回想のライブラリー(20)

回想のライブラリー(20)

                                                                               初岡 昌一郎 

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     (1)


 四半世紀にわたってPTTIとILOの国際活動に参加する間に、最も国外滞在日
数が多かったのはジュネーブだった。スイスのこの小さな街は日本人が好きな旅
行先の一つだが、あまりスイス的な街ではない。人口は25万人程度なのに、非常
に国際化した都市で外国人の割合が非常に高い。それは政府間国際機関だけでは
なく、赤十字をはじめ民間国際団体の多くがそこに本部を置いているからだ。PTTI
とILOもここに本部を置いていた。
 ジュネーブで私が定宿としていたのは、コルナバン駅から徒歩3分の位置にあ
り、ローザンヌ大通に面した「ホテル・オートイユ」だった。正確に数えたこと
はないが、20数年のうち2年間分位をここのベッドで寝たことになるだろう。こ
のホテルは交通の便がよく、郊外にあったPTTI本部へもホテル前のバス停から直
行できた。また、ILO本部には途中の公園(植物園)を抜けて徒歩30分だったの
で、しばしば歩いて往復した。
 
最初の頃に泊っていたバルザック・ホテルからオートイユに移った理由は、当
時、高級ホテル以外では、部屋から外国に直通電話ができる数少ないホテルだっ
たことによる。このホテルを選好したもう一つの理由は、小さな台所(キチネッ
ト)が部屋に付設されており、食器類と冷蔵庫が備えてあったから。1週間以上宿
泊すると、これを無料で使用できた。
 オートイユの常連として何時の間にか荷物をホテルに残して往復するようにな
り、3つのトランクを預かってもらっていた。一つは電気釜などの食器類や調味
料など、二つ目は本や資料、三番目は山歩き用品などを入れていた。
 オートイユはいつの間にか、総評、時に官公労系組合幹部の定宿となってしま
った。そして「初岡飯店」も結構繁盛した。最上階でテラスのついている特別室
(ペントハウス)を、空いていれば普通料金で私には提供してくれるようになっ
ていたので、ILO総会の長期滞在中には、夜10時頃まで明るいのを幸いに、他の
労働代表を招いてテラスで「山賊酒盛り風」の夕食パーティーを組織するのが恒
例となった。
 
当時、スイスの物価高は有名で、日本円が弱かった時にはそれを身にしみて感
じていた。それが、料理の心得もなく、まめでもないのに自炊するに至った大き
な理由の一つでもあった。またその頃、ホテルの朝食はいわゆる「コンチネンタル」
式のまことに簡単なもので、パンとコーヒーだけだった。しかも、フランスやイ
タリアに比較して、ジュネーブの並のホテルで出るパンはまずかった。飯と味噌
汁党の私にとっては、長期間はとても我慢できないしろものだった。
 今はヨーロッパを旅行すれば、三ツ星以上のホテルに泊るとほとんどのところ
がブッフェスタイルで、ハム、ソーセージ類、チーズ各種、ヨーグルトなど質量
ともに満足できる朝食が出る。隔世の感を禁じえない。

 度重なるジュネーブ滞在中、楽しみの一つは山歩きであった。ジュネーブから
最も近いアルプスの山はモンブランで、晴れた日にはILO本部からよく見えた。
しかし、これはフランスとイタリアに属する山で、スイスのものではないし、ハ
イキングを楽しもうとするものには最適なところではない。私の山歩きは山を見
ながらであり、「山登り」とは違う。
 スイスは鉄道が発達しており、しかも実に利用しやすい。案内や指示が利用者
の言語が違うことを前提に、一目瞭然、視覚的に理解できるようになっている。
90年代初めのある年のILO総会が終わる6月末、仲井富さんがスイスに飄然とや
ってきたので、二人で1週間ばかり山を歩いた。彼にとっては初めてのスイスだ
ったが、すっかり気に入ってしまった。これなら一人で来られると、その後彼は
数回にわたって単独行(?)を楽しんだようだ。

