-第1回 自民・社会党による55年体制-

■河上民雄、20世紀の回想               河上民雄    

-第1回 自民・社会党による55年体制-

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本稿は2009年5月11日および12月1日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・
元日本社会党国際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。
5月11日のインタビューには浜谷淳氏が、12月1日のインタビューには赤羽高樹氏
・加藤宣幸氏・木下真志氏および岡田が参加した。

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◇質問:まず、55年体制について先生のお考えをうかがおうと思います。55年体
制が成立した背景はどのようなものであったと先生は考えておられますか。

●河上:55年体制が成立するのは、社会党の左右両派の再統一と保守勢力の大合
同がほぼ時期を同じくして―正確に言えば、社会党の再統一が先行していますが
―完成したことによってです。1945年の敗戦からそれまでの10年間に両陣営とも
目まぐるしい離合集散があったことを思うと、これはある意味では、社会党にと
っても保守勢力にとっても、1945年の仕切りなおしみたいなものです。が同時に、
なぜ統一、合同をあえてしたのかという点を考えると、1955年2月27日に実施
された総選挙の結果が引き金だったのではないかと思われます。この選挙で保守
勢力は明治以来はじめて7割の得票率を切るわけです。その意味を直感的につか
んだのが三木武吉さんです。
 
三木さんは、吉田打倒を本当に命がけでやった人ですが、その人が突如、方針
を転換して、吉田自由党と組むという選択をおこなったのは、敵はもう吉田では
なくて社会党だという認識を持ったからです。社会党は鳩山内閣の憲法改正の公
約に危機感を抱き、左右両派の再統一を公約し、憲法改正を阻止するために必要
な三分の一以上の議席を獲得していました。

◇質問:当時、社会党両派では再統一のために統一綱領が作成されることになり
ました。右派側の綱領を作成したのは河上先生ですよね。

●河上:藤牧新平さんと私の二人です。父・河上丈太郎(右社委員長)の指示を受
けて、当時30才前後の若者が右社綱領草案を作成しました。と言っても、右社側
の統一綱領草案という意味です。統一綱領作成のための両派の話し合いには、右
社側からは河野密さんや松沢兼人さん、曾祢益さんが、左社側からは伊藤好道さ
んが出て、最終的には伊藤さんがあの再統一綱領の執筆にあたります。統一に伴
う政治的な難しい問題は右社側は三輪寿壮さんが、左社側は佐々木更三さんが担
当していました。

◇質問:統一綱領作成の際に問題となったのはどういった点ですか。

●河上:当時の左社綱領は、左社が政権をとったら、二度と政権を手放さないよ
うにするため、放送・教育・学術すべてを党の中央委員会でコントロールすると
いう、いわゆるソ連型の社会主義をそのまま取り入れたものでした。「それは絶
対に飲めない」と右社側が反発したのはもちろんですが、左社の首脳部の判断も
あって、私たちが書いた右社側の綱領草案をほゞそのまま採用する形になりまし
た。左社綱領を作成した向坂逸郎さんはもう憤懣やるかたなかったと思うのです
が、おそらく鈴木茂三郎さんが学者の出る幕じゃないっていうことで、執筆を伊
藤さんに全面的に任せたのだと思います。
 
  他に、当時、問題になっていたのは、日本は果たして独立国なのか、それとも
植民地なのか、従属国なのかという問題でした。ただ、左社の方も党内派閥の問
題から、従属国か植民地かという論争にあまり深入りしたくなさそうでした。右
社は講和条約の是非のときから講和条約賛成の建前上、独立国という立場でした
が、そのとき、曽祢さんが、「アメリカによって急所を握られている」というあ
る意味露骨な表現を提案して、統一綱領にもこのような考え方が反映されました。

このように統一綱領に関しては曾祢さんが右社の立場を代表してかなり注文を
つけました。政治的な問題では、三輪さんの前では佐々木さんも借りてきた猫み
たいにおとなしくしていて、何も言えませんでした。三輪さんと佐々木さんとで
は迫力も経歴もだいぶ差がありましたから。河野さんではそこまで佐々木さんを
抑えることは出来なかったでしょう。

◇質問:三輪さんと河野さんとではそれほど大きな違いがあったのですか。

●河上:三輪さんは理論的にははっきりしない人でしたが、人間的な迫力という
点では抜群でした。加藤宣幸さんの父上の加藤勘十さんが引退される前に『毎日
新聞』で松岡英夫さんが聞き手で連続インタビューをおこないました。そのとき、
加藤勘十さんは「最大の政治家は三輪寿壮であった」と評価しています。河野
さんは理論家として、河上さんは人格的には立派な人でしたが、政治力は三輪さ
んが抜群だったと。

