『尾崎秀実時評集――日中戦争期の東アジア』を読む。

■『尾崎秀実時評集――日中戦争期の東アジア』を読む。     工藤 邦彦

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(米谷匡史編・平凡社・東洋文庫、2004年3月刊、2800円)                     
忘れないための記念として書き留めておきたいことがある。今年12月3日の『朝日新聞』にこういう記事が載っていた。小泉首相の靖国参拝をめぐる日中関係打開の動きについて伝えたものだが、11月4日に王毅駐日大使が赴任の挨拶で首相官邸を訪れた。その表敬訪問のはずの会談が激しい応酬になったというのである。

 王大使「首相の靖国参拝は『A級戦犯が戦争の責任を負い、その他の人民は被害者だ』という日中国交正常化の論理を壊してしまう」 首相「米国もロシアもA級戦犯について何も言わない。何故中国だけがこだわるのか」 新聞はこの出来事について、これ以上何もコメントをしていないが、こういう総理大臣を国家の代表として置いている国の住民であることがひどく恥ずかしくなるような記事であった。

 こんな風にさらりと忘れられてしまった、敗戦にいたる日本と中国の問題、日中戦争の解決に、「日支両民族の高次の結合」という立場から、文字どおり命を賭けて取り組んだ言論人がいた。尾崎秀実である。その尾崎がいわゆる「国際共産党諜報団」事件に連座して逮捕され、リヒャルト・ゾルゲとともに処刑されたのが1944年11月7日。今からちょうど60年前のことだった。

別に何周年という区切りに意味があるわけではないが、この夏、NHKの衛星放送で13年前に制作放映されたTVドキュメント『国際スパイ・ゾルゲ』(前・後編)と、昨年封切りになった篠田正浩監督作品の映画『スパイ・ゾルゲ』が連続して放映されたほかには、この60年にちなんで何か記念の出来事があったとは聴いていない。上記のテレビ上映作品にしても、その内容は尾崎ではなくゾルゲが中心であった。

 本書は、その尾崎秀実が昭和10年代前半の5年間に、『改造』や『中央公論』を初めとする総合雑誌、専門誌に公に発表した時事評論を、その初出テキストによって編者が集成し、「日中戦争期の東アジア」という副題を付けて、平凡社「東洋文庫」の一冊としてまとめたものである。

奥付によると初版第1刷が本年3月10日となっているから、あるいは没後60年にちなんだ出版だったのかもしれない。9カ月も前に出た本なので、このテンポの速い時代に新刊とは言えないし、おそらくもうお読みの方もあるかと思うのだが、どうしても記しておきたくなって、とり上げさせてもらった。

 【公表論文24編を時代順に集成】

 最初に本の構成を記しておくと、本書は大きく次の四部から成っている。

 1)日中開戦前夜の危機(1936末~37年前半)

 2)日中開戦から長期持久戦へ(1937年後半~38年)

 3)「東亜新秩序」論と汪精衛和平工作(1939年)

 4)世界戦争への拡大と「大東亜共栄圏」論(1940年~41年)

 最初に掲載されている論文「張学良クーデターの意義」は、本書巻末の「解説」によると、1936年12月の有名な西安事件発生のニュースをうけてその日のうちに書き上げ、『中央公論』37年1月号に発表して、その鋭い解析と予測により一躍論壇の脚光を浴びたというものである。

この論文から「大戦を最後まで戦ひ抜くために」と題する最後の論文まで、本書に収録されている論文数は長短あわせて24編、本文だけで東洋文庫の判型にして約400ページという、われわれ一般人にはけっこう読み応えのある分量である。なお、本書にはこの本文のほかに「参考資料」として、獄中での訊問調書からの短い抜粋(「東亜新秩序」と「国体」に関する部分)と、死刑判決後に書かれた弁護士あての遺書、略年譜、それに編者による長い解説が附されている。

 ところで尾崎秀実については、ある年齢から上の人なら、戦後ごく早い時期に家族あての書簡集『愛情はふる星のごとく』が刊行され当時のベストセラーになったこと、1960年代初めに木下順二の戯曲『オットーと呼ばれた日本人』が舞台に乗って話題になったこと、70年代初め頃に若い人たちの一部で、日本近代思想史の見直しの一環として注目された時期があったこと、などを思い浮かべる方もあるであろうが、いずれも「ゾルゲ事件」とからめた“日本の共産主義者の思想と行動”という切り口からの関心が中心であったように思う。

 「尾崎秀実は、共産主義者として、国際共産党並びにその祖国ロシアに忠誠を尽すために、日本の運命を売らんとした憎むべきスパイであった。」――これは特高文書「尾崎秀実の上申書(一)」(岩波現代文庫版)の「はしがき」の冒頭に、内務省警保局保安課の手によって書かれた文章であるが、彼は、そのゾルゲ事件の中心人物のひとりとして諜報活動を行ったという経歴のほかに、略年譜によると、東京帝国大学法学部を卒業して大学院に進み、末弘厳太郎や大森義太郎の指導を受けた学究であり、朝日新聞社の記者として中国に渡った国際ジャーナリストであり、中国左翼文芸グループの人たちや米国のジャーナリスト、A・メドレーらと交流し、同女史の自伝や魯迅の作品などを翻訳した文学者・翻訳者であり、さらに昭和研究会や満鉄調査部で活動した中国問題の専門家であり、そして近衛内閣の嘱託・近衛ブレーンとして、その政策立案者・近衛新体制運動への加担者であったなど、――たしかに尾崎という人は人物像として難解であり、それゆえ一部の人々の関心を強く引きつけてきたのであろう。