 スイスの鉄道時刻表には、各駅毎に海抜高度が示されている。駅に降りるとす
ぐに山歩きをスタートできるところも多いし、そこからケーブルカーや郵便バス
で一定の高さまで昇り、歩き始めることも可能だ。要所要所には黄色い案内標が
あって、目的地や経由地までの方向と標準徒歩時間が示されているので、迷うこ
とはまずない。
 われわれの時代、ILO総会のためには約4週間にわたる滞在が必要だった。特
に、私が担当していた条約勧告適用委員会は常設で、毎年開催される総会の目玉
的存在として注目を集めていた。この委員会の審議のため、直前に5-600ページ
にのぼる膨大な報告とそれに付属する各種文書が発行されていた。したがって、
開会数日前にジュネーブに入り、諸文書に目を通したり、また関係労働側理事や
ILO事務局担当者と面談し、できるだけ周到な準備をしていた。この委員会では
しばしば日本問題が取り上げられ、国内の新聞でもカバーされていた。気を抜け
ないだけではなく、日本問題が取り上げられるように自ら積極的な仕掛けも行っ
ていた。
 この条勧委は、各国別の個別審議に入ると紛糾する案件が多く、労働側は夜間
や土曜日の残業審議をしばしば提案していた。しかし、皮肉なことに、残業や土
曜日の審議による時間延長を常にしぶり、それを拒否することが多かったのは使
用者側であった。
 もっともそのおかげで、総会中でも金曜日の夜から日曜日まで、ジュネーブを
離れて山歩きに行くチャンスに恵まれた。最近の様子を聞くと、予算上の制約な
どからILO総会期間がかなり短縮され、ゆとりがなくなっているようだ。


     (2)


 ILOは他の国際機関と異なる特徴をいくつかもっている。その基本的な性格は
政労使の三者構成機関であり、国際労働法の法源であるILO国際労働基準が議会
主義的方法(総会など)によって決定され、しかもその適用を監視する審査手続
きが確立されていることである。
 ほとんどの政府間条約は政府間の外交交渉をもとに決定され、しかも主権国家
が一定の留保を付すことが通常は可能であるのに反して、いったん採択された
ILO条約には、加盟国の留保はもとより、独自の解釈権も認められていない。
 条約の適用状況は、政労使からの報告を基に条約勧告適用専門家委員会(ILO
事務局長によって任命された法律の権威者によって構成)によって審査される。
その報告は、毎年のILO総会条約勧告適用委員会という三者構成機関で討議され
る。条約適用状況の報告は加盟国政府の義務の一つとして憲章に明記されており、
しかもその政府報告のコピーは労使団体に事前に開示され、そのコメントを受け
ることになっている。
 
ILO総会委員会は特に問題があるケースをリストアップし、その国の政府を喚
問(“招待”という言葉が外交辞令として使われるが)する。その政府代表は、委
員会で問題点について釈明し、委員からの質問とコメントを受ける。
 総会開会後の早い段階で喚問国リストが作られる。実際には、専門家委員会報
告を基礎にして、労使グループの議長が折衝によってまとめることになる。それ
に先立つ労働側案を決めるのがグループ会議である。その原案はグループ議長と
事務局長(国際自由労連ジュネーブ事務所長ないしそのスタッフ)が作成する。
条約委労働側グループ議長は恒例として、ヨーロッパの国際キリスト教労連加盟
組合から出ていた。私の時代は、ベルギー代表のホトホイスであった。彼は謹厳
なカトリック教徒で、温厚な思想と包容力のある人柄の持主であり、政府や使用
者側からも信頼が厚かった。

 われわれが日本問題をリストアップするよう求めると、彼は常に支持してくれ
た。しかし、政府を徹底的に追い込まないように配慮していた。わたしも、彼の
微温的な姿勢を不満に感じたことは再三あったが、彼の判断にはいつも最終的に
したがってきた。
 私がILOでの仕事を離れるより前に、彼の方が一足先に引退してしまった。
その後、私と家内はブリュッセルに彼を訪ねた。ホトトイス夫妻の車で、第一次
大戦の古戦場であるアルデンヌ地方を案内してもらい、その夜は彼の私宅でご馳
走になった。彼が自ら畑で作ったジャガイモを食べながら「ジャガイモとビール
の一人当たり消費量はベルギーが世界一」という話を聞かされたことを想いだす。

