~自らを語る~

■ 【河上民雄20世紀の回想】(最終回)

自らを語る                  河上 民雄

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 本稿は2010年11月17日に実施された河上民雄氏(元衆議院議員・元日本社会党
国際局長)へのインタビューを岡田一郎が再構成したものである。11月17日のイ
ンタビューには浜谷惇氏・加藤宣幸氏・木下真志氏および岡田が参加した。

◇質問:1年にわたって、河上先生のインタビューを続けてまいりましたが、最
後に河上先生に、自らの人生を語っていただき、このシリーズを終えたいと思っ
ております。

●河上:まず始めに、2010年という年に、「オルタ」とこのインタビューに係わ
って頂いた方々に感謝を申し上げたい。
  今、振り返ってみると、私の人生は黒子役に徹した人生であったという思いに
かられます。たとえば、私が社会党内でおこなった主な仕事を挙げてみると、右
社の統一綱領の草案作成(第1回参照)・父である河上丈太郎のゴーストライタ
ーや委員長辞任のお膳立て(第6回参照)・江田訪米団のセッティング(第3回参
照)など、どれも私は表に出ることなく、黒子に徹しております。

◇質問:社会党において先生がなさった仕事の中で他に思い入れの深い仕事がご
ざいますか。

●河上:1983年1月先方から招きもあって、夫婦で党本部書記の瀬尾忠博氏を伴
って北京を訪問した際、中国共産党と日本社会党との正式の党と党との関係樹立
を中連部長の喬石氏と合意したことです。喬石氏はのちに党政治局常務委員にな
ります。両党の合意書の署名式はのちの八木国際局長と曽我副書記長にして頂い
ています。いまの民主党は中国共産党の中連部との関係を持っていないようで、
そのことが菅内閣にとって日中間のトラブルを治める上で妨げの一つなっている
ように思われます。
 
  この両党関係を背景に1984年、党の外郭組織のような形で日中文化技術協力委
員会(河上が会長)を立ち上げ、当時共青団主席だった胡錦濤氏と私の間で協定
書に署名し、中国の共青団推薦の技術研究生を毎年20名前後、日本の大企業で研
修させるプログラムを始め、4年間で80名余の研修生を迎えました。残念ながら1
989年の6月の天安門事件で中断します。

 1983年にはもう一つ、私が国際局長を辞めたあと、党の理論センター事務局長
になって「新しい社会の創造」という文書をまとめたことがあります。私はその
序論の中に「既存の社会主義は重大な行き詰まりをむかえている」という文言を
いれました。まだ、社会党内で親ソ派の発言力が強かったころで、社会主義協会
の錚々たるメンバーも討論に加わっていましたが、同意してくれ、社会党の文書
の文言としては異例の内容でした。

 しかし、それから6年後、東欧革命が起き、さらに2年後にはソ連が崩壊し、ソ
連型社会主義はその役割を終えます。今、思えば、「新しい社会の創造」は後の
東欧革命を予見していたものでした。社会党自身は1986年にいわゆる「新宣言」
を採択して、西欧型社会民主主義の党への脱皮をはかりますが、「新宣言」は東
欧革命後の国際情勢に対応できる内容ではありませんでした。社会党が西欧型社
会民主主義の党へと脱皮できなかったことはつくづく残念であったと言わざるを
得ません。

◇質問:河上先生は様々な国々との交流に尽力され、このシリーズでも様々なエ
ピソードをうかがっておりますが、先生が印象に残っており、なおかつまだお話
しになられていないエピソードがあれば、お話しください。

●河上:私の外交活動を振り返ってみても、黒子役に徹することが多かったとい
う印象を持っております。私にとって最も印象に残っている外交活動と言えば、
以前お話しした(第2回参照)、1980年マドリッドの社会主義インターの大会で
議長のブラント氏(西ドイツ元首相)に「金大中を殺してはならない」(大会場
に配布されていた演説原稿にはなかった言葉でしたが)と演説させたことです。

