首相の靖国参拝と戦争責任問題

■首相の靖国参拝と戦争責任問題          蝋山 道雄

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(1)私にとっての靖国問題とその新段階

 今年8月15日の小泉首相による靖国神社参拝によって、A級戦犯合祀問題を
めぐる靖国問題は新しい段階に入ったように見える。首相退任を目前にして、彼
が5年前に掲げたいわゆる「公約」を始めて実行できたからである。つまり、小
泉純一郎としては、対中、対韓関係の悪化をものともせずに固執してきた個人的
願望を実現させたことに満足し、いわば、「後は野となれ山となれ」といった調
子で、政権を投げ出すことが出来るからである。全ては次期政権担当者の才覚に
ゆだねられることとなった。

 小泉の靖国参拝を批判して来た中国、韓国両政府は、今回の終戦記念日の参拝
については、それぞれ直ちに厳しく批判したが、彼らの表現の中には、これ以上
事態を悪化させないための配慮と、一種の諦めが読み取れる。彼らもまた、小泉
在任中の事態の改善を期待していない、いわば匙を投げた状態にあるのである。

 なお、小泉首相は、靖国参拝については「公約」という言葉をやたらに使うが、
普通、首相の座にある人間が「公約」といった場合は、総選挙あるいは国会の場
などにおける政策目標の実現についての約束、つまり、国民に対する約束を意味
する。しかし、靖国参拝に関する彼の約束は、自民党総裁選挙の際の約束であっ
て、自民党党員の支持、更に具体的個別的には、日本遺族会や軍人恩給連盟の支
持を求めての政治的約束ごとであった。このことは、彼が同じく弁明のためにし
ばしば使う「心の問題」という表現をまったく空虚なものにしてしまうのである。

 さらに、ここで筆者は、8月15日を「終戦記念日」と呼ぶ習わしが日本人の
間に定着してしまったことについて大きな違和感を感じていることを述べておき
たい。それは、「終戦記念日」という表現のなかに、靖国参拝問題とも関連をも
つ重要な問題、つまり、問題の本質に直面することを避け、自分の気持を誤魔化
してしまう、日本の政治文化の伝統的体質が現れている、と考えるからである。

 "記念する"とは、一般的にいって、"ある事柄を祝う"、あるいは"言祝ぐ"とい
う意味が強い。普通、人の"死を祝う"とはいわないだろう。近代日本の歴史の中
で、最も重要な意味を持つ1945年(昭和20年)8月15日は、日本帝国が、
無謀な戦争の結果、連合国に敗れ、降伏した日、つまり「敗戦の日」なのであり、
当時の"超国家主義的"思想と、その思想によって育てられた"臣民"の心理からい
うならば、それは"国家の死"を意味していた、というべきだろう。それは決して
"記念すべき日"ではない。ただ、大多数の日本人が、敗戦という歴史的事実を"
喜び、祝う"という気持を持っていたとするならば話は違ってくるけれども、そ
のような受け止め方をした日本人は、まずいなかっただろう。ただ、「終戦記念
日」という表現の中には"長年の苦しい戦争が終わってホッとした"という気持が
にじみ出ている、という解釈は可能かも知れない。

 しかし、それは、既に指摘したとおり、敗戦の事実から目をそらすだけでなく、
1910年6月の韓国併合による、朝鮮半島の植民地化政策の開始と、1931
年(昭和6年)9月の満州事変に始まり、1945年8月まで続いた、いわゆる
「15年戦争」――"日支事変"と"大東亜戦争"の全期間――を含む、日本の帝国
主義・軍国主義政策の歴史の真実と真面目に向かい合うこともしない、日本人の
知的・精神的脆弱さをも、残念ながら意味するのである。

 私がこの靖国神社問題に大きな関心を持つようになった切っ掛けは、2001
年4月の小泉純一郎首相の誕生であった。彼のいわゆる"公約"によって、靖国問
題がマスコミに取り上げられ、種々の観点から問題が論じられるようになった頃、
もう一つの出来事が持ち上がった。それは、20世紀における大日本帝国の対外
軍事行動を国家主義的立場から肯定的に捉えた、"新しい歴史教科書を作る会"の
中学歴史教科書の、いわゆる"歴史教科書問題"である。それは同年6月には、韓
国及び中国による教科書の記述修正要求へと発展した。これに対して日本政府が、
焦点となっている近現代史にかかわる部分の修正要求を拒んだために、これに反
応した韓国政府の公式声明は激しいものであった。「わい曲、美化した歴史記述
を容認する一方、95年の村山首相談話と98年の韓日共同宣言を公式見解とす
る2重姿勢は許されない」と(『毎日新聞』2001年6月10日)。

