仏教から見た日韓の関係

■仏教から見た日韓の関係           金 天鶴

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 韓国の人々は日本学者たちの韓国仏教研究を植民主義史観という前提で理解
するきらいがある。日帝時代に日本は韓国を效果的に統治するため、朝鮮総督
府主管の下に韓国に対する多方面にわたる調査、研究を行った。仏教に対して
も宗教政策の一環として同様に行われた。こうした状況もあり、植民主義史観
というのは時代の思想に従う日本仏教学者たちが戦前まで韓国仏教に対して
持っていた支配的解釈方法である。

 しかし現段階ではこうした否定的見方より、広い視野でそれらの研究につい
て理解する必要がある。それは日本仏教と韓国仏教の相互関係を軌道に乗せる
ためでもある。その日本と韓国の仏教はどのような関係であっただろうか。
 538年の百済の聖王から日本に仏教が伝来されて以来、仏教建築を含め初期日
本仏教の思想形成に百済仏教とともに高句麗仏教が多くの影響を及ぼした。
 日本の善信尼は百済で正式に授戒を受けて帰国し、高句麗慧慈の指導のもと
に聖徳太子の『三経義抄』が成立したであろうと推測されている。その他にも
日本に名を残した百済、高句麗の僧侶が日本の僧伝に多数見られる。このよう
に当時の韓半島は日本に仏教を伝える文化的先進地域だったといえる。

 奈良時代(710-784)
になると中国から直接仏教文化を輸入しようと努力する。鑑真(688~763)が来
日して戒律を確立したことはその例である。平安時代初期活躍した天台宗の最
澄(767-822)と真言宗の空海(774-835)は中国から学んで来て日本的宗派を建立
することに成功する。ところでこのように日本仏教が中国から直接仏教を受容
する時さえ当時中国仏教と思想的に肩を並べていた新羅仏教を無視することは
できなかった。石田茂作の著述をみると8世紀に中国仏教文献とともにどれだ
けの多くの新羅の仏教文献が写経されたのかがよく分かる。720年代には中国
の文献よりも多いほどであって、中国文献であっても新羅経由のものが多数あ
るであろう。思想的に特に影響を及ぼした新羅の僧侶は元曉、西明寺円測、芬
皇寺玄隆、浄土宗の法位、 そして義寂、 憬興、多様な古迹記を著わした太賢
などがいる。

 鎌倉時代に入ると韓半島との仏教関係は少なくなるが、そのような中でも日
本仏教で韓国仏教が重視された例が幾つも見られる。まず、明恵(1173-1232)
が新羅の元曉と義相とを慕って描いた『華厳縁起』が代表的例で挙げられる。
彼よりさらに前である1120年に覚樹は高麗から数百巻の仏教転籍を輸入した
とされ、明恵の師匠である仁和寺華厳院の景雅(1103-1189?)は義天
(1055-1101)の『円宗文類』と 『新編諸宗敎蔵総録』を重視したとされてい
る。高麗の文献が日本僧侶の間で知られていた例である。実際に『円宗文類』
は日本の華厳文献では度々引用されている。
 室町時代に入ると相互間の学問的交流はほとんどないに等しい。ただ日本で
は朝鮮王朝に使臣を送って高麗大蔵経を要求する。彼らは大蔵経を得て帰るた
めに断食までも辞さなかった。 江戸時代には1604年に義兵僧松雲惟政
(1544-1610)が講和使として日本へ来て禅宗が一時的に関心の対象になっただ
けである。
 日本で再び韓国仏教に関心を持つようになるのは明治時代となる。明治時代
の日本は文明と力の論理が追求された時期であり、この時の韓国仏教は布教の
対象であった。1900年に著された加藤文教の『韓国開教論』はその事実が窺え
る代表的な例である。そこでは韓国は日本に仏教文物、美術、技術、芸術、建
築などを伝え、日本を裨益させた恩恵の国であるので、仏教が衰え外教徒(キ
リスト教)に奪われような危機に瀕していた韓国を救うために、世界の中心に
ある日本の仏教徒が布教の策を講じなければならないと言っている。1902年か
ら1910年 5月まで韓国で活動した三輪政一は韓国でのキリスト教の宗教活動に