 本書は、そうした多面性を持った尾崎秀実という人物を、いったんその錯綜したいろいろな関係から解き放ち、ひとりの言論人が一つの時代に対面して考え発言した、その時々刻々の労作をいわば生の言論・論考の形で私たちの前に並べて見せてくれたものである。

尾崎は著作一覧によれば、本書に収録されたもの以外にも、新聞雑誌などに数多くの論文を発表し、また単行本も同時代に何冊か刊行されていて、1970年代後半には5巻本の『著作集』が刊行されている。

しかしこの著作集は版元品切れで、今日では簡単に手に入らないから、本書がいわばそうした尾崎のオフィシャルな言論活動を知るための貴重な1冊の本ということになる。

【日中戦争の本質を見抜く】

 さて、そのような視点から本書をめくっていくと、尾崎秀実というジャーナリスト・批評家の、時代に対する眼の確かさ、解析の鋭さ、そして群を抜いた先見性と実践的意欲にまず驚かされる。ここでそれぞれの論文を詳細に追って

いく余裕はないので、いくつかのポイントを挙げて見ていくことにしよう。

 まず日中戦争初期の諸論文では――、

 1)西安事件をめぐる動きの中にいち早く「中国の民族的解放と国民的統一」という本流を見て、「支那の民族解放運動と日本の所謂大陸政策の方向とは本質的に相容れないものである」(p39)と真っ向から言い切っていること。

 2)中国の市場としての将来性は「はかり知ることの出来ない程重要なのである」という認識を根底におき、1930年代の中国をめぐる動きを、一切の民主主義的・ヒューマニズム的幻想を排して、どこまでも帝国主義諸国の侵略的相関関係の中でとらえようとしていること。

 3)日本のむき出しの対中国侵略政策(これを尾崎は「本来的な大陸政策」という用語で呼んでいる)だけでなく、「日支経済提携」という形で提起された、より進んだ対支政策に対しても、その資本主義的進出の方向に警鐘を鳴らしていること。

 4)1937年7月の「蘆溝橋事件」勃発の瞬間に、これを「恐らくは今日両国人の多くはこの事件の持ち来すであらう重大なる結果につきさまで深刻に考へてゐないであらうが、必ずやそれは世界史的意義を持つ事件としてやがて我々の眼前に展開され来るであらう」(p77)と書き、

   この戦争が「全支那民族を相手に」した全面的な戦争であることを鮮明にしたこと。

 5)日中戦争を単に武力の比較と表面的な戦況によって見るのでなく、民族解放の意識の強さと底力に着目して、「支那の敗北の場合に於て起り得べき変化―支那の植民地化の一層の促進の場合に於てすら支那全土にわたってかへって民族主義的風潮を熾烈化せしめるおそれがある。これは列国が今日まで築き上げて来た半植民地支那に対する支配力を根底から脅かすことゝなるであらう」(p101)とその将来方向を当初から予見していること。

 6)開戦初期の上海戦勝利に国中が浮かれている中でこれを冷静に分析し、「それ以後の遙に重要にしてかつ困難な問題」である「長期抵抗」に目を向けていること。そこでは毛沢東の遊撃戦争の理論さえ引用されており、論の進め方自体も彼の「持久戦論」にいわば逆方向から呼応しているような感じさえうける。なおこの上海戦については、次のような尾崎の肉声が珍しく表白されている。

   「都大路には戦勝の提灯行列の火が 蜒々として秋の夜空に映えてゐる。しかしながら我々は何かしらたゞこの勝利に酔ひきれないものを感じる。それはまづ上海の戦線の苦難なる戦闘に没頭しつゝある同胞の上を思ふからである。

   上海に戦端が開かれてから十月二十四日までに既に五千人の人命が失はれたと公式に報ぜられてゐる。更に目を戦線の彼方に放てば、そこにはかつての豪華な建築を誇りつゝあった首都南京を始め、蜂の巣の如く穿たれた、江南の平野が黙々と展開されてゐる。我々の如く幾度か、この地方に遊びその平和な風光に接したものにとっては感慨なきを得ない」(p123)。

 7)「支那の統一が、世界の再分割を目指す帝国主義時代に始まったといふことは支那の統一事業を特に困難なものたらしめてゐる」が、それは逆にその変革の独自性を示しており、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく可能性が特に増大しつゝあるかに見受けられる」(137)と、その後の展開を当初から見通していること。

