尖閣諸島をめぐる国会答弁の変遷

――1970年以前は尖閣の領有権を主張せず――

                       苫米地 真理

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はじめに
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 本稿は、筆者が2014年1月に法政大学大学院公共政策研究科に提出した修士論文「領土政策に関する政府見解の変遷――尖閣諸島をめぐる国会答弁を中心に――」の要約である。尖閣諸島に関する国会答弁を中心とした政府見解の変遷を検証し、その上で、尖閣諸島をめぐる問題を解決し、安定した日中関係を構築することを目的とした公共政策の史的研究である。

 外務省のホームページにある「尖閣諸島についての基本見解」では、「尖閣諸島が日本固有の領土であることは,歴史的にも国際法上も疑いのないところであり,現にわが国はこれを有効に支配しています。したがって,尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません *1」と謳われている。これを見れば、明治政府が1895年に尖閣諸島を日本に編入して以来、120年間一貫して日本政府がそのように主張していたものと考えがちである。しかし、筆者は、国会会議録を精査し、日本政府が尖閣諸島の領有権を明言したのは1970年になってからであること、さらに、1895年の閣議決定の根拠を「国際法上の先占の法理」と表明したのは1972年になってからであることを提示した。

 また、民主党政権による尖閣諸島問題に関する対応についての批判として、菅直人内閣が「領有権の問題はそもそも存在しない」と質問主意書への答弁書を閣議決定したことや、前原誠司外相が「棚上げ」を否定する国会答弁を行ったことが問題視された。しかし、1975年から「棚上げ合意はない」、1985年から「領有権問題は存在しない」というのが、日本政府の公式見解であり、民主党政権が政府見解を変更したわけではないことも明らかにした。

 では、2009年以前の自民党政権下における外交実務上の対応は、いかなるものであったのか。2004年に発生した中国人活動家7人による尖閣上陸事件への小泉内閣の対応をみるに、実際には「棚上げ」方式に基づいて実務対応をしていたと考えられる。上陸した彼らは逮捕されたものの、起訴されることなく、強制送還という形で中国へ戻ったのである。

 1972年9月の日中国交正常化交渉に参加し、「日中共同声明」草案を作成した当時の外務省条約課長であった栗山尚一(後に外務事務次官、駐米大使)は、「尖閣問題は『棚上げ』するとの暗黙の了解が首脳レベルで成立したと理解している *2」と述べている。

 一方、2010年に発生した漁船衝突事件における菅内閣は、逮捕した漁船の船長の拘留期限を延長し、起訴する構えを見せた。それまでの「暗黙の了解」である「棚上げ」に基づいて行ってきた実務対応を、表面上の公式見解である「領有権問題も棚上げも存在しない」に合わせて実施してしまったのではないか。自民党政権は、公式見解と現実対応を使い分け、決定的な対立を回避してきたが、民主党政権は、公式見解に合わせた現実対応を行った。それにより、政府見解は変更していないにもかかわらず、中国側に「これまでの“暗黙の了解”を変更するのではないか」との疑心を抱かせ、解決を困難にしてしまったのではないか。

 2012年の野田内閣による尖閣「国有化」以降、中国は公船を日本の領海内に侵入させ、中国による尖閣諸島の実効支配も視野に入れた行動が目立っている。この状況下において、自国に有利な事実のみを根拠に主張し、「自らの弱点には頬被りをし、もっぱら相手の弱点をあげつらう *3」ような論争を続けていては、不測事態が生じることを未然に防ぐことが困難になるだろう。このような問題意識から、日本にとって不利になるであろう事実もふまえた上で、どのように解決すべきかを提起した。

 結論としては、短期的には「新たな棚上げ論」によって現状を凍結し、海上事故防止協定の締結等、不測事態を回避するための交渉を進め、エネルギー資源については共同開発を提起した。長期的には、紛争解決論の視点をふまえ、様々な選択肢から何らかの方法で国境を画定し、安定した日中関係の構築を目指すものである。

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1950年代、島名すら答えられない日本政府
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 日本の国会における尖閣諸島に関係する最初の言及は、1954年2月15日の参議院水産委員会における水産庁の立川宗保漁政部長による発言である。これは、鹿児島県串木野の漁業協同組合長から水産委員長宛ての陳情――九日より実施されたヘルイ軍演習海域は当地遠洋漁業者にとつては唯一の漁場であり、演習海域の変更を関係要路に折衝願いたいという内容――に対する政府の以下の説明である。「ヘルイ演習場と申しますのは、私どもどこかはつきりわかりませんが、想像いたしますのに、漁釣島だろうと思います。魚釣島でありますならば、これは実はいわば琉球政府の所管と言いますか、琉球附近の島嶼の演習場でありまして……」。この答弁は、村田忠禧・横浜国大名誉教授が『尖閣列島・魚釣島問題をどうみるか』(日本僑報社、2004年)で引用したことからよく散見されるが、「漁釣島」という島名は存在しないので、「魚釣島」を言い間違えたと推測され、当時の日本政府の尖閣諸島に対する関心の低さを表す答弁であるといえよう。

