~タイ南部で絶えぬ暴力の連鎖~

■ 宗教・民族から見た同時代世界
 

~タイ南部で絶えぬ暴力の連鎖~             荒木 重雄

  
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  仏教への信仰が篤い温和な人々が住む「微笑みの国」タイ。政変に流血が伴う
ことも少なくない事情からそのイメージはいささか色褪せているが、それでも比
較的穏やかなタイからときとして届く血腥いニュースは、マレー系イスラム教徒
の多い南部3県での紛争にかかわる事件である。

 たとえば、今年1月には、パッタニー県ガイー村で、葬儀に向かうため車で通
りかかった住民に軍関係者が銃を乱射して8人を殺傷。3月にはヤラー市とハジ
ャイ市の繁華街で、その報復とおぼしき連続爆発事件が起こって14人が死亡し
500人以上の負傷者がでた。

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  ◇◇ 南タイはイスラムの顔
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 インドシナ半島がぐっと海に腕をつきだした地峡部の、マレーシア国境に近い
パッタニー、ヤラー、ナラティワートの3県は、仏教国といわれるタイでイスラ
ム教徒が住民の大半を占める特異な地域である。タイのイスラム教徒の人口は5
%に満たないが、その8割がこの南タイ3県に住む。住民は、パッタニー・マレ
ーと呼ばれるマレー語を日常に用い、マスッジドと呼ばれるイスラム寺院が街の
佇まいをつくり、アザーンと呼ばれる、マスジッドのスピーカーから流れるコー
ランの詠唱が1日の時間を巡らせていく。

 この地域は、マレーシア側のクランタン、トレンガヌと併せて、かつて港市国
家として栄えたパタニ王国の版図であった。このことが内陸タイと大きく異なる
アイデンティティをこの地域の住民にもたせ、流血の分離独立運動にまでつなが
っているのだが、その背景を歴史に遡ってみよう。

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  ◇◇ アユタヤ朝の野望に抗して
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 プーケット島、サムイ島といえば、タイ屈指のビーチ・リゾートとして記憶さ
れる読者もおいでだろう。東の南シナ海と西のアンダマン海を分かつこの地峡帯
は、椰子とマングローブに彩られた風光明媚な地であり、エメラルド色の海が限
りなく広がる。

 この地勢から、この地域は古来、インドからの綿織物や銀、中国からの絹織物
や陶磁器、域内諸島からの香料や海産物、そして、それらの産物を運ぶ各地から
の船や人が往き来する南海貿易のセンターであった。

 この地域にマレー人のパタニ王国が成立したのは、14世紀後半である。この
頃、イスラム化したインドの影響を受けて、東南アジアの沿岸・島嶼部は急速に
イスラム化が進むが、パタニ王国もいちはやくイスラムを受け入れる。

 一方、東南アジアの内陸部で勃興したアユタヤ朝のタイは、マレー半島にも勢
力を伸ばしてパタニ王国を朝貢国に収めるが、国際交易拠点の利益を狙って一層
の支配強化を企むアユタヤ朝とパタニ王国は、幾度も戦うこととなる。

 当時、英、蘭など西欧列強が支配を強める17世紀まで、東南アジアでは、イ
ンドシナ半島に覇を唱えるアユタヤ朝と、マラッカ王国(後のジョホール王国)
を盟主と仰ぐ島嶼部のイスラム勢力が拮抗することとなるが、パタニ王国は丁度
そのせめぎ合いの接点に位置したのである。

 因みに、マラッカ王国が明朝の鄭和の大艦隊を東南アジア海域に迎え入れたの
は、アユタヤを牽制するためであり、鄭和をはじめ多くの中国人ムスリムがこの
艦隊を率いていた。もうひとつエピソードを重ねれば、山田長政が率いる日本人
部隊がアユタヤからリゴールに派遣されたのは、パタニ王国を征服するためであ
った。

 さて、幾度も争いながら、パタニ王国はよく耐えてスルタン支配を維持したが、
1789年、現タイ王朝のラーマ1世の遠征に敗れてついに服属を強いられる。
  19世紀後半には中央集権化がすすむタイ中央からの知事の派遣でムスリム・
アイデンティティの危機が深まるが、さらに1909年の泰英条約によってこの
地はタイ領と英領マラヤ(現マレーシア)領に分割されることとなった。

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  ◇◇ 国民統合強制の歪み
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 こうして仏教国に組み込まれた南部3県は、タイにとって国民統合上の問題と
なった。マレー・ムスリムを軽視しがちな中央政府派遣の仏教徒官吏やタイ語教
育の押しつけに反発した住民の間から、1950年代に入ると、パタニ統一解放
機構(PULO)、パタニ解放戦線(BNPP)、パタニ共和国革命戦線(BR
N)など自治や分離を求める組織がうまれ、武力衝突が生じるようになった。
  これに対する軍、警察の過酷な弾圧や横暴、不正行為、また一方、タイ人の移
住促進や華人系タイ人資本の進出による過剰開発などが問題をより複雑にし、対
立をエスカレートさせていった。

 とりわけ、タクシン政権が掃討作戦を強化した2004年には、軍、警察の武
器保管基地7カ所を武装勢力が襲撃した事件を皮切りに、人質を取ってモスクに
立てこもったイスラム教徒32名全員が当局に射殺されたクルセー・モスク事件
(4月)、イスラム教徒の逮捕に抗議するデモに軍、警察が発砲して7名を射殺、
さらに逮捕された1370名の住民が軍基地に移送される際、78名がトラック
の中で圧死したタク・バイ事件(10月)などが頻発した。

 南部3県には仏教徒も一定数暮らしていて、歴史的には仏教徒とイスラム教徒
は平和裏に共存してきたのだが、暴力の連鎖が長引くにつれて両教徒住民の間に
不信感が広がり、民族・宗教紛争の様相を濃くしていった。とりわけ、治安当局
が仏教徒住民を民兵に組織し供給した武器が出回るなかで、モスクで礼拝するイ
スラム教徒に何者かが銃を乱射する事件なども起こり、両教徒住民同士での暴力
の危険も高まっている。

 この紛争で、2004年から現在までの死者は5千人を超え、負傷者は1万人
に迫っている。前アピシット政権、現インラック政権とも武装勢力の一部と対話
を試みてはいるものの、和平に対する軍の反対などもあり、いまだに展望は開け
ていない。

 住民の大半は必ずしも政治的独立を望んでいるわけではなく、武装勢力を支持
しているわけでもない、マレー系イスラム教徒としてのアイデンティティの尊重
と、現在は中央政府任命の知事の住民による選挙やイスラム教徒の自治体職員へ
の採用など、一定の自治を求めているだけだとの声もあるが、一旦掛け違えたボ
タンを戻すのは至難なことである。

  (筆者は社会環境学会会長)

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