糖尿病との共生45年から学んだ極意

■ 【健康】

糖尿病との共生45年から学んだ極意       貴志 八郎

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  畏友 仲井富氏から「糖尿病について」書いて欲しいと頼まれた。
彼曰く「君は糖尿病を患ってかなり長い。それなのに毎晩酒を食らって元気だ。
酒を飲みたいから一日三回、インスリンの注射をしているのだ、とうそぶく。そ
れでいて二年半前肺癌の手術で右肺上葉を切除しても、中国旅行に出かけたり、
麻雀も時々やっていると聞いている。その元気の秘訣を書いて欲しい。実は、友
人に糖尿病を宣告されたのが居て、落ちこんでいるので、君の体験記で活を入れ
てやりたい」との依頼である。お安い御用と引き受けたものの、糖尿病初心者用
として書くには少々手の込んだ説明も必要、などと当方の勝手で、かなり長編に
なってしまった。誌面の都合で、取捨選択、ダイジェストの権限を仲井氏に譲る
ことにして脱稿する。


◇◇私も悩んだ糖尿病=長い葛藤の末の極意とは=


  今から十二年前私は「私の糖尿道」と銘打った体験記を出版したことがある。
その時、日本の糖尿病の権威と謳われた松岡健平先生(当時東京済生会病院副院
長)に次の様な巻頭言を頂いた。

「糖尿病は敵ではない 友達でもない 自分自身である  松岡健平 印」
先生のこの書は、今も私は含味し続けてもなお奥深いものを感じている。そして
ようやくこれこそ糖尿病対策の極意だと思うにいたっている。言う迄もなく、免
許皆伝の武芸者になるためには、滝に打たれ、難行苦行で悟りを開き、最後には
お師匠様のお目鏡にかなわなければ、免許皆伝の巻物は貰えない。しかも努力を
重ねてこそ、謎めいた巻物の内容を読取り、含味することができるのである。要
するに努力しない限り、免許皆伝の内味はチンプンカンプン理解できないのだ。
そこで私は、そこに至る経験を判り易く、肩の凝らない読みものに仕立てていき
たいと思う。


◇◇糖尿病発見(昭和39年)テストテープによるうらめしかった濃緑の反応


 私が糖尿病患者であることを知ったのは一九六四年(昭和39年)九月のこと
である。
その時の八月から九月にかけて私は中国訪問の機会があり参加した。革命後の中
国を訪れた人は、私の住む和歌山県でも十指も数えるほど近く遠い存在だった。
この旅で私は、当時の中日友好協会会長廖承志先生と会談させて頂くなどの成果
をあげることができた。この旅行中に私は、かつて経験したことのない疲労感に
襲われたので、帰国後ただちにかかりつけの野上医院に診察をお願いする。ここ
で念のため、ということでコップにいれた尿に例の黄色のテステープを浸すと、
みるみるうちに変色、黄から薄緑に、更に黒に近い濃緑色に変化するではないか

中学同窓の野上医師は、「糖尿が進んでいるようだ。早速成人病センターで検
査を受けるように」との御託宣。このセンターでのブトウ糖負荷試験の結果につ
いては、残念ながら記録は散逸しているが、空腹時200mg/dl六十分で300
mg/dlとほぼ記憶にある。かくてまぎれもなく糖尿病と認定され、検査資料と共
に野上医院で治療をはじめることになる。
  その頃は、尿検査のテステープを薬局で購入、食事の量を変えながら、朝、昼
、晩時には夜中でもテープによる自己検査をしたものだ。疲れやすい、体の至る
ところで痒い。小便の切れが悪い。などの症状が尚更らに私のいらだちを増幅さ
せるのである。しかし、当時は未だ、日常生活を脅かす程の症状は表れていない
のに、精神的には大分追い込まれていたのかも知れない。一つには糖尿病のメカ
ニズムについても治療法についても45年前のことで充分理解できていなかった
のもその原因であったろうと思われる。


◇◇血糖降下剤ジメリン効きすぎて低血糖


 野上医院では早速血糖降下剤ジメリンを投薬され一日一錠を服用することにな
る。同時に食事療法を申し渡され、先ずアルコール類はできるだけ控えること、
どうしてもなら蒸留酒を少量のみ、澱粉質の御飯やパン類の減量、脂肪、特に動
物性のものは避けるなど、今日の食品交換表などからすると大雑把なものだった
が、最初のうちは、かなりの努力をしてその都度テステープで効果を確かめたも
のだが余り目立った変化がない。しかもジメリンを飲みながら極端に食事を減量
したものだから、或る日突然に低血糖症状が起きた。車を運転中の正午前、急に
空腹をおぼえたが、近くに飲食店がない。ままよあと15分もあれば家に帰れる
と思い車を走らせているうちに、目の前がヒラヒラと揺れる。そしてだんだん暗
くなっていく。冷や汗がどっと吹き出す。「これが低血糖か!!」。野上医師の
話を聞いていたので車を止め、ヨロヨロと酒屋さんでジュースを買いやっとの思
いで飲み干す。こうして大事無く難を逃れたが、それ以後は氷砂糖を常に携行す
ることにしている。以上が私の糖尿病発症の初期の状況である。