 立川に次ぐ尖閣諸島に関する日本政府の答弁は、同年3月26日の伊関祐二郎外務省国際協力局長の答弁である。安全保障諸費の1954年度繰越に関連して魚釣島を例に挙げた質問に対して伊関は「あれは行政協定の問題になりますかどうか、(中略)沖繩の南でございますね。私のほうもあの点は詳しいことは存じません」(参議院大蔵委員会)と答弁した。これもまた当時の外務省の認識の程度がうかがえる答弁である。

 その翌年の1955年も、尖閣諸島の魚釣島付近で発生した第三清徳丸事件をとりあげた7月26日の中川融外務省アジア局長の以下の答弁がある。「琉球の一番南の方の台湾に近い島、非常に小さな島のようでありますが、その島の領海内で……」(衆議院外務委員会)というもので、「尖閣」とも「魚釣島」とも答えず、やはり島名を認識していないことをうかがわせる。1972年の沖縄返還前は、沖縄の施政権は米国にあった。しかしながら、「日本国民である」「琉球住民」が被害にあったにもかかわらず、事件の発生した付近の島名を外務省は答えられない。当時は「固有の領土」とは認識していなかったのであろう。

 それ以降は、沖縄返還が現実的な問題となる1967年まで、尖閣諸島に関する質問がされることはなかったようである。1967年6月20日、衆議院沖縄問題に関する特別委員会において公明党の渡部一郎衆議院議員が塚原俊郎総理府総務長官に「尖閣群島に先ごろから台湾の人が住みついて」いることを問題視した質問をしている。しかし、沖縄問題の担当大臣である塚原は領有権の問題には触れず、「何ら報告を受けておりません」と答弁をしている。同年7月12日にも渡部は質問を行った。佐藤栄作首相は領有権や主権の問題には触れず、「沖繩の問題、これはいわゆる施政権がこちらにございませんので、(中略)これはやはり施政権者から話さすのが本筋だ」(衆議院外務委員会)と答えた。これが尖閣諸島に関する最初の首相の国会答弁である。

 また渡部は、翌1968年8月9日の衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会において三度目の尖閣に関する質問をした。それに対し、東郷文彦外務省アメリカ局長は、「尖閣列島その他における領海侵犯の問題」と述べ、尖閣諸島周辺の海域が領海だとの認識は示し、領海侵犯等を「まことに遺憾なる事態」とはしているが、尖閣諸島の帰属については明言していない。1969年4月15日にも「台湾の漁民が出漁しておるだけでなく、最近におきましては漁業根拠地ができている」と、渡部は四度目となる国会質問をしている。東郷アメリカ局長は、「島に標識を立てる、あるいは巡視船を補強するために琉球政府に予算を特に計上する等いろいろ手を尽くしまして、領海侵犯あるいは領土の侵犯のようなことはなくなるように、今日からも努力しております」(衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会)とは答弁しているが、帰属や領有権には言及していない。

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1970年になって、尖閣諸島の領有権を明言
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 しかしながら、1970年の4月15日、参議院予算委員会の分科会で、山中貞則総理府総務長官が「明らかに石垣島に属する島でございまする」と初めて答弁した。
 同年8月10日には、愛知揆一外相が尖閣諸島の帰属について「尖閣列島については、これがわがほうの南西諸島の一部である」(参議院沖縄及び北方問題特別委員会)と答弁した。

 他方、1970年8月31日には、琉球政府立法院が「決議第12号 尖閣列島の領土防衛に関する要請決議」を採択した。決議には「元来、尖閣列島は、八重山石垣市字登野城の行政区域に属しており、(中略)同島の領土権について疑問の余地はない」とあり、尖閣諸島の帰属・領有権について日本側が最初に明言した見解であると沖縄大学名誉教授の新崎盛暉は指摘している *4。

 尖閣諸島の領有権に関する日本政府の最初の明快な国会答弁は、大臣による答弁ではなかった。1970年9月7日、衆議院科学技術振興対策特別委員会において、外務省条約局の山崎敏夫参事官が「領有権に関しましてはまさに議論の余地のない」「明らかにわれわれの領土」と初めて明示的に答弁した。

 尖閣領有権に関する最初の大臣答弁は、3日後の9月10日、愛知揆一外相の答弁である。愛知外相は、「尖閣諸島の領有権問題につきましては、いかなる政府とも交渉とか何とかを持つべき筋合いのものではない、領土権としては、これは明確に領土権を日本側が持っている、こういう立場をとっておる次第でございます。(中略)一点の疑う余地もない。日本国の領有権のあるものである」(衆議院外務委員会)と明言した。

