上海から日中問題を考える

■上海から日中問題を考える     有留 修

――中国を正しく観るうえで必要な「第三の視点」――

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 オルタ編集部から上記タイトルで寄稿してほしいとの依頼があってから、正直
なところ非常に迷った。いや、それは引き受けるか否かで迷ったのではない。そ
うではなくて、この巨大で複雑な中国という独自世界をどのように伝えるのが最
もふさわしいのか、いわばそのとらえ方あるいは切り口のことで、なかなか結論
が出せなかったという意味で迷ったのだ。
 
 当然のことながら、日中関係について語る場合には、まず相手国である中国に
ついて知らなければならない。つまり相手方を冷静に分析・判断して、できるだ
け実体に近い形でとらえたうえでより正確な対中観を確立する必要があるわけだ
が、実際にはそれが非常に難しい。昔も今も日本人の中国を観る目にはさまざま
なバイアスがかかっており、なかなか中国をありのままの姿でとらえることがで
きずにいる。
  
 根本原因とは何なのか。それはずばり、日本人の多くが感情という領域から
中国を判断するという初歩的な間違いを犯していることに他ならないと私は思う。
もちろん、賢明なる読者の方々からしてみれば、「何をわかりきったことを言って
いるのだ」との批判が出てくるほど当たり前のことなのかもしれない。しかし、
この「わかりきったこと」を認識するまでが実は大変なことなのだ。私は上海に
5年住んでみて、そのことの難しさを今でも痛感させられる。

◇「内なる中国」観が惑わす「外なる中国」観

 日本人一般に見られる、こうした感情の次元から中国をとらえるという姿勢は、
過去において日本国民を周辺国民ともども奈落の底に陥れたほか、ここ数年来顕
著になってきた反中・嫌中意識の源になっているわけであり、いくら強調しても
強調しすぎることはない。要するに「わかっちゃいるけど止められない」のであ
り、そうである以上、ちゃんとわかっているとは言えないのだ。あるいは、一般
にそうした認識自体が決定的に欠けているのかもしれない。
 
 では、なぜ日本人の対中観において感情が支配することになってしまったのか。
それについては、私のようなチャイナ・ウォッチャー(中国研究家)といっても、
まだまだ小学生レベルくらいにしかない者の能力を超える作業なので、ここでは
その道の専門家に登場してもらうのがよいだろう。
 私がこれまで読んだ日本人による中国論の中で、この「感情が支配する対中観」
の根本に迫ったものは一冊しかない。評論家、山本七平による「日本人と中国人」
(イザヤ・ベンダサン著 祥伝社)がそれだ。実はこの本、昨年秋に日本に一時
帰国した際、成田空港で偶然見つけたもので、その分析の深さに、文字通り目か
らうろこが落ちる思いをしたものだ。
 
 究極的には天皇制まで関係してくる日本人の「曇った対中観」の分析だけに、
日本の歴史や思想に関する深い知識が必要となってくる。それゆえ、その方面に
必ずしも詳しくない私のような門外漢にとっては実に難解だ。何度か繰り返し読
むことによって、ようやく彼の分析が理解できるようになったというのが正直な
ところだ。
 
 その彼が言わんとしているところを自分なりに解釈して、大胆に説明するとす
れば、それは、日本人の多くに「内なる中国」と「外なる中国」という「二つの
中国」が存在し、それが対立した場合には、常に前者が後者にまさる、というこ
とだ。いわば、われわれの心の中に非物質的で、純粋思想のかたまりとも呼べる
「内なる中国=理想的な中国」があり、仮に「外なる中国」である現実に存在す
る中国がその理想に合致しない場合は、われわれは大きな幻滅・失望感を味わう
ことになるのだ。そして、しまいには「日本こそ真の中国なり」という思想が生
まれ、その結果、豊臣秀吉の朝鮮出兵や日中戦争の一因にまでなってしまうと山
本七平は説明する。

◇「一衣帯水」に惑わされるな

 では、日本人一般が持つと思われる、こうした「感情を基盤とする対中観」と
は、実際にはどのようなものなのであり、どのような形で顕れるのだろうか。私
が観たところ、その最大の顕れ方は、「日本と中国は同じ」あるいは「両者は非常
に近しい存在」という「思い込み」にある。これこそが、日本人が中国を冷静に
分析するうえでの最大の障害ないしはリスク要因になっていると私は思う。
 