【長期戦から国内改造へ】

 このような指摘が、開戦の年1937年の秋の時点で既になされていたのであるが、開戦8カ月目の「長期戦の行方」という論文(『改造』1938年5月号)では、「…戦争はなほ引きつゞいて居るし今のところいつになったら終わるかといふことは誰にも見当がついてはゐない……自分等の村には新らしい幾本かの墓標が立ち、幾人かの若き友人たちは大陸から永久に帰っては来ない。

 ふりかへって見ればいつの間にか自分の日常生活の様式にもはっきりと目に見える変化が生じてゐる」(p153)という情況の中で、尾崎はこの戦争が現在に至った必然性を日本近代史の流れに位置づけて確認している。「この道こそは日本資本主義の七十年来の発展の仕方の、恐らくはどうにもならない帰結であったに違ひないのである。……日本経済の発展は必然的にその所謂大陸政策の遂行を必要とし、これが遂行には武力の充実を必至の要件とし、またそれらの関係が、国内における政治的機構の構成を特徴づけるといふことになり、日本政治に於て軍部に特別な重要性を附与することゝなったことは当然であらう」(p154~155)。

 この指摘が重要なのは、それが単に大陸での戦争が日本資本主義の発展にとって必然であったと言っているだけでなく、そこから転じて、今やこの戦争は「大陸政策遂行」だけの問題ではなく「日本全身の問題」なのだから、「国民が軍部にだけ委して置いていゝといふ性質のものでは断じてないのである」(p155)と言っていることである。

 ここから尾崎は戦争の現実の 情報公開を要求し、かつ日本国内の改造なしにはこの長期戦の解決はあり得ないと主張するのである。

 「日本国民は、この支那事変はこれが大陸での事件であると考へ、大陸で軍が戦ってゐるといふ点にのみ重点を置いてゐることが、現在における日本国民一般の心の持ち方に微妙な作用をなしてゐるやうに思はれる。

 ところで我々の考へるところではこの日支事変は何よりも深いところで日本の生存と直接に結びついて居り、……恐らくは日本に本質的な根本的な改造を齎すことを伴はないではこの問題は解決し得る性質のものではないであらう」(p157~158)。

 この論文を書いた少しあと1938年7月に、尾崎は朝日新聞を退社し、第一次近衛内閣の嘱託になっており、尾崎の現実政治との直接の関わりが始まっている。尾崎は近衛内閣を従来の政党内閣と異なる国民戦線的な運動の責任指導部と位置づけ、この国内改造の問題を、ある意味で反資本主義的改革と結びつけて推進しようとしている。近衛内閣の「東亜新秩序」声明や、それと連動した「東亜協同体論」に関するこの時期のいくつかの言論をたどって見ると、次のような論点が見出されるのである。

 1)「日本国民、日本社会は底深いところから深く動かされつゝあるのである。……政治指導部はその方向を見定めこれに対処する妥当なる政策を講じなければならないのである。しかもこの両者の中間には官僚的、資本家的な既成機構の深い層が幾重にも存在し、最高指導部と、動かんとする大衆との間に絶縁体――少くとも不良導体を形成ってゐるのである」(p181)。

 2)「資源追求主義、乃至はこれを中核とせる経済ブロック論の如きはその道徳性を問題とする迄もなく、現実の問題として、開発資金の問題において、治安の問題において、はたまた戦争遂行と睨み合はせた一般的な経済上の余裕の問題に於いて、成り立ち得ないのである」(p190)。

 3)「低い経済力と、不完全な政治体制と、劣弱な軍隊とを持つ支那が、とにかくにも今日迄頑張り続けてゐる謎は、実にこの民族の問題にあるのである。

   これは単に国家的規模に就いてのみではない。問題のゲリラ戦士は勿論、一切の政治的勢力と不協同の態度を以て、たゞ大地のみを相手にしてゐるかの如き農夫や、街頭のルンペン少年にいたるまでそれぞれの形をもって貫いている問題なのである。……我々は武力を用いて支那を敵及び味方の二地域に分かつことは出来るのであるが、その時と雖もかゝる形で分割された二つの地域に共通にこの民族の問題は残るのである」(p192)。

 4)「民族問題との対比に於いて「東亜協同体論」がいかに惨めにも小さいかはこれをはっきり自ら認識すべきである。さうでないならば「運命共同体」の緊密さも遂に神秘主義的決定論に終るであらう」(p197~198)。

 5)「東亜における新秩序の創設こそが現在の東亜における不幸なる事件に結末をつける唯一の方法であるとの確信は、すべて「東亜新秩序」論者の共通なる信念である」(p244)。「東亜における新秩序の創建が、日本自体の変質、更革を条件とするものなることは、「東亜新秩序論」の含む最も重要なる意味である」(p245)。

 6)このような考えに立ちながら、なお尾崎は次のような確認を行っている。「東亜協同体、東亜新秩序、と国民再組織との聯関についての考へ方には全然同感である。然しながら、「協同体」的理想がかつて満州事件以後の満州に現はれながら日本資本主義の要求によって変形を余儀なくせられた事実について今一度振返って見る必要があるであらう。その同じ危険は今日以後においても依然として存在してゐるのである」(p247)。