 同年9月17日には、「琉球政府声明 尖閣列島の領土権について *5」が発表された。この声明は、尖閣列島を初めて「我が国固有の国土」と謳い、領有の根拠として、「国際法上の無主地であった」尖閣諸島を1895年1月14日の閣議決定によって編入し、1896年4月の勅令13号によって「国内法上の領土編入措置がとられた」ことを最初に述べたものでもある。

 琉球政府声明が発出された直後の10月7日、参議院の決算委員会で、山中総理府総務長官は「明治二十八年の閣議決定、二十九年の勅令による石垣島の区画決定による日本の尖閣列島に対する明確なる領土権のもとにおいて」と答弁し、1895年の閣議決定と翌年の勅令によって尖閣諸島を編入した旨を初めて明言した。

 なお、答弁書が閣議決定され、国会答弁よりも重みがある「質問主意書」への答弁としては、楢崎弥之助衆議院議員が提出した質問に対して、1971年11月に佐藤首相が「尖閣列島が日本国の領土であることの根拠」として、以下の答弁書を閣議決定している。

 「尖閣列島は、歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成し、明治二十八年五月発効の下関条約第二条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていない。したがつて、サンフランシスコ平和条約においても、尖閣列島は、同条約第二条に基づきわが国が放棄した領土のうちには含まれず、第三条に基づき南西諸島の一部としてアメリカ合衆国の施政下におかれ、本年六月十七日署名の琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖繩返還協定)によりわが国に施政権が返還されることとなっている地域の中に含まれている。以上の事実は、わが国の領土としての尖閣列島の地位を何よりも明瞭に示すものである」(「衆議院議員楢崎弥之助君提出 尖閣列島に関する質問に対する答弁」内閣衆質67第2号、1971年11月12日)。

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日本政府が尖閣の領有権を主張した背景
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 1967年6月には、尖閣諸島に「台湾の人が住みついて」いる問題を指摘されているにもかかわらず、担当大臣は「何ら報告を受けておりません」と答弁した。同年7月には、沖縄返還交渉に執念をもっていた佐藤首相は「施政権者から話さすのが本筋だ」と述べ、沖縄の地位に関するサンフランシスコ平和条約第3条は「日本の主権が残存する」との意味だとされたにもかかわらず、「潜在主権がある」とは答弁しなかった。また、翌1968年8月に東郷アメリカ局長は、領海侵犯等を「まことに遺憾なる事態」とは述べたものの、尖閣諸島の帰属について明言しなかった。そのような日本政府の態度が、1970年に変化することとなった。1970年4月には「石垣島に属する島」との答弁となり、8月には愛知外相が「南西諸島の一部である」と答え、9月には「領有権問題につきましては、いかなる政府とも交渉とか何とかを持つべき筋合いのものではない」との強い表現に変遷していったのである。この背景には何があったのだろうか。

 1968年10月から11月にかけて、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)とアジア海域沿岸鉱物資源共同調査会の提携のもとで米海軍海洋局、日本、韓国、台湾の地質学者たちが東シナ海で海底調査を実施した。それによって、堆積盆地が黄海に一つ、東シナ海に二つあり、これらに豊富な石油埋蔵の可能性があることが明らかになってきたのである。

 高橋庄五郎は、『尖閣列島ノート』の「まえがき」で以下の趣旨を述べている。日本側では、総理府の外郭団体である南方同胞援護会の「尖閣列島研究会」が、一年がかりで日本の領有権主張の根拠となるべき資料を沖縄本島と石垣島で収集し、その結論として、国際法の「無主地の先占」によって尖閣列島を領有したと主張しはじめた。そして、それ以後、わが国政府も「先占」による尖閣列島の領土編入を主張するようになった。尖閣列島が石油で燃えあがったとき、外務省には、尖閣列島を領土編入したいきさつはこうだったと、ただちに説明できるファイルはなかった。尖閣列島の島々についての正確な地図もなかったし、尖閣列島の位置を経緯度で示したものもなかったのである *6。
 高橋のいうように、ECAFEの調査結果によって、「尖閣列島が石油で燃え上がったとき」、外務省には、「尖閣列島を領土編入したいきさつ」を「説明できるファイルはなかった」とすれば、1970年以前の国会答弁で、政府が正確な島名を答えられなかったことも、領有権を明言しなかったことも納得ができるものといえよう。

 高橋が「かき集めた」と指摘する「無主地の先占」の根拠に基づいた研究の結論として、尖閣列島研究会は、「尖閣列島と日本の領有権」を『季刊沖縄』56号(1971年3月)で発表した。また、「埋づもれた資料の収集のため、沖縄本島および現地石垣島へ、奥原敏雄国士舘大学講師を派遣して、可成りの収穫をあげることができた」と編集後記に記している。