 村山首相談話とは、日本の植民地支配に対する「痛切な反省の意と心からのお
わび」を表明したものであったが、小泉首相が予定している"終戦記念日"の8月
15日の靖国神社の参拝が近づいたころ、政府は、民主党の伊藤英成衆院議員の
質問主意書に答える形で、小泉首相の参拝は村山談話と「矛盾するものではない」
との公式見解を閣議決定した。その内容は、「首相はあくまでも戦没者一般に対
する追悼のため、靖国神社に参拝することを考えている」と指摘したうえで、
「A級戦犯に対してなされた極東国際軍事裁判所の裁判を否定することにはつな
がらない」との立場を強調したものであった(毎日新聞 2001年7月17日
夕刊)。

 これら、過去の歴史解釈に関わる二つの問題が、戦後56年目に発生したこと
は象徴的であった。小泉総理の登場によって、日本人はやっと歴史と直面する機
会を与えられたからである。われわれはむしろ彼に感謝すべきなのかも知れない。
それからさらに5年経過した今年にはいって、代表的新聞各紙が「戦争責任」や、
近代日本が経験した戦争の歴史をシリーズものとして扱い始めたことは、首相の
座を降りることを公言してきた小泉首相公約の8月15日参拝を意識してのこと
であり、これも彼のお陰である。

 昨年11月に、自民、公明、民主3党の有志議員による「国立追悼施設を考え
る会」(会長=山崎拓・自民党前副総裁)が開いた勉強会に、講師として招かれた
読売新聞本社会長・主筆である渡辺恒雄の「歴史認識を聞違えさせる施設が(靖
国神社の)遊就館だ」という主張は、保守派の強硬発言で知られる「ナベツネ」
の発言だったため、大きな反響を呼んだ。今年に入って月刊誌『論座』の2月号
に、その渡辺主筆と、朝日新聞の若宮敬文論説主幹の対談が掲載されたが、同誌
の表紙に大きく描かれた「渡辺恒雄氏が朝日と"共闘"宣言 靖国|歴史認識|ア
ジア外交」という文字は、衝撃を更に拡大した。

 他方、靖国参拝や遊就館的歴史認識を支持する大衆向け週刊誌、隔週刊誌、月
刊誌などは、従来朝日新聞を"中国に媚びを売り、その不当な靖国参拝批判を支
えてきた"犯人として糾弾する、自己中心的、粗雑、矮小、未熟な民族主義的
(あるいは国家主義的)主張を盛った記事やエッセーを掲げてきたが、これから
は、読売、毎日、日本経済などの各紙も敵に回さなければならなくなった。

 このようなマスコミの状況は、一つの憂慮すべき側面を含んでいる。それは、
テレビの発達やインターネットの普及、携帯電話の機能的多様化によって、民主
主義は「大衆民主主義(ポピュリスト・デモクラシー)となり、政治は劇場政治
化したため、政治家は、その政策理念や実行力ではなく、パーフォーマンスのカ
ッコよさによって評価されることとも関連する。つまり、圧倒的多数の若者や中
年層は、上で触れた、代表的日刊紙の綿密な調査と取材に基づいた歴史や戦争責
任に関するシリーズものを読む確率は低いと思わざるを得ないからである。端的
にいえば、世論の分裂を意味するが、その状況の改善の可能性はあるのだろうか?

 いずれにせよ、話を5年前の2001年に戻せば、当時の状況を背景として、
私は靖国問題を憂えるようになり、問題解決の手がかりとして、友人二人(木島
始<故人>と力石定一)とともに、2001年8月初旬、「戦没者鎮魂祈念碑」建
立の提案を行った。この提案に関しては、『メールマガジン・オルタ』32号
(2006年8月20日号)に力石氏が紹介しておられるので、そちらを参照して
欲しい。
 この「戦没者鎮魂祈念碑」建立提案の背後にある「靖国問題」の本質を説明す
るために、私は総合雑誌『潮』2001年11月号に一文を寄稿した。その寄稿
文の書き出しの部分に私は次のように述べている。

「虚心坦懐、熟慮して判断」の末、小泉首相は八月十三日に参拝を前倒して断行
しまし
た。最悪の事態は避けられたとしても、韓国、中国からの非難は、やはり相当な
ものでしたし、他のアジア諸国だけでなく、米国や英国のマスコミの反応も、か
なり否定的、批判的でした。(153頁)