◇◇高値安定の体質と妄信、自覚欠除の二十年


  食事の方は、従来の暴食は慎んだものの、肝心のアルコールについては全くの
不良患者の二十年を過ごした。日本酒からウイスキーに乗りかえた私は、当時の
交際範囲も広かった加減で、毎夜のようにバーやクラブで飲み歩いた。毎晩午前
様で、たまに夜の11時頃にでも家へ帰ると、連れ合いは、「どこか悪いのか」
と嫌味を並べつつ心配する始末である。徹夜麻雀はする、アルコールは毎日のよ
うに飲む、煙草は一日30本は吸う。およそ健康な人でもこんな生活を続ければ
、成人病になること請け合いである。しかし幸いなことに、糖尿病特有の合併症
の自覚症状も殆どなく過ごすことができ、烏許がましくも私の糖尿は高値安定だ
、とうそぶく始末であった。ちょうどその頃一九七六年(昭和51年)、46歳
の私は、友人の誘いもあって成人病センターへ三日間のドック入りをすることに
なる。関わりのあると思われる項目を「精密検査成績表」から抜粋してみる。

腎機能検査 検尿蛋白(-)
ブドウ糖負荷検査 空腹時193mg/dl  食後60分38mg/dl 食後120分34
6三四六mg/dl 食後180分268mg/dl 右のように糖尿病に関する限り、
ひどい結果であったが、入院健康検査成績と共に生活指導表を頂いたが、肝臓が
(B)糖尿病が(D)という判定で、それ以外は全部(A)という内容であった

この当時、ドック検査の中で、ヘモグロビンA1Cを測定されていない。なお、日
常生活の注意では、甘い物の摂取をひかえる、酒量及び煙草は「減らす」という
処に印が入り、止めるということの指示はなかった。今から三十年前の糖尿病に
対する医学事情はそんな処にあったのかも知れない。


◇◇不良患者のツケ 歩けない足痛


 今から考えるとぞっとする血糖情況で、よくまあ合併症に悩まされなかったも
のと胸をなで下ろす今日此の頃であるが、当時は、高値安定だと糖尿病を見くび
る私自身の姿がみられる。そして暴食こそ慎んだものの、暴飲の生活が約十年余
り続き、遂に1987年、私にとって大変な事態を迎える。ちょうど私が和歌山県議
会議員六期目当選を目指す激しい選挙の最中、かねてより足裏にしびれを感じて
いた程度の症状が、にわかに悪化し、投票日の二日前には、足裏全体、特に親指
を中心とする部分の激しい疼痛で、とにかく歩くことができない。

驚いた私は主治医の医療生協の田中医師に電話をかけ善後措置を相談してみ
る。「とうとう糖尿病の毒が足まで廻ったな。四年先には車椅子の覚悟がい
る。とに角今日のところは痛み止めで一時の痛みを抑え、選挙後医大病院へ入
院して治療をはじめるしか方法はない」とつれない返事が返ってくる。幸か不
幸かこの選挙では、消費税導入問題に反対していた私は、追い風に乗り一九名
の候補者中四位の高点で当選した。私は、その夜、勝利の乾杯をしたあと、最
後の一滴を手の平に垂らしそれを舐め、何百人という支援者の前で当選御礼と
断酒の宣言をしたのである。


◇◇糖尿病と真剣に向き合う=県立医大でインスリ注謝=


 私は長い糖尿病生活を一応次のように分けて考えている。
第一期 1964年~1976年 糖尿病発症と初期治療 
(注)自覚症状殆どないが低血糖を経験
第二期 1976年~1987年 坂道を転がる自分に気付かなかった10年 
(注)後半併発症と思われる蕁麻疹や不眠など神経症状が出はじめる。
第三期 1987年~現在 糖尿病とまともに向き合い共存 
(注)治療の最初頃の異状な五十肩、網膜異状等に悩む
いよいよ本論に入ることになる。前見出しの三期に入るからだ。選挙戦が終わっ
てから私は早速今福診療所で、田中医師の診断を仰ぐ。「先生、酒はやめた。一
度検査して下さい。そしてこの足の痛みは治りますか」早速血液検査して貰うそ
の数値は
4/27 FBS257mg/dl ヘモグロビンA1c12・15% 
5/15 FBS221mg/dl(断酒一ヶ月)

