棚上げ以外に途はない〜鈴木首相発言と日中首脳会談

<日中・日韓連帯拡大のために>

棚上げ以外に途はない〜鈴木首相発言と日中首脳会談

岡田 充


 胸がすくスクープだった。1982年9月、鈴木善幸首相が来日したサッチャー英首相(いずれも当時)との首脳会談(写真 NHK 12月31日)で、尖閣諸島(中国名 釣魚島)をめぐり、日本と中国が現状維持で合意し「問題は事実上、棚上げされた」と言明していたことを明記した英公文書が報じられたのである。暮れも押し迫った12月30日、共同通信ロンドン支局が配信したスクープ。NHKが翌31日、「朝日」も元日付紙面で「後追い」報道したことを見ても衝撃力のある内容だった。

(写真)画像の説明

 「棚上げ」。2012年の「尖閣国有化」以来、政府、外務省が暗黙の合意を含め必死になって否定してきただけに、首相がその存在を認めたとすれば「否定の虚構」は崩れてしまう。今回も外務省幹部はNHKの取材に対し「『棚上げ』することで合意したという事実はない。尖閣諸島は、歴史的にも国際法上もわが国固有の領土であるという日本政府の立場に変わりはない」と否定。「木で鼻をくくる」見本だ。鈴木発言を英語に翻訳したのは日本側の公式通訳であろう。公式の首脳会談で発言を聞き間違えて記録する可能性は極めて低い。とすれば、鈴木発言の信憑性は極めて高いと考えてよい。事は日中関係を国交回復以来最悪の状況に陥れた問題である。外務省は今も健在かもかもしれない通訳氏を探してでも真偽を明らかにすべきではないか。

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歯切れ悪い表現
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 共同通信の記事は東京の新聞ではなかなか読めないから、まず全文を再録しよう。

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尖閣「現状維持」の合意 鈴木首相、英首相に明かす
 82年、暗黙の了解裏付け
 【ロンドン共同=半沢隆実】1982年9月、鈴木善幸首相が来日したサッチャー英首相(いずれも当時)との首脳会談で、沖縄県・尖閣諸島の領有権に関し、日本と中国の間に「現状維持する合意」があると明かしていたことが分かった。英公文書館が両首脳のやりとりを記録した公文書を30日付で機密解除した。「合意」は外交上の正式なものではないとみられるが、鈴木氏の発言は、日中の専門家らが指摘する「暗黙の了解」の存在を裏付けている。
 日本政府は現在、尖閣諸島問題について「中国側と棚上げ、現状維持で合意した事実はない」と主張、暗黙の了解も否定している。
 首脳会談は82年9月20日午前に首相官邸で行われ、サッチャー氏の秘書官らのメモを基に会話録が作られたとみられる。
 鈴木氏は尖閣問題について中国の実力者、鄧小平氏と直接交渉した結果、「日中両国政府は大きな共通利益に基づいて協力すべきで、詳細に関する差異は脇に置くべきだ」との合意に容易に達したと説明。その結果「(尖閣の)問題を明示的に示すことなしに現状を維持することで合意し、問題は事実上、棚上げされた」と述べた。
 鈴木氏は、尖閣問題で鄧小平氏は極めて協力的で「尖閣の将来は未来の世代の決定に委ねることができる」と述べたと紹介。その後、中国は尖閣問題に言及することはなくなったと説明した。
 鄧氏とは78年8月に園田直外相が北京で会談、鈴木氏も首相就任前の79年5月に訪中し会談しており、鈴木氏のサッチャー氏への発言はこうした経緯を踏まえたものとみられる。
 会談でサッチャー氏が英国の懸案だった97年の香港租借期限切れ後の英国統治継続問題を取り上げたことを受け、鈴木氏が鄧氏と直接交渉するよう助言した。
 78年10月に来日した鄧氏は記者会見で、日中両国政府が72年の日中国交正常化交渉の際に「(尖閣諸島の問題に)触れない」ことで合意し、78年の日中平和友好条約の交渉でも同様のことを確認したと述べた。
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 「棚上げ」は、恐らく外務省官僚が最も嫌う言葉のひとつだ。記事は最初から4行目で「鈴木氏の発言は、日中の専門家らが指摘する『暗黙の了解』の存在を裏付けている」と位置付けるが、現役首相が「事実上棚上げされた」と明言したのだ。歴代首相で棚上げという表現を明示的に使ったことが公表された初めての文書であろう。「暗黙の了解の裏付け」という位置付けは誤りではないものの、オブラートに包んだ歯切れの悪い表現。政府・外務省に配慮したわけではあるまいが…。スクープに文句を付けるようだが、むしろ見出しを含め記事全体のトーンを「鈴木元首相『尖閣』棚上げ認める」としたほうがすっきりして分かり易いだろう。そう書いても、決して踏み込み過ぎではない。

