きく、東京田園調布教会の岡田五作牧師を初めとし
て、賀川豊彦、岩下壮一神父、矢内原忠雄ら、当時の第一線の活躍者たちの影
響があった(24~29頁)。もちろん、その土台には幼い時からの教会の日
曜学校があり、また親戚に医者が多かったので、将来医者になる環境は幼い頃
から整っていた(11頁)。したがって著者をらい病へ方向づけたのはキリス
ト教であったと言える。父親の反対は長島愛生園光田園長からの筆者あて手紙
により、とりあえずおさまった(35頁)。

  著者は昭和19年春に愛生園に勤務したが、まもなく応召、軍医候補生とし
て教育を受け、昭和19年12月15日に結婚、中支派遣軍の南京総司令部軍
医部に配属となり三日後に出征する。漢口、衡陽、宝慶と中国の奥地へ行き、
宝慶で八月末頃に敗戦の報告を聞く。そこで著者は軍の医務室を住民に開放
し、中国住民や中国部隊に医療サービスを始め、住民との中日友好の関係が築
かれた。その後日本に帰還するため一週間の行軍により嘉魚へ移動、そこで部
隊は中国人の家を借りて8ケ月同居。ここでも医療サービスは好評で中日友好
の関係を築いた。昭和21年5月漢口へ集結するため出発。武昌の病院まで回
帰熱の患者70名を長江下りで移送中、著者も回帰熱にかかったが、軍医学校
の同期生のサルバルサン注射で回復する。博多に上陸したのが昭和21年6月
7日、奇しくも著者の誕生日であった(35~62頁)。

「敗戦後、約一年間の中国住民との共同生活は私にとって楽しく、また有意
義なものであった」(60頁)とある。欲を言えば、著者にもこの時期に限っ
た一書を書いてもらいたかった。もしできていたら、安藝基雄(1919年生
まれ)の本と好個な姉妹編となりえたと思う。私はこの箇所を読んで、著者と
同じくキリスト者で20代の若い軍医として従軍し(昭和19年12月、満州
へ出征)、シベリヤでの抑留生活と現地住民とのつきあいを体験した安藝基雄
の『平和を作る人たち』みすず書房1984を思い出す。本題でないとはい
え、この安藝本はオルタ読者にぜひ読んでもらいたい本である。安藝は戦後東
京大学医学部に戻った(昭和24年7月復員)。安藝もまた矢内原の周辺に居
た人である。

  昭和21年7月、著者は愛生園に復職した。当時愛生園には2000名の患
者が居て、根本的治療法の無い時代であったので、毎日の治療が多忙をきわめ
たとのことである(64頁)。著者の仕事内容を大きく変えた契機は、光田園
長がGHQから入手した新しい薬剤プロミンの治療効果についてのファーヂ
ェット博士の英文論文の翻訳を年末に命じられたことであった(67頁)。

  ここから、大風子油しか知らなかった光田園長と著者との、「らい医」とし
てのキャリア、軌跡が全く異なることになった。すなわち、完治したように見
えて再発する大風子油の効果と、完全に治癒できる化学薬剤との違いである。
前者はらい病者の開放について疑心暗鬼を払拭できず、後者は開放こそが治療
の究極目的であると確信するのである。ここから著者の台湾、つづいて国連の
世界保健機構(WHO)医官としての活躍の基盤が築かれたといえる。著者の
研究論文が認められ、昭和27年5月、医学博士となる(83頁)。プロミン
の国産品製造は昭和23年から始まり、全療養所に配布されることになり、昭
和26年、第24回日本らい学会では、東京大学皮膚科、全生園、愛生園がプ
ロミンの治療効果について特別講演を行った。こうした活躍のさなか、著者は
長女を生後11ケ月で失い、妻もまた脊椎カリエスで絶対安静入院している
(岩波本118頁)。

  著者が海外の事情を知ることになったのは、昭和28年、インドのラクノー
市の国際らい会議に出席した時である。日本のプロミン療法の実状報告と、イ
ンドのらい病事情の視察が目的であった(123頁)。インドではらい病者が
道端で倒れている状況にあった。

「世界のらい病の政策が大きく変革しようとしている趨勢を感じた。また、
らい病医療にかかわっている人たちが、病者の人間性の回復、社会復帰を第一
義的に考え、リハビリテーション医療の導入を模索していることに深い感銘を
受けた。しかし、帰ってみれば、昭和29年頃の日本では相変わらず、らい病
問題は療養所という特殊な閉ざされた環境の内に限られ、閉鎖的に取り扱われ
ている」、とある(137頁)。著者に明確な理想が与えられたがゆえに、日
本の現実が著者の重荷となっていく。