 中国と多少なりともかかわりを持ったことのある人なら、頻繁に聞かされるこ
とになる「一衣帯水」や「同文同種」といった日中間の近さを表す言葉の数々。
私は、こうした言葉が強調されるがゆえに、かえってわれわれ日本人の中国を観
る目は曇らされることになっていると感じる。もちろん、表面的な比較でいけば、
確かに似たところはある。しかし、そうした表層的な類似性に惑わされることな
く、より深い層に迫ろうとすればするほど、日中間に横たわる根本的な相違に気
づかされることになるのだ。
 
 何も知らないで中国にやってくる日本人の多くが――要するに異文化体験の乏
しい人たちなわけだが――「一衣帯水」や「同文同種」といった言葉を信じてや
ってくるがために、いざ中国で生活を始めてみると、自分の思い込みと現実の間
にある大きなギャップに悩まされ、戸惑い、ときには苦しむことになる。
 繰り返そう。要するに、表面的に似ているという理由で、日本人の多くが「日
本と中国は近い」という実に間違った視点から中国を観るということが大問題な
わけだ。
 
  これは、いわば、日本人の対中観における「原罪」と呼べるものなのか
もしれない。日本と中国は異なった存在であるという、ごく当然な見方から出発
することが、このところもつれにもつれた日中関係を改善するうえでの大前提に
なるのだと、私は思う。
 では、こうした日本人の多くが持つと思われる対中観の根本的な欠陥を前にし
て、われわれはどのような訓練あるいは教育をすればいいのだろうか。それはず
ばり、日本と中国以外の視点、つまり「第三の視点」を身につけたうえで、日中
関係をとらえる訓練をしなければならないということに他ならない。

◇欧米派の中国知らず、中国派の欧米知らず

 私が上海に住み始めて出会った中国通と呼ばれる人びとは、見事な中国語を操
り、中国社会への浸透度においても実に目を見張るものがある。しかし、その多
くが「実のところ、私は英語が苦手なので中国語を学んだ」と語り、欧米(人)
に対するコンプレックスを顕にしている。もちろん、すべてがそうだというわけ
ではないだろうが、少なくとも私がこれまで話をした中国通の多くに、こうした
特徴があったことは確かだ。
 
 彼らの場合、当然のことながら、「日本と中国は同じ」という「フィクション」
からは解放されている。しかし、私が「バイの罠」と呼ぶ落とし穴からは免れて
いないような気がする。この「バイの罠」とは、「バイ」、つまり二国間の立場だ
けから日本と中国の関係をとらえるということであり、そこには日本ないしは中
国の価値基準が絶対化する危険性が潜んでいると思われる。さらに加えて、私の
知人である上海在住の日本人記者がいみじくも指摘していたように、「日本の中国
通と呼ばれる人たちは、日本と中国のことしか知らないので、保身のために、か
えって自由な見方ができなくなってしまうことがある」のかもしれない。
 
 これに対して、こうした「バイの罠」は、幸いにも、私のように欧米から入っ
た人間(欧米に限らず、アフリカやラテンアメリカなどから入った人間)にとっ
て、それほど大きな力を発揮しえない。中国に対する特別な思い入れもなければ、
保身から自分の見方に固執する必要もない。逆に、たとえば私の場合には日本と
米英という視点がすでにあるため、その視点からある種「冷めた目」で中国を眺
められるので、特別強い感情にからめとられる危険性は割合と少ないように思わ
れる。換言すれば、日本と中国という「バイ」の比較でとらえた場合、「これだか
ら中国(人)は困る」(この場合、日本の価値基準が上にくる)と考えがちになる
ところを、「この問題はアメリカにもあった」と別の視点から眺められる、ある種
の余裕が持てると言えるのかもしれない。
 