 継いで私は、靖国問題に絡んで重要なのは、靖国神社に合祀されているA級戦
犯の問題であると述べ、日本を無謀な戦争に引き込み、その結果無条件降伏とい
う、多くの日本人(当時は「臣民」と呼ばれていた)が全く予期していなかった
「敗戦」という無惨な結果をもたらした指導者たちの「戦争責任」と、その責任
を自らの手で追及してこなかった日本人の、自己責任の問題についての分析と見
解を展開している。

 二番目に取り上げた問題点は、国家神道の伝統を色濃く残している靖国神社の
背後にある歴史観と政治思想の分析である。特に、靖国神社の境内の冷厳なただ
ずまいとは裏腹に、その片隅にあって、上述した1910年以降の日本の外交・
軍事行動の歴史を肯定的に捉えた一種の「戦争博物館」である「遊就館」の果た
してきた役割についてである。

 靖国神社が創立130年を迎えていた2001年当時、「遊就館」は改装中で
あり、展示は内容を縮小して隣接の「靖国会館」で行われていた。「かく戦えり
・近代日本」と題したその特別展示の雰囲気は、1937年の夏、蘆溝橋事件の
勃発当時、小学二年生として始めて遊就館を"参観"した時の記憶をまざまざと蘇
らせたほどだった。その記憶とは、展示されていた戦利品や、戦没した日本兵の
血にまみれた遺品、刀や各種兵器、戦闘の模様を伝える数多くの写真、武器、録
音されたラジオ放送など、決して気持のよいものではなかった(なお、遊就館は
2002年に改修を終え、その建物、展示品、展示方法も現在見られるものに変
わった)。しかし、当時マスコミや評論家が、遊就館のことを取り上げているの
をあまり目にしたことはなかった。

 さらに、靖国神社の思想的特性の自己表現の見本として、靖国神社のホームペ
ージについても触れているが、その点については、2001年の小泉参拝実行の
直前に書いた別の一文を引用する。

 「A級戦犯合祀問題」に関しては、是非小泉首相に、靖国神社の公式インター
ネット・サイト(www.yasukuni.or.jp/) を見て頂きたい。そこには、東京国際裁
判を国際法違反だと決めつけた、「"A級戦犯"とは何だ!」という、神道政治連
盟の二十九頁に及ぶ論文が掲げられている。世界に開かれたインターネットを通
してのこの自己主張は、日本国内にしか通用しない霞ヶ関・永田町的詭弁を完全
に否定し、その本性を明らかにしているのであり、首相の「素朴な気持ち」など
自己満足に過ぎないことを証明しているからである。(『公明新聞』2001年
8月10日掲載「靖国問題を憂える」)

 以上簡単に紹介した私の靖国問題の捉え方と見解は、基本的に今でも変わって
はいない。今年3月現在での見解をまとめた小論「靖国問題と戦争責任――国際
政治と歴史の視点から」は、去る8月15日に「(株)めこん」という出版社から
出版された『ヤスクニとむきあう』という本に収められている。この本は、昨年
12月に上智大学が主催した "Global Eye on YASUKUNI"と題され、靖国問題を
多元的な視角からの論議を試みた国際シンポジウムを土台にしており、日本人4
名、在日韓国人2名、中国人2名、米国人2名、英国人1名の論文から構成され
た、ユニークな構成となっている。ここに宣伝をかねてご紹介させて頂く次第で
ある。

(2)靖国問題を「歴史解釈」の観点から考える

 まず、ここで私の思想的立場について述べさせて頂きたい。私は「平和主義者」
でも、「進歩主義者」でも、「理想主義者」でもない。国際政治学・安全保障論
を専攻するものとして、私は自分自身の立場を「現実主義」と捉えて来た。日本
では、「現実主義者」=「戦争肯定論者」とみなす傾向がつよいが、それは大き
な間違いである。現実主義国際政治学の泰斗、米国のハンス・J・モーゲンソー
(ドイツ出身)が、「朝鮮戦争」に対しても「ベトナム戦争」に対しても反対を
唱えた事実を知れば、私のいう意味が理解してもらえるだろう。現実主義とは、
現実の細かい変化をも見逃さず、自己の立場を調整しながら変化に対応して行く
立場であり、過去のある時点での現実に固執し続ける「時代遅れの保守主義」は、
「後向きの理想主義」と呼ぶべきかも知れない。