この結果をみた田中医師はたちどころに「これは徹底的に治療が必要だ」といっ
て和歌山医大第一内科宛の紹介状を渡された。早速医大で初診を受けたが、空室
待ちで入院が一ヶ月先になった。私はこの一ヶ月の間に食事を減らし、アルコー
ルを止め、入院の診察時に血糖値を思い切り下げて、医大の方から入院の必要な
しと言ってもらいたいものだと、実に不逞な野望を抱いたものだった。当時の私
には食品交換表の存在も知らず、従ってカロリー計算の知識も無きに等しい状態
なのに、飢餓と戦うことが血糖降下の秘訣とばかりやみくもに突っ走った。当然
のことながらみるみる体重は5キロ余り減る。足の痛みは全くとれない。夜中の
蕁麻疹、五十肩、目のかすみ、足許はフラフラ。こうして一ヶ月、医大病院へ入
院をする頃は大変やつれていた。"生兵法怪我のもと"という諺が、真理をついて
いることを知らされる。


◇◇糖尿病心得の条 第一条 糖尿病教室のある病院を選ぶべし


 私は和歌山医大の宮村敬教授との出合いが糖尿病と真正面から向き合う第一歩
であったことを確信する。宮村先生は熱心な糖尿病研究者で、今日の和歌山県立
医大病院第一内科が、日本で有数の治療機関となる礎を築いた人である。名将の
下に弱卒なしの諺どおり助教授の近藤渓先生が主治医となり、約二ヶ月間の入院
中、さまざまな角度から糖尿病のメカニズム、合併症や併発病との関わり、そし
て三大治療法の「インスリン療法」「食事療法」「運動療法」についても、実に
理論的に、しかも素人にも判り易く御教示をいただいた。もし、宮村教授や近藤
助教授との出合いがなかったら、いまの健康"貴志八郎"78歳は存在できたかと
思う。貴方が糖尿病だと判ったら、少なくともその病院に糖尿病教室が開設され
ているかを確かめられるのが宜しかろう。教室が開設されていれば日本糖尿病協
会のメンバーであり、糖尿病による様々な治療例や情報が一杯あるからである。
それ故に一ヶ月程度の入院で、少なくとも初段程度の免許を取れるだろう。その
後は病人の意思と努力によって免許皆伝への道は拓けるに違いない。


◇◇糖尿病心得の条 第二条同病相憐れむべし


 糖尿病患者数は年と共に増加しつつあり、日本人の成人病の多数をしめるよう
になった。患者の誰もが自分の抱える病気は、人に知られたくないのが人情だが
、私の経験からいえば、お互いの治療法を交換したり、食事や運動、そして併発
する蕁麻疹や、神経症、恐ろしい合併症対策についても同病の方々と話し合うこ
とによって大変な効果を生む。できれば同病の家族もその懇談に加わってくれれ
ば食事に対する教育という面でもプラスになる。時には食事会や小旅行も更に良
い結果を生むに違いない。私の経験でも、失明して糖尿病を発見した人、人工透
析をうけるようになった私より後発の患者さん、そのほか軽症の人、重症の人な
どたくさんの同病者に出逢っているが、お互いの交流によって開眼された方も十
指に余ると自負している。要は病気の原因であった不節制は恥ずべきことである
が、病気に負けない努力は、決して恥ずかしい行為ではない。堂々と話し合いよ
いことはどんどん吸収することである。


◇◇糖尿病心得の条 第三条 自制できぬ者は亡びる


 入院して第一に会得すべきことはインスリン注射の必要性を理論的に納得する
こと。簡単にいえば膵臓のエンゲルハンス島より分泌されるインスリンの量が、
必要量に満たない分、人工的に注射してその分を補うのである。その人の血糖の
情況を詳しく調べた上、医師が一日の注射回数、時間、単位数、インスリンの種
類を教えてくれる。インスリン療法に入るときは必ずこの指示を厳守しなければ
ならない。第二に会得すべきは、食品交換表によって、食材のもつカロリーや、
一単位の食品の量、自分の一日の摂取カロリー、カロリーの低い食物繊維や各種
ミネラルを供給してくれる食品など、更に各種ビタミンを含む食物とのバランス
をのみこみ覚えることが必要だ。そして酒類である。

食物のバランスからいえば、高カロリーが目立つ酒類はなるべくひかえた方が
良いにきまっている。しかし、私の場合、主治医のお許しをいただき平成五年
以後禁酒を解禁。夜に限って缶ビール一缶と日本酒一合をたしなんでいる。一
つにはストレス解消に役立つこと、二つ目には、カロリー計算をして副食品
を、酒と共にゆっくり時間をかけて味わう。連れ合いと一日の出来ごとや世相
に対する意思交換の時間もできる。勿論最後に食べる御飯はお粥して貰いお茶
碗に軽く一杯にしてカロリー総量は調節することにしている。食後風呂に入れ
ば、もう睡眠薬は要らないのは効用のひとつ。
一番大事なことは、自分が摂取できるカロリーを把握し、朝、昼、晩規則正しく
カロリー制限をいかに守るか。「自制できぬ者は亡びる」というのが私のモットー
の一つである。