 尖閣中国領有論を唱えた井上清に反論し、「『尖閣列島』日本領論者 *7」の第一人者ともいえる奥原敏雄は、この頃のことを2012年6月に発行された『島嶼研究ジャーナル』創刊号上での対談で、以下のように語っている。「1968年2月頃、(中略)沖縄を視察することになったのです。(中略)尖閣列島の問題に関しては、沖縄民政府の担当だと思っていたので、石垣島ではあまり話を出しませんでした。ところが、那覇の日本政府事務所で話をしてみても、魚釣島のみならず尖閣列島の島々の名前さえはっきりは知らなかったのです *8」「欲しい資料の収集については、南方同胞援護会と外務省が大変協力的でした *9」。

 2014年3月現在、外務省ホームページに掲載されている「尖閣諸島について」に、「石油資源が埋蔵されている可能性が指摘された後、1971年から中国政府及び台湾当局が同諸島の領有権を公に主張 *10」との記述があり、「尖閣諸島についての基本見解」の中でも同様の趣旨が述べられている。「中国や台湾の領有主張は、石油が出てからの後出しジャンケン」的な表現は、日本領有の根拠として巷間に流布している「定説」である。

 しかし、これまでに筆者が明らかにした日本政府による国会答弁の変遷をみれば、1970年9月までは、日本政府も尖閣諸島の領有権について明言していないことがわかる。けだし、尖閣周辺における石油埋蔵の可能性が出てきたからこそ、日本政府は南方同胞援護会や奥原の協力のもとで関係資料を収集し、領有権の根拠を論理だて、その整理がついた1970年の9月になって、初めて日本の領有権を明言したのであろう。

 このことを書物で指摘した専門家は、高橋の他には、管見のかぎり村田忠禧 *11 と新崎盛暉 *12 のみである。一方、中国側では、北京大学歴史学部教授の徐勇 *13 と上海国際問題研究院アジア太平洋研究センター副主任の廉徳瑰 *14、英国ケンブリッジ大学訪問学者の羅歓欣 *15 らが、ECAFE調査によって石油埋蔵の可能性があることが明らかになってから日本政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめたことを指摘している。

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72年、尖閣領有の「物語」の完成
    防空識別圏の重複も不都合ない旨を答弁
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 1972年3月8日、「外務省統一見解 尖閣諸島の領有権問題について *16」が発表された。しかし、「先占」という言葉は用いられておらず、「国際法上の先占によってわが国の領土に編入した」とは明示されてはいない。

 同年5月、外務省情報文化局が『尖閣列島について』というパンフレットを発行した。その中で、「明治28年(1895年)1月14日の閣議決定により、尖閣諸島を沖縄県の所轄として、標杭をたてることにきめました *17」、「これは国際法的には、それまでどこの国にも所属していなかったそれらの諸島の領有権を、わが国が、いわゆる『先占』と呼ばれる行為によって取得したのだということになります *18」と、初めて文書で「先占の法理」に言及した。

 それに先立つ1972年3月21日、外務省の高島益郎条約局長は、楢崎弥之助衆議院議員の質問に対して「先占の法理によって日本が合法的に取得した」(衆議院予算委員会第二分科会)と初めて答弁した。楢崎はこの質問で、下関条約で割譲が決まった範囲に尖閣が含まれていない根拠を質し、尖閣領有権の根拠については明確な資料に基づいて理論構成すべきだと述べた。また、明治28年=1895年の閣議決定で編入する前は尖閣が無主地であったことは認めつつも、沖縄県による最初の上申から10年も放置しておいて、日清戦争に勝利する直前に編入した実効支配の正当性を中国側は争点にしているのではないかとしている。のみならず、トラブルを避けるため竹島のように防空識別圏から尖閣をはずすべきだと主張し、また米国が施政権と主権を使い分けて中立の立場を表明していることの不合理性、さらに赤尾嶼と黄尾嶼にある米軍の射爆場は撤去を求めるべきだと、具体的な諸問題について踏み込んだ質問している。

 この質疑応答の中で、防衛庁の久保卓也防衛局長は、防空識別圏=ADIZについて、「共産圏のADIZがわからないのでありますが、極端な例を申しますれば、わがほうのADIZと共産圏側のADIZが交錯をしている、たとえば尖閣列島を互いに取り込んでおるということでも、格別それが不都合ということにはならないというふうに私は思います」と注目すべき答弁をしている。この答弁については、岡田充・共同通信客員論説委員が「海峡両岸論No.44」で拙修論を紹介し、「中国が尖閣諸島を彼らの防空識別圏(ADIZ)に含めても『格別、不都合ではない』と答えていたことも明らかにされている。中国が昨年11月23日発表したADIZに対し、安倍晋三首相は『尖閣領空が中国の領空であるかのごとき表示で受け入れられない』と、中国に撤回を求めているが、72年当時の防衛当局の認識は全く異なっていたことが分かる *19」と解説した。さらに岡田は、「沖縄返還交渉が開始されると台湾が領有権を主張、台湾は当時国交のあった米国のニクソン政権に対しても、尖閣を沖縄返還と切り離して日本返還に反対するようになった新状況の下で、日本政府はあわてて領有の「物語」を完成させたと笘米地はみる。これは矢吹晋・横浜市大名誉教授が『尖閣衝突は沖縄返還に始まる』(花伝社、2013)で展開した論旨と平仄が合う」としている。

