勝 海舟の遺言

■【河上民雄20世紀の回想】(5)        河上 民雄

第5回 勝海舟の遺言

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本稿は2010年4月29日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党国
際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。4月29日のイン
タビューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏および岡田が参加した。

◇質問:最近、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の影響か、巷では坂本龍馬ブームが起
こっているようです。その坂本龍馬が師事した勝海舟の研究を先生がされておら
れるということもあり、今回は勝海舟の思想の今日的な意義についてうかがおう
と思います。

●河上:坂本龍馬だけでなく、勝海舟もまたブームになっているようです。最近、
松浦玲さんが本格的な勝海舟の伝記を出版されましたが(松浦玲『勝海舟』筑
摩書房、2010年 定価:5145円)、大著であるにもかかわらず、発売後、たちま
ち各地の書店で売り切れ、今では筑摩書房にも在庫はない状況です。
 
  従来の勝に関する研究は、江戸城明け渡しで記述がほぼ終わり、最後に明治維
新から勝が死ぬまでの軌跡が申し訳程度に添えられるというものがほとんどでし
た。しかし、最近では松浦さんの研究のように、明治時代の勝の言動を網羅した
本格的な研究が発表され、それが多くの方に読まれるようになったことは、勝海
舟を研究する者として大変喜ばしいことです。とくに松浦さんは1987年に『明治
の海舟とアジア』(岩波書店)という名著を発表して当時われわれに衝撃を与え
ましたが、今度の本では、その辺を全生涯のなかにバランスよく描いています。
 
  さて、勝は1899年1月21日に亡くなっており、勝自身は20世紀という時代を見
ることなく世を去りました。そのため、読者の中には勝の話題は「河上民雄、20
世紀の回想」という題にそぐわないのではないかと思う方がいらっしゃるかもし
れません。しかし、勝の言動には20世紀あるいは21世紀という時代に対する遺言
とも言うべき内容が多く含まれています。

◇質問:20世紀・21世紀に対する勝の遺言とはどういうものだったのでしょうか。

●河上:まず、勝のアジア観がその後の日本の歩みに対する示唆を数多く投げか
けています。
  1875年、福沢諭吉は『文明論之概略』という本を著し、国の発展段階を文明・
半開・野蛮の3段階に分け、日本を半開とし、西洋諸国のような文明国になれる
よう努力するべきと説きました。福沢の主張には、アジア諸国を「野蛮」と蔑む
心理が隠されていました。このような考え方は福沢だけでなく、当時の日本人に
共有されていたものです。日露戦争に反対した内村鑑三も、日清戦争を福沢諭吉
と同じように「文明と野蛮の戦争」ととらえ、肯定していました。
 
  一方、勝はアジア人同士が争うのは、かえってイギリスやロシアを利するだけ
と考え、日清戦争に反対しました。1895年、日清戦争が日本の勝利で終わり、日
本中が沸き立っていたころ、勝は「戦争は勝ったり負けたりで、一回勝ったくら
いでうぬぼれるな」「日本が逆運に遭うのもそう遠くない」という言葉を『氷川
清話』の中で残しています。「50年後の日本の運命を見通していたのではないか」
と思わせる言葉です。
 
  勝は、西洋を文明・アジアを野蛮とする福沢とは対照的な考えを持っていまし
た。また、国家が野蛮→半開→文明という発展段階をたどるという福沢の考えに
勝は反発していました。福沢の考えの根底には、江戸時代が野蛮であり、明治時
代が文明であるという考えがあったからです。

 勝は「古今の差なく東西の別なし」と福沢に反論します。昔、野蛮であったこ
とは現在でも野蛮であるし、アジアで野蛮であることは西洋でも野蛮であり、そ
の逆もまた成り立つというわけです。勝は江戸時代にも明治に入っても、外国人
への殺傷事件という野蛮なおこないが日本人の手でおこなわれたことを指摘し、
明治時代になって日本人がどれほど文明的となったのかと疑問を投げかけます。

