<河上民雄氏に聞く>「日本国憲法」をいま新しく考える

―「『囚われたる民衆』からの解放」高野岩三郎―

   オルタ編集部
             【出席】河上民雄(東海大学名誉教授)
                 加藤宣幸(オルタ共同代表)
                 工藤邦彦(オルタ編集部/聞き手)
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●高野岩三郎が独自に「共和国憲法」私案


――前回は「日本国憲法」草案の成立過程をたどりながら、憲法研究会の「憲法
草案要綱」を、主に政府案やGHQ案との関係、比較といった面に焦点を当てて
見てきたわけですが、今回は、この憲法研究会案を軸において、当時の日本人の
憲法意識や、その後の憲法審議における問題点など、日本国憲法の成立をめぐる
状況をさらに掘り下げ、できれば日本の近現代史における、この草案要綱や日本
国憲法の位置づけなどにも話を進めていただけたらと思います。
 そこでまず、この憲法研究会の「草案要綱」の作成過程で、内部的に問題に
なったと思われる二つの点についてお聞きしたいのです。その一つは、この憲法
研究会で実質的なイニシアティブをとったと言われる高野岩三郎が、研究会の案
とは別に「共和国憲法案」というものを私案として出しています。これを彼は憲
法研究会案が出された直後に発表したという話もあるんですが、どういう事情だ
ったのでしょうか。

河上> 私の記憶では、前回も話に出た『新生』(第2巻第2号、昭和21年2
月号)に、高野岩三郎の「改正憲法要綱私案」というものが掲載されました。こ
れには、まず最初に「根本原則」として、「天皇制ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル
共和制ノ採用」ということが掲げられています。その私案の具体的な起草事情は
よく分からないのですが、憲法研究会のほうの草案づくりは、鈴木安蔵が執筆し
た原案をもとにして討議がすすめられました。しかしその多数意見は、たとえ象
徴であっても天皇制の存続を容認するものだった。もちろん、その研究会として
の案を決めるときには、高野岩三郎の共和国憲法の構想も当然話題になっていた
んです。それで面白いのは、その高野さんの構想に対して、討議に参加していた
大内兵衛氏が「ちょっとそれは時期尚早じゃないですか」と言ったので、高野さ
んが「なんだ大内君もそんなことを言うのか」と言ったという話が残っているん
です。そこでおそらく高野さんは、「主権在民」の原則をさらに徹底した「天皇
制廃止」の考え方を、研究会案とは別に独自案として出しておくことにしたんだ
と思います。

加藤> 研究会の案は、前回挙げられたような人たちの合議というか、いわば
妥協と調整の上につくられたわけだから、最大公約数的なところに落ち着かざる
を得ない。ただし高野さんは学者として、自分の意見は出しておくということだ
ったのでしょうね。

――国立国会図書館のホームページの憲法改正案一覧によると、高野岩三郎の
「共和国憲法私案」といわれているものがじつは二つあって、一つは「高野岩三
郎・日本共和国憲法私案要綱」(1945年11月~1945年12月)、もう一つは「高
野岩三郎・改正憲法私案要綱」(『新生』1946年2月号掲載)となっているんで
す。その『新生』に発表されたものの中で、とくに特徴的な部分をあげてみます
と、つぎのようなものです。
                                               目次へ


 ■改正憲法私案要綱(高野岩三郎)


 第一 主権及ビ元首(抄)
 日本国ノ主権ハ日本国民ニ属スル
 日本国ノ元首ハ国民ノ選挙スル大統領トス
 大統領ハ国ノ内外ニ対シ国民ヲ代表ス
 立法権ハ議会ニ属ス
 議会ノ召集開会及ビ閉会ハ議会ノ決議ニヨリ大統領之ニ当ル大統領ハ議会ヲ解散
スルヲ得ズ
 大統領ハ行政権ヲ執行シ国務大臣ヲ任免ス
 爵位勲章其他ノ栄典ハ一切廃止ス、其ノ効力ハ過去与へラレタルモノニ及ブ