 ただ、これから論ずる戦争責任の問題は、1910年から1945年までの3
5年間に起こった戦争に関わっているため、これを論ずることは簡単ではない。
なぜなら、この期間は、17世紀の半ば以降ヨーロッパに定着した「主権国家」
の概念が、やがて帝国主義の時代に入り、さらに1914-17年の第一次世界
大戦を経て、価値観の変化が始まった時代だったからである。つまり、かつて
「戦争をすることは主権国家の権利」であった時代から、1928年の「不戦条
約(戦争放棄ニ関スル条約)」によって「政策の手段としての戦争を放棄し、一切
の国際紛争を平和的手段によって解決する」(同条約第1・2条)べきであると
する時代に変わりつつあった時代だったからである。ちなみに、日本もこの条約
に署名し、批准した。だだし、同条約の第1条にうたわれていた「其ノ各自ノ人
民ノ名ニ於イテ」宣言するとの字句が、条約の締結権が天皇の大権に属すること
を定めた大日本帝国憲法の規定(第13条)に抵触するため大論争が起こり、そ
の結果、日本は「人民ノ名に於イテ」は適用されないものと了解する、という
「宣言」とともに批准した事実も認識しておくことは意味があるだろう。なお、
この「不戦条約」の理念は、第二次大戦後、日本の新憲法の第九条に盛り込まれ
ている。

 上記の世界史的価値観の変化――これは、帝国主義に対する反省、とも解釈で
きる――が進行するなかで、日本は、1931年の柳条湖事件を切っ掛けとして
満州国を建国し、アジアでの武力による帝国主義的勢力拡大政策を推し進めた。
これに対して、国際連盟が現地に派遣した「リットン調査団」が、柳条湖事件は
「合法的な自衛措置」であるとの日本の主張を退け、満州国建国についても否定
見解を盛った報告書を作成したため、この結論の受け容れを拒否した日本は、1
933年3月、国際連盟から脱退したのである。
 他方、ヨーロッパとアフリカにおいて同様な行動に走ったナチス・ドイツとフ
ァシスト・イタリアは日本と「日独伊三国同盟」を結ぶことになるが(1940
年)、これら三国は、いわば「出遅れて失敗した新興帝国主義国」だったのであ
り、結果的に第二次大戦での敗戦国となった。

 勿論この時期の国際政治には多くの出来事が発生し、極めて複雑な様相を示し
ていたから、上に述べたとおり、「論ずることは簡単ではない」。したがって、
主権国家の権利についての価値観の変化をどう理解するか、そして、その問題に
関連させながら、歴史をどう解釈するかに関しても、多様な理解の仕方と解釈が
ありうるが、「新しい教科書をつくる会」や遊就館に示されている歴史認識は、
上記の変化を全く理解しない、あるいは無視する、後ろ向き、時代遅れのもので
あることは間違いない。

 「歴史解釈」の問題についての論議を推し進めてゆくと、当然ではあるが「戦
争責任」の問題に突き当たる。誰が、何の目的で柳条湖事件の発生に関与したか?
 誰が満州国建国の計画を立て、これを承認したか? 誰が国際連盟脱退の決定
に関与したか? 誰が日独伊三国同盟を押し進めたのか? そして、時の経過と
ともに、真珠湾攻撃の決定から、特別攻撃隊の作戦計画の立案・実行、そして無
条件降伏に至る、「太平洋戦争」(日本では「大東亜戦争」)中の諸決定が誰に
よって、どのような政治環境あるいは戦略的環境のなかで行われたのか、誰が、
どのような理由で反対したか?

 これらの諸問題については、これまでに沢山の研究がなされているから、「戦
争責任」問題の実証的分析のためには、それらの研究の成果を十分に参照する必
要がある。しかし、この小論ではそれだけの余裕はないし、私自身にそれを行う
能力はない。したがってここでは問題を絞り込まなければならないが、私は、こ
れまで論じられることが極めて少なかった「昭和天皇の責任問題」に焦点を当て
て論じたい。

(3)富田メモと昭和天皇

 最近、この問題に密接に関連し、政界に可成りの波紋を引き起こす出来事が生
じた。それは、去る7月20日、日本経済新聞が「昭和天皇、A級戦犯靖国合祀
に不快感」という見出しで報じた、元宮内庁長官富田朝彦氏(故人)が残した手
帖のメモの内容である。これまでも、昭和天皇が、1978年以降、靖国神社参
拝を止められた原因はA級戦犯の合祀にあったとする解釈は定説化していたが、
「富田メモ」はそれを裏付けるものとなった。
 天皇は、「私は、ある時に、A級(戦犯)が合祀され、その上、松岡、白取(原
文のまま)までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と語った、とメ
モされていた。