 ここで、私が注目したいのは、江戸時代における野蛮なおこないの例として、
1863年におこったイギリス公使館焼き討ち事件を、明治時代における野蛮なおこ
ないの例として、1895年におこった閔妃(ミンビ)暗殺事件を挙げていることです。
イギリス公使館焼き討ち事件には、若き日の伊藤博文や井上馨も参加していま
した。イギリス公使館焼き討ち事件を野蛮の例として挙げたのは、明治以後、政
府高官となった伊藤や井上に対する勝の強烈な皮肉でした。

 また、閔妃暗殺事件を日本がおこなった野蛮な行為として勝が挙げているのは、
当時の日本人としてはかなり異例なことであったと思います。当時の日本では、
閔妃暗殺事件は舅である大院君と嫁の閔妃との対立の結果、発生したものだと
考えられており、さらに閔妃はロシアへの接近を図っていたため、彼女に対する
同情の声は日本ではほとんど存在していませんでした。

そうした風潮の中で、勝が閔妃暗殺事件に注目したのは、勝が日本の植民地化
がすすむ朝鮮に対して強い思い入れを持っていたことをうかがわせるもので
す。勝は幕末に海軍操練所を創設したとき、日本・清国・朝鮮の3ヶ国がそれ
ぞれの海軍を持ち、連合艦隊を編成して西洋列強に対抗すべきという考えを発
表しています。それ以来、勝は日本がアジアを植民地化することに反対し、ア
ジアが協力して西洋列強に対抗することを説き続けたのです。現在のアジア共
同体構想にもつながる発想だと思います。

◇質問:勝と福沢は明治という時代のとらえ方が全く対照的であったように思わ
れます。このような発想の違いはどこから来たのでしょうか。

●河上:福沢が聖書の言葉をひいて「キリスト教は親不孝を勧めている」と非難
したことがあります。そのとき、勝は「知人にキリスト教の信仰の篤いアメリカ
人がいるが、親子仲むつまじく生活している」と反論しました。このエピソード
は福沢と勝の発想の違いをよく現していると思います。福沢は聖書の文言だけを
とらえ、実際のキリスト教の姿を見ようともせずに、キリスト教非難をおこない
ました。

すなわち、福沢は書籍からのみ知識を吸収して、書籍からの知識だけで理論を
つくる傾向があったのです。これに対し、勝は知人のアメリカ人の姿を見て、
福沢に反論しました。すなわち、勝は自分が体験したところから理論をつくる
傾向がありました。勝と福沢の理論の相違はそんな発想法の違いからきている
のかもしれません。

◇質問:勝の思想で今日の社会に示唆を与えるものとして、彼のアジア観以外に
どんな考えがありますでしょうか。

●河上:勝は田中正造と親交があり、足尾銅山鉱毒事件に対しても苦言を呈して
います。このこと自体あまり知られていません。1984年に刊行された『日本の名
著』シリーズの勝海舟の巻(江藤淳編『日本の名著32 勝海舟』中央公論社、19
84年)では『氷川清話』に出てくる田中という人物は田中光顕のことと注に書か
れているほどです。田中は田中光顕ではなく、田中正造のことです。

 先に挙げた松浦さんの伝記では、勝と田中の交流について書かれているものの、
『氷川清話』の記述に基いて、田中が「総理大臣になりたい」と言ったのに対
して、勝がそれを愉快に感じたということになっています。これでは勝がなぜ愉
快に感じたのか読者には伝わらないと思います。
 
  松浦さんが書いているエピソードの真相は次のとおりです。1898年に田中が勝
の家を訪問したときのことです。田中が勝の家を訪れたのはこれが3度目でした。

ちょうど、日本最初の政党内閣である隈板内閣が誕生したころであり、多くの
政治家たちが猟官運動を繰り広げていました。勝は最初、田中の訪問を猟官運動
の一環だと思い、「お前も猟官運動のひとりか」と田中に尋ねました。それに対
して田中は「生きている間はそんなものになりたいとは思わない。その代り死ん
だら日本の総理大臣になりたい」と答え、勝を喜ばせました。そこで、勝は「田
中正造 百年の後浄土又は地獄へ罷越候節は屹度総理可申付候也 半死老翁 請
人 勝安芳 阿弥陀・閻魔両執事御中」という書を田中に与えました。