対して不安を感じ当時韓国に入っていた日本宗派に韓国布教を促したことも
あった。
 この時代に日本仏教は概して韓国仏教がもう衰退し、韓国仏教の僧侶は無知
で教養がないと見、韓国仏教は日本仏教による教化ないし引導が必要な布教の
対象であると理解していた。なお、韓国の寺に檀家のような信徒集団がなく、
葬祭を管掌することもないのは韓国仏教に社会性が欠乏しているためだと理解
していた。
 日本を中心に据え韓国を従属的に捉えることからみると、いわゆる植民主義
史観とはすでに明治時代から芽生えたと見てよいだろう。そして昭和時代に入
ると韓国仏教に対して詳しく研究するようになる。その中でも代表的な学者は
1929年に 『李朝仏教』を完成した高橋亨と、1928年に京城仏教専門学校に赴
任して以来韓国仏教史に関して多数の論文を発表した江田俊雄である。また、
1930年に『朝鮮禅教史』を完成した忽滑谷快天と1922年から韓国仏教を調査し
て高麗大蔵経と義天の『新編諸宗教藏総録』に対して膨大な著述を著すなど高
麗仏教史の研究に多くの業績を残した大屋徳城をも取り上げなければならない。
 高橋享(1877~1966)は全体的に韓国思想の従属性を強調する。彼の仏教観も
基本的に同様である。具体的に、高橋は韓国仏教を儒学と同じく中国仏教の一
分派だと理解する。これは長い歴史の中で人的、学問的に結ばれた韓国と中国
の関係に起因したものであり、したがって韓国仏教に特に独創的資料はないと
いうことである。このような高橋の韓国仏教の不在論は植民地時代の韓国に対
する典型的な価値判断であった。
 要するに彼の『李朝仏教』に植民主義史観を据えているのはいうまでもない。
しかし、彼は朝鮮時代の仏教に対して宗教史の側面からみて重要であることを
強調している。それは1912年に江原道の五台山寺で韓国の僧侶たちの清浄な生
活をみて新鮮な衝撃を受けてからの朝鮮時代の仏教に対する見方である。彼は
教理発逹史の側面で朝鮮時代に韓国仏教の独特性を認めることは難しいが、具
体的な宗教史の盛衰という側面では他に比べるものがないほどの特徴を持って
いるといっている。
 このように徹底的に韓国仏教を無視しながらも、一方では客観的解釈を施す
二重性が読み取れる。これは総論と各論に喩えることができる。高橋は、総論
では植民主義史観に徹底しながらも、各論では学問の客観性を貫いていたので
宗教史という観点からみた朝鮮仏教の整理が可能だったと考えられる。この書
物が以後韓国仏教研究の重要な学問的土台となったことは認めざるを得ない。
 高橋と同じく植民主義史観に解釈の基準を置いた江田俊雄(1898~1957)は
1932年 『仏教年鑑』を見れば、仏教概論、 仏教美術、日本仏教史、インド哲
学史などを担当している。すなわち彼は韓国仏教の専門家ではない。それにも
かかわらず京城中央仏教専門学校に赴任して以来、韓国仏教に大きな関心を寄
せ、特に権相老と一緒に朝鮮王朝実録で仏教関係記事を20冊に整理して1935年
に出版したことは大きな業績だと言えよう。
 江田も韓国仏教を中国仏教の従属的側面から理解する。『朝鮮禅教史』の書
評では、 日本が韓国を統治するために仏教研究は必須であると認識していた。
また、韓国仏教が日本仏教と同じく中国仏教を源流とするが、日本仏教は民族
の独特の色彩を帯びた仏教に至っているのに対し、韓国仏教はいつも中国に依
存して中国仏教の複写版に過ぎなかったと評価している。
 同時代に活動しながらも忽滑谷快天(1867-1934)は1925年、東京大学で禅学思
想史により博士学位を取得した中国禅学の大家である。彼が韓国仏教に関心を
寄せたのは駒沢大学で朝鮮禅教史を講義してからである。 1929年 6月中旬から

8月中旬まで韓国本山を訪問して史蹟と寺刹の現象を調査した後、駒沢大学で

の講義を生かしながら、1930年に『朝鮮禅教史』を刊行し、それ以後も引き続
き朝鮮禅教史を講義した。
 彼の『朝鮮禅教史』は日本人として初めて韓国仏教史の全体を取り扱った著
述という点で価値が大きい。彼は朝鮮の仏教は多分に中国仏教の延長で、特に