◇◇糖尿病心得の条 第四条 運動と娯楽、趣味は続けるべし


 歩くこと、運動することが糖尿病の三大治療の一つに数えられている。私もそ
の日の予定で時間の余裕ある時は、原則歩くことにしている。ただ、時間的に間
に合わない時は自転車を利用する。自転車の場合歩行の時よりはバランス感覚や
反射神経が要求される。その分カロリーの消費が少なくなるが止むを得まい。遠
出の場合は自家用車を運転するが、目的地の少し手前の駐車場から歩いていくこ
となどの工夫をして、一日の運動量をはじき出す配慮をしている。ちょっとした
心掛けと工夫で、一日の消費カロリーの目標に近付けるのである。家族旅行や、
海外旅行も、自分を規制するチャンスである。国内旅行では駅弁など購入するが
、連れ合いと何単位だと計算し合いしながらの食事も結構楽しいし、行先での旅
館の夕食も意識して天婦羅などは敬遠する。

勿論、朝、昼、晩のインスリンは厳密に注射する。海外旅行も場合は、脂肪分
の多い肉食や揚げ物が出されるが、これについては、それぞれ食べる量を意識
的に減らすし、パンや焼きめしなどは食品交換を頭の中でイメージしてごく少
量に済ますことにしている。従って海外旅行も、私の糖尿病には何の障害もな
く過ごせるのである。旅行中にも血糖測定器を持参、時々に血糖の状況を把握
する位の注意が必要なことは論をまたない。

問題は環境が変わっても科学的な数値の読みを勝手に変更せず自己規制を守り切
ることが肝心である。ことのついでにいうと、私の日常の娯楽は麻雀だ。週二回
は卓を囲みゲームを楽しみながらお互いの近況報告をしたり、糖尿病や癌疾の経
験など話し合う。結構頭の体操にもなるし、適当な緊張と達成感がストレスを吹
き飛ばしてくれる。要は旅行にしろ、麻雀にしろ充分に楽しみ、日々に新たな発
見と体験が心を豊かにしてくれると思っている。申し添えるならばカラオケも又、
私の推奨する健康療法の一つである。大きく息を吸い込み発声することは体に良
い、と昔からいう。好きな恋歌を歌えば自分も酔い、周辺の人にも、ひょっとす
ると連れ合い迄ウットリとしてくれる余禄もあるというものだ。


◇◇糖尿病心得の条 第五条 一病息災 糖尿病万歳


 私は先にも述べたとおり糖尿病歴約45年、時には余病に苦しみ、合併症を恐
れ、悩み多き時を過ごした時期もあった。しかし、今日では糖尿病様有難う、と
感謝している。今から二年前、かかりつけの今福診療所へ何時もどおり月に二回
はインスリン注射の投薬を受けるために出掛ける。ちょうどその時咳と痰が気に
なったので、先生に風邪ひきかな、と相談。レントゲンで胸部を診て貰った所仔
細に写真を眺めつつ「ちょっと気になる影が左胸上方にある」と言って、早速和
歌山医大へ紹介状を書いて渡された。医大の方では様々な検査を受け、"肺癌"と
診断され、第二外科(呼吸器外科)で手術を受けることになる。

この間の経過、特に糖尿病キャリアの私にとって大変な葛藤があったし、癌に
対する尋常でない恐れが私や家族を不安に陥れたのが、それは又、日をあらた
めて書くものとして、血糖の管理調整に約半月左肺上葉の癌摘出手術で15日
の入院で車馬に帰ることが許された。術後15日で退院とは健常者と同じペー
スである。75歳の年齢ではスピード退院の部類であろう。

思えばインスリン注射の投薬を受ける生活がなかったら、ちょっとした咳でお
医者の門を叩くこともなかったであろう。手術時に既に4cmと成長していた癌
だったが、リンパ節への転移が認められなかったことが幸いして、術後約二年
半、癌マーカーは下がったまま、定期健診も無事パスして、二年半前よりは健
康状態が良いように思う。糖尿病あってのこの命、と今や感謝の気持ちすら抱
いている。もう一つ、つけ加えるなら、先に述べた食事療法は、高齢者にとっ
て健康食でもある。私の連れ合いも、私と一緒の食事をとり、足腰の痛みを訴
えることがあるが76歳にして夫婦元気に暮らしている余徳もある。一病息災と
はよく言ったものである。

           (筆者は元衆議院議員)

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