 阿弥陀と閻魔の両執事宛になっているのは、田中が死後、極楽にいくか地獄に
いくかわからないという勝のシャレです。田中はこの書を大変気に入り、生涯、
この書を肌身離さず持ち続けました。後に、政府が強引に谷中村を遊水池にする
ことに決定し、それに抵抗した農民の家屋を破壊し、小屋のようなところに移っ
た時、田中もその農民小屋に住み、勝の書を枕元に置き、時折それを見ては微笑
していたと晩年の田中を取材した当時の地方新聞の記者が伝えています。
 
  勝は早い時期から田中が取り組んでいた足尾銅山鉱毒事件に関心を持っていま
した。勝は現地の悲惨な状況を自らの足で調査し、結論として操業停止しか解決
策はないと言い切っています。また、勝は「人民を苦しめて何が文明だ」「江戸
時代にもヤマ(鉱山)はあったが、こんな被害は起きなかった、文明開化はすべ
て大仕掛けだ、ただ後始末がそうなっていない」と足尾銅山を痛烈に批判しまし
た。足尾銅山を経営する古河財閥を皮肉って「ふる川の濁れる水を真清水に 誰
かかきまぜてしらず顔なる」という歌まで残しています。

 1901年に田中が天皇への直訴をおこなうまで、世論の関心は低く、政府は田中
の訴えを「被害あるは事実なれど原因明らかならず」として無視し続けていまし
た。福沢に至っては科学的根拠がない限り、被害のゆえに操業の停止は許されな
いと主張し、農商務大臣の榎本武揚が現地を視察した際には、見識がない行動と
それを非難しています。そのような風潮の中で勝がいち早く、公害問題に着目し
ていたことは特記されてよいと思います。
 
  ちなみに、1967年、衆議院の産業公害対策特別委員会において公害対策基本法
の審議がおこなわれていたとき、私は田中正造議員の質問書に対して政府が出し
た答弁書の内容と、80年後の日本政府の公害に対する認識の中身が何ら変わって
いないことを指摘し、「御承知のとおり渡良瀬川の農民たちの被害をまのあたり
にいたしまして、彼は国会が開かれると同時にこの問題を取り上げておるのでご
ざいます。

政府は回答をいたしません。そうして再三にわたる田中代議士の要求に対しま
して、政府は書面で答弁書を出しておるのでございます。ところが、そこに述
べられておること、その骨格は、残念ながら現在においても政府の各位から阿
賀野川または水俣、そうした問題に関しまして述べられた回答とあまり違わな
いのであります。

 私はこの八十年の歴史の針がとまっておるということを非常に残念に思うので
あります」と述べたことがあります。私の質問を聞いた八木一男委員長はすかさ
ず「いま出席の各政府の担当官から内閣総理大臣並びに厚生大臣その他関係者に、
いまの公害問題に対する河上民雄君の質問の趣旨を十二分に急速に伝えられる
よう要望いたしておきます」と政府関係者に注意を促してくださいました。(第
55回国会衆議院産業公害対策特別委員会16号(1967年7月19日)議事録より)80
年間も公害に対する認識が変わらなかった日本政府と比べ、勝の方がはるかに環
境に対する意識が高かったのです。
 
  しかし、勝の明治の日本に対する苦言は、引退した人間の無責任な放言と見な
され、きちんとその真意を受け止めた人はごく少数でした。勝が亡くなった後の
日本は、勝の思いとは逆に、アジアを蔑視した帝国主義路線・環境への影響を無
視した産業優先路線を選択します。しかし、そうした路線が完全に破綻した今、
私たちはもう一度、勝の言葉に耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。

       (元日本社会党国際局長・元衆議院議員・東海大学名誉教授)

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