コピペさまざま

【横丁茶話】

コピペさまざま

西村 徹

◆「花子とアン」と東洋英和

 NHKの連続テレビ小説「花子とアン」から、一人の高校時代の友人のことを思い出していた。その後、同じくNHKの、「日本のジレンマ」:4月27日放送「救国の大学」という大袈裟な名前の番組から、またしてもその友人のことを思い出してしまった。他愛ないといえば他愛ないことだが、きっかけがこうも重なると書き留めておきたくなる。

 「花子とアン」のモデルになっている修和女学校というのは東洋英和女学校のことだという。じつは、わが友が結婚した相手は東洋英和女学校の先生だった。東洋英和と聞いたとき、漢和辞典と英和辞典がくっついたような名前だと思ったことを覚えている。その先生は学校に近い麻布界隈の家作持ちで、結婚後は洒落たアパートの一角に住んだ。大家さんとして管理を兼ねたのであろう。一度訪ねたが、今一般に言うアパートとはまるで違う、緑濃いポッシュな(今はハイソとかセレブとかいうのだろうか)雰囲気だった。そしてそのときトーヨーエェワと、トーヨーを平たくエだけ跳躍する私の発音から、即座に「関西の方ですね」と奥方が言ったことを覚えている。わが友もまた両親の影響で関西アクセントだった。

◆日本のジレンマ「救国の大学」

 戦中戦後の波乱に満ちた生活は一変して、平穏と充足を絵にしたような暮らしになって、それはそれで、めでたしめでたしだったが、「救国の大学」のほうは、遡って戦後間もないころの、苦難に苦難の連続する、危機の時代の彼を思い出させることになった。放送のなかで誰だったか、大学でドイツ語の試験にドイツ語堪能な友人を連れていって代って答案を書かせ、それを教師は受け入れたというような話だったと思う。

 つまり代わって答案を書けるような友を持つことは、とりもなおさず問題解決のツールを持っていたということであり、そのようなコミュニケーション能力を教師は肯定的に評価したというわけらしかった。理研騒ぎでコピペがどうのこうのというタイミングでの発言だったと思う。

◆懐かしいわが友のパーフォーマンス

 わが友自身のことに戻る。彼は、高校で何の科目だったか学年末の試験に、最前列の教卓直前の席で、解答を書いた紙を堂々と開いて書き寫そうとした。たちどころに教官に咎められたが、彼は「頭に書いてくるのと紙に書いてくるのと、どちらにせよ書いたものをまた紙に書くのは同じことだ」と言い放った。

 教官は絶句した。教官は学生には大衆的人気のある、熱くて一本気の、一応名物教官であった。我が友もまた決して奇矯の質でなく、複雑な思考にはあまり馴染まない、大胆で豪傑のようでいて、じつは繊細な良識家であった。教官はわっと泣き出し、我が友もまた響鳴して泣き出して、師弟相向かい合って号泣という、なんとも名状しがたい田舎芝居のような場面展開となった。

 この向こう見ずな自己主張は、じつは彼の独創ではなかった。旧制高校の寮というところでは「駄弁り」といって、寡黙とはおよそ縁遠い、徹夜でしゃべりまくるをよしとする慣わしがあった。別な人物が、まさか誰かが実行するとは思いもしないで、たぶん受けねらいでしゃべった暴論というより放言を、彼はいきなり実演してしまったというわけである。当時は戦時中の抑圧に対する反動もあって、既成の価値を破壊することこそ創造だとする傾きがあった。だからよく似たことがよく起こった。いわば発作のようなものだった。

◆二重の米穀通帳

 彼は大連一中を卒業して浪人を二年して高校に入ったが、二十歳になっていたから入って半年、その年の十月に学徒出陣で兵隊にとられた。戦後乙幹の軍曹で復員して一年遅れになり、学制が入学時の二年制から戦後は三年制に元戻りして、そのうえ本件が重なって、さらに遅れたから都合五年在籍することになった。五年在籍の後、東大に入ったが、不思議な生活の知恵も身につけていて、どういうからくりだか米穀通帳を二人分持っていた。登録する外食券食堂を下宿の近くと東大の学生食堂と二つ持っていた。