 こうした論点が記されているいくつかの論文を見ると、東亜協同体に関する彼の議論が、ある意味で近衛声明の「解釈をめぐる闘争」であるように思えてくる。

【東亜共栄圏をめぐって】

 国際的には1939年9月の第二次世界大戦勃発、国内的には第一次近衛内閣から平沼、阿部、米内の三内閣をへて、40年7月に第二次近衛内閣が成立すると、「乗り合ひ舟の観を呈しつゝある新政治体制」をどう進めていくかが実践的課題になる中で、再び近衛の運動に対する尾崎のコミットが深まっていくが、彼はその「国民再組織」の課題を官僚的に進めるのではなく、国民参加の民衆運動として展開することをめざすのである。

 「総じて問題は従来政治に全く無関心であり、そっぽを向いてゐた階層を政治力の内にとり入れて行かうといふことでなければならない。指導者はこの声を呑む階層の人々の声なき声に聴くべきである」(p265)。

 さらにまた尾崎にとって、「国民再組織」はあくまでも「支那事変の解決」 と結びつけて立てられるものでなくてはならない。それは「国民政府の抗戦建国綱領」の明確化への対応であり、

 1)「戦争の殆んど自然発展的な拡大を防止するためにも、また戦争遂行の巨大なる負担に堪へて行くためにも、鞏固なる政治力の結集が必要なことが痛感され来った」(p266)こと、したがって、

 2)「この複雑なる形態の戦争を、軍事力だけを持ってしては遂行して行き得ないといふことはあまりに明瞭であり、……強大なる軍事的力量を包摂して、これを政治力の一機能として発揮せしめ得る如き高度緊密なる政治力の出現が要望され始めた」(同)、というのである。これはある意味で、「停戦和平」と「軍事行動への政治的コントロール」の主張であったとも言えるだろう。

 第二次近衛内閣はその外交政策の中心理念として、「東亜共栄圏」という言葉を掲げたが、これに対しても尾崎は独自の間合いを取った言論を展開している。

 尾崎はまず「第一次近衛内閣の見事なる標語「東亜新秩序」は、如何なる理由をもって共栄圏に変へられたのであるか」と問い、さらに「苦難に充ちた民族的自覚から生れ、新たなる理想にまで高められた標語が、何等その目的を達成されずして押しやられることに不満を感ずるものである。かつ「共栄」の観念は、いまだ東亜の歴史的現実とかけ離れ過ぎてゐる。 それはいさゝかの安易さの匂ひすら含んでゐるやうにも見受けられる。……

 これは言葉の問題ではなく、心がまへの問題であり行動の方向の問題である」(p269)と批判するのである。

 また一般に「東亜共栄圏」は、いわゆる「南方問題」の浮上と共に提起されたとされているが、尾崎はこの「南方問題と支那問題」のつながりについても、次のような鋭い理論的考察を行っている。

 1)「日独伊三国同盟の締結は日本国家の向ふべき方向を決定したことは問題のないところである。……この混乱から如何なる新秩序が生れて来るかは全人類の生命を賭けた大問題である。夫は容易にこれを予言し得ない性質のものであるが、いづれにせよそれが旧き世界の復旧の姿であり得ないことは事実であらう」(p276)。

 2)「日本が支那事変の徹底的解決を求めて深く進んで行く以上、日本は支那の民族的反抗に遭遇するとともに、ソ聯の勢力ならびに英米の金融資本的勢力と衝突せざるを得ないのである。これは寧ろ不可避の条件である。……日本にとって支那事変の徹底的解決をはかりつゝしかも英米との友好関係も維持せんとする都合のいい方式は始めから全然存在し難かったのである」(p277~278)。

 3)「(南方問題は)単なる資源との結びつきに於て理解すべきでもなく軍事的戦略的地位に於て理解すべきものでもないのである。南方問題は、世界新秩序建設に際してその占むるべき地位として、何よりもそれへの過渡期における問題として、まづ取上げられなくてはならない」(p281)。

 4)「南方問題の含む最大の意義はこれらの領域の持つ民族的問題に存する。これらの抑圧下に立つ諸民族の自己解放運動こそは東亜共栄圏確立の不可欠なる要素をなすものである。今日南方における諸問題は、この東亜

   諸民族の自己解放の問題と、英米が新秩序諸国との対立のために戦略的地位を確保せんとするあがきの問題とが絡みあって現はれて来てゐるのである」(p281~282)。

   この観点から尾崎は、インド・ビルマの民族運動、タイと仏領インドシナ間の国境紛争、仏印内部の革命運動、蘭印の反帝・独立運動などに目を向け、次のように書いている。「東亜民族の解放と自立、それを通じての東亜諸民族の協同こそは東亜新秩序創建の不可欠なる要素であらうと確信するのである。その前段における民族の自己解放の作用こそ旧秩序勢力にとゞめを刺すものであらう」(p282)。