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現状維持と棚上げは同義語
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 尖閣『現状維持』の合意」という見出しを見て、すぐ内容が理解できる読者はそう多くないと思う。では現状維持とは何か。82年当時の文脈で読み込めば、領有権をめぐって日本と中国・台湾の間に争いはあっても、尖閣を実効支配しているのは日本であり、中国はそれに挑戦せず、日本も実効支配を強化する措置はとらないことを意味する。棚上げはどちらかと言えば抽象的表現、現状維持はより具体的だが、基本的には同義語である。

 さて、現状維持を当時の状況に沿って振り返ろう。日中間で「現状維持」が問題化するのは、78年4月、中国の武装漁船数百隻が、尖閣海域に接近した事件に起因する。漁船事件直前の1ヶ月前の3月、自民党総務会では、中国との平和友好条約の早期調印に反対する青嵐会や福田派が、尖閣問題の棚上げに反対する立場から、魚釣島にヘリポートや緊急避難港などを建設して日本の実効支配を強化する措置をとるべきとの決議を採択した。中国漁船の接近は、こうした自民党タカ派による実効支配強化の動きへの牽制、いやがらせと考えられる、と拙著「尖閣諸島問題 領土ナショナリズムの魔力」で書いた。

 その後、同年8月12日、平和条約調印直前の鄧小平・園田直会談で、園田が漁船事件の再発防止を求めたのに対し、鄧は再発防止を約束すると共に、この問題は「一時棚上げしてもよい。10年棚上げしてもよい。次世代の知恵に任そう」(1978年10月25日 日本記者クラブ記者会見)という有名な棚上げ発言の「ひな形」になる発言をした。

 だから鈴木首相が言う「現状維持」とは、尖閣への日本の実効支配に挑戦するような行動(漁船接近)を慎むことを中国側が認めたことを意味する。一方、中国側からすれば「現状を維持」とは、日本が一方的に実効支配を強化するような措置をとらないことを約束する意味があったと考えるべきであろう。では鈴木・サッチャー会談でなぜ現状維持という言葉が使われたのか。尖閣紛争を熟知していない英首相に突然「棚上げ」と言っても分かり難い。そこで外交用語である現状維持(status quo)を使って分かりやすく説明したのでないかと想像する。鈴木・サッチャー会談の内容を入手した共同通信ロンドン支局の翻訳を次に紹介する。

 英公文書の記録中、鈴木善幸首相の沖縄県・尖閣諸島問題に関する発言は次の通り。
 1.鈴木氏はサッチャー首相に対し、鄧小平氏と一対一で率直な交渉することがいいだろうと助言した。
 1.尖閣諸島の領有権をめぐる論争で、鈴木氏は特に鄧氏が協力的であるとの認識を持った。(鈴木氏によると)鄧氏は実際に、重要なのは(日中両政府が)共通の問題に集中し、小さな差異は脇に置くことだと述べ、尖閣諸島の将来は未来の世代の決定に委ねることができるとの考えを示した。これ以降、中国側は尖閣問題に言及することはなかった。
 1.サッチャー氏に鄧氏との直接交渉を勧めた鈴木氏の助言は、論争となっている尖閣諸島について鈴木氏自身が鄧氏と直接交渉した経験に基づいている。その結果、鈴木氏は(鄧氏と)、日中両国政府は大きな共通利益に基づいて協力すべきで、詳細に関する差異は脇に置くとの合意に容易に到達した。(鈴木氏によると)その結果、(尖閣の)問題を明示的に示すことなしに現状を維持することで合意し、問題は事実上、棚上げされた。(ロンドン共同)