禅宗は中国からの直輸入に過ぎないといいながらも、序の中では、本書を書い
たのは「仏日が再び海東にのぼり、祖月が青丘の夜を照らすこと」であるとし
て植民主義史観を全面に打ち出していない。
 大屋徳城(1882~1950)が韓国仏教研究と縁を結ぶようになったのは40歳の時
である。彼は1922年に4ヶ月の間韓国を訪問して仏教史蹟を調査し、1923年にも
4ヶ月にわたって韓国と中国の仏教史蹟を調査した。その後 1937年には『高麗
続蔵雕造攷』を刊行して高麗大蔵経と義天の『教蔵総録』の研究でその真価を
遺憾無く発揮した。
 日本で高麗大蔵経に対して関心を寄せたのは 1904年 に関野貞が韓国建築調
査報告書でその存在を知らせてからである。以後それに対する研究は 1920年
半ばまで盛んになる。その流れの中で大屋は1926年に以前は注目されなかった
海印寺の補板及び雑板に関する仏教文献学上の価値を論じた『朝鮮海印寺経板
攷』を発表する。
 その後も研究を重ねて『高麗続蔵雕造攷』が著述されたが、その中で大屋は
『教蔵総録』の長所や短所を次のように整理している。まず、長所としては契
丹人と宋代撰述をたくさん採録したことが挙げられる。 短所としては採録の
順序や分類が整理されていないこと、当時盛んであった禅宗の文献が全く採録
されなかったことと、日本人の撰述もまったくないことを指摘する。
 江田はこれに対する書評を書いている。その中で江田は、義天が活動する当
時の高麗仏教は華厳と禅が対立していたとみて、そうした社会状況を考慮して
義天の禅宗に対する立場を理解する必要があるとし、大屋の義天批判が不適切
であることを指摘した。また天台に対する義天の関心も当時の仏教の状況の中
で理解しなければならないとし、大屋が華厳に重点をおくあまり、天台に対し
てほとんど言わなかったと批判している。
 江田の批評も鋭いものであるが、大屋が残した大蔵経研究への足跡は義天か
ら海印寺の高麗大蔵経に至るまで以前の研究を整理しながら不備な研究を追加
し集大成する先駆的研究であったことには間違いない。
 大屋にも韓国仏教に対する植民主義史観が先入観としてあった。彼は著書の
前書きで、高麗仏教は対局的に見ればたいてい中国仏教の支派として、独自的
光彩を帯びることが見られないとし、教も禅も中国仏教の移植に過ぎないと言
う。このような独創性の欠如は本来韓国人の民族性から由来するという。しか
し、引き続き大蔵経の雕造だけは中国に比べても恥ずかしくないことといいな
がら、更に義天の『教蔵総録』の刊行も高麗文化を代表して周辺の諸民族を圧
倒するものだと絶賛を惜しまない。このように各論では高麗仏教の独自性を認
めたとみても不当ではないだろう。
 以上、4人の韓国仏教研究に対して考察したが、4人とも基本的に植民主義史
観に基づいていることは否定できない。ところが、後者の二人に限っては韓国
民族の固着性ないしは韓国仏教思想の不在論が、彼らにとって特別な意味を持
っていたよりは、単にその時代の常識であった植民主義史観を無批判的に受容
していただけであったかも知れない。
 植民地時代の日本学者たちが、偏った韓国仏教史観を前提に韓国仏教の研究
に臨んいたとしたら、現代の日本学者たちは仏教がインドから中国を経て日本
で花を咲かせたとみる三国史観から脱却することができなかったと言っても過
言ではない。三国史観は鎌倉時代の凝然(1240-1321)が晩年の72歳に著わした
『三国仏法伝通縁起』によって成立されたものである。
 田村円澄は日本仏教史を専攻する学者にして韓国仏教の価値を認識する人は
ほとんどいなかったとし、しかも、はじめから韓国仏教を研究対象とした人は
もっと珍しかったという。それはいうまでもなく三国史観の影響である。現代
の仏教通史の中で韓国仏教が中国仏教の中で取り扱われていることは凝然以来
の三国史観が裏に潜んでいるからである。
 ただ、嘗て三国史観を打破した研究もある。1944年に刊行された富貴原章信
の『日本唯識思想史』と 1956年に刊行された坂本幸男『華厳教学の研究』が
