燎原の火は方正から

燎原の火は方正(ほうまさ)から

—現在と未来を切り開く方正日本人公墓—

大類 善啓


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はじめに
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 私が初めてハルピン市の郊外にある方正県を訪問したのは1993年の7月である。方正はハルピンから東におよそ180Km、バスで3時間ほどかかる中国東北部の田舎である。今でこそ高度経済成長の波に乗って方正県も豊かになり、4階建ての立派な市庁舎が建っているが、私が初めて訪問した時は木造の2階建ての庁舎であり、いわば村の役場といったおもむきだった。
 当時は、前年に発足した『方正地区支援交流の会』が活動を開始したばかりの時だった。実はこの会が発足するまでにはまた、生々しい人間ドラマがあったのであるが、いまその詳細を語る余裕はない。ともかく、残留婦人や“残留孤児”が一番輩出した方正県に対して支援していこうと会は設立されたのである。

 1980年代の後半から90年代に入ってから、残留婦人や残留孤児と呼ばれた人たちがどんどん日本に帰国していた。長年住み慣れた中国から帰国した残留婦人たちはしかし、母国である日本で必ずしも幸せに暮らしたわけではなかった。夫を中国に残した人、養父母と別れて帰ってきた人たちなども多く、新たな悲劇が生まれていたのである。
 私たちの会は、日本に帰国することが即、幸せなことではない、必要なのは中国に留まる人たちを支援することではないか。そのために、残留婦人たちが一番多い方正県を中心に支援していこうと活動していた。

 ちなみに方正は<ほうまさ>と呼ばれている。黒竜江省には宝清県という地があり、旧満州に在住していた日本人たちは、その宝清を<ほうせい>と呼び、方正を<ほうまさ>と呼んで両県を区別していたのである。残留した日本人たちがその地を<ほうまさ>と呼ぶように私たちもそれに倣い、方正を<ほうまさ>と呼ぶようにした。

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初めて目の当りに日本人公墓を見る
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 私も参加した8人ほどの第一次方正県訪中団には、方正出身で日本に在住した4人の、いわば方正華僑もいた。その後続々と方正出身者が日本に在住するようになったが、この4人はいわば、その先駆けになった人たちだった。
 初訪問の際、県政府の幹部たちと会議をもって話し合ったが、私が方正で一番印象に残ったのはなんといっても日本人公墓の存在である。県の中心から東に行ったところに砲台山と呼ばれた一角があり、そこに「方正地区日本人公墓」と「麻山地区日本人公墓」が仲良く並んで立っていた。
 今でこそ、隣接するところには残留孤児だった遠藤勇さんが自力で建てた「中国養父母公墓」、またそのお隣の地には、黒竜江省を中国一の米作地に育てた藤原長作さんの記念碑が立てられているが、1993年当時は、この二つはまだ建立されていなかった。
 その後さらに小さな記念館が建てられ、公墓を含む一帯を囲むようにして現在は<中日友好園林>と銘打たれているが、初めて私が訪れた時は、墓守が休む小屋があるだけだった。現在あるような<中日友好園林>という大きな看板もなく、中に入るには墓守を兼ねた守衛が鍵を開けて参拝するのである。

 団の事務局長を務めた牧野八郎氏は、戦前二度にわたって国家権力に大弾圧された大本(教)の信徒であり、その時私たちは牧野氏の先達で神道形式で慰霊祭を行い参拝したのである。
 二つの日本人公墓を参拝して私が改めて思ったのは、<侵略した日本人たちが眠るお墓を侵略された国が建てる>ということの不可思議さである。
 1963年に建立された「方正地区日本人公墓」は、日中が国交を回復する9年ほど前、まだ日本への憎しみが強く残っていた時代に立てられたのである。
 私は、中国の度量の深さを思った。これが逆の立場だったらどうだろうか。仮に中国が日本を侵略し、日本に残留して亡くなった中国人たちがいるとしよう、その人たちのお墓を日本政府が建てるだろうか、と思った。まず建てることはあるまい、と思ったのである。