 ここから明らかなように、日本政府が尖閣諸島領有の論拠を再構成し、歴史的経緯に関する日本政府の「物語」が完成したのは1972年3月である。それ以前には、現在の日本政府が主張する尖閣領有の国際法上の根拠となる「先占の法理」は言及されていなかった。

 その後、序章でも挙げた1985年4月22日に、「中国との間に尖閣諸島の領有権をめぐって解決すべき問題はそもそも存在しない」(衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会)との見解が、安倍晋太郎外相から発表された。これが、現在までつらなる政府見解である「領有権問題は存在しない」の最初の国会答弁である。しかし、同時に安倍外相はこの答弁の前に「中国が独自の主張を有しておりますことは御承知のとおりであります」と述べている。また、中国側に石油の共同開発を求める考えがあることは承知しているとして、東海大陸棚の開発については「今後中国側とも相談をしていく必要がある」と答えている。よく読めば、「中国が独自の主張をしていることは承知」との表現で、領土問題が事実上存在していることを認めるとも受け取れ、石油共同開発についても念頭においた上で、境界画定が絡む開発については中国と話し合うというダブルスタンダードを示している。「息子の晋三とは違い、父親の晋太郎は現実的な政治家であった」(海峡両岸論No.44)と岡田充は評している。

 それ以降の日本政府は、1988年11月8日に、斎藤邦彦外務省条約局長が「尖閣列島というのは、我が国にとりまして領土問題でも何でもなく、我が国が有効に支配している我が国の領土の一部」(参議院外務委員会)と答弁し、1989年3月28日には、都甲岳洋欧亜局長が「尖閣諸島をめぐって解決すべき問題自体存在しない」(参議院外務委員会)と答え、また、1991年4月26日には、柳井俊二条約局長が「我が国の立場からいたしまして領土問題があるということではございません」(衆議院安全保障特別委員会)と答弁しているように、「解決すべき領有権の問題は存在しない」との趣旨の国会答弁を繰り返し行なってきた。

 では、2010年10月に前原外相が否定した「棚上げ」についてはどうなのか。序章で述べたように、日中平和友好条約締結前の1975年10月22日に、「いわゆるたな上げというような形で日中の条約交渉が行われているという事実はございません」(衆議院予算委員会)と宮澤喜一外相が答弁して以来、以下のように、一貫して「棚上げ」を否定している。

 1978年4月19日、中江要介外務省アジア局長は、72年の国交正常化の首脳会談において、「この問題についてたな上げにするというような合意なり了解なり、そういうものがあったかというと、それもないということでございます」(衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会)と棚上げを否定した。1988年11月8日、外務省の斎藤条約局長が(参議院外務委員会)、1989年3月28日には都甲欧亜局長が(参議院外務委員会)、1989年12月1日には鈴木勝也外務大臣官房審議官が(衆議院内閣委員会)が、また1991年4月26日には柳井俊二条約局長(衆議院安全保障特別委員会)も、それぞれ棚上げ合意を否定する答弁をした。このように、「領有権と帰属の問題を棚上げした事実はない」との趣旨の答弁を繰り返しており、政府見解としては、1975年から一貫して「棚上げ合意」を否定している。

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「棚上げこそ国益」園田直外相の思い
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 尖閣諸島をめぐっては、1975年以降、「棚上げ合意」を一貫して日本政府は否定している。
 しかしながら、1978年に日中平和友好条約を締結した園田直外相は、1979年5月30日、沖縄開発庁が中心になって行われた尖閣列島の調査開発について中国側が抗議したことに関して、当時の政府見解とは異なる視点となる以下の答弁をしている。「棚上げ」を主張した鄧小平発言を評価しながらも、政府見解として否定している「棚上げ」という言葉を使うわけにはいかず、「あとの答弁はお許しを願いたい」という言外から「棚上げこそ国益なのだ」という園田の“思い”がうかかえる名答弁である。