 第二 国民ノ権利義務(抄)
 国民ハ公益ノ必要アル場合ノ外其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ
 国民ハ憲法ヲ遵守シ社会的協同生活ノ法則ヲ遵奉スルノ義務ヲ有ス
 国民ハ納税ノ義務ヲ有ス
 国民ハ労働ノ義務ヲ有ス
 国民ハ生存ノ権利ヲ有ス
 国民ハ教育ヲ受クルノ権利ヲ有ス
 国民ハ休養ノ権利ヲ有ス
 国民ハ文化的享楽ノ権利ヲ有ス

 第五 経済及ビ労働
 土地ハ国有トス
 公益上必要ナル生産手段ハ議会ノ議決ニ依り漸次国有ニ移スヘシ
 労働ハ如何ナル場合ニモ一日八時間ヲ超ユルヲ得ズ
 労働ノ報酬ハ労働者ノ文化生活水準ニ下ルコトヲ得ズ

 第六 文化及科学
 凡テ教育其他文化ノ享受ハ男女ノ間ニ差異ヲ設クベカラズ
 一切ノ教育ハ真理ノ追及真実ノ闡明ヲ目標トスル科学性ニ其ノ根拠ヲ置クベシ

河上> この高野岩三郎の私案を憲法研究会案と比べてみると、研究会の草案
要綱の基本的な性格は、これまで見てきたように「国民主権+象徴天皇制」であ
って、その上に、社会権も含めた基本的人権と平和主義の原則を打ち出している。
それに対して高野さんの案で特徴的なのは、まず第一に、天皇制を廃止して大統
領を元首とするという、「共和国制の採用」が明確に打ち出されていること。そ
れからもう一つは、今からはちょっと生硬に見える社会主義政策というか、「土
地国有化」とか、公益上必要のある生産手段の「議決による漸次国有化」という
考え方導入されていることです。これがどこから来た考え方かはよく分かりませ
んが、高野は自らの私案を発表した「囚はれたる民衆」という論文の末尾に、イギ
リス労働党のウエップ夫妻の「大英社会主義国の構成」(1920年)にならってい
ることを断っている。

――それとこの私案で特徴的なのは、文化、科学、教育というものを非常に重視
していることが目につきますね。「休養の権利」ということまで言っている。


●高野岩三郎と「囚はれたる民衆」


――ところで、いま高野岩三郎の私案は二つ残っていると紹介しましたが、その
うちの1945年末に書かれた「日本共和国憲法私案要綱」には、『新生』掲載の要
綱にはない、こんな前文的な記述があるんですね。

 「現行帝国憲法制定ノ由来ト推移△
 現行憲法ヲ改正シ政体ヲ変更スルニ現時ヲ以テ絶好ノ機会ナリトスル理由
 △明治初期ニ於ル民権論ノ興隆、之ニ対スル藩閥政府ノ対策、国会開設ノ誓約、
憲法ノ制定、其ノ以後ニ於ル軍閥ノ一貫セル組織的陰謀、最近ニ至ルマデノ民
衆ノ奴隷化、現時ヲ以テ絶好ノ機会ナリトスル理由ハ「憲法改正要綱」ノ中ニ
アリ」

 走り書きのような要点筆記なんですが、読みようによっては、この敗戦直後
という空白の時期を「絶好ノ機会」ととらえて、ここで明治以来の藩閥・軍閥支
配による「民衆ノ奴隷化」の状態から、一気に共和国へと飛躍しようとする高野
岩三郎という人の気概が伝わってくるような気がします。

