ジェンダー、今女性の役割の再構築を目指してできること(4)

【エッセー】

ジェンダー、今女性の役割の再構築を目指してできること(4)

                  高沢 英子


 近代国家として、先進諸国と肩を並べているように見えて、実は、日本は真の市民社会と呼べるものを形成できていない、と云われる。ジェンダーに関しても、その社会進出の点で、他の先進諸国に、明らかに遅れをとり、日本社会そのものが、市民社会として未成熟と指摘される声がある。
 実際その点は、少し外に目を向ければ、日本人自身にも痛切に感じ取れる。

 かつて、オランダのジャーナリストで、日本研究家のカレル・ウォルフレンは、多年にわたって、日本国のありようをつぶさに観察し、1989年、邦訳『日本/権力構造の謎』を出版した。これは10ヶ国語以上に翻訳され、大きな反響で世界的ベストセラーになり、5年後の1994年、『人間を幸福にしない日本というシステム』という衝撃的な題名で、再度毎日新聞社から出版された。
 そこに述べられている詳細な分析とコメントは、20数年を閲した現在も、なお精彩を失っていない。これは何を示しているのだろうか。著者はいう。「日本の社会は歪んでいる」。「なぜ『富める国の貧しい国民』という事態がこの社会で起こったのか」。さらに「なぜこの国には学校嫌いの子供がこれほど多いのか?」と。これらはすべて40年前に、ドイツに暮して、私自身が心底実感したことでもあり、その感想はいまでも変わらない。
 2013年の現在、日本はGDP(国民総生産)こそ世界三位だが、外貨準備高が世界二位、GNPも世界二位、一番の債権国、科学技術力が世界二位、特許量も世界二位、国民財産総量も世界二位、を誇っているという。国民の貯蓄総額は1800兆円とか。

 都市では、一歩街に出ると、商品があふれ、テレビのグルメ番組は活況を呈しているが、そのいっぽうで、ブランド品と美味しいものを追い求める風潮に乗って、食品その他の偽装表示が次々と暴かれている。
 いっぽうで増え続けるオレオレ詐欺、などの実態は、この国の老人たちが索漠とした孤独感と不安、言い換えれば充たされない環境に身を置いている心の空白を抱えており、同じように、身の置き所を見失っている若者たちが、たくみにその隙を狙ったものと云えるのではないか。
 そればかりではない。幼児虐待、いじめ、陰惨なストーカー事件などなど、日本社会の抱えている問題は、多岐にわたっている。

 自他共に許す経済実績とは裏腹に、大多数の国民は、相変わらずウサギ小屋で寝起きし、自由な休暇時間を殆ど持たず、病の不安におびえつつ蟻の様に勤勉に働き、ちまちま悩んで疲れ果て、大人も子供も焦りながら暮しているのが実情だ。「日本には市民は存在しない」とまで海外で囁かれる状況を脱却するためにも、女性はその本来持てる柔軟な知恵をもっと活用できないものだろうか?、
 明治の開国以来、ひたすら、追いつき追い越せとばかり、先進国に肩を並べようと駆け続けてきた。しかし、その開国と、以後の政治運営、経済運営のバランスそのものが、詳細に検証すると、民主主義とは程遠く、すでに大きく歪んでいた。
 しかし政府は矛盾と歪みを解決する手立てには耳を貸すゆとりすらなく、大多数の国民は、ウォルフレン流にいうと、声を挙げる勇気もなく、気が付けば〈もしかしていまだに気が付かず〉いわば舵の無い船のように21世紀の海を漂っているのである。
 もともと農耕民族であるこの国の規範は、あくまでも共存共栄であり、自然を相手の仕事には、自助努力も、共同作業も不可欠の要件であったことは理解できる。そして〈和をもって貴きとなす〉という、古代の歴史を背景とする倫理律を、ことあるごとに持ち出して、コミュニケーションの唯一無比の倫理律であるかのごとく担ぎ上げる。外交上の弱腰、話せばわかるという、非現実的楽観主義。すべてはこうした、視界の狭いムラ意識の産物ではないだろうか。