【注】松岡とは松岡洋右元外相のことで、日独伊三国軍事同盟締結の責任者であ
り、A級戦犯容疑者となったが、判決以前に病死した。白取とは白鳥敏夫元駐伊
大使のことで、30年代以降の強硬外交を推進し、三国同盟締結にも貢献したが、
A級戦犯として終身刑判決を受け、獄死した。筑波とは、筑波藤麿靖国神社宮司
(故人)のことで、1966年に靖国神社への合祀の基となる「祭神名票」として
A級戦犯14名の名簿を厚生省の引揚援護局が靖国神社に送付したが、当時の筑
波宮司は合祀を行わなかった。合祀が行われたのは、12年後の1978年10
月、後継の松平永芳宮司(故人)が独断で行った。(蝋山道雄)

 靖国参拝を中止した理由として天皇が語った「松岡、白鳥までもが」という表
現の意味は正確には分からないし、メモの発表後、合祀支持派の中からはその信
憑性を疑う声や、反対派の「政治利用」だとして非難する声もあがったが、天皇
がA級戦犯を「昭和殉難者」として靖国に合祀することに反対していたことは確
かであろう。

 これまでA級戦犯の合祀と、首相の靖国参拝によって生じた外交・内政問題を
どう処理するか、という問題をめぐっては、今年の春以降、(1)元自民党幹事長・
日本遺族会会長古賀誠の提案によって新たな意味を持つようになった「分祀論」、
(2)山崎拓自民党前副総裁ほかの押す「新追悼施設設置案」、(3)中川秀直自民党政
調会長が提案、与謝野馨金融・経済財政政策担当大臣も主張する「千鳥ヶ淵戦没
者墓苑の拡充整備案、(4)麻生外務大臣による「非宗教法人化案(国家による管理)」
等の諸案が提起されて来た。

 自民党内では、次期自民党総裁選に絡んで、靖国問題を争点とするな、という
意見もかなりある。例えば、伊吹派会長の伊吹氏は「党内で甲論乙駁しているよ
うな姿を諸外国の前にさらすこと自体が国益を大いに損なう」と考え、争点化に
反対している。(朝日新聞2006年6月9日)

 しかし、首相による靖国参拝問題は、"政治問題"以外の何ものでもない。特に、
近隣諸国、特に中国及び韓国との外交関係を過去半世紀間に前例を見出すことが
出来ないほど悪化させてしまった原因は、まさにこの靖国問題なのであるから、
小泉首相の政治責任は極めて重い、といわざるをえない。

 これまで日本の政界・官界は首相による靖国参拝がもたらす対外関係への影響

を軽減するために、参拝の日時をずらしたり、玉串料を個人支出としたり、神道
の正式拝礼作法である「二拝二拍手一拝」を行わない略式参拝など、本質から外
れた形式的対応策に腐心してきた。これらはまさに「霞ヶ関的」対応策であり、
「永田町」では通用するとしても、日本の心ある人々に通用するものではなく、
韓国や中国が反発するのは当然である。ただ、中国は外交的効果を考慮してか、
韓国よりも柔軟な態度を取る場合がある。例えば、2001年7月に与党の3幹
事長が訪中した際、中国側は、(1)8月15日を外す、(2)私的参拝を明確化する、
(3)A級戦犯ではなく一般戦没者の慰霊目的であることを明確化する、ことを求め
たという(読売新聞2001年8月7日夕刊)。その結果が首相の前倒し参拝
(8月13日)となったのである。

 靖国問題をこのように捉えるからこそ、「争点にするな」という立場も生まれ
るのであろうが、靖国問題に関する意見と立場は、自民党総裁選挙に立候補する
政治家の、政治理念、戦争責任問題を含んだ歴史解釈、憲法の理念、外交政策の
在り方、など全てを凝縮して示す指標なのである。読売新聞の関連記事の表題を
借用するならば、それはまさに「国家ビジョン」として各候補者が体系的に語ら
なければならない全体像の象徴である。特に、その核心部分ともいえる「A級戦
犯合祀問題」をどのような方法によって解決し、さらに、これから生まれた外交
上の難問を如何に解くか、という問題に対する明確な政治的視野と政策的準備を
もたない政治家は、自民党総裁選に加わる資格などない、言わんや、次期首相候
補においておや、と言うべきであろう。