 「これは単に日本と中国との関係ということばかりでなく、日本の国益ということを考えた場合に、じっとしていまの状態を続けていった方が国益なのか、あるいはここに問題をいろいろ起こした方が国益なのか。私は、じっとして、鄧小平副主席が言われた、この前の漁船団のような事件はしない、二十年、三十年、いまのままでもいいじゃないかというような状態で通すことが日本独自の利益からいってもありがたいことではないかと考えることだけで、あとの答弁はお許しを願いたいと存じます」

 「この際原則的な理屈は言わない方が得であると考えておりますが、私は有効支配は現在でも日本の国は十分やっておる、こういう解釈でありまして、これ以上有効支配を誇示することは、実力で来いと言わぬばかりのことでありますから、そのようなことは日本の国益のためにもやるべきでない」(衆議院外務委員会)。
 園田は、これ以上、実効支配を誇示することは、中国の実力行使を招き、国益にならないことを見通していた。炯眼をもつ政治家であった。

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「固有の領土」論のあやうさ 共同開発の検討を
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 外務省の「尖閣諸島についての基本見解」によれば、尖閣領有の経緯は、「1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとした」である。奥原敏雄ら日本の国際法学者は、この閣議決定は国際法上の「無主地先占」すなわち「先占の法理」を根拠にしていると主張する。しかし、沖縄県令の西村捨三が1885年9月に内務卿山縣有朋に最初に上申してから10年もたった日清戦争の帰趨が明らかになる時期に閣議決定したことは、「10年前は弱小国日本としてアジアの超大国中国に遠慮しなければならなかったのに反し、中国が弱体化したため遠慮の必要がなくなって、正しいと信じたことを実行できた *20」といえよう。「日本が、日清戦争の最中の火事場泥棒の如く、下関条約という正式の両国外交交渉の場で尖閣諸島の領有権画定が問題になる前に、近代法の知恵を利用して『無主物先占』宣言をあえてした *21」と中国側が認識することを、「100%間違いである」と断定するのには躊躇する。現実の歴史的過程や、“領土を奪われた”という中国側の感情を無視して、日本が「法理」を主張すれば、議論は平行線をたどるであろう。さらに、この閣議決定については、伊藤隆と百瀬孝が指摘するように、「これは官報に出たわけでなく、外国にも通告されておらず、領土編入について無主地先占の手続きをふんだとは到底いえない *22」秘密裏の決定であったにもかかわらず、「固有の領土であり、解決すべき領有権の問題は存在しない」と主張するのはいかがなものだろうか。

 一方、中国側の主張の最大の弱点は、1971年になってから突然に領有権を主張しはじめたことである。1895年段階で抗議しなかったのは、日清戦争に負けたのだから、台湾の割譲には抵抗しても小さな無人島の尖閣諸島については言及する余裕もなかったと解釈できる余地もある。しかし、1945年には米国や英国と並ぶ戦勝国であったにもかかわらず、尖閣諸島の返還を求めなかったのである *23。

 筆者の見解は、先占の法理だけを根拠に日本の領有を主張するには無理があると考えるが、中国が1971年に至るまでに日本の領有に対して一貫して抗議を行わなかったという事実に鑑み、日本の主張に分があるというものである。したがって、尖閣諸島は日本の領土である。しかし、上述したような歴史的経緯と1970年になってから領有権を明言したことを考慮すれば、中国側の主張をすべて退けるのではなく、領有権問題の存在を、または少なくとも「係争地」であることを認めた上で、短期的には「新たな棚上げ論」による現状凍結の明文化を、長期的には何らかの方法で国境を画定すべきであると提起したい。

 2012年の野田内閣による「国有化」の閣議決定によって「パンドラの箱」が開かれ、それ以降、中国側は公然と公船を領海内に侵入させ、実効支配をしているのは日本だけでなく、中国も実効支配しつつあるのだという姿勢を示している。しかし、それでも現段階においては、日本の実効支配の度合いが強い「現状」であるといえる。それをふまえると、中国側がこれ以上の実効支配を強めることのないよう、その「現状」を凍結することが、日本に有利な条件であると考える。公船による領海への侵入や火器管制レーダーの照射などの「中国側による現状を力によって変更しようとする挑発行為 *24」をみれば、中国が力による一方的な実効支配を目指すのではないかとの不安を持つ日本人も多いだろう。しかしながら、習近平国家主席は、2013年7月30日、中国共産党政治局の第8回集団学習会で「『主権はわが国に属するが、争いは棚上げし、共同開発する』との方針を堅持し、相互友好協力を推進し、共通利益の一致点を探し求め、拡大しなければならない」と述べている。同時に、国家の核心的利益は犠牲にできないとも言及し、海洋権益を断固として守るよう指示したという。つまり、力による一方的な実効支配を目指すのではなく、「棚上げ」と「共同開発」を、長引く問題解決の“落とし所”とすべく探っているものと考えられる。