 その10年後、「方正地区支援交流の会」は大黒柱だった石井貫一さんを失った。享年94歳、かつて旧満州の地、日本の傀儡国家『満洲国』の副県長を務めたこともある石井さんは戦後、自民党の政務調査会調査役として移住を中心とした中南米政策に関わっていたが、常に頭の中にあったのが中国残留者の存在だった。残留邦人の二、三世及び養父母に対する支援のために会を牽引した石井さんを亡くし、また一定程度の活動を終えた会は半ば、休止状態に入った。
 いっそのこと、会を解散するかという意見も出てきた。当時、中心的に活動をした5人ほどが集まり協議をした結果、10年近く活動してきた会をこのまま解散するのは忍びない。残留婦人がほとんど日本に帰国したが、なんらかの形で会を存続させたらどうかという意見が大半を占め、取りあえず活動の担い手の中心を若手に移そうという意見で一致した。
 若手ともいえない私だったが当時は、その中で一回り若い世代だったこともあり、こうなるなら逃げるわけにはいかない。新たに再編した会の事務局を引き受けるのはやぶさかではない。しかし経済的な支援活動ができる自信もなく器でもない。

 私が中心になって会を担うなら、方正に建立されている<知られざる日本人公墓>の存在を多くの人たちに知ってもらおう、公墓建立の精神、その輝かしい国際主義的な精神を多くの日本人に知ってもらおう、そのための活動なら大いにやりたいし、その意味はあるだろう、と思ったのである。仲間の先輩諸氏も私の考えに賛同してくれ、新たに「方正友好交流の会」が発足した。
 実はその前に私たちは、『風雪に耐えた「中国の日本人公墓」ハルビン市方正県物語』(現在絶版)を上梓していた。私がある中国通の集まりでこの本のことを紹介する際、「日本人公墓が中国にあるのをご存じですか」と尋ねたところ、新聞社の中国特派員だった人が3人いたにも関わらず、その場にいた10人ほどの人たち全員がその存在を知らなかった。

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逃避行の末に辿り着いた方正の地
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 さて、なぜ日本人公墓が方正県にあるのかを説明するためには、いわゆる「満蒙開拓団」について話さなければならないだろう。
 1931年9月、日本が中国東北部(満洲と呼ばれていた)においた陸軍部隊、関東軍は瀋陽(当時は奉天と呼んでいた)北方の柳条湖付近で、「中国軍が満鉄線を爆破した」と称して一斉に中国への攻撃を開始した。世にいう<満洲事変>である。中国では<918事変>と呼ばれるこの戦いを契機に、日本の中国への侵略戦争は開始された。その翌年の32年3月には、日本は“満洲”に傀儡国家『満洲国』を建国した。
 それ以降、“満洲”には国策として農業移民が続々と送りこまれたのである。日本国内の人減らし政策でもある貧農救済、その上、ソ連への防衛策として、中国北方のソ連国境沿いに“開拓民”が送り込まれたのである。“開拓”と称していたが、中国の農民たちが開墾した土地や耕作地を強制的に安い値段で買いたたき、追い払い、日本のものにしていった。そうしておよそ27万人を開拓民として中国に送りこんだ。それ故に、当初は武装移民として、関東軍の護衛の下に満蒙開拓団は中国に入って行った。
 当時のマスメディアは、“満洲”を五族協和、王道楽土として称え、映画館でのニュースは<行け、満洲へ>と、国民を満洲へ満洲へと駆り立てて行ったのである。

 昨年3月、長野県下伊那の阿智村にある満蒙開拓平和記念館を訪れたが、満洲へ行くことを煽った当時のアサヒグラフ(1938年、昭和13年7月27日発行、朝日新聞社刊)が展示されていた。表紙には、<村を挙げて新大陸へ>と刷られており、本文には、信州大日向村の国策分村大移住という記事が出ていて、改めてメディアの戦争責任を思った。
 当時の日本政府は、1937年から20か年で100万戸、総計500万人を満洲に送り出す計画を持っていた。「満洲に行けば20町歩(約20ヘクタール)の地主になれる」と謳って開拓団を募っていったのだ。
 開拓民が一番多かった長野県は、約3万3千人、前出の満蒙記念館が立てられた長野県下伊那郡はその中で最も多く、約8400人だった。
 1945年の春から6月にかけて戦局が悪化する一方でも開拓民は中国に送り込まれた。敗戦の2か月ほど前には、東京・大田区の荏原からも開拓団が送り込まれていた。