◇質問:社会党は穏健な西欧社民的な統一綱領を制定しましたが、それを生かす
ことなく左傾化していきました。それはなぜだと思いますか。

●河上:統一綱領が右派主導で制定されたことに対する怨念のようなものが左派
の中に存在したと思います。それが数年後の綱領的文書「日本における社会主義
への道」につながる伏線だったと思います。統一後、衆参の選挙で社会党の議席
は伸び続けました。本来ならば、「統一の政治的成果はあがっている」というこ
とになるべきでした。しかし、実際には「勝ち方が少ない」という理由で綱領論
争が再燃しました。まるで、かつて徳川家康が「国家安康」という文字を「家康」
を分断するもので謀反のしるしありと豊臣家を弾圧する材料にしたようなもので、
統一の貴重な成果は地面に叩きつけられてしまいました。

◇質問:55年体制の成立にどのような意義があったと先生はお考えですか。

●河上:新約聖書時代のギリシャ語では「時」を意味する二つの言葉がありまし
た。一つは「カイロス」という言葉で「神の時」というようなことを意味します。
もう一つは「クロノス」という言葉で「淡々と時間を刻む」ということを意味
します。55年体制の成立はカイロスだったのかもしれません。

◇質問:具体的にはどのような意味でカイロスだったのでしょうか。

●河上:保守合同を成し遂げた三木さんが社会党の伸張に非常な危機感を抱いて
いたという話を先ほどいたしました。その三木さんの危機感を受け継いだのが、
石田博英さんです。石田さんは、社会党に対抗するためには、社会党が得意とす
る分野、例えば労働行政や社会保障に自民党も真剣に取り組んでいかなくてはな
らないと主張しました。

石田さんは自民党内では三木さんほど有力者ではありませんでしたが、労働大
臣として三井三池争議の対応を任されるなど、他に労働行政が出来る人間が党
内にいなかったので一目置かれていました。このような石田さんのような人物
が自民党内に存在し、社会党の政策を先取り吸収した結果、日本はアジアで最
高の医療保険制度を持つ国となりました。今日大きく揺らいでおりますが、曲
がりなりにも日本がそれなりに充実した社会保障制度を持つことが出来たの
は、55年体制の所産です。
 
  もう一つは外交です。外交は1945年がまさに日本国民にとってカイロスだった
わけです。つまり、そのとき日本は中国と満州事変以来14年間戦争をおこなって
きたことについて基本的に考えを改める絶好のチャンスだったわけです。しかし、
冷戦によって中国をはじめアジアの大半が共産圏に組み込まれてしまい、日本
は自らを中国と敵対する立場にあると認識してしまいました。日本人は、中国と
の真摯な和解に取り組み、中国侵略が誤りであったことを認識するチャンスを
失ってしまったのです。
 
そこで、共産圏との外交関係は、与党の自民党ではなく、野党の社会党にやっ
て貰う(嫌な言い方ですが)という関係が出来ました。例えば、日本の国連加盟
への道を開いた日ソ国交回復は鳩山一郎内閣が実現したわけですが、社会党もそ
のためにかなり協力しました。社会党も半分功績があると誇っても良いけれど、
「保守に手を貸した」ことになると嫌なものだから、社会党の人たちは誰も言い
ません。
 
  このような55年体制下での自民党=日米安保条約堅持の政権与党、社会党=護
憲勢力としての第一野党による「対抗と分業」を日本国民が結果として認めたの
は、国民も冷戦下でアメリカの軍事体制の傘の下に入ることも、生きていくため
に日米経済の絆も必要だが、その反面でアジアとの関係回復も大切で、護憲とい
う良心も失いたくない、それは社会党に託したいと考えたからかもしれません。
日本の外交は円ではなく、平和憲法と日米安保条約という2つの焦点をもつ楕円
形で、その2つの点を引きよせ合って1つにしないのがよい、1つになった時はむ
しろ危ないと考えたのが日本の選択だったといえます。

◇質問:55年体制は1993年に崩壊しますが、先生はその引き金になったのは何だ
とお考えになりますか。

●河上:もちろん、1989年から1991年にかけての3年間の世界的大変動の影響が
あったと思いますが、直接的にはやはり小沢一郎さんの存在抜きに語ることが出
来ないでしょう。自民党を飛び出た小沢さんが、非自民勢力の中で最大の勢力を
誇っていた社会党を手玉にとり、左派が支持する土井たか子さんを衆議院議長に
もってきて、首相には少数政党である日本新党の党首である細川護熙さん―熊本
藩主の子孫で、近衛文麿元首相の孫―を据えました。これが成功の秘訣になりま
した。

