~翻訳の限界(続)~

■臆子妄論 西村  徹

~翻訳の限界(続)~
―ふたたび市井訳ラッセル『西洋哲学史』について


◇◇予定説


 キリスト教の思想に「予定説」というのがある。キリスト教理解にいくつか困
難があるが、多かれ少なかれ悉皆仏性とか悪人正機説とかいう考え方に馴染んで
いる日本人にとって、これほど理解に困難なものはない。因果応報などともいわ
れるから閻魔の庁で悪人が断罪されて地獄に落ち善人は極楽に行くというなら、
昔のはなしとして、まだわかる。予定説はそんな生易しいものではない。
  「聖アウグスティヌスは神が選ばれたる者と見捨てられたる者にわけたのは、
ひとびとの功罪によってではなく、そのわけかたは任意であると主張する。すべ
ての人間は永劫処罰に値するのであり、したがって見捨てられたる者にも、不平
をいう根拠はないという」(バートランド・ラッセル『西洋哲学史』(市井三郎
訳) 2の358ページ)。「わけかたは任意」すなわち気まぐれによるのである。
神もホトケもないならともかく、それでも神サマはちゃんといるのだから、すご
い。
  なにしろ人類最初の先祖、すなわちアダムとエバが罪をおかしたので自然死と
ともに永劫処罰がわれわれの上にもたらされたのだそうだ。先祖の祟りというの
だから我々日本人にもまんざらわからないではない。「親の因果が子に報い」な
どといわれた。裏返して今も「親の七光り」は日本の政界で赫奕としてる。それ
ならそれで筋は一応立つとして、また原罪は思想として理解できるとして、性に
ついての禁忌のあまりない日本人の、その先祖までもがアダムとエバだといわれ
ると、いささかしらける。
  なにしろ聖アウグスティヌスは4世紀の終わりから5世紀初めの古い人である。
古いのだから言うことが古くてもしかたがない。今どきのキリスト教はもっとア
ップデートしているだろうが、一応以上のことを踏まえないと、いきなり次のよ
うな文章を読んでも面食らうから前置きした。


◇◇神の惑い


 同書357~358ページにかけてラッセルは聖アウグスティヌスの『神の国』から
、その予定説を紹介している。聖アウグスティヌスは「テサロニケ人への後の書
第2 章11、12節「神は彼らが虚偽(いつわり)を信ぜんために、惑(まどい)を
その中(うち)に働かせ給う。これ真理(まこと)を信ぜず、不義を喜ぶ者の、
みな審(さば)かれんためなり」をとり上げていて、それを踏まえて聖アウグス
ティヌスはつぎのように言う。

 ★「断罪される彼らは惑わされ、惑わされる彼らは断罪されるのだ。しかし彼
らの惑いは、神の秘められた判断によるのであり、その判断は公正にも秘められ
たものであり、また秘(ひそ)やかに正しきものなのである。それは神の惑いさ
えも、世界が始まってこのかた、間断なく審いてきたのである」

 予定説には「原罪」と神の「任意」という点に面食らうが、その他の点では驚
かない。まあそんなものだろうと思う。クルマはネズミ捕りに引っかかったから
悪いのであって悪いから引っかかるわけではない。大量破壊兵器はなくても先制
攻撃されるし、あっても先制攻撃されるわけでない。「任意」にしても神の存在
を前提にするから面食らうだけで、その前提がなければ、「任意」も格別問うに
あたらない。
 
甘ったれた気持ちさえなければそれはそれでいいわけだ。それを神の口から言
わせるところが、じつはキリスト教のすごさかもしれない。「神の見えざる手」
などという便利重宝なのもあるらしい。さればこその救い主なのかもしれない。
歴史の一回性、そしてすべて重々無尽の縁起の内にあるということから、私もま
た決定論者であると自認している。「縛られつつ自由であり、自由でありつつ縛
られている」陽気な悲観論者を自認している。
  容貌、体格、頭脳など、めぐまれたる人(the well-favoured)、めぐまれざる
人(the ill- favoured)は遺伝子によって予め定められている。現実の不条理に
帳尻を合わせようとして誰がどんなことを言おうと変わらない。そうでなければ
「自同律の不快」などという必要はない。現実認識として、不快だけれど予定説
は正しい。哲学・学とは無縁の庶民の現実感覚から、ごく浅いところでそんなも
のだろうと勝手に考えている。それだけであって、それ以上を言う資格も算段も
私にはない。