 1945年8月9日、ソ連はかねてから準備していた戦端を切り開いた。ソ満国境を越えて怒涛のごとく“満洲国”に侵攻してきたのである。このソ連参戦をすでに見越していた関東軍は南方戦線に動員されており、開拓民たちは為すすべもなく逃げ惑った。
 そして日本の敗戦である。日本人に面従腹背していた中国農民は、今こそ恨みを晴らそうと開拓民に襲いかかった。
 北方にいた日本人の開拓民たちは必死に逃げた。後ろからソ連軍が、周囲からは中国の農民が襲う中、方正に行けば関東軍がいる、食糧基地もある。ともかく方正へ行こう。方正にたどり着けば、なんとか生き延びることができると必死の逃避行を繰り返したのである。
 壮年の男たちはすべて兵役に取られ、開拓団に残っているのは、老人と婦人と子供たちである。ソ連軍に捕まれば女たちは辱めを受ける、捕虜になるのは屈辱であるという戦陣訓もあり、集団自決する開拓団もあった。1984年に建立された「麻山地区日本人公墓」は、ロシア国境に近い黒竜江省の麻山で集団自決した人々が葬られているのだ。
 一方で、親切な中国人に情けをかけられ、食料を恵んでもらった人たちもいた。また中国人に匪賊やソ連軍から身を守られた人たちもいた。しかし、ソ連軍に見つかれば全員殺されると泣き叫ぶ子供を絞め殺し、歩けない老人を置き去りにして逃げた人たちも多くいたのである。
 開拓民の中には3か月近い逃避行の末、方正にたどり着く者もいた。
 そうして方正収容所に収容された人々は1945年の秋から翌年の春にかけて、発疹チブスと餓死でおよそ5千人近くが死亡した。
 すでに八路軍(中国共産党の人民解放軍)は東北を支配しつつあった。零下40度にもなる酷寒の冬の方正では、死体は凍りついている。しかし春になれば死体は溶け始めて悪臭を放つ。八路軍の兵士たちは日本人の遺体にガソリンをかけ、三日三晩かけて焼却し、砲台山近くに埋めた。
 生き延びるために日本の女たちは中国人の嫁になった。子供たちは売られたり、もらわれたりした。<日本人は頭がいい>、そういう信仰もあったようで、子供のいない中国人夫婦たちが日本人の男の子を欲しがった。
 残留婦人、残留孤児がこのようにして生まれたのである。

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白骨の山を見つけた残留婦人
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 その残留婦人の一人である松田ちゑさんは、いやいやながら中国人の嫁になった。
 1963年の春、ちゑさんは自分たちの食糧を得るために砲台山の麓近くで、開墾できる土地を探していた。新中国は1949年に成立したが、1958年から60年にかけての、鉄鋼や穀物生産を急速に増進しようという<大躍進政策>は失敗し、人々はたいへんな食糧難に陥っていた。一説によると、餓死者が2千万人近く生まれたという。その失策を補うため中国政府は、農業公社の畑でない荒地を人々が耕作して自分たちで食糧を調達するように指示したのだった。
 ちゑさんは夫とともに開墾できそうな荒地を探し、枯れ草を分けながら進んで行った。そして白骨の山を見つけたのである。ちゑさんはすぐにそれが、1945年から46年にかけて亡くなった日本人たちの白骨であることを知るのだった。
 松田ちゑさんはこう書いている。
 「私は、ああ国のために祖国をあとにした開拓の妻や子供がこんな無残な姿とはあまりにひどすぎる。日本政府では、このような犠牲者の遺骨を知っているのだろうか。私は残念で胸が押さえつけられるようでした。主人のそばへ戻って草を刈り始め、手は鎌を握っておりながら、心は枯れ草の中の遺骨のことばかり考えていました。
 この遺骨をなんとかしてあげられないだろうか、と草を刈りながら胸がいっぱいになってきました」(『開拓残留妻の証言』、奥村正雄著『天を恨み地を呪いました—中国方正の日本人公墓を守った人たち—』より)
 ちゑさんは県政府に出向き、なんとか自分たちの手で遺骨を埋葬したい旨を言い、許可してくれるように願い出た。