 大会の前夜の幹事会で、私は日本社会党の代表としてブラント議長の総括的報
告の中の人権問題の項に金大中の名を入れねば、その死刑執行は阻止できぬと主
張し、日本の民社党の代表はそこまで踏み込むと内政干渉になると反論し、激論
になったことを西ドイツ社民党のディンゲルス氏がブラント議長に報告し、それ
を受けてブラント議長が決断した結果でした。これによって、韓国政府は金大中
氏を死刑にすることが出来なくなり、金大中氏はアメリカへの出国を条件に釈放
されます。

 やがて、韓国で民主化がすすむと、彼は韓国政界に復帰し、1997年には韓国大
統領に就任します。ブラント氏の演説が金大中氏の死刑回避につながり、それに
よって彼は政治的にも復活を遂げることができたわけです。
 
  私が黒子としての役割を果たした外交活動として、他に日本社会党と朝鮮労働
党が発表した「日本社会党と朝鮮労働党の東北アジアにおける非核・平和地帯創
設に関する共同宣言」(1981年)の作成があります。

 これは、1978年11月、カナダ・バンクーバーで開かれた社会主インター大会
で、日本社会党・オーストラリア労働党・ニュージーランド労働党の3党がアジ
ア太平洋地域に非核地帯をつくるという合意をおこなったことに共感した朝鮮労
働党が同じ趣旨のものを、日本社会党と朝鮮労働党の間でも結びたいと申し出て
きたので、作成されることになった文書でした。

 1981年3月、飛鳥田訪朝団の一員として訪朝した私は、飛鳥田委員長の指示で
船橋成幸氏・大塚俊雄氏とともに共同宣言の起草にあたることになりました。朝
鮮労働党は金永南氏・玄峻極氏を起草委員に指名してきました。
 
  実は訪朝前に党の代表団会議でわが党の共同宣言案の骨子が承認されました
が、そのとき団員の一人、朝鮮総連側の意向に通じていた米田東吾氏から「こん
なもの決めたって、向こうに行ったらどうなるかわからない」と捨て台詞のよう
な発言もありました。現地での両党の全体会議に臨む前に骨子に基づく草案を代
表団会議で配布して諒承を求め、それを持って、朝鮮労働党との起草委員の会議
に臨みました。

 すると、朝鮮労働党側も案を既に作成しており、日本語でタイプした紙まで用
意していました。しかし、その内容は「偉大なる金日成主席が」で始まるもので
非核地帯に集中した簡潔で、両党にとどまらずアジア太平洋、ひいては世界に
訴えるとした社会党案とは全く異なり、両党の議論は平行線をたどり、一晩休ん
で、翌朝、再び議論をすることになりました。

 翌朝、会議が始まると、前夜の会議に出てこなかった金永南氏は「我々はかね
てからこの案を用意しておりました」と言って、日本語に訳された案文が手書き
で書いてある紙を示してきました。よく見ると、私たちが前日に主張していた内
容に、北朝鮮側の政治主張を加えたものでした。私は「先生の案で結構です、こ
れを土台にして、今日は討議を進めましょう」と即答しました。

 このとき、金永南氏がほっとした表情を見せたのを今でも覚えています。一
方、私はわずか一晩で金日成氏に案文の差し替えを認めさせた金永南氏は、金日
成氏にかなり信頼されているという印象を持ちました。後に金永南氏は金正日政
権の下でも金正日氏に次ぐ政権No.2の地位に就くことになります。
 
  共同宣言の最終案で問題となったのが、非核地帯構想の適用範囲でした。私ど
もの案では「日本及び朝鮮、その周辺」となっていましたが、朝鮮労働党側の案
では「朝鮮と日本及びその領土・領海・領空」となっていました。そこで私が「
核実験は領土・領海・領空に限られるものではなく、公海上でもおこなわれるで
はないか」と意見を出すと、金永南氏が暫く黙考してから「朝鮮と日本及び周辺
海域」という案を出してきてそれに落ち着いた経緯があります。
 
  私が黒子に徹せず表に出た活動としては、反アパルトヘイト議員連盟の創設が
挙げられます。1987年、インドのニューデリーで反アパルトヘイト国会議員世界
大会が開かれ、各国で反アパルトヘイト議員連盟を創設することが決議されまし
た。この大会に社会党を代表として出席した私は早速、日本でも議員連盟をつく
ろうと国会議員の方々に働きかけましたが、自民党の議員からはなかなか色よい
返事はもらえませんでした。

