国家主義者による平和憲法の制定に至る思想的素地

【侃々諤々】

国家主義者による「平和憲法の制定に至る思想的素地」

中谷武世と憲法9条

                               山口 希望


◆憲法9条をめぐって

 日本国憲法を特徴づけるものは、いうまでもなく憲法9条の存在である。戦争放棄と戦力不保持という崇高な理念にもかかわらず、常に9条は憲法改正の議論の中心に位置してきた。それでも、憲法9条は、解釈の変更を伴いながらも、曲がりなりにも70年間近く日本国憲法における礎石であり続けてきた。

 かつて日本社会党委員長の鈴木茂三郎が唱えた「青年よ、再び銃をとるな」のスローガンは、日教組の「教え子を再び戦場に送るな」とともに、日本の平和運動を支えてきたが、これらは昭和史の一コマとなりつつある。昨年亡くなった土井たか子元社会党委員長は、1989年の参議院選挙で与野党逆転を実現させるなど、社会党中興の祖となったが、「土井さんといえば憲法9条」といわれるほど、9条を終生愛してやまなかった。昭和世代が世を去り、戦争の悲惨な記憶が風化していく中、護憲という言葉も歴史の中に埋もれようとしている。

 一方、安倍晋三首相の母方の祖父である岸信介が改憲を企図していたように、憲法改正は常に保守党の側から提起されてきた。
 2012年暮れに民主党から政権を奪還した自民党安倍政権は、憲法改正の意図を明確にしている。本年1月14日の関西テレビ番組では、憲法改正を巡り「憲法を変えていくのは自然なことだ。私たち自身の手で憲法を書いていくことが新しい時代を切り開くことにつながる」と述べ、憲法改正に前向きな維新の党との連携について「維新の党に賛成していただき、衆参で3分の2の多数をそれぞれ構成できればいい」と語った(『日本経済新聞』2015年1月14日)。これに対し、維新の党の橋下徹共同代表は「憲法改正は絶対必要。できることがあれば何でもしたい」と述べ、応じる意向を示している(『毎日新聞』2015年1月15日)。

 折しも「イスラム国」(ISIL)による邦人人質事件が発生し、人質二人が殺害されるという最悪の結果となった。
 だが、安倍首相はこれを奇禍として、9条の改正を国会で述べるに至った。事件を受けて行われた参議院予算委員会の集中審議では、野党議員が外国で拘束された日本人を自衛隊が救出できるよう9条改正を求めたのに対し、安倍首相は、「自民党は既に9条の改正案を示している。なぜ改正するかと言えば、国民の生命と財産を守る任務を全うするためだ」と述べた(『共同通信』2015年2月4日)。

 現在、自公政権に加え、野党第2党の維新の党など、改憲に賛成する党が共同歩調を取れば、衆参において3分の2を超える勢力となる。憲法改正国民投票法も法整備が整ったことから、改正可能な環境となっている。早ければ来年夏の参議院選挙後にも憲法改正を問う国民投票が実施されることになるかもしれない。戦後70年を経た現在、改憲はもっとも現実味を帯びた課題となってきている。

 小論は、70年前にさかのぼり、帝国議会の議論の中から、憲法9条の源流を保守の側に求めるささやかな試みである。

◆憲法9条の発案者は誰か

 憲法9条の発案者は未詳である。当時の首相であった幣原喜重郎説、マッカーサー説、幣原とマッカーサー合作説、元イタリア大使の白鳥敏夫説、元首相の吉田茂説、GHQ民生局のケーディス説、GHQ民生局長ホイットニーとケーディス合作説などさまざまであり、決定的なものはない。現在通説とされているのは、1946年1月24日のマッカーサー最高司令官と幣原首相の会談において、幣原が戦争放棄を示唆し、それをマッカーサーが決断したという日米合作説である。