 開拓民は日本政府の国策で生まれた被害者でもあるが一方、まぎれもなく中国側から見れば侵略者たちの一群である。しかし、当時の中国政府の指導者たちは毛沢東、朱徳、周恩来などの革命世代であり、狭隘なナショナリズムを超えた国際主義的な精神を持った人たちだった。その精神は末端の県政府レベルでも浸透していたと言っていいだろう。
 何故ならこの県政府の段階で、<開拓民だと称するが侵略者の手先ではないか>と、松田ちゑさんの願いを却下してもおかしくないのである。
 これは想像の域を出ないのだが、革命世代である小平以後の時代だったら、県政府レベルでも対応が違ったのではないかと思う。
 しかし当時の県政府は判断を黒竜江省人民政府に仰いだ。省政府も北京の中央政府にお伺いをし、外相・陳毅を経て周恩来総理の段階まで行った。最終的に周恩来は、「開拓民といえども日本軍国主義の犠牲者である」と言って、日本人公墓の建立を許可したのである。
 1963年5月、方正県政府は松田ちゑに「あなたたちも日本軍国主義の犠牲者です。墓碑の建立は人民政府の手でやることに決まりました」と告げた。
 しかし中国政府はことさらに、この公墓を建立した深い思想や、度量の大きい精神を宣伝めいて言うこともなく、また残留婦人たちの末裔の声も小さく、日本人公墓の存在を知る人たちは、開拓民関係者や日中友好運動に関わる一部の人たちが知るに過ぎなかった。

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公墓の存在を知らせようと<方正の会>が発足
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 知られざる日本人公墓を多くの日本人に知ってもらおうと、<方正友好交流の会>は発足した。この会の名前を発案したのは、石井貫一さんの片腕的な存在だった木村直美さんである。その木村さんも昨2014年12月逝去された。
 実は私は、この会の名前は気に入ってはいなかったが、他の人たちもいいネーミングが思いつかず、2005年6月の創立総会で集まった人たちの意見も聞いて考えよう、取りあえず仮の案として創立総会に臨んだのである。
 当初、前出の仲間の奥村正雄氏からは、「総会に30人が集まれば大成功だよ」と言われた。そうか30人か、それなら集まるだろうと思いつつ不安だった。ところが創立総会はその倍近くが集まり、長年、残留婦人問題を取材していた新聞記者たちも来てくれ、会は<方正友好交流の会>として報道された。マスメディアに会の名前が出た以上、もうこの名前でいくしかないと現在まで、この名前で来ているのが実情である。
 当日取材に来ていた読売新聞・徳毛貴文記者は2005年7月7日付夕刊に会を紹介し、<「日本人も同じ犠牲者」中国側が建立>という見出しで日本人公墓の存在を大きく紹介してくれた。その記事を見ていち早く電話をしてきたのは、これも昨年(2014年)9月に亡くなった山口淑子だった。戦前、李香蘭として一世を風靡し、戦後もテレビキャスターや政治の舞台で活躍した山口淑子は、「私も日本人公墓が中国に建立されているのを初めて知り、驚きました。私に何かできることはないでしょうか」と電話口で私に言うのだった。