 自民党総裁選挙の最有力候補である阿部晋三幹事長は、6月のテレビ朝日の報
道番組で「先の大戦は間違った戦争か」と問われ、「日本は敗戦し、多くの国民
が亡くなった。アジアでも多くの方々を傷つけ、被害を与えたのも事実。そうい
う意味では当然そうだ」と明言。東京裁判で裁かれたA級戦犯についても「(裁
判結果を)今になって覆す考えもないし、指導者としての責任は当然だ」と述べ
た(朝日新聞2006年6月5日)という。この発言が阿倍の本心を表している
とすれば、彼の歴史認識と戦争責任に関する認識はかなり客観的、冷静で、期待
は大きくなるが、その後の種々の場面でのタカ派的発言との整合はない。

(4)天皇の戦争責任をどう考えるか

 先に述べたように、昭和天皇の戦争責任問題は、これまでほとんど取り上げら
れたことがなかった。それには十分の理由がある。そのような問題を取り上げる
ことは、戦前戦中ならば「不敬罪」に該当し、「国賊」、「非国民」として断罪
されたであろう重大行為だったからである。しかし、敗戦から62年、昭和天皇
の崩御からすでに17年経過した今日、「人間宣言」によって「神格」を否定さ
れた天皇の責任問題を真剣に論議してみるべきである、と考える。そうしなけれ
ば、戦争責任問題は全て曖昧になってしまうからである。

 富田メモによれば、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に反対であったことは
明らかである。天皇は、A級戦犯の多くが、戦争を推進し、国家を破滅させた責
任を負っており、戦場で天皇のために死んでいった多くの戦没者たちと一緒に扱
うべきではない、と考えておられたようである。しかし、天皇は、ご自身の責任
についてはどう考えておられたのだろうか? この点についての確たる資料が乏
しいため、ハッキリした結論を出すことは大変難しい。明治時代の帝国憲法を含
む法的制度、天皇制国家制度のもとで作り出された政治文化、1930年以降の
軍国主義の台頭のもとで推し進められた法解釈に基づく政治的・行政的実践、そ
れに加えて1945年8月の敗戦と連合軍の占領政策の思惑などが複雑に絡み合
って、問題の構造を複雑にしているからである。

 これらの問題については、既に紹介した小論「靖国問題と戦争責任――国際政
治と歴史の視点から」で論じているので、その内容をここで複製するわけにはい
かないが、私が特に焦点を当てて論じたいのは、太平洋戦争の最終段階にあった
1945年7月、8月の期間における問題である。

(1)「ポツダム宣言」から「無条件降伏」までの責任
これは具体的には、連合国による「ポツダム宣言」(7月26日)から天皇が「ポ
ツダム宣言」が要求する「無条件降伏」を受け容れる決断(8月14日)をされる
までの18日間、その対応と処理に関わった日本の最高指導者たちの行動につい
ての責任の問題である。
 「ポツダム宣言」は、米英中三国首脳(ここに蒋介石中華民国総統が加わって
いることを日本人はハッキリと認識すべきである)の署名によって発せられ、(1)
日本の軍国主義の駆逐、(2)軍国主義指導者の権力と勢力の永久追放などを含む戦
争終結条件、(3)戦後の対日処理方針、などを明示して日本軍の無条件降伏を要求
したものであったが、この要求の受諾の可否を巡って、最高指導者たちは受諾派
と徹底抗戦派に分かれて対立し、無為に時間を空費したのである。

 この2週間を超える期間に、戦後の日本の運命を左右する、まさに歴史的と呼
ぶべき大きな出来事が起きてしまったのである。(1)広島への原爆投下(8月6日)、
(2)ソ連の対日宣戦布告(8日)と参戦、(3)長崎への原爆投下(9日)。これらの連合
国側の軍事行動によって、実に多くの人々の命が奪われただけでなく、戦後今日
に至るまで解決されていない領土問題が発生してしまった。さらに、ソ連軍の満
州侵攻によって、満州開拓のために移住していた日本人家族は本国帰還までの間、
塗炭の苦しみを舐めさせられただけでなく、在満の関東軍の兵士たちは中国軍お
よびソ連軍の捕虜となった。特にソ連軍によってシベリアの捕虜収容所に抑留さ
れた日本兵の数は数十万人に及ぶとも云われるが、戦後、日本軍の戦争法規違反
や捕虜虐待についての軍事裁判が行われ、「B級」及び「C級」戦争犯罪人が処
刑・処罰されたが、ソ連軍によるシベリア抑留捕虜虐待が国際的な裁判の対象と
して取り上げられることは無かった。(この点、"東京裁判は勝利者による一方
的裁判だ"、とする靖国派の主張に一理ないわけではない。)また、ソ連軍の南
樺太・千島列島侵攻によって戦闘が起こり、多くの在住日本人が悲惨な最期を遂
げた。

