中途障害者の作業所25年をふりかえって

■【運動資料】

中途障害者の作業所25年をふりかえって       木村 寛

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  1987年、シベリヤ帰りの薮田吉平さん(本人も軽い脳こうそく患者)によ
って始められた「麦の会」と名付けられた堺市の中途障害者の作業所が今年、2
5年の記念誌を発行することができた。私は初期の運営委員をしただけなのだ
が、家内(敏子)は所長などを担当してきた。うまく成長できた要因は何なの
か、少しまとめて報告したい。

 小さな無認可作業所としてスタートしても、成長できずにつぶれる作業所がい
くつもあると聞いているのだが、麦の会の場合、患者本人たちの友の会と、支え
る患者家族の会(海原照夫会長)とが車の両輪のように活動したことが大きい。

 一つの組織を立ち上げるには自分たちの努力だけでなく、いろんな人たちの協
力が要る。作業所の立ち上げには耳原鳳病院(民医連系)の安賀院長、池田先生
(運営委員長)、雑賀医療事務課長、医療相談室三馬さん、ケースワーカー斎田
さんらの協力があり、薮田さんは斎田さんらといくつかの作業所を見学してまわ
った。

 支える患者家族の会は1985年9月に発足、同年12月に「麦の会」が発
足。翌年5月、耳原鳳病院のOT室の一角に「麦の会共同作業所」が誕生。バ
ザーやカンパで70万円の資金を集める。10月には近くの民家へ移転。

 補助金(年間330万円)を受けられるようになったのは1987年4月から
で、これには日本共産党の井上、北条堺市議、他党派議員、林堺障害者協会理事
長らの協力が大きい。同年5月、鳳保健所で開所式を行った。若い職員末永さん
を加えたとはいえ、作業所内部の雰囲気は人間関係が寒々とした冬の時代だった
そうである。

 1年後に小さな離れと納屋のある我が家(4代前から借地)に引っ越してきた
のだが、地主との交渉に13回、3か月を要した。地主が今後の貸借関係の中に
第三者が入り込むのを嫌ってのことだった。我が家は昔からの村の中にあり、1
2畳の離れ、12畳の納屋(その後2倍に拡張し、スクリーン印刷など)へと徐
々に活動範囲を広げていった。近くにバザーのできる空き地もあり、村の年輩の
女性たちがボランティアでかかわってくれたので、作業所と地域の人たちとの関
係はごく自然な良いものだった。

 第二作業所の開所直前、約10年間の歩みは記念誌「一歩から」になった。薮
田さんから木村さんらに任せて良かったと言われた。三菱電機(株)ソシオルー
ツ基金から50万円の援助を受けた。

 その後の展開において、強い問題意識のある山河職員が加入し、その後15年
以上にわたって作業所にかかわってくれている杉原芳泰・清恵会病院副院長を勧
誘してきた上、第二作業所(堺市の東部)を先の知的障害者の作業所から引き継
ぎ、我々の作業所としてスタートさせたことが大きい(1995年)。運営委員
会は2カ月に1度開催していた。

 第二作業所の開所準備をしているさなかにある事件が起きた。ある職員が新し
い職員をオウム真理教に勧誘したのだ。もちろん誰一人としてその職員がオウム
真理教の信者だとは知らなかったし、職員たちはそれを聞いてもノホホンとして
いたのだが、副所長の家内がそれを聞きつけて直ちに反応した。家内も私もオウ
ム真理教をまともな宗教ではないと判断して、強い警戒感を持っていたからであ
る。

 これで作業所にオウム真理教がはびこる心配は消えた。オウム真理教による東
京の地下鉄サリン事件の起きる数年前のことであるが、一歩間違えばどんな展開
になっていたのかと思う。

 第二作業所で私はパウンドケーキを職員たちと試作し、その後主力商品となっ
た。順調な売り上げのおかげで第二作業所の通所者の工賃が共同作業所の人たち
よりも高くなってしまい、共同作業所の人たちから不満が出て、二つの作業所の
関係が少しぎくしゃくしかけたことがあった。同じグループで工賃の違いという
問題が明確になったのだが、その後は各作業所に任せる形になった。

 第三作業所は堺市の南部に欲しいと考えていたのだが、運営委員の辻本さん
(元中学校教師)の同級生、中林一郎氏(運営委員長)の江戸時代の屋敷の一部
を借りて開所できた(1998年)。お菓子工房は補助金申請が認められ、また
ライオンズクラブから辻本さんのつてで75万円の寄付などをいただくことがで
きた。「作業所を支える会」は同年誕生。

 こうして堺市内3カ所に作業所が誕生し、それぞれの作業所が独自の製品つく
りなどに取り組むことになった。共同(第一)は近くの機械工場からの内職、ス
クリーン印刷、ステンドグラス製品など、第二作業所はパウンドケーキ、内職、
EMぼかし(生ゴミの堆肥化促進剤)など、第三作業所は工芸製品とお菓子つく
り、廃油セッケンなどをてがけた。通所者の工賃は一日500円に届かないくら
いであった。これが第一期である。

 順調に作業所三つの団体に展開した麦の会であったが、無認可作業所にとっ
て、夢は社会福祉法人になることであった。無認可作業所へは向かい風も吹き始
めた。法人化はなかなか難しい課題で、1000万円の準備金なども必要であっ
た。ただ共同作業所の新築(55坪)が我が家の借地に2000年12月に完成
した。また事務処理能力にたけた菊地氏(堺労連)を職員に迎えたことも大きな
駆動力となった。