【日中関係とアジアの未来に向けて】

 日米開戦の年、1941年の『中央公論』3月号に掲載された「東亜共栄圏の基底に横たはる重要問題」という論文は、当面する情勢の世界性を確認し、その中での日本の立場決定の必要を、多方面の考察から説いた重要な論文である。

 尾崎はまず「犠牲と苦痛に充ちた抗日闘争の過程に於いて大きく変りつゝある支那社会の現在とその動向との正しい把握なしには両国の将来性ある連帯は生まれ得ないであらう」(p285)と、その基本的立場を明らかにする。

 この視線は、敵に向けた視線というよりも戦っている相手から自らに向けた視線である。それに続く文章には尾崎の中国に対する衷心があふれている。

 「一般には救ひがたい停滞の沼の底に坐して動かうともしないものと考へられ勝ちであった支那社会が、旧く重い殻をひきずり乍らも発展への動きを現はし来たってゐた、その際に日本との歴史的事件に当面して終ったといふことは特記されねばならない。

 そして今にも圧しつぶされようかと見える程の困難を背負ひつゝ抗戦を辛うじて続けてゐる支那は、それによって幾多の内部的変質を余儀なくされ乍らも、尚且つ新しく生れ変らうとする方向に向かってゐることは疑ひなき所であらう。事変が如何なる形に於いて終結するかを予想することは至難であるにしても、それが世界的動乱と云ふ環境の下にあって、旧い支那社会が完全に解体し生れ代りつゝあるといふ条件の下に於ける日支両民族の結合であること!

 このような立場から、尾崎は「農業革命としての支那革命」と、「東亜諸民族の解放」、および「日本の国内改革」の結びつきという、理論的・実践的主題を導き出してくるのである。

 1)まず中国の抗戦と農業革命の連動について日本の農業も視野に入れた考察が行われる。「…著しい後進性を有つ支那の抗戦方式が中心的には民衆動員を通ぜずしては行はれ得ないと云ふ事情は、必然的に抗戦の継続を通じて農業革命の発展が招来されざるを得ないといふ条件を生んでゐるのである。

   かゝる意味に於いて、我々が将来の正しい日支間系の基礎を測定するためには、抗戦支那に於ける農業革命の今日の相貌とその動向とに深甚の注意を払はなければならないのである。

   殊に東亜共栄圏内の各国農業就中日本及満州農業が、他産業部面に於ける発展段階の著しい相違にも不拘、農業生産それ自体としては支那のそれと極めて酷似した状態にあるといふ事実は、東亜新秩序建設にとって非常に深い問題を投じてゐると考へられる」(p287)。

 2)次にその視点の東アジア全体への拡大である。「この社会経済的な面での東亜共栄圏全域の一貫性は、外交関係における一貫性と照応するものなることはまことに興味ある事実である。即ち、我々が従来南方問題と支那問題の一貫性を主張して来た所以である。……東亜諸民族の解放と自立とを前提とする協同こそが東亜共栄圏確立にとって不可欠の要素であると言ふ意味に於いて、支那問題と同時的に解決さるべきものであることゝ軌を一にするのである」(p288)。

 3)さらに翻って国内改革の必要が指摘される。「日本がかゝる世界政局に処して東亜新秩序創建に邁進し、その理想実現の条件を生み出し得んがためには、その前提としてかゝる事態と理想への見透しの中に於いて、それと結びついた自己自身の革新・編成替へを全面的に成し遂げることが切実に要請されてゐるのである」(同)。

 このような基本認識に立って、尾崎は引き続き各論的に、

 1.支那社会の発展、

 2.抗日支那と日本農業、

 3.世界政局と日支関係、

 4.日支事変処理の諸条件、について詳述する。とてもここでその全体を詳 細に紹介する余裕がないので、注目すべき箇所をいくつか引用するにとどめたい。

 1)「支那の半植民地的な半封建的国家としての決定的弱点は、高度の資本主義国日本との戦を持続して行くためには支那をして特殊な抗戦の方式に拠らざるを得ざらしめたのである。

   支那抗戦体制の中心を成してゐるものは、政治的な民衆動員である。民衆動員は半封建的な生産関係と半植民地的立場の下に置かれてゐた支那が、強力な政治経済体制を有つ高度な資本主義国と相抗争する場合、必然的に採り上げなければならなかった所の絶対的課題である。

   そしてこの事は久しきに亘って列強資本の下に半封建的関係の中で喘ぎ続けて来た支那民衆を、その桎梏から解放することを前提としてゐるのである。……支那抗戦体制の特質として決定的意義を有つものと思はれる民衆動員の問題は、結局の所農民をその古き桎梏から解放せしめる問題に帰着してゐる」(p301~302)。

 2)日本農業は支那農業に比してわずかながら発展傾向にあり、将来における日本農業の発展が小農経営型であることを示唆しているが、「昭和13年の農業経済調査は、かゝる自小作経営の内容が益々小作農化しつゝある事を明らかにしてゐる。