  私はここに、日本社会の変革への愚さ、怠慢さを感じる。当事者が置き去り
にされる「棄民」ともいうべき問題である。 昭和32年、台湾楽生療養院の
陳院長が愛生園に見学に来られ、翌年台湾の医学総会に著者が特別講演に招待
された。これが著者との台湾との関係の始まりであった。学会後、急きょ五日
間の強行スケジュールで著者による矯正外科手術の実技教習が行われることに
なった。台湾ではその後、昭和35年らい病予防法は画期的な改正がなされて
従来の特別法を廃止し、一般伝染病法を適用し、各保健所に外来治療所を開設
するというものであった(144頁)。日本よりも進んだ政策が実施されたわ
けである。

  台湾ではらい病の発症率も高く、その上らい病に対する迷信が蔓延した状態
にあった(205頁)。WHOの専門官(昭和39年11月から)としての勤
務地も台湾であったので、昭和35年5月からのJOCSからの台湾派遣の5
年とあわせると、著者は台湾に11年間居たことになる。台湾でのたくさんの
キリスト者との出会いなど、楽しい思い出がたくさん述べられている(174
~250頁)。
  その後昭和46(1971)年1月、請われて著者は沖縄の愛楽園に赴任す
る。日本復帰前の沖縄では既に昭和36年8月に「ハンセン氏病予防法」が公
布され、外来治療制度が導入されていたのだが、日本復帰にともなって、批判
の多い日本の「らい予防法」がそのまま適用されるのではないかという不安が
あった。外来治療に理解のあった厚生省の滝沢課長と著者の努力もあって、
「沖縄振興開発特別措置法」ができ、外来治療の存続が認められた。しかし沖
縄の現実は外来治療が認められているとはいえ、その成果ははかばかしくな
かった。

  愛楽園が誕生するまでの沖縄でのらい病者たちの苦難は筆舌に尽くしがたい
ものがあった。自身らい病者でもあった青木恵哉は愛楽園の基礎をすえるの
に、昭和2年から10年間の苦闘の歳月を送った。それまでは洞窟やアダンの
葉陰に隠れ住み、住民による迫害におびえる状態にあった。青木の救援を待つ
手紙に(林文雄博士あて)、「魚ならば海にもぐりても生きん、鳥ならば空に
舞いあがりても逃れん、五尺の体、住むところなし、一坪でも、十坪でもよ
い、そこにおれば誰からも文句を言われない土地が欲しい」とある(291
頁)。
  昭和10年、やっと屋我地島の大堂原に落ち着き、昭和12年5月MTL相
談所が同地に開設された(294頁)。三井報恩会の200万円の拠金もあ
り、政府の計画は昭和14年に達成をみ、愛楽園が誕生した。

  らい病者が外から沖縄に連れて来られたこともあったのだろうが、沖縄の人
たちによる迫害にも凄まじいものがあった(焼き打ち事件など)との記述をみ
るにつけ、台湾の迷信とも合わせて、人間というのはずいぶん、先入観という
か、その時代の常識に縛られて、自由のきかない存在であることをつくづくと
感じる。磁場に左右されて「着磁」する磁性体といった感じである。昨日の非
常識は今日の常識なのだが、著者の外来治療を求めての苦労の一面はそうした
人間の先入観、常識との闘いであった気がする。病気はなおるが、人間はなか
なか変わらない、あるいは病院の門は制度で開くことができるが、人間の心の
扉はなかなか開くことができないという問題である。

  著者の沖縄体験を読むと、大江健三郎の『沖縄ノート』以前に、もうひとつ
の『沖縄ノート』が存在する気がする。それが著者による前著『沖縄のらい』
なのだろうか。愛楽園が米軍の誤解により沖縄戦で艦砲射撃を浴びた事実はな
んと言えばよいのだろう。言葉を失ってしまう。

  「世界のらい病患者約1100万人のうち、インドを含めたアジア地域と西
太平洋地域には、約735万人がいるといわれている。・・・タイで年間30
00人以上、フィリピンでも2000人の患者が発生している。・・・日本で
は約15人内外、日本の中で発生の多いと言われた沖縄で6人しか発生してい
ない」(345頁)。アジア地域では政情不安が治療対策をゆさぶるのであ
る。薬剤耐性菌の出現(342頁)は新たな課題の出現でもある。

