~バングラデシュ・チッタゴン丘陵先住民の苦難の日々~

■ 宗教・民族から見た同時代世界    荒木 重雄

~バングラデシュ・チッタゴン丘陵先住民の苦難の日々~

───────────────────────────────────

  バングラデシュとは文字通り「バングラ(ベンガル人の)デシュ(国)」であ
るが、同国の南東部に広がるチッタゴン丘陵地帯には約60万人の非ベンガル人少
数民族が、約13の民族に分かれて住んでいる。  
  彼らは、平野部を占めるアーリア系のイスラム教徒ベンガル人とは異なる、モ
ンゴロイド系の人々で、チベット・ビルマ語系統の言語を母語とし、宗教も、主
要民族のチャクマ、マルマなど、人口の約7割が仏教徒、他はヒンドゥー教徒、
キリスト教徒、一部に精霊崇拝である。


◇◇国内植民地にされて


 
彼らは古来、焼き畑農業を中心に部族長に統括された独自な社会を営んでい
て、この地域が17世紀にムガール帝国に併合され、19世紀に英国に割譲されて
も、伝統的な自治は保障されてきた。

 ところが、1947年、英領インドがインドとパキスタンに分離独立して、この地
域が東パキスタンに編入され、さらに71年、バングラデシュが独立するに及んで、
この地域の自治権は奪われ、住民の固有文化や人権を無視した中央政府の支配
と開発政策に晒されることとなった。

 パキスタン時代には、米国の援助による大規模なダム湖が建設されて主要な耕
作地が水底に沈められ、丘陵民人口の6分の1に当たる10万人が補償もなく土地
を追われた。しかも、生産された電力は地域住民の生活を利することなく他地域
の工業化や都市化のために送られていった。
  世界銀行の援助ですすめられた製紙工場などの開発も、ことごとく、住民が生
活のすべてを依存する丘陵の土地と資源を収奪する、住民には否定的な影響を及
ぼす開発であった。


◇◇仏教徒たちの受難


 
内戦の末、東パキスタンがバングラデシュとしてパキスタンから独立すると、
内戦中、丘陵民支配層の一部がパキスタンを支持したこともあって、自治権の回
復を要求するこの地域が敵性地域と見做され、軍事的な支配が強化されるととも
に、さらなる土地と資源の収奪と住民文化の破壊行為がすすめられた。

 この状況に対し、先住民族側は、72年、自らの政党(PCJSSチッタゴン丘陵民
族統一党)を結成し、翌年にはシャンティ・バヒニ(平和軍)を編成して、ゲリ
ラ戦による武力抵抗に踏み切った。
  バングラデシュ政府は、圧倒的な軍事力でこれに対抗すると同時に、平野部か
ら貧しいベンガル人を大量に入植させ、84年までには入植者人口が先住民人口を
上回るまでになった。

 土地に支度金、建築資材が供与され食糧も配給される、という有利な条件で入
植したベンガル人農民たちであったが、紛争の激化や耕作の失敗から、田畑を捨
てて、軍に警護された集団村に移り住む者が増えた。
  期待を裏切られた入植者たちは、憤懣を先住民にぶつけ、軍の支援のもと、丘
陵民集落をしばしば襲撃した。そのたびに数百人の丘陵民が殺害され、財産が略
奪され、村に火が放たれた。入植者たちはまた、仏教僧への暴行や寺院の破壊、
冒涜も繰り返した。
  多くの先住民が域内あるいは隣国インドに逃れ、その土地はベンガル人入植者
によって不法占拠された。

 こうして、1997年に丘陵民の政党とバングラデシュ政府との間で和平協定が結
ばれるまで、丘陵民の約3万人が殺害され、12万世帯が土地を奪われ、6万人が
難民としてインドに逃れたと推定されている。

 和平協定は、先住民ゲリラの武装解除と引き換えに、難民の安全な帰還、先住
民の土地の返還、軍の撤退などを謳っているが、完全実施からはほど遠く、非常
事態宣言下、軍や入植者による住民への人権侵害など、緊張はいまだに続いてい
る。

 さらに丘陵民の間に、平和協定を締結した政党(PCJSS)とそれを不服とし完
全自治をめざす新党(UPDF人民民主統一戦線)との対立がうまれ、互いの活動家
の誘拐・殺害など報復合戦が繰り返されている。


◇◇仏教徒側にも問題が


 
チッタゴン丘陵先住民の仏教はビルマとの関係が深い上座部仏教で、僧侶は人
々から尊敬されているが、紛争に対しては距離を置き、沈黙を守っている者が多
い。
  しかし何人かの僧侶は、紛争孤児など身寄りのない子どもたちを預かって教育
を受けさせるNGOを運営している。

 これらのNGOの殆どは、海外から資金援助を受けて運営されている。筆者は
数年前、日本のある団体から、それが援助しているNGOの視察を依頼されて訪
れたことがある。

 そこは、丘陵地も外れのベンガル人が多く住む地域に設けられた施設で、数十
人の孤児を養育しているのだが、疑問に感じたのは、ただ食と住を与えて村の学
校に通わせているだけで、子どもたちの将来を見定めた活動がなにもなされてい
ないことであった。数名の僧侶に監督されているが、広大な土地を持ちながら、
僧侶は宗教上の理由から働いてはならぬものと、不毛のまま放置され、カナダや
ドイツから援助された職業訓練用の何十台ものミシンや工作機械も埃をかぶった
ままであった。
  いわば、海外のドナーから資金を得るためにだけ子どもたちを置いている感で
あった。

 さらに気になったのは、電線も引かれていない夜は漆黒そのものの村で、その
施設だけが、援助で得た自家発電機を回して一晩中、不夜城のような光を放って
いることであった。それはまるで周囲の貧しいベンガル人への挑発のようにさえ
見えた。
  長い紛争のゆえか歪んだ歴史のゆえか、仏教徒先住民とイスラム教徒入植者の
あまりにも越えがたい断絶が、そこには象徴されているかのようであった。

 ところで、チッタゴン丘陵の最近の政治・社会状況であるが、一昨年末の総選
挙で97年の和平協定締結時の与党・アワミ連盟が政権に復帰したことから、駐留
軍の一部撤退など、協定合意事項が徐々にではあるが動き出している。行方を見
守りたいところである。

          (筆者は社会環境フオーラム21代表)

                                                    目次へ