鴎外 通俗ばなし <中>

■落穂拾記(14)

鴎外 通俗ばなし <中> 羽原 清雅──────────────────────────────────

 森鴎外生誕150年(1862-1922)
 筆者は延べ9年間を「無法松」の小倉に在勤したので、小倉での鴎外の足跡に触
れることが少なくなかった。とくに、長きにわたって丹念につけられた鴎外の日
記のうち、「小倉日記」は時間のゆとりがあったのか、独身の身軽さの時期であ
ったためか、ほかの時期よりも折々の気持ちや人物評的な記録があって、面白さ
がにじみ出ている。

 そこで今回は、この時期の鴎外が困らせられた、11人にも及ぶ「婢(はした
め)」、いわゆる女中、小間使い、下女、いま風に言えばお手伝いさんについて
触れたい。

 鴎外が第12師団軍医部長(陸軍軍医監)として小倉に在任したのは、189
9(明治32)年6月から1902(同35)年3月までの、2年10ヵ月間だ
った。鴎外はこの人事異動を「左遷」と受け止め、当初「隠流」の号を使ったり
した。だが、この地方都市での生活は、不満ながらのスタートから次第になじん
でいき、優れた友人(福間博、玉水俊〓(偏に交、旁に虎で一字))も得て、庶
民の日常にも興味をそそられていったように思われる。

 鴎外はこのときすでに、親類筋である西周の勧めた赤松登志子と結婚(188
9年2月)し、長男於菟が生まれたあと、翌年10月にはわずか2年足らずで離
婚しており、単身の赴任だった。離婚後の登志子の病没が知らされたのは、小倉
着任後ほぼ8ヵ月後だった。そして、小倉在任中の1902(明治35)年1月、
12年ぶり、1年14、5ヵ月で荒木志げと再婚する。夫人とは、小倉で3ヵ月
近く生活している。「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」と手紙に書く
ほどの美人で、気に入っていた。鴎外40歳、志げ22歳の再婚同士。

 ところで、このころの小倉周辺は、炭鉱の繁栄を軸に多面的に近代化が進み、
それに伴う社会的変動も大きかった。豊国炭鉱のガス爆発で215人が死んだの
は、鴎外着任の4日前の出来事。小倉市の施行は1900(明治33)年4月で、
人口は3万余。5月の義和団事件で師団は多忙で、軍港の門司港の出入りも激し
くなる。

 小倉に点燈したのはこの年9月で、加入はまだ150人。このころ、門司、小
倉、若松などで電話交換が開始。翌年11月には苦労を重ねた八幡製鉄所の作業
開始式。仕事を求めて来る人びとが増えるにつれて、犯罪が増え、生活環境や風
俗は悪化、花街も賑わう、といった時代だった。

 このような環境の中での「婢」の存在である。
 1世紀以上前の「婢」は、ひとつは貧しさゆえの口減らしのため、家事見習の
ため、あるいは離婚女性や中高年の生活のための「職業」だった。そこには、雇
い主による性的被害を受ける女性があり、擦れからして盗みなどに走る女性が生
れていった。

 文中には、盗み、男関係、酒びたりなど、当時の社会のひずみの構図が垣間見
られるが、上流育ちの鴎外には克明に日記に書くほどの「驚き」があったのでは
ないか。

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 ≪小倉での鴎外は「婢」とどう付き合ったか≫
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●1.明治32.6.28 吉村「春」
 肥後国比那古(熊本県八代市日奈久)出身。容姿はよく、さっぱりした性質で、
いつも笑いをたたえ、媚態もない。「予頗る愛す」のだが、8月30日になって
大家の主婦から「春さんは身ごもっているようですよ」といわれたことで、質し
てみると、否定はするのだが、外聞もあり辞めることに。すでにその兆候は見え
て、医師鴎外は臨月も近いと見立てた。小倉2ヵ月余で「婢」最初の挫折に直面
した。

 鴎外宅には日中、兵僕がいるが夕刻には営舎に帰り、馬丁は厩に寝るので、同
じ家に寝るのは独身の鴎外と婢だけになり、「嫌疑を避く」ために婢をふたり雇
わなければならないのだ、と書いている。しかも、一時は夜だけ大家の婢に泊ま
りに来てもらったが、「我家の労少く賚(もらうもの)多きを羨み」と別の中将
宅に移ってしまったので、また大家に頼むわけにもいかず、ふたりの婢(大婢
「元・もと」、小婢「春」)を雇わざるを得なくなったのだ。