 だが、当事者の一人であるケーディス自身が「憲法第9条の真の発想者がだれであるかは、憲法制定上のミステリー中の大ミステリーなのです」と述べており、発案者をぼかしている。彼はその理由について、「当時、みんな戦争放棄とか平和主義について同じようなことを考えていましたし、この考え方がだれによって、またどこから始まったのかを特定することはむずかしいからです」と述べている。

 上記以外の発案者(とされる者)については、山室信一氏が『憲法9条の思想水脈』において、大蔵省終戦連絡部長を務めた木内信胤、陸軍中将であった遠藤三郎、のちに首相となる石橋湛山、弁護士の海野晋吉、憲法学者の宮沢俊義の名を挙げている。これらの人々は、ケーディスの言う、当時同じようなことを考えていた「みんな」の中に入るといえるだろう(ただし、宮沢については、古関彰一氏が『日本国憲法の誕生』の中で明確に否定している)。

◆「国家主義者」中谷武世

 筆者は、憲法9条発案者の「みんな」の中に当時衆議院議員であった中谷(なかたに)武(たけ)世(よ)(1898-1990)を加えたい。中谷は、和歌山県に生まれ、東京帝国大学政治学科、同大学院で学び、日本で初めて政治学講座を担当した小野塚喜平次らに師事する。在学中に新人会に対抗して結成された右派系の学生団体「日の会」や、その上部団体といえる猶存社(ゆうぞんしゃ)に関わっている。生涯を国家主義者、民族主義者として過ごした。

 中谷は、1942年の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦で当選する。当時の新聞は、「右翼新人登場」との見出しで、笹川良一、赤尾敏らとともに「大亜細亜協会の創設者たる大日本興亜同盟理事中谷武世」が当選したことを紹介している。46年1月には公職追放となったため、衆議院の任期は一期のみである。追放解除後に改進党で二度、無所属で一度総選挙に挑戦しているが、当選を果たすことはできなかった。

 1954年に月刊誌『民族と政治』の発行者となり、1957年には日本・アラブ連盟を設立し、岸信介や中曽根康弘ら保守政治家との交流を持ち続け、1990年に92歳の天寿を全うした。
 1945年12月8日、第89回帝国議会の衆議院予算委員会で行われた中谷武世の質問は、松本烝治国務大臣から憲法改正についてのいわゆる「松本四原則」の答弁を引き出したことで知られる。

 「松本四原則」は、ポツダム宣言受諾後、政府が憲法改正の基本方針を初めて明らかにしたものである。その内容は、「天皇が統治権を総覧するという原則には変更を加えない」ことなどを含む保守的なもので、後にGHQに拒否される憲法改正松本案の基礎となるものだった。だが、筆者はその前に行われた幣原首相と中谷との質疑に着目し、そこに憲法9条の源流を見たい。

◆衆議院予算委員会での中谷英世の質問

 それでは、中谷武世が述べている「武装なき道義国家の建設、身に寸鉄を帯びざる高度文化国家の建設」についての質問を紹介していきたい。舞台は、1945年12月8日、第89回帝国議会の衆議院予算委員会である。中谷は、質問時には無所属議員だったが、直前までは護国同志会(8月15日に解散)に所属していた(以下、中谷の質問はすべて、「第89回帝国議会衆議院予算委員会議録(速記)第七回(昭和20年12月8日)」による。また、読みやすいように適宜改めた)。

 冒頭、中谷は幣原総理に対し、「今日の日本に取りての最高課題は『ポツダム』宣言の完全履行」であり、「国家意思としてこれを受諾致しましたる以上は、これを好むと好まざるとを問わず、これを欲すると欲せざるとに拘らず、又相手方の出方如何に関せず、自主的に積極的に是が完全履行を図る、ここに所謂道義日本の再出発があると確信する」と迫る。