勧告委の労働側常連メンバーとは仲良くつきあっていたので、数多くの人々につ
いて思い出がある。その中で忘れ得ない委員は、アメリカAFL-CIO代表のエド・
ヒッキ-だ。彼はAFL-CIO会長ミーニ-の個人的友人であり、いくつかの組合、
特に消防労組の顧問弁護士であった。日本の消防職員の団結権をILOであれだけ
大きくとりあげることができたのには、労働側グループ筆頭副議長だった彼の支
持とイニシアティブによるところが大きかった。委員会でこの問題に関する論戦
が山場を迎えた時には、発言原稿の作成にあたって彼の指導を受けたこともあっ
た。アメリカの労働代表団は、ILO本部からあまり遠くないところにあるアメリ
カ政府代表部別館に一室を与えられ、事務的便宜も給与されていた。そこで、彼
のセクレタリーに私の発言原稿をタイプしてもらったことさえあった。
 
ジェフ・ホトホイスとエド・ヒッキ-は苦労人で、弱い立場にある人達への共
感と社会的不公正への強い怒りの気持ちを持っていた。彼らは単なる口舌の徒で
はなく、人間的な温かみのある人たちだった。
 ホトホイスは16才から小さな工場で働き始め、金属労働者として労働組合に参
加した。そして、ついにはベルギーのカトリック系ナショナル・センター会長に
なった人で、本当の意味でのタタキ上げであった。彼のフランス語はぎこちなく、
英語もうまくなかった。

 だが、彼がゆっくりとした口調の大声で、労働側を代表して発言を始めると、
委員会はいつも静かになり、誰もが聞き入った。彼は冒頭発言で政府に問題点を
率直に指摘し、その改善策提示を求めるのだった。しかし彼の討論の締めくくり
では、早急な弾劾ではなく、政府に時間を与え、その間に前進的措置がとられる
のを要望した。彼の総括発言が委員会の結論の基礎となるのが通例であった。し
かし、政府が誠実な態度をみせない時や、重大な条約侵害が継続する事件では彼
の怒りが爆発し、スペシャル・ケースとして総会報告に特記して公表することを
提案していた。彼の口調、身振り手振り、顔を真っ赤にしての熱弁は、あたかも
歌舞伎の名優のようで、私達はいつも聞きほれていた。
 
他方のエド・ヒッキ-はアイルランド人移民労働者の息子で、アルバイトをし
ながら大学を出て、弁護士となった苦学力行の人だった。彼が大学時代に働いて
いたという、首都ワシントンのユニバーシティ・クラブはホワイトハウスから2
ブロックほどの至近距離にあり、隣はソ連大使館だった。私の父親位の年齢だっ
た彼には、個人的にも非常に親切にしてもらった。ワシントンに行くと、必ず彼
の招待を受けてそのクラブで食事を共にしたし、臨時メンバーとしてクラブに泊
る便宜もはかってもらった。
 ヒッキ-はアメリカ人らしくストレートな発言を正面からする人で、その論理
と舌鋒は鋭く、アイルランド人らしく頑固だった。彼は、ILOきっての法律権威
者であった国際基準局長ニコラス・バルチコスと親しく、国際法理に通じていた
ので、委員会では常に一目置かれていた。

 1993年のILO総会中だったと記憶しているが、山岸連合会長と政府担当大臣間
トップ会談の合意によって、それまでしばしばILOでとり上げられてきた日本消
防職員の団結権問題について、自治労と自治省の協議が開始されることになった。
その時の合意条件の一つが「ILOの論議の場から問題を国内に移すこと」であっ
た。それは、既に労働側で作成していたILO総会委員会の個別リストから日本を
はずすことを意味していた。このアイディアは、取引の譲歩条件として自分から
山岸会長に進言したものだったが、いざILOグループ会議に提案してみると、こ
れまで支持してくれたメンバーの中から異論が続出する始末だった。国内での実
質的進展がまだみられないのに、リストから除外することは悪例を残すというス
ジ論が根拠だった。さらに悪いことに、他の案件で槍玉にあげられている国の親
政府的労働側委員が、これに便乗してそれらの国もリストから除外するよう求め
だし、収拾がつかなくなりかけた。
 