 しかし、この貴重な期間の間に最高意志決定のために行われた御前会議におい
て、ポツダム宣言受諾派も最後までこだわったのが「国体の護持」、つまり「天
皇制の維持」であり、近代国家の基本的任務であるべき「国民の生命・財産の保
護」という問題がほとんど問題とされなかったことは、現在の価値観からすれば
信じがたいことであろう。しかし、現在に於いても、例えば女性天皇問題につい
て、これは伝統に反するとして強硬に反対する人々がいることを考えれば、日本
人の天皇制を巡る心理はそれほど変わっていないのかも知れない。

(2)明治憲法と天皇の大権

 いずれにせよ、8月14日には天皇の聖断によって御前会議の構成メンバーた
ちは、ポツダムダム宣言受諾を決定したのである。その意味において、昭和天皇
は、明治憲法の第一条に定められている「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治
ス」という役割、第十一条の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」および第13条の「天皇
ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ」云々という役割をここで果たしたわけであるが、その決断
にいたるまでに何故これほどの時間を掛けなければならなかったのだろうか?

 それは、憲法の規定とは裏腹に、通常は天皇は国務大臣の補弼(補佐・助言)
なしに意志決定を行うことはなかったし、特に第十一条に定められた軍部に対す
る「統帥権」(指揮命令権)については、さらに難しい制限条件があったからで
ある。いわゆる「統帥権の独立」といわれる問題で、天皇の統帥権は内閣の制約
を受けない独立した権限であるという軍部の主張が実践を通じて制度化されたも
のであった。これらの制約によって、天皇は独自の決断・意志決定を行う習慣は
なかったわけで、1945年8月の状況は、多分天皇にとっても全く未経験の場
面、つまり有効な輔弼なしに無条件降伏を決定しなければならなかったのである
と推測される。

 これら天皇の統治権・統帥権の問題点を理解する手がかりとなるのが「天皇機
関説」である。これは憲法学者、美濃部達吉が大正時代から唱えていた学説で、
「統治権は法人である国家に属する権利であり、その国家の最高機関が天皇であ
る」という主旨であるが、大正から昭和初期に掛けては学会では広く支持されて
いた。しかし、やがて軍国主義の台頭とともに、言論弾圧が強まり、昭和10年
(1935年)にはいわゆる「天皇機関説事件」が起こった。貴族院議員であっ
た美濃部の機関説は国体に反するという批判を浴び、議員を辞職したのである。
しかし、まことに皮肉なことに、満州事変から日中戦争へと日本の帝国主義的傾
向が強まる中、天皇は「国家の機関」というよりは軍国主義者の思想と行動を正
当化する「錦の御旗」、つまりシンボルとして使いやすい「道具」に成り下がっ
てしまったといわざるを得ない。

 丁度、帝国陸海軍の管理下にあった官幣大社靖国神社を、国のために殉じた兵
士たちを英霊として祀ることによって、召集され戦地に派遣される若者たちの一
層の忠誠心を鼓舞し、また戦死者の遺族を慰め、そして戦争を正当化する手段と
して使ったのと同類である。

 「現人神」(生きている神様)である天皇を自分の主義主張を正当化する手段
として使う、つまり、一旦緩急ある時は天皇のために命を投げ出す、というのは
表向きの口実にすぎないということなど、戦時中に誰も考えもしない話であった
ろうが、それは現実に起こったのである。それは全国民に向けての「終戦の詔勅」
の放送のために、8月14日天皇陛下の「玉音」(お声)を録音した録音盤を、
戦争の終結を阻止しようと狂気の主戦論者が近衛第一師団長を殺害して宮中に乱
入し、奪い取ろうとしたクーデター計画である。彼らにとって、天皇とは何であ
ったのだろうか?