 ただ、鴎外が着任後間もなく書いた「鶏」(明治32年8月)によると、まず
口入屋に頼んで来たのは「お時婆あさん」で、後述の「安田さき」同様に、風呂
敷包みに家の物を納めて持ち出していると聞かされて、クビにしている。口入屋
は25、6歳の女中を試しに連れてくるが、お辞儀をしながら横目で鴎外を見た
り、袖口から襦袢の袖のメリンスが覗いたりすることを嫌ってか、鴎外は翌日に
は代えている。

 そこで来るのが、上記の「春」であり、「十六ばかりの小柄で目のくりくり」
「気性もはきはき」で、気に入ったと書いている。

●2.同 9.2 木村「元」
 門司出身とあるが、実際は現在の福岡県行橋市今井。20歳。両親はなく祖父
母のもとで、福岡県京都郡の小学校で諸礼、裁縫を教えていた。叔母で小学校の
教師である末次はなが言うには、叔父から結婚を勧められていったんは結婚した
ものの、短期間で逃げ、再び帰ろうとはしない。でもじつは、孕んでいて、来春
には生れるという。それでも鴎外は、しばらく働いてもらうことにする。

●3.同  〃  吉田「春」
 大分出身。14歳。両親なく、紡績工場の女工だったが、労働が激しく婢とな
ったという。でも、5日後に「この家は寂しすぎる」として辞めていった。「黒
く痩せたり」と記す。

●4.同 9.7 竹原「久」
 「春」に代えて周旋人の女性(牙婆)が連れてきたが、3日後に「盗癖あるを
以て罷め帰らしむ」。
 鴎外の母峰子宛の手紙によると、婢が元ひとりになったので、大家の娘に泊ま
りに来て貰った、とある。だが、ほぼ1ヵ月後の10月10日に娘の姉が結核で
亡くなり、家に戻ってしまったので、またひとり雇わざるを得なくなった。そこ
で・・・

●5.同 10.28 田付「浜」
 豊後国大分郡萩原駅の農家の子で、17、8歳。以前、東京・麻布で働いたと
いう。悪賢く(慧黠)媚態を見せ、「人前に在りては柔婉良家の女の如く、人後
に在りては放縦娼婦の如し」と厳しい。魚や野菜を買うのも、以前の倍に増えた
ので、もうひとりの婢の元が聞くと「将官の家なのだから、ケチしていてはだめ
よ」と言ったという。カキを食べてその種を花壇に捨てるので、鴎外が叱ったと
ころ、もうひとりの婢に怒って言うには「辞めてほかの幹部にところに仕えるわ。
妾としてならいやだけど、裕福でやもめの人でなければイヤ」。

 これも、母峰子宛の手紙には、「衣類ははでなる絹物一枚のみ むやみにおせ
じ好く」「女中(元)の鰹節を削るを見て馬鹿正直と罵り」、髪結いに行ってあ
れこれ喋るので、「早速暇を遺し申候」とある。それにしても、40歳に近い鴎
外は婢との「嫌疑」を避けるためにしても、母親にこと細かく伝えているのは、
今でいうなら「マザコン」だろうか。

●6.明治33.1.20ころ 荒木「玉」
 木村元の産期が近づいたので、ためしに雇ったところ、昼時から酒を買って呑
むうえ、金を盗もうとしてばれたことで逃げ去った。「醜にして媚あり」と書い
た。

●7.同 1.23 平野「まさ」
 17歳、痩せているが、ちょっと容色はいい。だが、3、4日経つうちに「小
婢まさ操行修まらず、夜出でゝ暁に帰る」と書くことになる。
 彼女は裁縫や料理も出来ず、悪賢くてうそが口をついて出る。「真個に畏る可
し」。

 聞けば、彼女は大阪の鍛冶屋の子で、13、4歳の頃にそこで働く少年と通じ
て奔走したが、この若者に性病をうつされ腿のリンパ腺を腫らした。そして、各
地を渡り歩くようになり、九州にやってきたという。情夫に20歳(結髪)の、
行橋出身の陸軍見習士官杉野某がいるというが、ほんとかどうかもわからない。
杉野の実家は立派な屋敷だが、父親はかつて獄につながれたことがあるという。