 当時、日本の商社は南アフリカと莫大な取引をしており、そうした商社の反発
を自民党の国会議員は怖れたのです。そこをなんとか説得して、1989年に反アパ
ルトヘイト議員連盟を創設することができたのですが、自民党の議員はその会長
をつとめるのを嫌がり、私が会長をつとめることになりました。当時は、議員連
盟を創設する場合、会長は自民党から、事務局長は社会党から選出することが慣
行になっていましたから、社会党の代議士である私が議員連盟の会長に選出され
たのはきわめて異例でした。

 さて、会長を社会党から出したので、事務局長は自民党から出すことになった
のですが、なかなか引き受け手が見つかりませんでした。ようやく引き受けてく
れたのが、大鷹淑子参議院議員です。大鷹氏はご存じのように戦時中は日本人で
あるにもかかわらず、中国人スター・李香蘭として活動したため、第2次世界大
戦が終わると、日本の中国侵略に協力した裏切り者として逮捕され、何とか日本
人であることを証明して帰国できたという過酷な経験の持ち主でした。
 
  反アパルトヘイト議員連盟が創設されてからしばらくして、南アフリカ政府は
アパルトヘイト政策の廃止を宣言しました(1991年)。世界各国がアパルトヘイ
ト政策を廃止させるため、南アフリカに経済制裁を科していたころ、日本は逆に
南アフリカとの貿易を増やして、世界中から非難されていました。

 アパルトヘイト政策が廃止される前に反アパルトヘイト議員連盟を立ち上げて
いなければ、日本は世界中から軽蔑されていたことでしょう。ぎりぎりでしたが
反アパルトヘイト議員連盟を立ち上げて、本当に良かったと思っています。
 
  なお、1969年9月の第2回日米民間人会議(下田会議)に出席した際、当時は全
く無名だったラムズフェルド氏を主催事務局長の山本正氏から紹介され、二人だ
けでコーヒーブレークの間じっくり話すことができました。私は、同氏の一言か
ら、ニクソン大統領は米中接近に近く踏み切ると直観し、1971年7月キッシンジ
ャー特使が北京入りするまで、「米中接近近し」と叫び続けたが、社会党内はも
とより日本社会全体の目を覚ますことはできませんでした。

 同じことは1989年の東欧奔流の時にも経験しました。警鐘は早すぎても世に認
められないのは予言者の宿命だと思います。

◇質問:先生が取り組んだお仕事で、党務・外交以外の分野で印象に残っている
ものはございますか。

●河上:やはり、もっとも印象に残っているのが、靖国神社国家護持法案への取
り組みです。戦後、神社は国家の管理下をはなれ、靖国神社も一宗教団体となり
ましたが、私が衆議院議員に初当選(1967年)する前後から、遺族会を中心に靖
国神社を国家管理に移そうという動きが起こっていました。そして、1969年につ
いに靖国神社国家護持法案が国会に提出されました。

 私は祖父の代からクリスチャンの家に生まれたため、旧制第一東京市立中学校
(後の都立九段高校、現在は千代田区立九段中等教育学校)に通うたびに、学校
に隣接している靖国神社の大鳥居の前で頭を下げるべきかそのまま通り過ぎるべ
きか悩んだり、校長先生自ら倫理の時間に「天皇とキリストはどちらが偉いと思
うか」と尋ねてきて返答に苦労したりと、信教の自由が制限されることがどれだ
け苦しいことかを知っています。

 ですから、一人の人間としてこの法案には反対しなければならないと決意し、
反対運動の先頭に立ちました。そのためでしょうか、その年の12月に実施された
総選挙で私は覚悟していたように落選してしまいます。私が靖国法案の反対運動
の先頭に立ち、ことあるごとに靖国問題に関する見解をテレビ、新聞で述べたこ
とで遺族会の方々の反発を招いたことが落選の一因であったと思います。靖国法
案は合わせて5回提出されましたが、結局は世論の反発が強く、すべて廃案とな
りました。