 これを読めば、香港返還交渉を前に、鈴木に対中交渉で助言を求めるサッチャーに対し、鈴木が尖閣交渉を例に、鄧小平がいかに現実的で柔軟性を持った指導者であるかを得々と説いている姿が目に浮かぶようだ。冷静に考えれば、棚上げとは実効支配している日本にとって都合のよい処理である。問題は田中角栄以来、歴代の首相や外相がなぜ、この言葉を使わなかったかである。

 それは、72年の日中復交から78年の平和友好条約に至るまでの政府の答弁をよく読むと分かる。その多くは、棚上げに反対する自民党タカ派に向けて、政府・与党主流が否定せざるを得ない苦しい立場にあったことが随所にみえる。つまり当時否定したのは内政上の必要からであり、いま日本側が棚上げを否定するのは、中国向けという外交上の必要からである。同じ棚上げ否定といっても、その意味する内容は大きく異なる。詳細は「海峡両岸論第44号」(http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_46.html)をお読み頂きたい。

 園田直をはじめ多くの政治家にとって「棚上げ」は言わずもがなの常識だった。外務省チャイナスクールの官僚も、対中交渉や記者との懇談では、「いわゆる棚上げ」という言葉を日常的に使っていた。少なくとも2010年の中国漁船衝突事件までは。ただそれが外に漏れれば、自民党タカ派から「弱腰」批判を受けるから公式には認めなかっただけのことである。鈴木は日本の国内事情に疎いサッチャーだからこそ、思わず本音が口をついたのだろう。鈴木発言について、矢吹晋・横浜市立大名誉教授(現代中国論)は、共同通信の取材に対し、次のようなコメントを寄せた。

 外国首脳にまで尖閣諸島をめぐる問題を「棚上げした」との認識を首相自身が伝えているのは、日中関係において「棚上げ」の存在が当時、常識だったことを裏付けている。鄧小平氏が1978年に日本で記者会見し、尖閣について日中間で触れないことで合意したと明らかにした際に、日本は特に反論しておらず、異論がなかったと国際的に受け止められても仕方がない。日本政府が現在「棚上げはなかった」などと主張しているのは無理がある。日本政府は事実を認めた上で、日中関係の改善を図るべきだ。(共同)

 話を現状に戻す。2012年の国有化に対し、中国側は「棚上げという暗黙の合意」に違反したと非難し、それ以来、海警局の船の尖閣に接近させている。中国側の論理は、「現状維持」を破ったのは日本側だから、われわれも尖閣への実効支配を確かなものにするため「新たな現状」を作るというものだ(海峡両岸論第40号「中国公船の接近の意図は何か」(http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_42.html)参照)。何度も書いたことだが、中国の公船接近の意図は、力で尖閣を奪うことではない。日本政府は意図的にそれを曲解して、対中防衛力の強化に利用しているだけである。

 中国の意図は、新たな状況の下で、中国もまた尖閣を実効支配しているという実績作りにある。中国の尖閣政策は習近平が2013年7月末の政治局学習会で明らかにしたように(1)領有権はわれわれにある(2)争いは棚上げし(3)共同開発—の3原則である。棚上げ方針に変化はないが、棚上げすべき現状が変化したのである。つまり、日本の一方的実効支配から、中国も実効支配しているという現状への変化である。さらに、共同開発という具体的目標が設定されたのが新たな点。こうしてみれば、現状の変更の一点だけをとってみても「国有化」は、中国側に大きな利益をもたらしたかが分かろう。野田政権の責任は重い。

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首脳会談合意もまた「棚上げ」
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 尖閣国有化以来、2年半にわたって首脳会談が開かれなかった日本と中国だが、2014年11月10日、アジア太平洋経済協力会議(APEC)が開かれた北京でようやく実現した。会談はわずか25分と極めて短いものだった。それにしても、会談に臨んだ安倍晋三首相と習近平・中国国家主席の対面風景は異様だった。「お会いできてうれしい」という安倍のあいさつの通訳も聞かずに「仏頂面」のまま顔をそむける習。その様子を見て、引きつった笑顔を浮かべて握手する安倍。米中首脳会談で、満面に笑みを見せオバマ米大統領と握手する習とはまるで別人のようだ。多くの読者は「中国はホスト国なのに、大人気ない…」という印象を抱いたろう。

