【コラム】風と土のカルテ(44)

若い医療人にお薦めしたい『人間の経済』

色平 哲郎


 その昔、米国シカゴ大学に気骨あふれる日本人教授がいた。宇沢弘文教授――。
 数理経済学を基礎として、地球温暖化をはじめとする社会問題の研究にも取り組み、発言を続けられた経済学者だ。帰国後は東大の経済学部長などを務め、3年前に86歳で他界された。
 お人柄が結晶した講演とインタビューをまとめた新書『人間の経済』(新潮社)が今春、発刊された。何度読み返しても素晴らしい内容。
 教育や医療・福祉を「金もうけのネタ」と考える、そんな昨今の風潮に真っ向から反発されていたのが宇沢先生だった。

 水や大気、海、森林、公園、そして報道、何でも金もうけの対象と考えるようだと、さぞや心がゆがむことだろうと言い切り、大切なのは理屈よりも人間が優先されていることだと断じた。
 日本経済新聞に連載された「私の履歴書」では、「私は経済学者として半世紀を生きてきた。そして、本来は人間の幸せに貢献するはずの経済学が、実はマイナスの役割しか果たしてこなかったのではないかと思うに至り、がく然とした。経済学は、人間を考えるところから始めなければいけない。そう確信するようになった」(2002年3月1日)と述べている。

 「人間の幸せへの貢献」について、様々な場で説き続けた。
 本書には当時のローマ法王ヨハネ・パウロ二世との会話が紹介されている。
 「今、世界は人々の心が荒れ、心が殺伐としている。あなたは人間の魂、心を守るという聖なる職業をされているのに黙っている。あなたはもっとはっきり主張しないといけない」と伝えたところ、法王は「この部屋で私に説教したのは、あなたがはじめてだ」とニコニコしながら答えたという。

 人間が人間らしく生きられる、豊かな社会を実現するためには、自然環境、社会的インフラストラクチャー、制度資本(教育・医療など)という「社会的共通資本」の整備が欠かせないというのが宇沢先生の主張。

 「実は、社会的共通資本という考え方は、もともと市場原理主義への批判、あるいはオルタナティブ(代案)というのが出発点だった」とし、
 「社会的共通資本としての核心部分である医療に対しては、市場メカニズムを使うのではなく、もっと人間的な立場からその営みを守るために協力していかなくてはなりません」と力説する。

 宇沢先生と親交があった人たちは皆、お人柄に魅了された。
 「ビールは良いなあ」「飲んでも飲んでも、酔っ払ったりしないからネ!」
 などと、昼間からジョッキ片手に談論煥発。ユーモアたっぷりの語り口に、あっという間に時間が過ぎる。「裏話のウザワ」と自称するだけあって話は面白く、いつも人気者。

 「今だけ、カネだけ、自分だけ」といった男たちの俗物ぶりを語る「筋の通った悪口雑言」にも脱帽する。市場原理至上主義の諸矛盾が世界全体で噴き出す今、宇沢先生がおいでになったら、どんなに明快な論陣を張られただろうかと想像する。

 社会的弱者のために発言、行動し、結局のところ個々人が主体的に動かなければ社会は健全にはならないのだ、と呟いた長身白髭の老教授。
 その人類社会の未来に向けられたメッセージについて、教え子である経済学者ジョセフ・スティグリッツは、
 「ヒロ(宇沢先生)の話は30年後ぐらいに分かる」と語っている。

 1974年に著した『自動車の社会的費用』(岩波新書)はベストセラーとなり、最近、中国語と韓国語に翻訳されたという。これから長く読み継がれるであろう『人間の経済』を、晩秋の一冊として、特に若い医療人にお薦めしたい。

 (長野県・佐久総合病院・医師)

※この記事は著者の許諾を得て日経メディカル(2017年10月31日)から転載しましたが文責はオルタ編集部にあります。
 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/201710/553389.html

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