 それに小沢さんは誰にも抵抗できない「政治改革」をスローガンに掲げました。
しかも企業と政治の結びつきを絶つという大命題を、その道の達人が説き続け
たのです。こうした矛盾を孕みながら、1993年の宮沢内閣の崩壊から今日に至る
までの16年間、小沢さんが掲げる「政治改革」が常に日本政治のキーワードとな
ってきました。そして、当の小沢さんは時の政権に入ったり、野に下ったりしな
がら、常にときの政権を脅かし続けています。そういう意味でこの16年間は「小
沢時代」と言っても良いと思います。
 
  もしも社会党に戦略家がいたならば、今がカイロスということで、小沢さんが
自民党を飛び出す前に、社会党自身が理論的に踏み込んだ議論を起こし、大胆な
路線転換ができたかもしれなかったのです。そうすれば社会党が政界再編のイニ
シアチブを握ることもできたでしょう。しかし、実際は、社会党は小沢さんがや
っていくことにただおろおろついていくだけになってしまいました。

その後、小沢さんの掌を離れて、社会党プラス、リベラルの党をつくろうとい
う試みがありました。リベラルがだれか、というのはなかなか難しい問題です
が、一応社会党にピリオドを打って、分裂せずにリベラルな人と信頼関係を築
いて、新党を作るという方式をとってもよかったと思います。しかし、そのた
めには1989年の東欧革命・1990年の東西ドイツの統一・1991年のソ連崩壊に対
する社会党なりの総括が必要でした。しかし、社会党にはそれらの問題をどう
とらえるべきかという認識がありませんでした。

◇質問:社会党は1989年の東欧革命・1990年の東西ドイツの統一・1991年のソ連
崩壊に対してどのような認識を持っていましたか。

●河上:全く時代の変化に鈍感でした。私は1989年8月に、衆議院外務委員会の
東欧政治経済事情調査団に参加し、動き出しつつあった東欧革命の実態を見てき
ました。ベルリンの壁崩壊の3ヶ月前のことです。私は何か大変なことになると
いう切迫感を持ちました。

 日本に帰国した後、私は1990年2月の総選挙への不出馬を決め、政界を引退し
ました。この選挙のときに、各党党首の討論会のようなものが開かれ、その様子
を私はテレビで見ました。このとき、海部俊樹首相に「資本主義体制が勝ったん
だ」と言われた土井委員長が「体制の問題をここで持ち出すのはイカが墨を吐く
ようなものだ。いま、いちばん必要なのことは消費税の是非を問うことだ」と反
論し、会場でヤンヤの喝采を受けていました。当時の日本の有権者には土井さん
のセリフは受けたかもしれませんが、土井さんのセリフは、彼女にカイロスへの
胸をふるわすような感覚が全く欠如していた証拠でもあります。その後も、既存
の社会主義体制が民衆の力によって倒されたという問題をどう理解していいのか
わからないまま、社会党はきていると思います。

 私の考えでは、暦の上での世紀と歴史としての世紀は重なりながらズレており、
別のものであって、「戦争と革命の世紀」と言われた歴史としての20世紀は、
1914-18年(第一次世界大戦)と1917年(ロシア革命)のあたりに始まり、1945
年をひとつのピークにして、冷戦を経て、1989年(ベルリンの壁崩壊)、1990年
(東西ドイツ統一)、1991年(ソ連邦崩壊)の3年間で幕を閉じたのだと思いま
す。
  社会党は社会民主党と名を改め、社会党はかねてから社会民主主義の党であっ
たと強調されるようになりました。しかし、かつての社会党には社会民主主義を
蛇蝎の如く嫌う人々が存在したのも事実です。そのような事実を知る人びとの目
に現在の社民党はどのように映るでしょうか。

 一方で、日本には未だにキューバ、北朝鮮と世界中に社会主義の希望の星を求
めてさまよう人びとが存在します。こっちがだめなら、あっちというように希望
の星を求めて歩くのは、演歌の世界ならぬ"未練、慕情"の世界です。世界のどこ
かに理想の体制が存在するなどと考えるのは間違いです。社会の現実を無視して
イデオロギーを機械的に実現しようとして悲惨な結果を生んできたというのが20
世紀のわれわれの歴史です。歴史はイデオロギーにとって常につれないものです。
そのことを覚悟したうえで、私たちはイデオロギーに対峙していかなくてはな
りません。
   (河上民雄氏;元衆議院議員・元日本社会党国際局長・東海大学名誉教授)

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