 その山口淑子は、1972年の周恩来と田中角栄が署名した日中国交正常化宣言の時、涙を流した一人だった。
 国交正常化の共同声明に調印した後、田中首相らを乗せた飛行機が北京を出発する時、テレビは生中継をした。山口淑子は書いている。
 <『3時のあなた』を司会していて、思わず涙がこぼれました。いけない。生番組の放映中です! 私は主婦の皆さんが並んでいる方を向いて涙をぬぐい、カメラを振り返って、また司会を続けながら、胸の中でつぶやきました。
 ——よかった! 日本と中国の、あの長かった長かった戦争という悪夢から、これでやっと覚めることができる——(中略)
 日中の両首脳が力強い握手をした瞬間、東京・八重洲口でテレビの前に立ち止まっていた黒山の人垣の中から「ウ、ウッ」と、男たちのうめきが聞こえたといいます。日本人全体が、感無量だった一瞬ではなかったでしょうか>。(『戦争と平和と歌 李香蘭 心の道』

 私たちは創立総会後の9月に『星火方正(せいかほうまさ)』と名付けた会報を創刊した。この冊子で日本人公墓を知った一人に映画作家の羽田澄子さんがいる。羽田さんは大連生まれ旅順育ちである。彼女はこの公墓の存在をきっかけに、2008年『鳴呼 満蒙開拓団』という記録映画を創った。翌年の夏、2か月間に亘って岩波ホールで上映されたが、そのプログラムに羽田さんはこう書いている。
 「たまたま送られてきた『星火方正』という一冊の薄い冊子が私の気持ちを大きく動かすことになった。この冊子によって、私は初めて中国東北部、ハルピンに近い方正県に、亡くなった日本開拓村の難民のために中国人が建立してくれたお墓『方正地区日本人公墓』があることを知ったのである。私は驚いた。関東軍に侵略され、開拓団に土地を奪われ、日本人に恨みをもって当然な中国の人が「何故、日本人のお墓を」と思ったのである」(「なぜ映画『鳴呼 満蒙開拓団』を作ったか」)

 さて、山口淑子がテレビ中継を見て涙を流してから40数年後の今、日中関係は最悪ともいうべき状況である。然るべき調査によると、双方とも相手国に対して好感を持てないというのが80%を超えているという。その主要な要因が領土問題から発生しているのは誰もが認めることころだろう。
 領土問題を契機に、中国も日本もナショナリズムが勢いを増しているのだ。それも市民レベルから起こったのではなく、政府レベルの対応がその大きな要因とも言えるだろう。どの時代のどの政府であろうと、時の為政者は自分たちが不人気だと思うとナショナリズムを煽り、愛国心を駆り立てるような政策を取る。庶民にとって領土問題は実に分かりやすいテーマなのである。紛争の種の多くが領土問題であることは、世界の歴史をざっと眺めて見ればわかることだろう。
 現在の火種である<尖閣諸島>は、国交正常化が成立した1972年、双方は<小異を残して大同につこう>と、周恩来は棚上げを提案し、田中角栄も了承した。1978年、小平は<次の、次の世代に任せよう>と言った。<孫の世代になると賢い智慧も生まれるだろう>と語り、双方の首脳は意見の一致を見たのである。

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<固有の領土>なるものはどこにもない!
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 ところが作今、日中双方は<我が国固有の領土>なる言葉を持ち出している。私はこの<固有の領土>という言葉を聞くたびに、実に不遜な言い方だと思ってしまう。誰に対してか? 大いなる大地に対してである。尖閣諸島を<共有の道しるべ>としてきた近隣海域の漁民たちに対してである。
 そもそも論議の前提になっている「日本」にしろ「中国」にしろ、このような「国民国家」なる概念はたかだか、100年ほど前になって初めて出てきたものである。日本についていえば、それ以前は薩摩であり肥後であり長州という「藩」という概念に支配され、自分を<日本人>と捉えてはいなかった。自分は薩摩の人間であり長州人だと思っていて、そう公言していたのだ。
 それ以前はどうだったか。はるか2000年前、「わが日本」なるものはなかった。例えば、「わが国への稲作技術の到来」というような歴史の教科書の記述などを読んだり聞いたりするたびに、当時の人々にとって、そこが「日本」であり、彼の地は「中国」だったろうか。そんな「国」はありもしなかったのである。