  らい病者とは何なんだろうか。著者はそれを旧約聖書の『ヨブ記』や『イザ
ヤ書』を下敷きにして理解しようとする。ヨブの身に突然ふりかかった苦難、
イザヤ書53章の「苦難の僕(しもべ)」(322頁)(「彼は侮られて人に
捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。・・・まことに彼はわれわれの病
を負い、われわれの悲しみをになった。53-3,4」)。第二イザヤと言わ
れる予言者がらい病者を見ていたことは確かであろうし、この苦難の僕像とら
い病者の像とがある重なりを持つのも否定できない気がする。

  らい病者の文学(詩、短歌、俳句)への取り組みには人を圧倒する情熱があ
る。極限に置かれた人間が発揮する生きることへのダイナミックなエネルギー
と言えばよいのだろうか。本書には多くの人たちの作品が紹介されている。著
者は多くの患者からたくさんのことを学んだに違いない。それは現代では希薄
になってしまった生きるための哲学の礎石部分ではなかろうか。

  もちろんキリスト者である患者にとっては、信仰がその原点になるわけであ
るから、伝道という方向づけがMTLからMOL運動を自然に生み出すに至っ
たことは理解にかたくない(故藤田若雄がMOL運動を評価して、「70年代
の課題とMOL」(日本キリスト教救らい協会の機関誌『楓の蔭』1971年
1月号)を書いた。『時論』キリスト教図書出版社1977、317頁に再
収)。MOL運動の根底には、ダビデ的メシア像から主(苦難)の僕像への転
換があると藤田は言う。著者によれば、現在のMOL運動は台湾の楽生院から
引き揚げてきたホーリネス教団の小倉兼治牧師が創設したもので、社会復帰し
た患者による伝道が今もって全国で行われているとのことである(117頁)

  著者の目標は、らい病治療園からの治癒患者の解放であった。すなわち世の
中と隔離された患者とをへだてる「中垣」の取り壊しである。これは著者のら
い病への取り組みから40年余を経て、徐々に実現されつつある。慰めにやっ
てきた人たちが逆に患者たちに励まされて帰るような状況が出現する。今、ら
い病治療園の開放が政治のスケジュールにのぼっている。

  最後に著者による光田園長らの国会証言(昭和26(1951)年)批判に
触れよう。岩波本172頁以下によれば、三園長(林芳信、宮崎松記)は「現
時点では患者の施設収容の必要性を一様に述べ、そのうえ「強制収容」を強
調、従来の「隔離行政」の維持、継続を証言した」。これにたいして著者は
「明治30年頃から日本のらい病問題にかかわり、つねに日本のこの病気の根
絶をどのようにはかるかという視点から、問題を考えてこられた先生は、私ど
もとは、しょせん、発想もスケールも異なった明治時代の「国手」であったの
である」という(179頁)。

  1952年5月、全患協は「らい予防法」改正の機運を察知し、全患協とし
ての改正に対する見解を明らかにし、人権の尊重、近代科学にもとづく合理
性、および社会福祉の理念に立脚すべきことを強調し、全国的な運動を展開す
ることになった(184頁)。しかし、国会解散により、改正案は流案となっ
た。 この流案により、改正案の内容が明らかとなり、「強制収容」、「消毒
の実施」などが旧法のまま盛り込まれていることを知った全患協の主張は概
略、1)強制収容の反対、2)強制検診の反対、3)入退所の各県知事への通
告反対、4)施設内秩序維持条項の反対、5)無断外出の罰則規定の反対、等
であった(185頁)。

  著者によってみすず本に上げられた人名索引の人たちは、そのほとんどが著
者と親交のあった人たちである気がするのだが、なんと豊かな時間と内容を著
者は持つことができたのだろうと感嘆するほかない。これがらい病を専門と
し、その治療のキイ・パースンとなった著者の天に宝を積んだことの証明では
ないのだろうか。なんとすばらしい医師を我々日本人は持ったのだろうか。

  文中に数カ所、戦前から日本に来ていた宣教師ニコルソンの名前を発見した
り、著者のインド訪問の折、ニコルソン夫妻の長女バージニアをインドの盲人
施設に訪ねるあたり(132頁)には、ニコルソン夫妻の生涯『悲しむ人たち
をなぐさめよ』(日光留存刊行会)を訳した者として、特別な親しみを覚え
る。なお、文中特別な場合を除き、「らい病」とした。

(筆者は理学博士・社会福祉法人「麦の会」相談役)

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