 第二期の発展は社会福祉法人になってから(2003年)のものであり、知的
障害者の作業所との合併が行われ、作業所では半身マヒの中途障害者と両手の使
える若い通所者との合同作業となり、お菓子つくりなども楽に行えるようになっ
た。この方針転換は就労移行支援、就労継続支援という新しい事業展開に向けた
布石つくりである。

 現在、共同作業所(主力製品は各種クッキー)、ラベンダー作業所(第二)、
第三作業所(2009年からカフェ併設)、すみれ共同作業所(第四)と4カ所
となったほか、2005年から堺市から業務委託で障害者生活支援センター「フ
ァイト」をすみれ共同作業所に併設している。

 以上、麦の会作業所の25年間の歩みは詳しく述べた。約15年間の無認可時
代と約10年間の法人化後に分けられるのだが、どの時代をふりかえってみても
いろんな人たちとイデオロギー抜きに協力しあって、作業所という神輿をみんな
で支えてきたという実感しかない。今後の課題は家内が言うとおり、自主収益事
業の展開とグループホームの創設であろう。

●付記―中途障害者の人間像―

 当初作業所は脳卒中や脳こうそくで半身マヒ(右マヒ、左マヒ)になった働き
ざかりの人たちを主な対象としてきた。右マヒの人には言語障害やえんげ障害が
残ったりするので、左マヒの人よりも深刻な後遺症がある。高次脳機能障害は一
見だけではわからない。

 「一歩から」をまとめる時に牽引車の役割をされた大村忠雄さん(42歳発
症)は通所中に再発され、後遺症が更に重くなった。

 半身マヒの克服法として面白い本がある。ラマチャンドラー「脳の中の幽霊」
(角川、1999)である。これは動く片手の動きを鏡で自分に見せると、鏡の
中で右手が左手に、左手が右手に反転するので、脳がだまされて、いつのまにか
動かない手が動くようになるというものである。テレビ番組で栗本慎一郎教授が
自分の場合、この方法でほとんど不自由がなくなったと言われていた。こういう
幸運な人も居るが、この方法の成功率は100%というわけではなく、数10%
らしく、発症直後の方がいいらしい。

 脳は自分自身で欠けたところを補うように活動する自己復元能力があるらしい
ので、最近では別の治療法も開発されてきて、固まった半身マヒをほぐす試みも
ある。

 作業所の月刊ニュース「麦のたより」にときどき木本隆雄さん(49歳で発
症)がエッセイを投稿されていた。そんな中にこんな文章がある。

 「随分前ですが、光明池駅前の階段でのことです。三段しかないので手すりが
ありませんでしたが、大丈夫だろうと思って降り始めたのですが、バランスを失
い尻もちをついてしまい、なかなか立てませんでした。数人の人が通り過ぎます
が誰も見て見ぬふりで通り過ぎていきます。そこへ何と、それはそれは若くて美
しい娘さんが「お手伝いしましょうか?」と声をかけてくれたではありませんか。
私はすぐに手を引っ張ってくださいとお願いしました(心の中でラッキーと思い
ながら)。その人は重たい私を、顔を真っ赤にしながらウーンと力の限り引っ張
り立たせてくれました。あの時の娘さんは、私には天女にも思いました。それに
しても綺麗な人だったなあ・・・・」(2000年1月)。

 「「出愛い、知り愛い、支え愛い」の合言葉で盛大に行われたバザーも終わり
ましたなあ。麦の会作業所を通じて出会った人、ほんまにあらゆる階層の人が寄
っているのに、みんないい人ばかりでんなあ。世の中こんな人ばかりやと争い事
もなく平和に暮らせるのにと、つくづく思いまっせえ。出来ることやったらこん
な体になる前に知り合いたかった人ばかりですわ。せやけどこんな体になったか
ら出会ったんですなあ。それを考えたら、喜んでいいやら、悲しんでいいやら、
ため息が出まんがな。ただ、私に言わせてもらうと、この合言葉の最後に「そし
て別れ」をつけてほしかったんですなあ。・・・」(2000年11月)。

 「障害者となってつくづく感じまんのや。人間生まれてきて、その生い立ちや
環境でそれぞれが「尺度」を持ってまんのやなあ。それがどうでっか、中途障害
者は、健康な時の「尺度」を、私なんかなかなか捨てきれまへんのや。生活内
容、労働意識、娯楽等々、「おまえは障害者やど」と言い聞かすんですが、あき
まへんなあ。そんな私が通所してくるんやから、職員さんも大変でんな
あ。・・・・」
(2001年2月)。

 浜田辰利さんは拾った子犬を自分のジャンパーの中に隠してバスに乗り、作業
所に連れてきて我が家に放したので、我々は迷いこんできた犬だとばかり思って
いたのだが、浜田さんが亡くなられてから奥さんにその秘密を聞いてやっと謎が
解けた気がした。なぜならどんな時でも浜田さんがリラン(犬の名前)に近寄る
とリランの態度がコロッと変わったからである。実はリランも車にはねられ、2
カ月入院した障害犬だったが、13年間、朝は通所者を迎え、夕方には通所者を
見送るセラピー犬の役割を果たした。

 個人的なエピソードは探せばいくらでもあるが、それは記念誌「一歩から」と
25年記念誌「麦踏みの記」に職員や家族の証言として書かれているので、それ
を参照していただきたい。

 「麦踏みの記」(A4、82頁)は頒価1000円(送料こみ)、「一歩か
ら」(B5、70頁)はコピーで200円、木本さんのエッセイ「転んだ先に光
が見える―中途障害者の独り言―」はコピー100円です。木村までお申込みくだ
さい。

●申込み先 〒590-0813 堺市堺区神石市之町16-52 Tel/Fax072-261-8978
なるべく三つの資料はまとめてお申込みください。

 (筆者は堺市在住・社会福祉法人・麦の会・元運営委員)

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