◇◇翻訳者の惑い


 ★をつけた翻訳文について一言述べたいだけである。3行目に「それは神の惑
いさえも、世界が始まってこのかた、間断なく審いてきたのである」とある。こ
の文章は難しい。捉えどころがない。まず主語が見えない。誰が「間断なく審い
てきた」のか。「それは」であろうか。では「それは」とはなんであろうか。そ
れとも、これは単なる文を導く接続詞のようなもので、「神の惑い」が主語であ
ろうか。それにしても「神の惑い」とはなんであろうか。神は人を惑わせるだけ
でなくて神自身も惑うのであろうか。それが任意ということだろうか。それなら
ばずいぶん人間臭い神で、そういう酔っ払いみたいな神さまならちょっと付き合
ってもよさそうだ、などと、なにがなんだかわからなくなる。原文を見ることに
する。

Being condemned, they are seduced, and, being seduced, condemned. But th
is seducement is by the secret judgement of God, justly secret, and secr
etly just; even His that hath judged continually, ever since the world b
egan.(pp 362)

 この英文に私は圧倒される。なんとよく緊まって雄勁な結構の第一行であろう
か。直訳ならばBeing judgedとあるべきところ、踏み込んでBeing condemnedを
採ったことの効果は大きい。judgedと一音節でなくcondemnedと二音節になって
重く暗く、雷鳴の轟くようにおどろおどろしく始まって、なにものかが両翼を宇
宙大にひろげたかたちになる。第二行のjustly secret, and secretly justも荘
重沈痛に照応する。最後はever since the world beganと大きく意訳して、さな
がらオルガンの鳴りわたるかのように閉じられる。オルガンの響きを聞いたのは
、あるいはドライデンのA Song for St. Cecilia's Day「聖チェチーリアの日の
ための頌歌」第一節冒頭の記憶がどこかにあってbeganが発光して感応したのか
もしれない。それは

     From harmony, from heavenly harmony
    This universal frame began

というもので、一節15行中11行目にふたたび現れる。ヘンデル作曲のカンタータ
では最初にテノールのレチタティーヴォで、再現時はコーラスで歌われる。オル
ガンの響きを言葉の響きに移して伝えるジョン・ドライデンの職人芸は、音読す
るまでもなくおわかりいただけよう。

 市井氏の訳も名訳ではあるが、この英文を見ると文章の位があまりに高いので
意味はもう二の次という気持ちにすらなる。漢訳の経文なら「堕罪即惑 惑即堕
罪」というところか、などとあらぬことを思う。それなら「煩悩即菩提」で反転
も、などと能天気なことも思わぬではないが、いまカネの亡者になりはてて、ま
すます欲望を募らせているヒルズ族たちの、意識の底に隠された荒涼たる内面を
焙りだしているようにも見えてくる。