   この事実は、小農的経営発展の基礎をなす農民的土地所有と相矛盾する傾向を意味してをり、日本農業発展に対して深い問題を提示してゐるものと考へられる。日本農業の明日の発展を担ふ、此の1-2町自小作農経営さへが、直ぐ様経営の発展を阻止する高率小作料の限界に打当って終ふのである」(p313)。

   ……「我国に於いても、食糧問題の深刻化に連れ農業生産力の発展を阻んでゐる条件として、高率小作料と零細経営の問題が採り上げられるに至った。最近農林当局を中心とした公正小作料・適正規模設定の努力等は、日本農業の発展のためには其の基本問題がとにかくにも解決を要請されて来た現はれとして、重要な意義を有つものであらう」(p314)。

   ここですでに戦後改革の焦点の一つであった「農地改革」の必要=必然性が見通されており、戦後の農地改革がその根本において内発的であったことを証している。

 3)「米国が事変以来最も強硬な親支反日態度に終始して来た根本理由は、米国が今日の支那にではなく、資本・商品市場及原料供給地としての豊かな将来性に於いて、支那を評価してゐる点に多くかかるのである。

   世界最大の潜在的市場としての魅力が、現在の投資貿易額と無関係に最も豊かな資本主義国米国を、強く惹きつけてゐる」(p319)。

   それゆえ「米国の重慶に対する援助態度が人道的色彩を帯びてをり、支那の完全独立を常に支持してゐるかに見えることによって、その帝国主義的本質を見失ふことは重大なる誤りであらう。

   ……米国は支那に於ける真の政治的独立を支持し、その完全なる民族・社会的解放を援助してゐるのではなく、自己の帝国主義的地位を支那に於いて支配的ならしめることをこそ、中心課題としてゐるものである」(p320)。

 4)「東亜共栄圏確立の前提は東洋に於ける英米資本勢力を駆逐するのみでなく、その民族支配の旧秩序方式をも根絶せしめる事にある。支那問題と南方問題との含む基本的意義はその民族問題に在る。

   此等の地域に於いて植民地支配に呻吟して来た諸民族の自己解放こそ、東亜新秩序の不可欠なる要素であり、支那民族の解放と自立を通じての日支両民族の正しき協同こそは、東亜共栄圏確立の根幹を成す所の第一前提であると確信するのである。支那民族を先頭とする南方諸民族の自己解放こそは、正しく英米旧秩序維持者の東洋に於ける足場を完全に瓦解せしめることを、やがて意味するのである」(p330)。

【太平洋戦争の開戦を前にして】

 尾崎は単なる中国問題のスペシャリストであるだけではなかった。第二次近衛内閣の時期に発表した「現実政治の推移」という論文(『大陸』1941年7月号)では、日本近代・現代史のアウトラインのうえに同時代の政局動向を詳細に跡づけ、考察・分析している。ここでその一々を追っていくことはできないが、例えば尾崎は次のような認識を持っていた。

 1)斎藤内閣(1932.5)から林内閣(1937.5)までは、革新派と現状維持派の不安定な均衡の動揺時代だった。しかしその期間を通じて国防国家への動向が徐々に進んだ。その中で二・二六事件は「革新」を全面的な問題として日本政治に提起した。

 2)第一次近衛内閣はそのような不安定な均衡による支配方式の「最高限度」に立つものであり、同時に新な転換を内包したものであった。少なくとも形の上では従来の均衡方式において成立しつつも、内閣の主体的意図の中には問題を広く国民的地盤に移そうとする気構えが見られた。

 3)内務省案をベースに突然決定された「国民再組織要綱」は準官僚的構想であり、官僚機関による国民組織の把握を意味していた。

   「官僚の政治能力の限界点に於いて提起された国民再組織問題が、再びその官僚機構に委ねられる」(p339)という帰結は、首相の積極的意図にもかかわらず、国民運動の成功を最初から覚束ないものにした。

 4)1938年春の「国家総動員法」の発動によって、官僚の政治的地位は著しく強められた。「多くの重要な政治機構が議会を経ずして行政権に委譲された結果、国防国家体制確立、及び国民総動員の当面の担当者としての官僚の政治勢力は、軍部の其と共に強大化した」(p339~340)。

 5)第一次近衛内閣退陣から第二次近衛内閣の出現にいたる約1年半の間に登場した平沼、阿部、米内3内閣は、軍部・官僚・政党の均衡勢力の上に立ち、そのそれぞれが立脚した各政治勢力の均衡関係が破れるや、いずれも退陣を余儀なくされた。この期間はまた国防体制の進展とそれに伴う軍部・官僚の一層の政治的進出、および既成政治勢力の内部的瓦解の促進によって特徴づけられる。

 6)平沼内閣の登場と共に、国民再組織問題は前内閣からの残留者・木戸内相の「国民再組織は国民を侮辱するものである」との否定によって止めを刺され、精神総動員の強化に中心が置かれることになった。

   しかしそのような形での国民再組織の不成功は自ずから明らかであり、終始若干の半宗教的な教化事業の範囲を出なかった。

   そのような中で「内閣自体は、全体主義国家群と民主主義国家群との世界的対立の激化に対応し、第三の立場としての「皇道主義」或は「一君万民」政治を標榜した」(p343)。*