 ゆえに、尖閣問題の解決のためには、まず尖閣諸島の現状凍結を明文化し、さらに調査開発等については進め方を協議すべきだと筆者は考える。馬英九台湾総統が、「東海和平倡議(東シナ海平和イニシアチブ)*25」で提起しているように、国家の領土と主権は分割できないが、天然資源を分かち合うことは可能である。

 尖閣周辺の資源開発に関しては、石油資源開発株式会社取締役および顧問を務めた猪間明俊が「資源開発の立場から見た尖閣諸島問題」と題する論文を『世界』2011年3月号別冊に発表している。猪間は同論文の中で、石油・天然ガス開発が大変なリスク産業であり、世界中で共同開発が常態化している現状をふまえ、尖閣問題解決のための以下の選択肢を示している。諸島の領有権を主張し続けるなら、戦争を覚悟しない限り、日本がその資源を手に入れることは出来ない。また領有権の問題は棚上げして何らかの形で共同開発することは友好には寄与するが、石油ではなく天然ガスだった場合は、日本側の取り分は台湾または中国に持って行くことにならざるを得ない。

 さらに、中国側からよい条件で共同開発を申し入れて来るまで現状で放置する方法もあるが、多大な恩を売る形で尖閣諸島の領有権を中国に渡してしまうのも一つの解決法であるとする。それは中国との友好関係改善に役立つはずで、日本人の居住地から遠く離れた資源価値の低い島嶼を死守するためにかかる防衛費が不要になるという以上のメリットを生むかもしれないという。いずれにせよ、尖閣問題はどうすることが最も国益にかなうかを多面的に考えて処理されるべきであり、偏狭なナショナリズムだけでは解決できないことと心得るべきであると猪間は述べている。

 新崎盛暉は「沖縄は、東アジアにおける平和の『触媒』となりうるか」の中で、この地域を「歴史的文化的経済的生活圏」としてきた沖縄の視点から、以下の提言をしている。

 「21世紀に入った現在から将来を展望しようとする場合、欧米近代が持ち込んだ領土概念を抜け出し、地域住民の生活圏に視点を移して、紛争を平和的に解決する方途を、模索することはできないでしょうか。とりあえず現状を変えることなく、抽象的観念的「固有の領土論」を棚上げし、これら地域を歴史的文化的経済的生活圏としてきた人々の話し合いの場を通して、問題の歴史的背景や将来の在り方を検討し、共存圏の模索に努力することはできなでしょうか」(『現代思想』2012年12月号)。

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新たな「棚上げ論」で海上事故防止協定の締結を
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 現在の尖閣諸島をめぐる日中両国の緊張関係は、いつ不測の事態が起きてもおかしくないほど危険な状態であるといえよう。評論家の石川好は、「日本と中国。いまこの二つの国は、銃火の音は聞こえていないにもかかわらず、心理状況から見れば交戦状態に入っている」という(『漫画家たちの「8.15」』潮出版社、2013年)。中国公船による領海侵入や領空侵犯などが生み出す極度の緊張状態が続けば、紛争の危険性が高まる。

 筆者の結論は、尖閣諸島をめぐる艦船および航空機の対峙が「不測事態」を招きかねない現状を緩和するには、習近平が述べた「争いは棚上げにし、共同開発する」的な方針を、日本側から提示する他にないということである。この方針は習近平だけでなく、1978年の日中平和友好条約締結時の鄧小平以来、中国側が一貫して主張し続けている方針である。双方の主張の違いは棚上げにし、資源開発は共同で行なうことを目指して話し合いのテーブルにつくべきである。そのためには、自民党が2013年12月の総選挙での公約に掲げた「公務員の常駐化」や「周辺漁業環境の整備」等の現状を変更する行為は行わないことを、まずは水面下で約束し、「現状」を維持し凍結することを確認する。これは、両国の国民感情が相当程度改善されるまで公表する必要はない。その上で、問題の多い「固有の領土」という言葉を使うことを控え、「国境の画定」という考えを用いて交渉するのである。同時並行的に、経済や環境・文化・学術・スポーツ・青年・子ども等、あらゆる分野の交流を拡大して、国民感情を改善することに両国が努力することも必要となるだろう。

 日中両国政府間において、話し合いが可能になった段階で、まず防衛当局間による「不測の事態の回避・防止のための取組 *26」を進展させるべきである。特に、不測事態を防ぐためには、日中防衛当局間の海上連絡メカニズムを構築し、1993年に日本がロシアとの間に締結した「海上事故防止協定」(Incident at Sea Agreement:INCSEA)を中国との間に締結すべきだと考える。「海上事故防止協定」に関しては、海上自衛隊幹部学校防衛戦略教育研究部戦略研究室員を務める石原敬浩2等海佐も、論文「わが国の海洋戦略について 海上事故防止協定(INCSEA)の国際制度化を中心として」(『波濤』2010年11月)の中で、1972年に調印された「米ソ海上事故防止協定」の意義を高く評価している。1998年には米国と中国の間でも、米中海上安全協議協定が調印されている。