河上> 先ほど言った『新生』という雑誌に、高野岩三郎は「囚はれたる民衆」
という題で論文を書いて、「改正憲法要綱」はそのなかで発表しているんです。こ
の論文は、前回紹介した高野さんの著作『かっぱの屁』に収録されています(著
書では、論文の表題は「囚われたる民衆」)。いま「民衆の奴隷化」という言葉を
引用されましたが、私は、じつはこの論文の「囚はれたる民衆」というタイトル
自体が、旧い体制に精神的に囚われていた当時の日本人のことを指していて、そ
れこそ高野さんが一番指摘したかったことではないかと思っているんです。とい
うのは、私は前に高野岩三郎という人が、狭い日本に囚われない広い視野と経験
の持ち主であることを言いましたが、この論文の文章を読むと、――それほどは
っきりと集中して議論を展開しているわけではないんだけれども――日本人と
いうものが、大内さんほどの知識人を含めて、実際は<囚われたる民衆>である
というとらえ方をしていたんじゃないかと思われる節があるんです。
 ところが、大内さんにはそういう評価をしていた高野さんが、同じ「囚はれた
る民衆」の中で、「デモクラシーと君主制の関係について一番はっきりしている
のは、東大法学部の横田喜三郎教授だ」と非常に高く評価しているんです。私は
横田喜三郎の国際法の本は読んだことがあるんですが、デモクラシーの論説は読
んだかどうかはっきり覚えていないんだけれど、彼はデモクラシーという立場を
ずっと堅持しておられた。同じ東大学派のなかで、高野さんが横田さんを高く評
価しているのは、すこし研究してみる価値があると思っています。ただ、横田教
授が天皇制廃止の必要はなく、儀礼的役割にとどめればよいとしたことには、高
野さんは異議を唱えている。

――高野岩三郎については、前回も簡単に触れてもらいましたが、戦争中はどう
いう立場だったんですか。

河上> 高野さんの年譜によると大原社研の所長も辞し、病床に臥すこと多く、
戦時中は発言をしていないですね。彼は大正時代、東大を去って大原社研の所長
に迎えられる。東大の教授にまでなった人が大原社研で机をもらって、かつかつ
の生活の糧を得るというのは、ある意味では大変なことではありますね。そうい
う形で研究活動を続ける間に大原社研も陣容が充実し、その研究所の存在を前提
にして、大阪労働学校とか神戸労働学校という労働者教育の学校があちこちに出
来てきた。その講師は全部大原社研のグループから出ていました。それを戦争中
も、許される段階まではやっていた。そしてそこの教え子だった人たちが、戦後、
社会党の代議士になったんです。大阪の井上良二という人がその典型です。

――高野さん自身は実際の政党活動に関係があったのですか?

河上> 戦前の無産政党時代に一時、党首に推されてはいるんです。社会運動史
の本を見ますと、「日本労農党」というのが大正15年(1926年)に結党してい
る。――いわゆる「日労」といわれる組織ですね。その書記長は三輪寿壮で、委
員長は空席のままだったので、高野岩三郎をそこに迎えたいということになって
いた。だから高野さんの周辺には日労系がとり囲んでいて、ご自身でも応援演説
くらいはしているようですが、自分はそういう政党政治家でないということで、
結局その時は断っています。その後、昭和3年(1928年)に、今度は日労党、
無産大衆党、日本農民党、九州民権党などが合同して「日本大衆党」ができた。
その時にも中央執行委員長に高野岩三郎は推されるんですね。書記長・平野力三、
書記次長・河野密、その執行委員が麻生久、鈴木茂三郎、黒田寿男、三輪寿壮、
三宅正一ですが、これまた結局断っているんです。だから結局、そういう実践的
な政党活動はしていなかったようですね。