 そのためには、宣言を「完全且つ自主的にこれを履行するということが肝要でありまして、世上或いは連合軍の速かなる撤収を図るが為に、なるべく一切に亘ってお気に召すようなやり方をしなければいかぬといったような、因循姑息な考え方も行われて居るのでありますが、日本が『ポツダム』宣言を履行するのは日本自身の良心、日本自身の道義心に従ってこれを履行するのでありまして、連合軍の撤収の時期が早いか遅いかは日本側の関知する所ではない」とまで言い切っている。

 これに対し幣原は、「『ポツダム』宣言は我が国の軍国主義を拭い去り、民主主義、平和主義、合理主義に基いて我が国を改革せんとするもの」として、「条約上の義務或いは徳義上の義務とかいうものに止ま」らず、「この方針に依って進んで行くというのが、日本の前途を開拓する唯一の途」と答弁し、中谷との間に意見の一致をみている。

 続けて中谷は、「完全に武装を解除せられ」、「身に寸鉄を帯びない国家」となった日本にとっては、「いわゆる武力的意味に於ての実質的国力を欠いて居るということが、かえって敗戦日本の一つの強味ではないかと考えられ」るとし、「即ち恃む所は唯道義力、自分の良心と相手方の良心に通ずる共通の正義感のみであ」り、「そういった最後の極所、最後の関頭に立って居るというこの心構えが最も強いのではないかと考える」と述べた。

 これに対し、幣原は「只今の御質問の御趣旨は私は深き同感を以て拝聴致した」と答弁したのである。

◆中谷武世の「非武装文化国家論」

 ところで、憲法9条の発案者がはっきりしないことについては、中谷も自覚していた。彼は、自著『戦時議会史』で、「日本国憲法の所謂戦争放棄の条項が、連合軍司令官マッカーサーの発意によるものか、或は日本側の幣原首相の申出によるものか、この点に関し憲法学者の間に見解の相違」があり、「岸内閣の時に創設された憲法調査会の小委員会による調査(アメリカ現地における調査を含む)に於も判然せず、未解決のままで今日に及んでいる」ことを認めている。
 その上で中谷は以下のように述べる。

 十二月八日の予算委員会に於ける私の質問の趣旨、特に武装なき道義国家の建設、身に寸鉄を帯びざる高度文化国家の建設を、私が強調したときに、幣原首相が私の一語一語に深く頷き、答弁に起ったときも上述のように荘重な表情で『深き同感を以て拝聴した』と答えた事実を思い合せると、現行日本国憲法が世界各国の憲法に比して類例なき理想主義的条項であるといわれる武装放棄戦争放棄の条項が、マッカーサー元帥の提案であるよりは、率直に言って私の予算委員会の質問に示唆を受けた幣原首相の発意によるものであると、直感的に考えるのである。

 だが、本人が述べているような自負とは裏腹に、中谷を憲法9条と関係付ける先行研究は、管見の限り見当たらない。そもそも、質問翌日の中谷質問を紹介した新聞でさえ、松本四原則のことは書かれていても、「武装なき道義国家の建設、身に寸鉄を帯びざる高度文化国家の建設」などについては全く触れられていない。敗戦直後のジャーナリズムは極めてリベラル色が強かったため、右翼政治家である中谷武世が進歩的な発言を行っても、取り上げなかったのかもしれない。だが、それ以上にGHQによって9月に発令されていたプレスコード(日本新聞遵則)に抵触したと判断された可能性が高い。

 中谷の「非武装国家」論は、ほとんど知られていないが、ノンフィクション作家の保坂正康氏は、中谷が「平和国家新設の一案として、今後の日本は非武装国家であるべきだと提案」したと紹介している。しかし、「その考え方は『欧米列強に搾取、支配されたアジア、アフリカを解放する』という一点にもこだわっていてきわめて日本の国家主義的方向を容認している」と中谷の質問を否定的に紹介している。ただし、この時の質問で中谷は、アジア、アフリカの解放云々というようなことは発言していない。