その時、助け舟を出してくれたのが、いつもは結社の自由に関して最強硬なス
ジ論を展開するエド・ヒッキ-だった。「われわれは法律的な論理性やILOルール
を追求するためにここに派遣されているのではない。すべての国の労働者を助け
るのがわれわれの目的だ。闘っている労働者の代表が時間の猶予を必要とすると
き、それを認めるのに不都合はない」という趣旨の彼の発言で救われた。彼の得
意な法理論とは異なる次元の「浪花節」に、みんな呆気にとられてまとまったの
だろう。国際自由労連のベテランも「やはりアメリカの法廷弁護士はすごい」と
私にささやいた。


     (3)


 「自由」という言葉の意味やその受け取り方は、特に日本において大きく異な
っている。明治時代には「自由人権」は非常に革新的な意味を持っていた。
戦後の日本では、「自由」とは自由民主党、自由経済、雑誌『自由』など、保守主
義の主たるスローガンとして使われることが多かった。また、広辞苑によると「勝
手気まま」の意味だとある。
 国際自由労連(ICFTU)や、私たちが主張していた「自由な労働組合」という
概念は、「反共」というレッテルによって攻撃がされることが多かった。また、組
合幹部の中にも賛否両側で共にそう思い込んでいる人が多かった。
 組合の自由とは、本来は「国家、使用者および政党からの自立」という、労働
組合が歴史的に実現しようとしてきた原則を指したものである。国際労働運動に
参加して、私が最も大切な原則として痛感したのはこのことであった。

 1972-73年に、日本の総評と官公労が、ILO結社の自由委員会にこぞってスト
ライキ処分を不当とする大量提訴を行ったことがあった。この事件は、日本の有力
な組合幹部多数が初めてILOと国際労働団体と本格的に接触する機会となった。
 この当時はまだ、ソ連を中心とする世界労連(WFTU)にたいする期待(幻想)
が日本でもかなり広く存在していた。ところが、ILOの場において、ソ連や世界
労連は「結社の自由」の面から批判を受け、防戦一方であった。とても、日本問
題に発言するどころではなかった。当時、日本でも盛んに行われていた「1企業
=1組合、1産業=1産別、1国=1ナショナル・センター」というスローガン
が、実際には共産党支配下化の諸国において法律で強制され、結社の自由を否定
する制度となっていた。そこには、政府と組合、使用者が一体となっている「労
使関係」の姿がはっきりと現れており、その上にあって党が全権を掌握している
のが常であった。
 
ソ連体制や世界労連に「甘い」見方をしていた総評の人達や組合幹部も、結社
の自由という観点からみて、国際自由労連以外に信頼しうる国際労働団体がない
ことをILO提訴の経験を通じて認識せざるを得なかった。こうしてILO提訴は、
70年代後半から総評官公労の主力組合が相次いで、自由労連系の国際産業別組織
に加入す契機になった。これが、その当時進められようとしていた国内労働戦線
統一に弾みをつけ、その条件を整備する大きな一つの要因になったことは、その
間のプロセスを終始側面からみてきたものとして証言できる。

 実現した統一的ナショナル・センターが、はたして期待に応えるものになった
かどうかはその後の別問題である。
 国際的にみると、戦後の国際労働運動史を特徴づけていた、国際自由労連
(ICFTU)、世界労連(WFTU)、および国際キリスト教労連(WCL)というイデ
オロギー的政治的分裂に、今や終止符がうたれている。
 1972年に誕生した欧州労連はほとんどすべてのヨーロッパの組合を包合までに
成長した。この展開を反映して、昨年、国際自由労連とWCLの統一が達成された。
新しい国際労連(ITUC)にはヨーロッパの共産党系労連もすべて参加している。
新組織の最大加盟組合がロシアの組合(公称4000万人)だというのは、なんとも
シニカルな現象にみえる。ロシアの場合、組合も脱イデオロギー化したかもしれ
ないが、体質が変わったとは思われない。
 