それである。富貴原は日本唯識思想を解き明かすため、高句麗、百済、新羅の
仏教を詳らかに説明する。彼は自序の中で、従来の唯識伝統の研究は凝然の三
国史観をそのまま受け継いでいるが、実はそうではなく新羅からも伝来したと
し、凝然の三国史観を踏襲する研究者たちを批判した。これは日本の唯識思想
の源流を尋ねるために、さらには日本仏教史の学問的客観性を保つために韓国
仏教を正しく理解する必要性を訴えたものとみてよいであろう。なお、坂本は
華厳教学の成立に関する問題を扱った部分で「新羅義湘相の教学」という目次
を設定した。これは、それまでの「中国華厳思想の中の韓国華厳」という枠組
みを脱却したものであり、東アジアの華厳史を鼎立するためにも、新羅の華厳
が解釈の鍵になったことを意味すると考えられる。しかしそれ以後、通史的研
究で韓国仏教の重要性を認めた視点は70年代まで待たされることになる。70年
代に入り、韓国仏教の重要性が認められるのに重要な役目を果たした学者とし
て恵谷隆戒(1902~1979)、田村円澄(1917~)、鎌田茂雄(1927-2001)が挙げら
れる。
 恵谷は浄土宗僧侶として、学位論文の中で四つ章にわたって日本浄土教での
新羅浄土教の役目を充分に認めた。彼が復元した新羅法位の『無量寿経義疏』
が韓国仏教全書の第2冊に載せられていることだけでも彼が如何に韓国仏教を
深く理解しようとしたのかが分かる。
 田村円澄は 1967年頃から日韓仏教交流史に専念する。理由は飛鳥仏教の原
点が韓国仏教であると判断したからである。彼は韓国仏教関連の多数の著述、
共著などを著わして韓日仏教交流史に大きな金字塔を建て、現在も活発に研究
活動をしている。全6冊の『日本仏教史』の中に第4冊を新羅-百済に割り当て
るほど日本仏教史における韓国仏教の重要性を強調した。
 鎌田茂雄は自他共に認める韓国仏教の専門家である。彼が韓国仏教に関心を
持つようになったのは 1970年韓国の寺刹を調査した結果を発表してからであ
る。鎌田の韓国仏教研究は概説的である。概説的であるから日本の仏教研究者
だけでなく一般人も容易に韓国仏教に接するきっかけを提供したと考えられる。
彼は凝然以後の三国史観を批判し、東アジア仏教思想史における韓国仏教の重
要性を力説した。また、ハングル文献を解読して韓国語で書かれたものの成果
を批判的に取り入れる必要性を強調するほど韓国仏教研究に積極的であった。
彼の著書である『朝鮮佛教史』は韓国人の人名や地名などに日本の音読みでは
なく韓国の音読みを傍註で著した点で特徴的である。
 一方、当時韓国でも本格的に研究されなかった高麗時代均如の文献を読むセ
ミナーを主導しその研究成果を論文集に多数発表している。日本に韓国仏教の
価値及び独特性を認識させたのは彼の功績であろう。このように韓国仏教の独
自性が認識される中で、日本の仏教研究者は凝然の三国史観から脱し、植民主
義史観も遠ざけるようになった。
 その後、日本仏教の関心は東アジア仏教圏に推移した。例えば1991年の吉津
宜英の著述では中国、韓国、日本仏教のそれぞれの特徴や関係を見極める方法
論を先導した。これは凝然の三国史観を正面から批判しながら中国-韓国-日本
にわたる華厳思想の形成と展開を幅広く取り扱った石井公成の『華厳思想の研
究』(1996年)へつながる。また、高崎直道と木村清孝によって1995年から1997年
にかけて刊行された『シリーズ東アジア仏教』もその流れにある。
 全5冊で構成されたこのシリーズでは中国-日本-韓国-チベットなどを一つの
文化圏として独立的に取り扱っている。そして現在、日本人として韓国仏教を
テーマに学位を取得した人が5人も活躍している。
 このように最近日本の韓国仏教認識に多いに変化があったことは事実である。
しかしまだ日本仏教での韓国仏教に対する関心は日本と中国仏教を理解するた
めの 2次的手段として理解される傾向性が強く残っている。あるいは日本仏教
と関係の深い時代の韓国仏教のみを研究対象とする傾向も見られる。これは三
国史観の変形された形態に過ぎないとも評価できるだろう。
