『敗北を抱きしめて』

■新刊紹介;  

『敗北を抱きしめて』 (上下)  ジョン・ダワー著 岩波書店 定価各2600円                     加藤 宣幸

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 敗戦の夏から59年の歳月は、多くの人々から悲惨な戦争の記憶を風化させて いる。まして、国敗れて山河あり、文字通りの焼野原に立ちすくみ、一時は呆 然とした日本人が米軍占領下でどのように生き、どのような社会を創ったか。 その実像について、若い世代に語り継がれることも少ない。

 最近の米国では日本占領政策の成功とイラク占領統治の失態を比較する議論 があるという。  まさに、世界を圧倒的な武力で支配する超大国の傲慢さだけが感じられる。

 米軍占領下で混乱がつづくイラクに、われわれが日本の敗戦=米軍占領を重 ね合わせ、歴史の足取りを確かめるとき、そこには開戦・激闘・敗戦・復興に いたる戦争の不条理そのものがあり、さらに戦争・敗戦の重圧のもとに死に、 傷き、生き残った者の人間の在りようが浮き彫りになり、人間とは何なのかと の問いかけが一人一人の胸に迫ってくる。

 この本は米国の知日派歴史学者の筆によるものだが、日本の軍人と一般国民 を含む死者270万人、負傷・疾病者数百万人の犠牲者を生んだ太平洋戦争の惨状 そのものは書かれていない。著者が「私が努力したのは、敗戦のあとで日本の 人々が直面した苦難や課題を伝えることであり、敗戦にたいして日本人がみせ た多様で、エネルギッシュで、矛盾に満ちた、すばらしい反応を描くことで あった」と言うように占領期の日本人について書いたものである。

 しかも「日本社会のあらゆる階層の人々の声を聞き取るように努め、書き終 わったとき悲しみと苦しみのなかにありながら、なんと多くの日本人が『平 和』と『民主主義』の理想を真剣に考えていたことか。」と自らが感動するよ うな目線で日本人を捉えている。

 少し長くなるが、本書のタイトルについて著者の言葉を聴こう。 「日本は世界に数ある敗北のうちでも最も苦しい敗北を経験したが、それは同 時に、自己変革のまたとないチヤンスに恵まれたということでもあった。戦勝 国アメリカが占領の初期に改革を強要したからだけでなく、アメリカ人が奏で る間奏曲を好機と捉えた多くの日本人が自分自身の変革の筋立てをみずから前 進させたからである。多くの理由から日本人は『敗北を抱きしめ』たのだ。な ぜなら敗北は、より抑圧の少ない、より戦争の重圧から自由な環境で再出発す るための本当の可能性をもたらしてくれたからである。  新しい世紀において、自分たちの国は何を目標とし、何を理想として抱きし めるべきか。

 今日の日本人がそう自問するとすれば、それはあの恐ろしい戦争のあとの、 あのめったにないほど流動的で、理想に燃えた平和の瞬間であり、それこそ もっとも重みのある歴史の瞬間として振り返るべきものではないだろうか。私 はそう考える。」と。

 9条をなし崩し、イラク派兵を強行する小泉自民党にこそ、このタイトルの 重みを感じとらせたい。そして次世代を担う日本の若者たちにも噛みしめて貰 いたいのである。

 上巻は、一人の農婦が8月15日に天皇の放送をどのようにして聞いたのかを 書き出しにして、疲労と困窮のなかで無条件降伏した日本人が、米軍にどう接 し、そして絶望と虚脱をどう超えていったのか。これを戦勝国側の視点からだ けでなく、写真・ポスター・出版物などを豊富に使い、日本の支配層に限ら ず、婦人子供たちを含む庶民、急速に組織化された労働者、釈放された政治犯 の動きまでを、彼らの心のひだにまで分け入って克明に描き、占領下日本の社 会状況を重層的にとらえ、当時の雰囲気を非常によく伝えている。これに成功 したのは多くのスタッフとともに日本人である夫人の協力も大きかったに違い ない。

   下巻では「神」が人になった「天皇制民主主義」の根幹に触れるとともに、 昭和天皇の戦争責任問題が占領政策の都合によって不問にふされる経緯やGHQ で憲法草案が作成される過程、戦犯裁判とくにBC級戦犯裁判の不合理さなどが 米国側資料によって詳細に記録される。最後に全巻のエピローグとして朝鮮戦 争特需による経済復興の反面、再軍備が押し付けられ、占領初期の大原則で あった日本の非軍事化と民主化が挫折する政治的理由がアメリカ本国の動きと それに連動するGHQの変容を通じて解き明かされている。  私のように少年時代を完全に軍国主義教育で染め上げられ、21歳で敗戦に直 面し、著者の言う「この貴重な歴史の瞬間」を体感した者には、何としてもこ れを後世に伝えるべき義務があるように思う。本書は、それを果たすための珠 玉のような「語り部」である。  本書は米国側が持つ資料や丹念に集められた日本側文献を駆使した研究書で ありながら、読者を惹きつけてやまない読みやすさをも持っている。このこと は、1999年にアメリカで出版されてから、ピユリッツアー賞の一般ノンフィク ション部門、外交関係でもっとも権威があるとされるバンクロフト賞など10を 越える賞をとっていることからもうかがえよう。

 日本では2001年に初版が、原本の倍以上の写真を加えた増補版が2003年11月 に出された。著者はマサセッツ工科大学教授で「吉田茂とその時代」などのベ ストセラーで知られる学者だが「行動の人」としても著名である。彼の真骨頂 ともいうべきものが増補版への序文に映し出されているので最後に紹介したい。

 『アメリカが、きちんとした計画もなく,戦闘が終わった後、何が起こるか も考えず、イラク戦争を起こしたことは今やあきらかである。戦闘開始の前、 アメリカの高官たちは、第二次大戦後の日本やドイツでの軍事占領の「成功」 を引用した。今でもそれを口にしているが、これは自分たちの願望を表明して いるにすぎない。軍事力に頼ろうとするアメリカの「現実主義者」たちにとっ て、歴史とは、酔った男がしがみつく街灯の柱のようなものである。彼らに とって、歴史は闇を照らす明かりではなく、自分を支えてくれる支柱にすぎな い。しかし、今日のイラクは1945年の日本ではないし、ブッシュ大統領のアメ リカは第二次世界大戦に勝利した当時のアメリカではない。』  ともあれ、今の日本は、同胞のおびただしい流血であがなわれ、焦土の上に 築きあげられた「非戦の論理」を声高に投げ捨てようとしている。再び国の進 む途を誤らないために、敗戦の苦しみの中で見せた日本人の熱情と英知とを振 り返りたい。そのためには一人でも多くの人々、特に若者たちに、この書が読 まれて欲しい。