◆国家主義者による「平和憲法の制定に至る思想的素地」

 中谷武世が憲法9条の発案者であったかどうかについては、小論の守備範囲を超える課題である。だが、ケーディスが述べていた「当時、みんな戦争放棄とか平和主義について同じようなことを考えて」いた一人の中に、中谷を加えることは妥当かと思われる。

 もっとも、中谷は、先の質問でも「日本は君民一如であ」り、「或いは大化の新政の詔勅」のように「君民共治」であるのだから「主権〔在民〕説にこだわって民主主義の本義に付いて疑惑と不安を持つ必要はない」と述べ、幣原首相とも、「天皇統治の下議会中心政治の確立」が日本における民主主義のあり方であると意気投合するような人物であり、日本国憲法を体現する人物とはいいがたい。

 なお、中谷は一貫して国家主義者、民族主義者であったが、振幅のある人物でもあった。戦前はナチス党的な愛国勤労党に所属したり(1930年)、これを中心とした左右無産政治勢力結集(日本国民社会党)を試みたり(1932年)、帝国議会では翼賛政治会から護国同志会に移っている。
 護国同志会では徹底抗戦を唱え、東条内閣打倒ばかりか、鈴木終戦内閣にも反対し、さらにポツダム宣言受諾を察知するや、8月15日の玉音放送の放送盤奪取のクーデターにも関与している。そして、敗戦後は一転して「武装なき道義国家」論を唱えたのである。

 これら一連の行動からは、「所謂平和憲法の制定に至る思想的素地を作る上に相当の示唆」を与えた政治家のイメージは浮かび上がってこない。したがって、護憲勢力の側から「9条の生みの親」という評価がなされるとは思えない。逆に改憲を目指す保守の側からは、「武装なき道義国家の建設、身に寸鉄を帯びざる高度文化国家の建設」が保守政治家から提案されていたことは、無視され続けるだろう。だが、護憲派、改憲派とも中谷の提案を「不都合な事実」として忘れさるべきではない。

 確かに、戦争中は徹底抗戦を叫んでいだ中谷が、敗戦後に「武装なき道義国家」論に転向したと批判することはたやすい。しかし、中谷はポツダム宣言受諾による武装解除を逆手に取り、「武力的意味に於ての実質的国力を欠いて居る」、「身に寸鉄を帯びざる」国家をつくるという、いわば焦土戦略をもって戦勝国アメリカと対峙しようとしたのである。そのしたたかさを過小評価すべきではない。
 最後にもう一度、中谷の質問を引用しておきたい。

 即ち武装なき、従って強力を以て一民族が他民族を支配するといったことのない道義的世界国家の建設、敗残の日本人に再び生き甲斐を感ぜしめ、幾十万の英霊に初めて安んじて瞑目せしめる唯一の途はここにあると考えるのであります。又「ポツダム」宣言の受諾の意義もかくの如き理想主義的解釈に結び付けて初めて真の自主性と積極性が生じ来ると考えるのでありますが、総理大臣の御見解は如何でありますか。

 「かくの如き理想主義的解釈」は、戦後革新勢力の非武装平和論とも共鳴する。憲法9条の理念は、まさしく「武装なき道義国家」、「身に寸鉄を帯びざる高度文化国家」を目指したところから始まったのである。憲法改正が現実味を帯びている今日、中谷の問いは現在のわれわれにも向けられている。

 (筆者は法政大学大学院)

【参考文献】
中谷英世『戦時議会史』民族と政治社、1975年。
中谷英世『昭和動乱期の回想 上・下』泰流社、1991年。
古関彰一『日本国憲法の誕生』岩波書店、2009年。
須崎慎一『戦後日本人の意識構造』梓出版社、2005年。
竹前栄治『日本占領 GHQ高官の証言』中央公論社、1988年。
保坂正康『昭和史 忘れえぬ証言者たち』講談社、2004年。
山室信一『憲法9条の思想水脈』朝日新聞社、2007年。
木下宏一「エリート国家主義者の肖像 ㈼」『政治経済史学』521号、2010年。


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