ILOの諸原則の中で、もっとも基本的なものは疑いもなく「結社の自由」であ
る。この原則は憲章に盛り込まれているので、結社の自由の原則を保護する87号
および98号条約を批准していない国であっても、これを順守する義務を負ってい
る。結社の自由は、あらゆる人が生まれながら持っている基本的人権とみなされ
ており、これは体制や発展段階の相違があってもいかなる国において侵すことの
許されざる絶対的原理である。したがって、これに関するあらゆる侵害事件をILO
に提訴することができる。この制度によって、加盟国政府が他の国を訴えること
ができるだけではなく、労働団体はその大小を問わず、いかなる国の政府をもILO
に提訴できる。当該国が結社の自由を認めていない場合には、その国の労働団体
が提訴することは不可能なので、他の国の労働団体や国際労働団体が代わって提
訴できる。この制度はこれまでしばしば活用され、国際世論に訴えることで大き
な効果をあげてきた。

 この提訴制度を含むILOの国際労働基準監視システムを骨抜きにしようとする
プレッシャーがこれまでも継続的にかけられてきたが、現在その力は一層強まっ
ているようにみえる。労働側が警戒心とそれを守る努力を放棄すれば「キバのあ
る国際機構」といわれているILOの存在意義は容易に失われるであろう。そのよ
うな危険を予感するのは私だけではないが、残念ながら日本ではもはやあまり問
題視されていない。
 結社の自由についてもっと書きたかったが、もはや紙数は尽きてしまった。
末尾に、私がILO活動や国内で講演を頼まれた時に、よく参考に用いた2冊の本
だけを紹介しておきたい。まずは『国際労働法』(邦訳は『国際労働基準とILO』)
(三省堂、1984年)で、著者ニコラス・バルチコスは、ILO国際労働基準局長で
あったが、その後欧州裁判所判事に転じた。この人には個人的にも原理と手続き
を親しく教示してもらった。この本はILOとその基本的条約を手際よく説明して
おり、専門書というよりも啓蒙的な本である。

 もう一冊は、横田喜三郎『組合の自由』(有斐閣、1981年)だ。この人は、最
高裁長官在任中に、ILO条約勧告適用専門委員会委員をつとめていた。ILOの基
準監督制度と結社の自由委の判例を詳しく論じたもので、これを越える本はその
後の日本で見当たらない。
 10年ばかり前、北海道教員組合ストライキ事件で札幌地裁に証人として呼ばれ、
ILO条約にいう結社の自由とストライキの関係を証言したことがある。この時、
もっぱらこの2冊の本、ことに横田元長官の本に依拠してストライキ参加を処罰
の対象とすることの非を合計6時間にわたって、原告側の横路民雄弁護士との一
問一答を通して証言した。民雄さんは、社青同時代にわれわれの仲間だった横路
孝弘元北海道知事(衆議院副議長)の実弟である。
 この教員ストライキは1973年に実行されたもので、この当時、既に20年以上
を経過しているのに、まだ初級審で争われていた。政府による処分に異を唱え、
裁判に訴えた原告たちはもはや組合役員でないどころか、既に退職者となってお
り、亡くなった方も出ていた。

 振り返って労働運動の中で目撃し、体験してきた多くの不公正や、人々の悲惨
と貧困を想起すると今でも感情の高ぶりを抑えることができない。そして、達成
感にひたるよりも無力感にさいなまれることが多い。
                   (筆者は姫路獨協大学名誉教授)


(連載を止めるにあたって)


この連載をはじめるにあたり、かつて洲之内徹の『きまぐれ美術館』を愛読して
いたので、そのひそみに習って書いてみたいと述べた。その後に想起したのだが、
『芸術新潮』誌上に彼は実に160回にわたって連載している。私の回想は質量共
にその足元にも及ばない。彼の連載が交友関係に重点が置かれたので、「絵のない
美術館」と揶揄されたように、私の回想も同じような傾向から「本のないライブ
ラリー」となり、加藤宣幸さんに最初に約束したものとは別のものになってしま
った。
 20回をもって中止を決めたのは、過去が現在に接近するにつれて、書き方がぎ
こちなくなり、筆が自由に進まなくなったことにある。これまでの連載中の記述
に、不正確な点や思い違いがあったことに気づいたり、読者から指摘を受けたこ
とがあった。これは記録を十分にチェックすることなく、記憶に頼って書き綴っ
た筆者の怠慢によるもので、機会があれば訂正したい。激励や注意をくださった
方々に感謝する。
                              初岡 昌一郎

                                               目次