 これらは丸山真男が、かつて指摘したように、日本人の心の奥深くに厳然と存在し続ける古層のひとつとして、第二次大戦の折、大東亜共栄圏の美名のもとに、アジアを席捲する際の格好のスローガンとなったが、結局、身勝手な責任放棄と隠蔽で、日本の権力者たちと、それに迎合する国民は、人権意識のかけらも持ち合わせていないとして、恨みを買うことになった。2013年の現在、女性の社会的立場の向上、ジェンダー不平等の根絶を目指すといっても、以上挙げたような市民認識の根っ子のところに厳として居座っている思い込みを、勇気を持って打破することから始めないと、真の市民意識に目覚めた社会は出現しないであろうし、女性の平等の永続的で根本的な獲得は程遠い、と思われるのである。
 もともと日本社会は、かつて丸山真男が指摘したように、「一歩外に出たら全然通用しない理論が堂々とまかり通っている国」であった。「一言で言うならば、他者性のなさ」であり「怖さ」であった。しかし、それが表面上は大きく改善され、露骨な差別意識や、弱者抑圧も影を潜めたかに見えるが、今に至っても、小中学校ばかりか、大人の社会でさえ、信じられないいじめがまかり通り、災害や公害の被害者たちの人生は、いつしか政治の外に放り出されたまま、忘れ去られて風化してゆく。
 ウォルフレンは云う「不幸なことに徳川時代の全体主義的な政治体制が、今日もまだ幅を利かせている」と。日本が市民の国となるためには障害になるに決まっている生き方が、今なお正しいとされている」と。

 では、日本の女性は、男女平等の権利を手に入れるための有効な手段を求め、活動するために、まず、なにをするべきか? 女性がより質のよい生活を手に入れるためには何をするべきか? 私の見るところ日本の女性は、充分有能で、賢明に成長している。もう後戻りをしたり、泣き寝入りをしてはならないと思うのである。戦後の民主化の過程の中で、これまでに勇気ある女性たちの努力のおかげで、多くの成果を挙げたものの、その間、どれほど苦い涙が流されてきたことだろう 

 近年、日本でも女性問題に関しては、研究者やジャーナリストなどが専門的にに取り組むケースがふえ、大学の社会学の分野でも、ゼミのコースで主要テーマに選んでいるところもある。関連図書も数多く出版され、サークルの機関誌発行、コラムでの取り上げ、自治体が研究成果を冊子にまとめて出したり、ネット上での情報交換も盛んに行われている。

 前号でも紹介した、『京都の女性の歩み』には1975年から1985年までと1986年から1995年までの2期に分けられた詳細な記録が記載されている。800ページに及ぶずっしりと重い本で、京都在住の女性たちが、国際婦人年を契機に、いかに闘い続けてきたか、その内容の詳細と成果が資料をもとに整理されているのである。彼女たちの目的は、一、核戦争の危機から婦人と子供を守ること。二、憲法改悪に反対し、軍国主義の復活を阻止すること。三、生活の向上、婦人の権利、子どものしあわせのために力をあわせること。四、日本の独立と民主主義、婦人の解放をかちとること。五、世界の婦人と手をつなぎ、永遠の平和をうちたてること。というものである。
 各種の国際集会にも積極的に仲間を送り、ひたむきに活動し続け、求め続け、ある程度はかたちとなって成就したものの、現実の社会の意識は、目指す趣旨を果して理解し、大きく受け入れたのかどうか、疑問を持たざるをえない。
 この書物を贈ってくださった編著者のひとり、井上とし氏も、筆者同様すでに高齢で、ある日そっと呟かれたことがある。「徒労の人生」と。そんなはずはない。しかし、それを聞いて一瞬、私は暗然とせずにいられなかった。彼女にそんなことを呟かせたのはなんなのだろう。女性の人生には、たしかにそうした要素が多分に含まれている。