 たぶん広島の第二総軍司令部で畑俊六元帥の助手だったことに絡んでいるかもしれない。軍はなんでもできたから。復員後もまた、豊富に持ち帰った物資がそろそろ底をついてくると、再び軍服に着かえて復員兵になりすまし、金沢から広島まで無賃乗車で往復して、第二総軍司令部に残る退蔵隠匿物資を調達してきたりしていた。衣料、食糧、あるところにはあるものだと舌を巻くほどいろんなものを持ち帰ってきたものだ。

 東京に出てからは闇屋のようなことをしながら時々本郷にも行った。受講のためでなく外食券を消化する為であった。ところが、それが仇となって食い過ぎてしまい、暴飲も手伝って胃穿孔を起こしてしまった。禍は禍を呼ぶ。卒業して就職という段取りになるが、その際になって居酒屋で口論になり、ビール瓶で頭を割られてしまった。「江戸っ子は気が早い」と感心していたが、切られ与三のような顔では何処も就職できなくてこまったらしい。さらに広島での、総軍司令部は比較の上で爆心地から遠いが、被曝の不安もなくはなかった。

◆丸暗記試験の是非

 いろんなことがあって、とにもかくにも国家公務員になり、結婚もして落ち着くわけだが、さて、彼の学年末試験でとった態度に話を戻す。それはそんなにまったく間違っていただろうか。教官は反論できなかった。常識として不正とされていることだったから、それを疑うような哲学をその教官は欠いていた。高校には、「裏日本」という出題に日本地図を裏返しに書いた生徒の答案に満点をつけ、「学問は奇想天外でなければ」と言った型破り教授もいたそうだが、当該一本気教官は、そういうタイプの名物教授ではなかった。

 たしかに医者、とりわけ一般総合医は大量の知識を記憶していなければならない。弁護士などもそうかもしれない。知的専門職といわれる職業の多くにそれが求められることはたしかだ。そういう職種にはまず記憶が大事だろう。だから、次から次と、なんとか士とかかんとか士の国家試験とか認定試験とかがうじゃうじゃとある。それはそれで必要ではあるのだろう。

◆丸暗記より設問能力

 しかし、それだけなら、すでに明らかにされている既製品の知識の詰めこみに終わるだろう。かならずしも新知識の発見に結びつくとは言えまい。あるいは必要条件ではあっても十分条件ではないだろう。ときにその新発見の邪魔になったりするだろう。自由な発想のできない官僚ばかりが製造されて未知の局面に出くわすと「前例がない」としか言えなくなりかねまい。だから丸暗記主義だと優秀な官僚は製造できても奇想天外の発明発見は期待できないだろう。

 少なくとも旧制高校のレベルなら既成知識の丸暗記より、むしろ既成の1+1=2が自明かどうか疑うことを求めるような設問であってもよかったのではなかろうか。つまり受け身に、解答を習った通りに鸚鵡返しにするのではなく、反対に問題を提起するような挑発を、問う側は生徒に期待してもよかったのではなかろうか。例えば歴史のような不確実な学問だからではあるが、鎌倉幕府は1192ではなく1185になったりする。

 わが友のパーフォーマンスは、彼のオリジナルでなかったのは少し残念だが、たとえ意識しなかったにせよ、じつはそういうラディカルな問題提起を彼はしたのでなかったかと、今彼のことを懐かしく思い出しつつ思うのである。(2014/5/9)

[付記]二重の米穀通帳を持つなどはほとんど宝くじに当たるぐらいに稀有なことに思っていた。なぜなら戦後の数年、寮の食事は食うや食わず、農村出身者でなければ大体が栄養失調状態だったから。ところが昨日(2014年5月13日)そのころ寮でなくて下宿暮らしだった友人から電話があった。上記の友のことに触れると、「俺も二通持っていて、食うに困るということはなかったよ」とのこと。山口判事がヤミ米を食うのを拒んで餓死した時代だったがと、どんな世になっても生活の知恵は人によってさまざまらしいと溜息が出た。

 (筆者は堺市在住・大阪女子大学名誉教授)


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