●8.同 2.8 今井「いつ」
 木村元の異母妹で15歳。元の姉、川村でんが連れてきたもので、鴎外邸には
でん、夫の正人や息子の速水、元の祖母、伯母の末次はな、らの一族がかなり頻
繁に出入りしている。気に入った付き合いだったのだろう。

●9.同 3.30 安田「さき」
 小倉生まれの老婢で、木村元の姉、川村でんが連れてきたのだが、2週間もす
ると「性貪婪(どんらん)甚し」と書かれる。鴎外が出勤すると日ごと、米や野
菜などを盗んで大きな風呂敷包みを近くに住む女婿のところに持っていく、とい
う。これは向かいの少佐の家人から言われてわかったようだ。

 それまで、さきは鴎外に告げ口もして「前にいた元さんは、こちらの馬丁とで
きていて、それで馬丁は米や野菜を盗んで元さんに貢いでいるんですよ。それで、
なにかと物入りなんですよ」といっていたという。鴎外はその場で「譴責」して
辞めさせている。

 懐妊近い元は3月27日、産婆の家に移っていたが、4月4日に女の子が生れ
て、さきの解雇と同じ日に産婆のところから鴎外邸に戻ってきた。元はその後、
結婚することとなる11月まで鴎外邸に勤めている。去るにあたって、一句を記
した。
 <まめなりし下女よめらせて冬ごもり>

 木村元は、ほぼ10年後の1909(明治42)年に亡くなるが、10月5日
に訃報を知った鴎外は東京から香典を贈っている。鴎外が、この女性に寄せる思
いというか、気に入った様子が強く感じられよう。

●10.同 11.24 小森「高」
 木村元が辞めたので、代わりに鴎外邸向かいの小森家から親類の女性に来ても
らうことになる。夜は小森家に戻った。「一目眇せるあり」、すがめだと、鴎外
は細かく容姿などについて触れている。

 この年の暮れ、鴎外は鍛治町87から京町5-154に引っ越す。
 ちなみに、鍛治町の家はその後修復されて、いまは繁華な飲み屋街に変わった
鍛治町に、鴎外記念館として残されている。また、京町の家のあとは小倉駅前の
にぎやかな街になり、面影もない。

 鴎外が「門 船頭町に面す。是れ劇場の在るところにして、下等割烹店 軒を
連ね、頗る熱閙(騒がしい)なり」と記すとおり、近くには花街もある繁華街に
近かった。戦後は映画館や飲み屋などが立ち並び、今も近くにはいわゆるソープ
街がある。

●11.明治34.5.22 「富」
 名字は書かれず、福岡の呉服町の商家の女、とあるのみ。
 鴎外の末娘小堀杏奴が母親志げから聞いたところでは、この「トミ」のほかに、
志げが東京から連れてきた女中と4人の生活だったという(『晩年の父』)。

 鴎外は8年余を経た1910(明治43)年1月、『独身』を発表しているが、
このなかで小倉赴任2年という大野なる人物に模した鴎外を登場させて、「竹」
は裏表なく主人のために働くが、女・異性としては感じない、と書いている。時
期だけで言えば、「富」であろう。勘ぐれば、鴎外はかなり独身者と女中との関
係に慎重、あるいは気にしているようだ。ちょっと面白くもある。

 ところで、やはり小倉に育ち、小倉の朝日新聞の広告部門で働いた松本清張
(1909-92)がこうした鴎外に興味を示さないわけがない。それが『鴎外
の婢』(1969=昭和44年)という作品になっている。
 この小説では、「小倉日記」をもとに、木村元を軸にその他の「婢」にも触れ
つつ、清張の浸る古代史の世界を絡ませ、次第に殺人を想定する推理の方向に読
者を引き込む。

 鴎外はこの地で各種の文筆を振るったが、清張もまた鴎外を題材に『或る「小
倉日記」伝』『鴎外の婢』『両像・森鴎外』などを書いた。格式の高いイメージ
の鴎外の風景は、清張のような手法によって身近に迫ることで、通俗化はするが、
親しみを持たせてくれる。
 事実、鴎外の弟妹や子の一族が書いた鴎外は意外に人間的で、また鴎外が作品
で取り上げている世界も文体こそ厄介ながら、読む努力も悪くないな、の気分に
させている。

 (筆者は元朝日新聞西部本社代表・政治部長)

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