――でも、そういう流れを見ていると、無産政党の源流の時期の中心人物に擬せ
られる人ではあったわけですね。

加藤> 社会民衆党の安部磯雄さんと並んでいるわけだから、長老ですよ。だか
ら安部磯雄、賀川豊彦とともに、戦後社会党の結党呼びかけ人の一人になってい
る。


●「抵抗権」条項にメンバーから疑問


――それから、「憲法草案要綱」の成案に至る憲法研究会の活動の中で、もう一
つ注目したいのは、当初、鈴木安蔵氏が書いた草案の中に「政府憲法ニ背キ国民
ノ自由ヲ抑圧シ権利ヲ毀損スルトキハ国民之ヲ変更スルヲ得」という、いわゆる
抵抗権あるいは革命権に近い考え方の条項があったと言われていますね。このこ
とについては、専門書ではないんですが、例の『米欧回覧実記』(岩波文庫)を
校註した田中彰という歴史学者が、『小国主義』(岩波新書)という本の中でふれ
ています。典拠は鈴木安蔵の『憲法学三十年』(評論社1967)ということで、そ
のあたりの状況が引用されているんですが、田中彰氏は、これは自由民権運動の
ときの植木枝盛の憲法思想の導入だという位置づけをしています。ところがそう
いう条項を鈴木安蔵が書き入れたのに対して、室伏高信氏から「これはどういう
意味かね」という疑問が出され、全員一致の原則なので、「それでは削りましょ
う」と、直ぐ削ったというんですね。

河上> 鈴木安蔵は植木枝盛を研究していますから、明治憲法ができる前の論争
の過程での、植木枝盛の憲法草案の中から、彼が一項入れたかもしれない。それ
がそのとき削られちゃったのでしょう。

――このまえ「リベラリストグループ」と仮に括った人たちのセンスからいうと、
先ほどの共和国構想もそうですが、こんな条項はとんでもないことかもしれない
ですね。

河上> おっしゃるとおりだと思います。昭和21年(1946年)の頃に、『社会
思潮』という社会党の機関誌がありました。新憲法が採択された直後に、衆議院
の憲法問題小委員会の芦田均委員長が長い時間をかけて、声涙共に下る報告をす
るんですが、その芦田の報告のことが、その雑誌に載っているんです。その記事
は、むしろそれに共感を覚えるような感じで書いてある。これはやっぱり自分た
ちが生まれて育った時代――今まで不磨の大典と思ってきた「大日本帝国憲法」
を送る言葉だというふうに受け取って、芦田の心中を推し量っているような感想
が述べられているんですね。
だから、第1条「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」に始まる、――そし
て第2条、第3条と続くあの明治憲法を乗り越えるのは、当時の人にはやはり大
変だったと思う。しかし芦田も新憲法ができてしまった後は、今度は昭和天皇か
ら「外務大臣芦田はちっとも内奏に来ない」と文句を言われるんですが、「しか
しこれは新憲法の精神に反する」と言って拒否している。だけどあんまりしつこ
く言ってくるものだから、やむを得ず宮中に参内して国際情勢の報告をしてくる
んです。それで、「しかしこれは二度とやるべきじゃない」と、彼の日記に書い
てある。だから彼は、旧憲法を葬ったという気持ちがある分、新憲法を厳格に運
営したいという気持ちがあったのかもしれない。そのように、これは芦田だけじ
ゃなく、当時の指導者はみな同じような気持ちで、同じような学校を出て、同じ
ような立場で仕事をしてきて、なかなか革命権や抵抗権までは行かなかったんじ
ゃないか。それだったら、戦前の無産運動のときにあんな激しいことはやらなけ
ればいいんだけど(笑い)。

――当時の人たちの大多数は、口では「民主主義」を言いながら、この時期、そ
ういう古い意識からなかなか抜けていなかったということですね。前回、「押し
つけ憲法論」のことがいろいろ話題になりましたが、そういう人たちにとっては、
やはりアメリカに背中を押されて、「新憲法でもいい」ということになったのは
歴然としている。

河上> それを無理して否定する必要はないと私は思う。これはやはり、歴史と
いうのは無理をして変えようと思っても、変えることができないものです。当時、
しっかりした「国民主権」の認識があったかといえば、そうではなくて、多くの
指導者たちは、「今しばらく首を短くして、嵐が過ぎ去るのを待てばいい」くら
いの感覚だったのでしょう。