(3)『軍人勅諭』と『戦陣訓』から生まれる天皇のイメージ

 「天皇機関説」や「統帥権の独立」の観点から、天皇の権限は極めて限られて
いたという解釈がうまれ、したがって天皇の責任も限られていた、と理解される。
しかし、小学生としての6年間と、中学生としての4年間、合計10年間のほと
んどを軍国少年として過ごした私にとって、天皇の責任は限られているという合
理的解釈を受け容れることはなかなかできない。特に真珠湾攻撃の時中学一年生
だったわれわれは、「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」という威厳に満ちた御言葉
にはじまり、「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛(こうもう)よりも輕しと覺悟せ
よ。」と命ずる『陸海軍人に賜りたる勅諭』(明治15年1月4日)を暗記させ
られ、さらに「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」という『戦陣訓』の厳しい軍人精神
を植え付けられていたのであり、大元帥としての天皇責任が小さく、また、生き
たまま軍事裁判にかけられ、「虜囚の辱め」を受けたA級戦犯たち(東条英機は
『戦陣訓』の生みの親である)が、靖国神社に祀られるなどということを受け容
れることはできないのである。『戦陣訓』の教えを体して死んでいった若者たち
も同じ気持ちであろう。
(4)マッカーサーと昭和天皇の戦争責任

 もう一つ、天皇の戦争責任を限定ではなく、全く不問にしてしまった大きな要
因がある。それは、日本の無条件降伏の結果、連合国軍総司令官として日本占領
の任に当たったマッカーサー将軍の決断である。非常に単純化していうならば、
マッカーサー将軍は、日本の政治的、社会的秩序を安定して維持しながら、効果
的に占領目的を達成するためには、シンボルとしての「天皇」の存在が不可欠で
あることを理解していたから、天皇を極東軍事裁判にかけろ、という一部の連合
国の要求を退け、天皇を戦犯容疑者のリストから削除してしまった。その結果、
連合国の立場から見た天皇の戦争責任は無くなったのである。
 昭和天皇が、戦時中の重大決定に関して自分に責任があると考えていたらしい
ことは、天皇を補弼していた人々の日記や伝記、あるいは外務省の編纂した『終
戦史録』(昭和27年)などによって分かっているが、例の「終戦の詔勅」のな
かに「敵は新しい残虐な爆弾を使って無辜の民を多く殺害した」というような表
現があるところから考えると、ポツダム宣言受諾の遅れが、そのような惨禍をも
たらした、という認識は持っていなかったように思える。もちろん、「詔勅」は
官僚がかいたものであり、天皇はただ読んだだけではあったが…。そして、天皇
の責任意識は徐々に薄れていったように見える。

(5)結論

 1930年代以降の日本の、アジアにおける軍事的勢力拡大行動は、1945
年の「ポツダム宣言」受諾によって幕を下ろした。そして、戦争責任については、
天皇は免責された極東軍事裁判において、A級戦争犯罪人が断罪されたことによ
って、一件落着したかのように見える。多くの日本人にとっては伝統的政治文化
の表れとも云える、歴史の真実と真面目に向かい合うことを避ける、知的・精神
的脆弱さのせいであろう。

 これに対して靖国・遊就館的歴史観の持ち主たちは、上に述べたように極東軍
事裁判は国際法違反の「勝者の裁き」であると断定し、判決を否定する。彼らは
当然のことながら、A級戦犯合祀を歓迎はしても、彼らの戦争責任を問うなどと
いうことをするはずはない。したがって、問題は放置されたままになっているの
である。

 戦争責任の問題は、この小論においてはごく狭い視角から、そしてごく限られ
た範囲について舌足らずの言及、分析を試みただけであって、極めて多くの問題
が触れられずに残っている。そのことは十分承知したうえで、いわば暫定的結論
をのべる。

 もしも、われわれ日本人が、小泉首相の行動と発言によって戦後史上まれに見
るほど悪化した中国と韓国との政治・外交関係をよりよい状態に戻し、アジアの
安定と発展に日本が有意義な貢献を行うことを望むならば、歴史に直面して認識
をあらため、戦争責任の問題をわれわれ自身によって見つめ直すこと必要であろ
う。(2006年8月26日記)

                       (筆者は上智大学名誉教授)
 注:本稿はメールマガジン「オルタ」が06年10月14日に全国の書店から一斉発
売する下記単行本《オルタ叢書》に掲載されます。

書名:『海峡の両側から*靖国を考える――非戦・鎮魂・アジア――』
著者:河上民雄・西村 徹・朴 菖煕・蝋山道雄・岡田一郎
定価:本体1800円+税
発行元:オルタ出版室   発売元:新時代社   

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