*この曲がり角の時期における木戸の役割とあわせて、「皇道主義」路線の始点がここにあり、こういう性格と因果で出てきたことに注意したい。

 7)第一次近衛内閣の退陣と平沼内閣の時期で、注目すべき動きは政友会の分裂と東方会・社会大衆党の合同問題である。とくに合同問題の紛糾は、民衆的地盤の上に立とうとした革新勢力の悩みを語る事件であった。

 8)翼賛会は「幕府的存在」となるのを避けて党的構成をとることなく、「万民翼賛」の指導体として現われた。その結果、諸派の勢力の雑然たる割拠となった。

 9)翼賛会の発足を沈黙の中に見送るかの態度を示していた財界は、いわゆる「経済新体制問題」に至って俄然反撃に出た。その主張の中心は「困難な内外情勢のもとにおいて、何らかの急激な経済体系の編成替えは生産増大を不可能にする」ということにあった。

   経済の実際的担当者たる財界による、経済革新が戦時経済力の低下を招来するとの主張は、軍部もこれに無関心ではありえず、結果は「産業団体法」その他の議会不提出に終わり、革新官僚の経済革新方式は姿を消すに至った。

 10)このような事情は翼賛会の動向に大きな影響を与えた。「既に発足直後から、翼賛会が其の本来の使命たる国民運動として展開されずして、一の政府機関として固定化する傾向は潜在してゐた。そして今経済界からする反撃と政府部内にその比重を増大した国粋派からする批判とは、翼賛会を精動化[官僚主導の国民精神総動員]の方向に押しやって行った。」(p351)。

 11)「かくて政治の中心は平沼・柳川両氏に代表され、軍の一部を含む所謂国粋派陣営、内政官庁的勢力[内務官僚・警察など]、及び財閥勢力によって構成されるに至った。

   この方向は日ソ中立条約成立その他にも不拘、謂はゞ今日の近衛内閣の性格とも言ひ得るものである。……政治権力の中枢に在る国粋的勢力は、以上の趨向を目して、日本政治の中心担当者はこれまで常に親英米派であったが、事変以来親独派が圧倒的となった。

   而して今や、それらを清算して真に醇乎として日本的なるものによって綜合せられんとしてゐるのであると説明する」(p352)。

 このような革新派の敗退と、現状維持的で財閥と手を結んだ国粋派の制覇が尾崎の見た太平洋戦争開戦直前の状況の到達点だったわけである。

 本書にはこの論文のあとにも、独ソ戦開始前後のいくつかの短い論文が載っており、それらでは、いずれも日米開戦に向かう東アジア・太平洋の緊迫した情勢が、いわばライブで伝えられ、明快な解析が与えられている。

 そこに一貫しているのは「帝国主義と民族問題」的な視点と方法である。そのような尾崎の見方と方法論を、今日の「ベルリンの壁崩壊とグローバル化の時代」に生きる人々がどうとらえるかは興味深い点である。

 また本書に収録されたような公開の言論のほかに、尾崎の獄中の発言(訊問書や上申書、書簡など)との比較照合や、権力側の文書、さらにゾルゲ関係資料などから、尾崎秀実とその時代をめぐるいろいろな「思想史的課題」を引き出していくことにも大きな意味があるだろう。

 だがここでは二つの引用をもって、このやや長くなった紹介文の結びとしたい。

 【その一】世界大戦におけるイギリスの策戦が、北アフリカから、近東、アラビヤへとドイツを遠隔の地へ誘い込んでいく情勢の、その先にある「限界点」についての文章である。

 ・「だが、こゝに於て我々は看過し得ざる新たなる重要な問題にが存在することに気がつく筈である。それは叙上の如き形態において英独が次々に抗争の場面を繰り拡げて行って一応限界点に到達した時に一個の重要な問題がその限界点の彼方にはっきりと浮び上って来ることである。

   (問題は限界点の内側にも生起するであらう)それは被圧迫民族国家と植民地民族問題とである。これは今日左程重要視されてはゐないが、次の段階に於て極めて重要な問題となるであらうことは確実である。

   而してこれは東亜民族問題と密接な聯関を持つものであることはいふまでもない。……ドイツ流の民族解放の現実方式と新しい組織が行はれないならば、自然成長的な民族の自己解放の問題がやがて生じる可能性なしとしない」(p379~380)。

 ・「ソ聯の民族解放運動に対する魅力は今日、第一次大戦後より1927・8年頃までの期間のそれと比ぶべくも無く少いやうに見受けられる。

   それはソ聯がその後ひたすらとり来ったソ聯流の国家主義的傾向の結果によるものと云ひ得るであらうが、それにしても英独方式の絡み合って停滞する場合にはソ聯の影響力はたしかに問題となるであらうと思はれる。」(p380~381)

 ・ 41年6月22日の独ソ戦開始は、英米とソ連の接近をもたらし、世界戦争の情況を猛烈にかき乱した。けれども「…これをもってソ聯が完全に英米陣営の中に立ち、民主主義陣営の一翼を形成し終ったと断ずることは早計である。