 しかし、日本の韓国仏教研究は学問的に重要である。植民地時代に残した大
作がいまだ頻繁に引用されているし、現代に残した諸の業績も、ある面では韓
国の研究より優れている。これを無視して日本の韓国仏教研究成果を植民主義
史観、あるいは三国史観という名目だけで見ていては、その重要な学問的成果
が受け継がれなくなるであろう。もっとよい研究成果を出すのに無駄な時間を
費やすことにもなり兼ねない。これからはこのような研究を徹底的に通読して
よい成果は純粋に受け入れる姿勢が求められる。
 ところで、韓国人は日本仏教についてどれだけ理解し、どの程度勉強してき
たであろうか。これに対する公式記録は古代から近代以前まで皆無である。
 植民地時代に入り、日本に留学する韓国人はいるが、彼らの研究テーマは昭和
時代の『仏教年鑑』から見る限り、韓国や中国仏教に偏っている。以後 1960
年代後半から仏教の勉強を目的とする日本への留学が増える。そして学位を取
って韓国に戻り大学教授などに勤めることになるが、専ら韓国仏教の専門家で
ある。1990年代に入って韓国仏教を研究するため留学する人は減ったが、日本
仏教を研究する人もほとんどいなかった。2001年、日本の江戸時代の慈雲飲光
(1718~1804)の戒律思想を研究して学位を取得し韓国に帰国した留学生がい
たが、不幸にも幽明境を異にした。すなわち、依然として韓国人として韓国で
活躍する日本仏教の専攻者は一人もいないことになる。
 今まで日本において韓国仏教の研究について批判的に取り扱っていたが、果
たして韓国人がそのような発言をしてもよいのであろうか。自問したくなる心
境である。なぜ、韓国では伝統的に日本仏教に関心がなく、それは現在も続い
ているのであろうか。果して日本仏教は研究する必要もないのだろうか。そう
ではない。日本仏教は初期から福祉事業など社会性に富んだ仏教を形成してい
る。また、神仏習合の仏教は本地垂迹説を生み出すなど土俗信仰との関係を保
っている。鎌倉新仏教とは韓国では類をみない宗教現象である。他に日本仏教
の各宗派による教理研究も充実に残っている。大まかにいうと、日本仏教には
他の国では見られない独特の仏教的な知恵が豊富である。それにもかかわらず、
韓国の仏教学者が日本仏教に対して積極的に研究しないのはなぜであろうか。
 それには幾つかの理由が挙げられる。私見から述べてみると、第一には初期
の韓国仏教において韓半島の仏教が日本仏教に多いに影響を与えたという優越
感があること。次に、三国史観や植民地史観に対する行き過ぎた反応によるも
の。そしてもう一つは日本僧侶が妻帯することから、日本仏教をいかがわしい
ものとして見ることではないだろうか。以上の三種の行き過ぎた対応により韓
国の仏教学者は日本仏教を理解しようとしなかったのではないだろうか。
 相互関係というものは、相手を信実に理解しようと思う時にこそ成立するだ
と思う。これから日韓関係を仏教を通じてに築き上げるためにでも、韓国仏教
側からの努力は是非とも必要である。

 幸いに今年「日本仏教史勉強部屋」という一つの部屋が
http://home.freechal.com/karuna33/)開設され、同人誌の第一号が作られ
た。仏教を通じての韓国と日本の相互理解という目標の下で、現在第2号が編
集されている。このホームページは韓国の東国大学の金浩星教授が運営してい
る。今年7月には第一回日本史講座紀行というテーマで教授、大学院生ら25人が
来日した。来日の際、鎌倉仏教が専門である山形大学の松尾剛次教授の案内を
受け鎌倉を中心にまわり、東大の末木文美士教授から日本仏教史の講演も傾聴
した。来年の一月は奈良、京都を中心とした第二回の日本史講座紀行を予定し
ている。こうした小さな集まりが反響を呼び、韓国の仏教学者が日本仏教を真
剣に研究するきっかけを提供してくれればよいのではないかと思いを馳せる次
第である。
               (筆者は 東洋大学非常勤講師)
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