 歴史家の網野善彦によれば、「日本」という名前が登場するのは、8世紀初頭に勢力を振るっていた一族が本州の西南部や九州北部をめぐる領土の支配を確立した時のことのようである。その最高権力者が「天の王」を意味する天皇という称号を与えられた。要するに、「日本」とはある特定の一族によって支配された政治的な単位だったのだ。
 そういう観点をしっかりと持っていれば、「国民国家」概念が存在する以前、どこの海であろうと、異なる言語を話す近隣の漁民たちは時に争うことはあっても、おのずと共存しながらお互いに漁を釣って生活の糧にしていたと想像できるはずである。長期的な視点に立てば、いわゆる領土問題などもおのずと「共同開発して共に利益を享受しよう」という考えに到達できるだろうし、それこそが平和的な解決方法だと認識できるだろう。

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国際主義を超えて「世界市民」としての思想へ
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 紆余曲折を経ながら今日言うところの「国民国家」概念が生まれ、領土問題も発生してきた。
 周恩来がソビエトの友人と話をした時、アメリカ帝国主義と発言したが、通訳は「アメリカ人」と誤訳してしまった。すると周恩来はすぐさま「アメリカ帝国主義とアメリカ人は違う」と発言して通訳の誤りを訂正した。周恩来はどのような政府とも、その国の国民との違いを区別した。
 しかし江沢民が主席として登場以降、「国際主義」なる言葉はついぞ中国から消えてしまった。横浜国立大学名誉教授の村田忠禧氏が過去数十年に亘って「人民日報」の社説に出てくる単語の頻出度を調査したところ、「国際主義」という言葉は年毎に減り、それに代わって「愛国主義」なる言葉が頻繁に表れるようになったという。ここ10年は、国際主義という言葉がほとんど消えてしまったと慨嘆している。

 国際主義はもともとマルクス主義の「労働者に祖国はない」というプロレタリア国際主義から来ている。思えば国際主義もいわば「国民国家」が前提になっている。国民国家はすぐさま国家主権なる考えに足をすくわれ、領土問題などが発生するといともたやすく狭隘なナショナリズムの勃興に道を開くのである。
 私は今こそ、国民国家の限界性を認識すべきではないかと思う。<ある国の国民である>という考えよりも、国境や国家を超えて自立した個人、いわば世界市民という考えを持つことの重要性を認識すべきであると思う。
 理想的過ぎると言われるかもしれない。しかし理想を放棄したら、ますます悪しき現実に足を引っ張られてしまうだろう。
 近年の排外的なナショナリズムの動きを見るにつけ、民族間の争いを防ぎ、平和な世界を作ろうとして世界共通語エスペラントを創ったルドヴィーコ・ラザーロ・ザメンホフが唱えた Homaranismo(ホマラニスモ、人類人主義)こそ、これからの世界は求められているのではないか、と思うようになった。
 エスペラントで「ホマーロ」は人類、「アーノ」は一員を意味し、それに「イスモ」がつき「人類人主義」、つまり国家や民族を超え、あるいは捨てて、我々は人類の一員であるという思想である。いわば我らは世界市民の一員だと規定し行動するのだ。

 習近平主席は、昨年9月3日の抗日戦争勝利記念日に「日本が侵略戦争を起し、中国人民に災難をもたらしたのは日本軍国主義がやったことであり、中国政府と人民は未だかつてあの戦争の責任を日本人民に帰したことはない」と語った。日本政府と日本人民を区別したのである。ここには周恩来らの国際主義的な精神が確実に生き続けていると考えていいだろう。
 しかし何度も言うようだが、国家主権を前提とするような国際主義は、狭隘なナショナリズムを超えることはなかなか難しいと思う。
 今私たちは、いや私は、居住する国で国際主義者であろうとするより、ザメンホフの人類人主義、いわば人は地球の一員であるという考え方、生き方を志向することの方が重要なことではないかと思っている。
 歴史は、国際主義者がナショナリストたちに敗北し続けてきたことを、思い出さずにはおれないからである。

 (筆者は方正友好交流の会・事務局長)


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