 他に私が落選中に係わったのが種谷牧師事件です。1970年、学園紛争に参加し
て警察に追われた高校生2名が尼崎教会に逃げ込みました。尼崎教会の種谷俊一
牧師は2人が警察に追われていることを知りながらかくまい、2人を説得して、警
察に出頭させました。ところが、警察は種谷牧師の行為は「犯人蔵匿罪」にあた
るとして、種谷牧師を逮捕してしまいました。

 当時はベトナム戦争が戦われていた時期であり、ベトナム戦争への従軍を嫌う
アメリカ兵を脱走させる運動が盛んでした。警察は尼崎教会をその運動の拠点の
一つとして見なして、運動をつぶすためにあえて種谷牧師を逮捕したとみる向き
もありました。私は種谷牧師の逮捕は日本国憲法第20条が保障する「信教の自由」
を侵害するものとして、種谷牧師裁判を支援する会の代表世話人となり、裁判
では特別弁護人として約5年間闘いました。

 裁判では種谷牧師は判決で無罪とされ、キリスト教の牧師には、信徒の魂に配
慮するのが本来の務めとされ、日本の法体系で初めて「牧会権(ぼくかいけ
ん)」が法的に認められました。この裁判の判決は今でも『判例六法』の日本国
憲法第20条の項に判例として掲載されています。

◇質問:先生はアメリカ留学時代にJ・F・ケネディ大統領の特別補佐官をつとめ
た、セオドア・ソレンセン氏の、『ホワイトハウスの政策決定の過程』を翻訳さ
れています。先生とソレンセン氏の人生には似た点も多いというか、その点をお
うかがいして、インタビューを終わりにしたいと思います。

●河上:『ホワイトハウスの政策決定の過程』はソレンセン氏がコロンビア大学
で講演した内容をまとめたものであり、J・F・ケネディ大統領の存命中に、ケネ
ディ大統領について書かれた唯一の本です。
 
  ケネディ暗殺後、いわゆるケネディ本がどっと出て、ソレンセン氏自身も『ケ
ネディ』という大著を書いていますが、ソレンセン氏が大統領の暗殺前に世に問
うたこの名著の存在は埋もれてしまいますが、ソレンセン氏がケネディ大統領に
最も大きな影響力を与え、とくにキューバ危機への対応など政権の重要な決定に
彼が深く関与していたことは疑うべくもありません。

 ソレンセン氏は晩年、Counselor: A Life at the Edge of History (2008)と
いう回想録を著しましたが、それによると、ケネディ大統領がピューリツァー賞
を受賞した『勇気ある人々』や「国家があなたのために何をするかではなく、あ
なたが国家のために何ができるかを問いたまえ」といったケネディ大統領就任演
説などの数々の名演説は全て、ソレンセン氏が執筆したものであったということ
です。
 
  このように、ソレンセン氏の人生は黒子に徹し、それによって最も効果をあげ
た人生でした。私の人生もまた父のゴーストライターをつとめるなど黒子に徹し
た人生であったといえます。ソレンセン氏ほどの実績を残すことが出来たのかど
うかはわかりませんが、ソレンセン氏の生きざまには私と似たものを感じます。
彼は私より少し若いのですが今年亡くなりました。

 最後になりますが、私の人生は戦争中の青年時代に始まり、私が言う「歴史と
しての20世紀」を通じて考え方や発言に殆どブレがないことが、我ながら不思議
であり、厳粛な気持ちにさえなります。
 
  その反面、私の著書で述べたことが意図的に曲げて世に流されたり、また私の
国際局長時代、自身の選挙で選挙区に縛られているとき、私の考えとは全く異な
る論文が、党の出版物で私には相談なく、私の名で発表されたことを選挙後に知
り、大変嫌な思いをしました。しかし暦が21世紀に入った今日考えると、いずれ
も大河に浮かぶ浮遊物のように流れていくのではないかと、思い返しています。
 
  論語の開巻第1章に「人不知。而不慍。不亦君子乎。」(人が自分をわかって
くれないこともありますが、それでも腹を立てることはありません。これが君子
ではありませんか。――陳舜臣「論語抄」より――)とあります。この心境に達
するのは容易ではありませんが、この言葉だけは覚えておきたいと思います。 
            
           (元衆議院議員・東海大学名誉教授)
              

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