 敗戦後、日本はアメリカの半ば強制的な勧告を受けて、教育改革をし、公的教育の6・3・3制及び男女共学が実現し、言論の自由化、選挙制度の民主化などで、市民による政治参加の可能性が開けた。1964年には国連で婦人の地位委員会が設立され、世界は本格的に男女平等問題に取り組み始め、20世紀後半には、先進諸国の女性の社会進出が大きく実現し、徐々に実績を挙げている。
 しかし、男女の格差に限らず、およそすべての局面で、現実に明らかに、大きく立ち遅れている日本で、私たちのなすべきこと、できることはなにであろうか。
 男性ばかりに責任があるとはいえない。女性自身の認識や勇気と何よりも、不撓の努力も必要であると思う。長い歴史のあいだに培われ、社会通念として根付いてきた男性優位の認識を変革するのは、容易なことではない。

 先進国の進んだ認識に謙虚に耳を傾けつつ、自国の体質に沿った取り組みをするためにも、いったんはこの国の歴史的現実をしっかり学ぶ必要があるのではないだろうか。

 鵜のみと猿真似の掛け声だけで、現実には遅々として進まない政策の底に、実は旧態依然とした、あやふやで頑なな認識が隠されている。うわべの改革論義に気をとられ、機会を失わぬよう、心を引き締め、自分たちの力を信じて改革を進めなければならない。本来知的で理解力や能力があるために、却って足をすくわれてしまわぬよう、堅く立たねばならない。
 そのためには、迂遠な道ではあるけれども、まずは我が国の歴史的原点に立ち返り、とりあえずは明治の開国以来、諸外国に遅れをとるまいと、日本の近代化に向けて、ひた走ってきた政治的流れを遡り、近代日本社会での国民の精神形成の過程を知り、そのなかで、女性が置かれてきた立場を検証し、男女平等への道筋が開かれるまで、実際にこの国はなにをしてきたか、何をしなかったか、この国が、これまで他国の思想から学び、同化しつつ展開してきた成果のゆくえのあらましを、明確に把握しておくことは大切であろうと考える。

 目先の経済の停滞に焦り、立ち遅れを縫い繕うためのあがきとも見えるかずかずの、強引な政策からは眼を逸らすことなく、冷静に現実を直視し、分析し、考察するための歴史的認識に裏付けられた思考力をつけることが肝要と思う。私自身も、かつてそうであったように、女は政治音痴などと甘ったれることはもう許されない。

 繰り返すように、日本でフェミニズム思想の原点ともなる自由民権思想が広く知識人たちの手によって提唱され始めたのは、そう古いことではない。

 アメリカの独立(1776)、フランス革命(1787〜1799)、イギリスの産業革命(1760〜1830)などに較べ、日本が鎖国を解いて開国し明治政府が成立したのが1868年、およそ100年の隔たりがあり、さらに、ギリシャ哲学、ローマ市民意識、とまで遡らずとも、キリスト教が西欧に根を下ろした時代から数えれば、諸外国の神学的哲学的精神遺産の量と質の歴史はもっと長大なものとなる。その間日本の民衆は、主として農耕をなりわいとして、他国の干渉を受けない島国で、魂の刺激の少ないまま、小さな部落単位で、共同作業などで助け合いながら、統治者のなすままに乏しさに耐え、生涯、士農工商のきびしい身分制度の枠に縛られ、こころを諦念に封じ込めて暮してきた。国民の大半は農民で、極貧と苛酷な誅求を忍びながら、子供たちを間引きし、男の子は「川遊びに行き」女の子は「蕨摘み」で、人知れず、はかない命を消された。為政者をたちのモットーは周知のように〈生かさず、殺さず〉であった。
 儒教倫理や曖昧な多神教と仏教信仰が、多分に情緒的に混在する日本の民衆の魂のなかに、それらを超越した人権思想の芽生える土壌は、はっきり言って無きに等しい状態であった。
 主として下級武士たちの力で成し遂げられた倒幕による明治維新と、開国は、本来高い知性を備えた民族にとって、画期的な事件であった。それだけに、維新後の自由民権運動の活動の中で、女性がどのようなかたちで社会貢献をしようとしたか、男性の意識はどうであったか、を日本での初期のジェンダー問題のありかたとして検証しなければならない。