   それは単に独ソの戦争の帰結なほ定かならず、英米の対ソ援助も不活発消極なりとの理由からではなく、英米資本主義陣営とソ聯社会主義との根深い対立が依然として根本的な制約をとゞめてゐるからである。

   それは現在の極めて明瞭なるべき戦線の只中に於てすらも反対の方向への発展を充分考慮し得る程の深刻さを含んでゐる程である。つまり反ソ戦線形成の可能性がこの期に及んでも毫も根本的に払拭されてゐないことを意味してゐるのである」(p387~388)。

  これらの文章で、尾崎はすでに「大戦後」の課題を展望していたと言えよう。

 【その二】尾崎は41年10月15日の逮捕の直前まで、公開メディアで論文活動を展開していた。それらの文章には、彼が追い求めてきた日中の真の結合への希望を越えて、確実に迫ってくる全面的なアジア・太平洋戦争への危機感と覚悟がはっきりと表明されている。

 ・「満州事変以来我国民は「非常時」といはれ、「危機」に立つと教へられ続けて来た。しかも日本は一路軍事的威力を発揮しつゝ、東亜新秩序建設の道を邁進し続けたのである。日常生活面に現はれる面に於てのみ非常時的感じを与へたのみで危機はたゞ何となく遙かなる遠雷の如き暗示的なものとのみ思はれたのであった。今や危機はその正体を日本国民の前に現はし来たったのである」(p403)。

 ・「欧州に戦争が始まった時人々はこれを英独の決闘であると見た。しかしながらソ聯をも捲きこんだ現在ではこれを第二次世界大戦と見ることに何人も異論を挿まないであらう。私見ではこれを世界史的転換期の戦と見るのである。

  ……旧世界は完全に行詰まって、英米的世界支配方式が力を失ったところから起った世界資本主義体制の不均衡の爆発に他ならないこの戦争が、英米的秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。

  戦争はやがて軍事的段階から社会・経済的段階に移行するであらう」(p406~407)。

 ・「当局は日本国民を率ゐて第二次世界大戦を戦ひ切る、勝ち抜けるといふ大きな目標に沿ふて動揺することなからんことである。日米外交折衝もまたかゝる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ意味があるものといひ得る。

  又今日日本には依然として支那問題を局部的にのみ取扱はんとする見解が存在してゐる。これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきものであらう。

  私見では、第二次世界戦争は「世界最終戦」であらうとひそかに信じてゐる。この最終戦を戦ひ抜くために国民を領導することこそ今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない」(p407~408)。

 この最後の引用は「大戦を最後まで戦ひ抜くために」という論文(『改造』41年11月号)の末尾にある文章である。尾崎の検挙から遡ることそう遠くない日に脱稿されたものであろう。そして、これが公表された尾崎の文章では最後のもののようである。

尾崎にとっても日本人にとってもさらに厳しいたたかいとなる「太平洋戦争」の始まりは、あと二カ月を切る先に迫っていた。

【追記】
本稿では、いわゆる重慶政府と汪精衛運動/汪政権に関する尾崎の言論についてはふれなかった。これは彼の近衛内閣嘱託としての働き、 および満鉄調査部・昭和研究会における活動とあわせて、別途に考察 すべき問題と考えている。ただ尾崎が、武漢攻略によって対中戦争の 様相が根本的に変わったという認識の上に立ち、

1)中国共産党と対抗的合作をしつつ英米に徹底的に依存して抗戦す る蒋介石路線を根底的に批判していたこと、

2)汪運動の東亜協同体の協同者としての存在を認めつつも、日本お よび中国自身に対して持つその二面性を鋭く洞察していたこと、

3)重慶政府が拠って立つ奥地経済の動向とその南方を通ずる英米仏 との関係強化を凝視していたことを指摘して、ここでは次の引用 を加えておきたい。

・「漢口攻陥によって日支抗戦の支那側の抗戦模様に質的転換を強ひ るという事実の外に、日本側から見て、漢口を頂点とする劃然た る一つの体制――体系を一応完成せしめるといふことに於て従来 の場合と違った意味を見出すのである」(p174)
「とにも角にも日本側としては自らの行為を規定する一応の限界と いふものをこゝに新に生じる「体系」の中に見出すのである。 それが一番大きな意味を持ってゐるのである。日本の行動はその 次にははっきりと、この出来上がった「体系」を維持し、内部を 強化することに向って努力を集中して行くことになるのである」 (p175)。

・「すべての条件が一応ことごとく汪精衛運動によく作用し民族資産 家階級を根幹とする政権が出来たとしてもそれで問題が終ったの ではない。汪政権がほゝ事変前の蒋介石政権の水準に近づくとい ふだけのことである。その後には民族問題を根本的に解決する難 問が待ちかまえてゐるのである。……汪精衛運動が民族運動のヘ ゲモニーを重慶政権との間に争ふべき最後の段階はやがてその後 に到達するであらう。」(p259)