 「大人気ない」というのは、それが本音の表出とみるからだ。「本当は会いたくないけど、嫌々会ってやった」という気持ちがカオに出たという意味だが、実はそうではない。「演技」である。少し説明する。尖閣国有化と、安倍の靖国神社参拝によって、日中関係は国交正常化以来最悪の状態に陥った。今回、「前提条件抜き」で首脳会談を求める日本に対し、中国側は「領土問題が存在することを認め、靖国参拝はしない」確約を事前に求め、対立した。

 そこで最後に出た切り札が、事務レベルトップによる合意文書の作成。合意文書は4項目からなり、尖閣に関する部分は第3項目に入った。第3項目は次の通り。(日本外務省発表)

 双方は、尖閣諸島など東シナ海の海域において近年、緊張状態が生じていることについて異なる見解を有していると認識し、対話と協議を通じて、情勢の悪化を防ぐとともに、危機管理メカニズムを構築し、不測の事態の発生を回避することで意見の一致をみた。

 どうだろう。なかなかの「迷文」ではないか。どちらの側からも都合よく解釈できる典型的な“玉虫色”文書。尖閣については、中国側は隠れた主語を「領有権」と読んで「異なる見解があることを日本側が初めて認めた」と解釈する。一方、日本側は主語を「領有権」ではなく「尖閣をめぐる緊張状態が生じていること」として「異なる見解を有し」の表現は、「政策変更を意味しない」と日本向けに説明できる。見る角度によって色が変わる「玉虫」の意味だ。

 文書が発表されると、日本と中国の「ナショナリスト」から早速、自分のリーダーを「裏切り者」と罵倒するネットの書き込みが炎上した。ホストの「演技」とは言うまでもなく、国内向けのカオであった。この文書は首脳会談実現のためだけに作られた便法にすぎない。会談を受け、2年半にわたって中断している防衛当局間の「海上連絡メカニズム」の協議が年初から進展したことは評価してよい。しかし中国は、尖閣への公船接近を止めていない。領有権をめぐる日中協議について双方が合意したわけでもない。

 しかし何はともあれ、首脳同士が顔を会わせて関係改善に向けて話し合いの一歩を踏み出すことを確認したことは評価していい。この一歩がなければ、次のステップはないのだから。ただステップからジャンプをして着地するまでの道のりはかなり長い。尖閣も歴史認識も、正面から議論しても着地点は見つかるまい。特に領土主権は、排他的性格を持つからガチンコしても妥協点は見つからない。日本と中国、台湾の自治体で共同管理をする仕組みを考えるなど、脱国家の思い切った思考転換が必要だ。

 結局この問題を目立たせぬよう関係改善の方途を探ろうとすれば、「棚上げ」以外に途はないことが、4項目合意でも改めて分かるはずだ。

 さて、今回の日中、米中首脳会談から日米中の三角形に変化はみえるだろうか。日中が米国を「引っ張り合う」構図がはっきりし、米国はバランサーとして三角形を規定する役割を演じ続けられる。米中の辺の距離が縮まり、冷戦期のように日米同盟だけが三角形を規定できる時代ではなくなった。これは自覚してよい。

 スクープ記事に戻る。文書を掘り起こした共同通信の半沢隆実ロンドン支局長の解説記事は、次のくだりで締めくくられる。

 尖閣をめぐる日中の軍事衝突の懸念が拭えぬ中、新たな暗黙の了解に基づく事実上の「再棚上げ」が危機回避の唯一の道と説く専門家は多い。両国指導者は「次世代の知恵」の発揮を迫られている。

 指摘の通りだが、われわれはまだ「前世代の知恵」から何も汲み取っていなかったのだ。 (敬称略)

 (筆者は共同通信客員論説委員)


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