 ただし、問題がないわけではない。これも前述の知り合いの記者が指摘してい
るように、「欧米留学組の多くが中国を知らないまま極端な反中論を日本中で振り
まいている」ことは、大問題と言っていいだろう。たとえ、そこまでいかなくて
も、彼ら(欧米派)の多くが中国に無関心か、心の中で中国を下に見ていること
は確かなようだ。実際、上海の同窓会名簿を見ても、私の出身学科である英語学
科出身者は私以外、見当たらない。たまたまそうなっているだけなのかもしれな
いが、実際問題、同級生の中で必要以上に中国に関心を持っている人間は、おそ
らくまれな存在であることは確かだろう。
 
 要するに、日本と中国のこれからの行く末を考えるうえで重要なのは、日本に
おける中国派と欧米派の溝を埋めるという作業なのだ。欧米派の連中には、中国
により大きな関心を向けてほしい一方、中国派に対しては、欧米などの第三国に
一定期間滞在して、ぜひとも「第三の視点」を身につけてほしいと思う。
 
 ちなみに、この問題は中国にも存在する。つまり、中国の欧米派が日本に無関
心、あるいは日本を見下す一方、日本派と呼ばれる人びとの多くが欧米(英語)
コンプレックスを抱いているということだ。日本と同様、両派の間には有機的な
交流はほとんど見られない。私は、日本と中国(あるいは欧米以外の国全般)に
当てはまるこうした現象を「心の植民地状態」と呼びたい。要するに、いまだに
欧米が上で、そちらに目を向けることがエリートの証明だと考えているというこ
とだ。別に欧米と敵対する必要はないわけだが、少なくともどこが上だの下だの
といった考え方は、そろそろ蔵に入れてしまいたいものだ。

◇重要なメディアの役割

 予定の字数をだいぶ上回ってしまったので、そろそろ結びに入りたい。
 いわば、世界的大実験の中心地ともいえる上海に長年住み、その発展の過程と
ともに日中関係(あるいは「日本の中国を観る目」)を観察し続けてきた私に言え
ることは、前述したとおり、われわれの対中観が依然として感情に大きく依存し
ているため、「中国は日本とは違う」というごく自然な道理さえもわきまえていな
い人が少なからずいるということだ。そのため、つまり出発点が間違っているた
めに、現実の中国と必要以上に格闘することになり、しまいには「中国(人)と
はどうしようもない国(民族)」という軽蔑に満ちた独善的な判断をすることにな
ってしまう。
 
 こうした見方は、山本七平が述べているように、日本という国の成り立ちに深
く関係しているため、一朝一夕に変えられるものではない。しかし、よりよい2
1世紀のアジア、そして世界を築いていくうえで、どうしても克服しなければな
らない国家的課題のひとつであることは言を待たない。日本の教育機関、そして
何よりもメディアがこの課題を十分認識したうえで、次の日中関係を担う世代の
教育にしっかり取り組んでほしいと思う。もちろん、私自身もできるだけ長くこ
の地にとどまり、中国(人)の実像と彼らとの付き合い方についてさらに研究を
深め、その結果を日本に向けて発信し続けたいと思う。

◇筆者のプロフィール

有留修(ありどめ おさむ):1959まれ、鹿児島県出身。上智大学および米シア
トル大学で学んだ後、時事通信社外信部記者を皮切りにして、マスコミの世界に
入る。TBS外信部記者を経て、93年再びアメリカに渡り、ワシントンDCの
ジョンズホプキンス大学・高等国際問題研究大学院(SAIS)でアメリカ外交政策
(特にその対アジア外交)を学ぶ。95年帰国して、インターネットの世界に転
じ、MSN(マイクロソフトネットワーク)ではニュース部門の立ち上げを指揮す
る。その後独立して、会社を設立するも失敗。2000年5月に上海上陸を果た
し、そこで出会った仲間とともに初のビジネス雑誌を創刊する。もろもろの事情
で同誌は別の雑誌と合併。それを機に02年ロンドンに拠点を移すが、上海の鼓
動が忘れられず、03年春、上海復帰を果たす。以来、中国に関するウェブサイ
トやメルマガを運営しながら、欧米の視点も踏まえたうえでのユニークな中国情
報の提供を続けている。(メルマガ「チャイナ・ウォッチング」の紹介と登録はこ
ちら:
http://www.mag2.com/m/0000128828.html

(注)筆者は現在「日本はなぜ歴史問題を克服できないのか――独善国家・日本
の限界」(仮題)を執筆中

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