 社会思想史研究者の武田清子の著作、『婦人解放の道標』はこれに関する行届いた考察で、大いに参考になった。以下に、それを参照しつつ、明治から大正にかけて、女性の自由と人権のために働いたすぐれた男女の事跡をたどってみよう。
 明治六年(1874年)、森有礼、西周、中村正直、津田仙、福沢諭吉、西村茂樹、津田真道、加藤弘之、杉亨ニなど多数の優れた知識人たちの思想集団によって、結社「明六社」が結成された。メンバーの大半は、早期の海外留学経験者であった。かれらは、和綴じの機関誌『明六雑誌』を発行、人間認識の原点に立って、さまざまな局面にわたって論陣を張り、一夫一婦論、廃娼論など、女性解放問題にも熱心で、夫婦の正当な関係の重要さをも論じた。
 それまでの閉鎖的な社会に、新しい風を吹き込む啓蒙的役割を果し、小冊子ながら大きな反響を呼び、新たな民主主義国の夜明けをひらくと期待された。因みに、メンバーの一人津田真道が早くから主張していた廃娼論は、当時政府がかかわっていた外交上の配慮もあって、政府に取り上げられ、1872年には太政官布告「芸娼妓開放令」として出されている。当時のひとは、これを俗に「牛馬解きほどき」と云った、という記事から、一般日本人の女性認識が、その当時はどのような程度であったか、がうかがえるが、現代においても、従軍慰安婦問題での要人たちの発言を聞けば、一部にしても、日本の男性の人権意識が、いまだにどの程度のものであるかが推察され、男性中心の認識の根強さが了解される。

 さて、知識人同士が手を結んで、進んだ主張や提言を広めようとして作られた結社「明六社」は、結局その試みが広範な国民層に浸透し、民衆の意識改革にまで発展する以前に、わずか1年半ばかりで解散となる。
 当時の政府が、自由民権論など新たな政治批判の言論を統制するために、翌1875年6月に制定した「讒謗令」なる法規が、彼らの自由な発言を封じ込めようとしてしまった為である。機関誌『明六雑誌』は僅か1年半で、自主廃刊に追い込まれた。あっさりやめずに「讒謗令」そのものを批判するべきではなかったか、とも思われるが、グループ内で、対応を協議し賛否両論が対立し、激論となった時、福沢諭吉の言論の制約を受けるくらいなら廃刊すべし、の意見がかちを制し、廃刊が決まったという。現実主義者諭吉らしい選択だった、と思うが、これをウォルフレン流に云うならば、「日本の文化人たちは僅かの例外を除いて、同胞である日本の人々の政治的開放の手助けをしてこなかった」(p271)といわれそうである。但し、彼らに限って云えば、江戸後期から明治にかけて、彼らは日本の文明開化に高い意欲を燃やし、大きな影響を与えた人物ばかりであるから、この評は的外れかも知れない。

 明治の文明開化と自由民権運動、大正デモクラシーの流れから、昭和の軍国主義へとなだれ込んでいった年月はわずか80年余。その間に、日本は3つの戦争を経験した。戦後、政治体制も民衆の暮らしも、女性の地位なども、みかけは大きく変わったが、底に沈む意識のほうはどうであろうか。さらに考えてみたい課題である。

 (筆者は東京都在住・エッセーイスト)