◇◇市井訳の吟味


 さて正気にかえって翻訳の吟味に戻る。「神の惑いさえも」とあるのは三行目
even Hisのことだろう。たいてい副詞evenは「~さえ」とか「~すら」ですませ
る。しかしidentityを強調する「実に」「まさに」「ほかならぬ」という意味の
使い方もある。even Hisの前にあるセミコロンはthe secret judgement of God
を先行詞とする関係代名詞(継続用法)のようにはたらいて(あるいは同格と考
えたほうが手っ取り早いが)、「それこそが、世界が始まってこのかた、間断な
く審いてきた、まさに神の審きそのもの」ということだろう。
  evenを取り違えた上に、先立つ「テサロニケ後書」文語訳(ラッセルが欽定訳
を引いているからこれは当然だ)の中の「惑(まどい)」がキーワードのように
はたらいて訳者を惑わせたのでもあろうか。これは誤訳というよりは、分からず
じまいで呂律がまわらなくなってしまったものらしい。またjudgementを「判断
」などとせず、あとのjudgeに揃えて「審き」あるいは「審判」とすればよかっ
たろうと思う。ラテン語原文では「断罪」(condemn)をもふくめて、すべてiudic
areで一貫している。
  ついでに重箱の角をほじればcontinuallyを「間断なく」としているが、訳者
は「間断なく」という言葉が気に入っているようで、他の場所でも使ってもいる
が、どちらかといえば、(終わることなく)「断続的に」「くり返し」(不連続
の連続)がよいだろう。「間断なく」「切れ目なく」はcontinuously の場合に
、より相応しいだろう。
  さらに小うるさいことを言うと「世界が始まってこのかた」はラテン語原文で
は「人祖が最初に罪をおかして以来」となっていて、あきらかに創世記を踏まえ
ているのでもあり、world は今日われわれ日本人がイメージする「世界」とはち
がう。今日「世界」というと、キナ臭いかカネ臭いばかりで宗教上の意味合いは
ない。元フランス大統領シラクによればブッシュは「世界」を知らないが、硫黄
の臭いがするほど十分にworldlyである。ただ「世界」というより「人の世」「
この世」あるいは「現世」とするなど、一工夫あってもよかったのではないかと
思う。


◇◇付録的に


 酔狂にも思われようが、最後に参考のためラテン語原文とその逐語訳英文を掲
げる。

Proinde iudicati seducentur et seducti iudicabuntur. Sed iudicati seduce
ntur illis iudiciis Dei occulte iustis, iuste occultis, quibus ab initio
peccati rationalis creaturae numquam iudicare cessauit;

 私のラテン語力は漢文を当てずっぽうに読む程度にも届かない。しかし、ちょ
うど漢文に返り点送り仮名をつけたのとおなじくらいに分かりやすい英語の逐語
訳があるので掲げる。逐一対照すれば誰にもよく分かると思う。
Therefore, being judged, they shall be seduced, and, being seduced, they
shall be judged. But, being judged, they shall be seduced by those secr
etly just and justly secret judgments of God, with which He has never ce
ased to judge since the first sin of the rational creatures; (St.Augusti
ne; The City of God. Book XX Chapter 19, translated by Marcus Dods)

 ラッセルの引用しているものは現代の学者による忠実な逐語訳ではない。奔放
闊達な自由訳である。あらためてその異同を明らかにする必要はもはやなかろう
。文語訳聖書がすでに日本の文学として定着しているように、これもまた文学と
して捨てがたい。捨てがたいどころか古典的な名文である。

 翻訳は機械的な忠実度、正確度だけでは計れない。原文が楽譜だとすれば翻訳
はその演奏であるという側面もある。演奏だから毀誉褒貶はありうる。評価はし
ばしば分かれる。このラッセル引用の聖アウグスティヌス翻訳の独自性を学問の
次元でなく文学の次元で私は高く評価する。


◇【むすび】
・・・出版されて半世紀にもおよぶ市井翻訳について、今どきこんな
ことを言っても毒にもクスリにもならないことではある。年寄りの暇つぶしにす
ぎないことは承知している。楽しませてもらったことを謝すれば私として足りる
。しかし、この本は時節柄のキワモノではない。不発に終わってあえなく消えた
泡沫本でもない。古本にせよなににせよ今もなかなか持続して読まれているらし
い。推薦図書にしている大学もある。ラッセルについてのにぎやかなページも立
っている。市井氏の功績は大きい。その偉業を継承する意味からも、仮に新刷な
どされているのであれば、読者側からの情報を適宜フィードバックする手立てが
講じられると、どんなにか新しい読者を利することだろうと思う。翻訳一般につ
いてそう思う。それはすこしも元祖翻訳者の名誉をそこなうものではないはずで
ある。
               (筆者は堺市在住)

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