 日中間において、防衛当局による不測事態の回避のための取組が進み、様々な分野での交流が進展した結果として国民感情が相当に改善された段階で、日本側は、「尖閣諸島をめぐり解決すべき領有権の問題はそもそも存在していません」との日本政府の「基本見解」は改め、「固有の領土」との表現は用いないようにすることを提起したい。とはいえ、「尖閣諸島は日本の領土である」ということは、あらゆる手段を尽くして主張し続け、国境を画定するための交渉をすべきであるだろう。現状を凍結する「新たな棚上げ論」は、不測事態から紛争事態に発展することを防ぐための短期的な解決策であるからである。両者の主張が異なる領土問題を永久に棚上げにすることは、かえって問題を抱え続けることになりかねない。新たな棚上げ論によって、話し合いを行うことが可能な雰囲気が醸成されれば、「“合意がないという事実”から出発して、いかに合意できるかを考え *27」、何らかの形で国境を画定するための努力をすべきである。

 尖閣周辺の海域、および上空における不測の事態がエスカレートして危機的な状況が生じないように、交渉を開始するための準備が喫緊の課題である。自国の領有権の主張に不利になる事実もふまえた上で、冷静な議論ができるようになるきっかけの一つに、この小論がなることを期待する。

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1 外務省ホームページ「尖閣諸島についての基本見解」
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/kenkai.html 2013年7月30日閲覧。
2 栗山尚一「尖閣諸島と日中関係『棚上げの意味』」『アジア時報』2012年12月号、4~10頁。
3 池内敏『竹島問題とは何か』名古屋大学出版会、2012年、315頁。
4 新崎盛暉「沖縄は、東アジアにおける平和の『触媒』となりうるか」『現代思想』2012年12月号、155頁。
5 南方同胞援護会『季刊沖縄』56号、180~182頁。
6 高橋庄五郎『尖閣列島ノート』青年出版社、1979年、1~2頁。
7 井上清『新版「尖閣」列島』第三書館、2012年、147頁。
8 「尖閣列島研究の背景と原点(対談)」『島嶼研究ジャーナル』創刊号、72~82頁。
9 同上。
10 外務省ホームページ「日中関係(尖閣諸島をめぐる情勢)」「尖閣諸島について」
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/index.html 2013年12月1日閲覧。
11 村田忠禧『尖閣列島・釣魚島問題をどう見るか』日本僑報社、2004年、6~7頁、43~46頁、65~66頁。
12 新崎盛暉「沖縄は、東アジアにおける平和の『触媒』となりうるか」155頁。
13 徐勇「钓鱼岛:东亚历史与地缘战略关系再探讨」『中国抗战与世界反法西斯战争 纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利60周年学术研讨会文集(下卷)』1243頁。
14 廉德瑰「钓鱼岛的所为“所有权” 转移及其背后的经济因素」『国际观察』、2012年第6期。
 http://www.siis.org.cn/index.php?m=content&c=index&a=show&catid=15&id=274
 2013年12月1日閲覧。
15 罗欢欣「学者称钓鱼岛系中国固有领土 有史为凭法理确凿」『法制日报』2012年9月25日。 http://www.chinanews.com/gn/2012/09-25/4208335.shtml
2013年12月1日閲覧。
16 『季刊沖縄』第63号、181~182頁。
17 外務省情報文化局『尖閣列島について』1972年5月、5頁。
18 同上、13頁。
19 岡田充「海峡両岸論 第44号」2014年3月4日発行 http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_46.html 2014年3月14日閲覧。
20 伊藤隆監修、百瀬孝著『史料検証 日本の領土』河出書房新社、2010年前掲書、68頁。
21 纐纈厚『領土問題と歴史認識』スペース伽耶、2012年、115頁。
22 伊藤隆監修、百瀬孝著、前掲書、69頁。
23 松竹伸幸『これならわかる日本の領土紛争』大月書店、2011年、118~119頁。
24 外務省「ポジション・ペーパー:尖閣諸島をめぐる日中関係」
 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/position_paper3_jp.html 2014年3月15日閲覧。
25 「東シナ海平和イニシアチブ」台北駐日文化経済代表処ホームページ
 http://www.roc-taiwan.org/JP/ct.asp?xItem=302731&ctNode=11514&mp=202&nowPage=2&pagesize=45 2013年7月30日閲覧
26 防衛省『防衛白書 平成25年版』2013年、238頁。第Ⅲ部 4 日中防衛交流・協力 2 最近の主要な防衛交流実績など。
27 名嘉憲夫『領土問題から「国境画定問題」へ』明石書店、2013年、221頁。

 (筆者は立憲フォーラム事務局員)


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