●中途半端だった社会党の「憲法改正要綱」


――いまお話に出た日本社会党自身も、この憲法研究会案のあとになりますが、
「憲法改正要綱」というのを発表していますね。

加藤> 社会党の憲法改正案は、いくら要綱といっても、憲法研究会の草案や日
本国憲法の成案に比べると、ずいぶん物足りないというか、中途半端ですね。研
究会案の発表は1945年12月末で、社会党案は46年2月下旬。それなのに社会
党案では、「新憲法を制定して民主々義政治の確立と社会主義経済の断行を明示
す」(方針)とか、「平和国家を建設するを目標とするを以て、従来の権力国家観
を一掃し、国家は国民の福利増進を図る主体となることを明かにす」(目標)と
言っているだけで、しかも一方では、「主権は国家(天皇を含む国民共同体)に
在り」とか、「統治権は之を分割し、主要部を議会に、一部を天皇に帰属(天皇
大権大幅制限)せしめ、天皇制を存置す」というように、主権在民の思想が非常
に弱い。「国民の権利義務」のところでは、「生存権」や労働力の保護、家族生活
の保護、生活の向上などを打ち出して、社会的権利に配慮してはいるけれども、
どうしても全体にさらっと書いている印象が拭えない。当然、高野さんも森戸先
生も、この社会党案に当時コミットされていると思うのですけれども…。
議案書や議事録が国会図書館の憲政資料室に納められた浅沼稲次郎関係文書に
残されておればよいが、社会党内の議論がどうなっていたのか分からない。ただ
憲法研究会の草案と比較してみると、思想的にも内容的にもたいへん弱い。この
社会党の「憲法改正要綱」というのは、短い期間に相当どさくさで、いい加減に
やった感じがしますね。なにかおっとり刀で作ったというか。まだ結党してすぐ
の時期で、執行部ができて選挙前の騒然とした時のものかもしれないが。

河上> そうだと思いますね。

――年表で見ると、社会党がこの案を発表したのは46年の2月23日となってい
ます。その前に、自由党の要綱案が1月21日、進歩党の要綱案が2月14日の発
表ですから、ほかの党もみんな作ったので、こっちも早くやろうということだっ
たのか。――国立国会図書館のホームページ「日本国憲法の誕生」によると、「社
会党は、民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草
委員となり、党内左右両派の妥協の産物という色合いが強い『憲法改正要綱』を、
2月23日に発表した」とあるんですが。

加藤> とすると、その高野さんなり森戸さんの考え方が、なぜ社会党草案には
っきり採り入れられていないのか。お二人とも党に影響力を持っていたはずだし、
あれだけのものをまとめられているんだから。天皇制問題は別としても、なぜ社
会党案にワイマール的な立場からのちゃんとした条項が入らなかったのか。

河上> その頃は、情報が入っているとしたら、もうGHQ案も知っていなくて
は嘘なんだが、それも社会党案には全然反映していない。党内で意見の一致がな
く、非常にラフな妥協をしてこの案が成立したのか。あるいは当時の社会党や戦
前の無産運動をした人からみたら、ずっと保守的な人たちが入って憲法研究会の
草案が出来ているということで、それを参考にするまでもないという意識だった
のか。――やはり、いま加藤さんが言われたように、結党直後の時期で、党内で
どのグループが主導権を握るかということに忙しく、じっくり憲法草案を考えて
いる余裕がなかったのかもしれません。


●まだ党内で国民主権の意識は弱かった?


加藤> 先刻、河上先生が『社会思潮』という社会党の機関誌の話をされました
が、結局いまから振り返って見ると、当時の社会党内の一般的雰囲気では、まだ
しっかりした主権在民の考え方が共通意識としてなかったということでしょう
ね。戦争に対しては、もう絶対反対だけど、この際天皇制を廃止して、というと
ころまではもちろん行かなかったし、象徴天皇制という考えにも全体として達し
ていなかった。――ただ僕の記憶にはっきり残っているのは、そのころ新橋の飛
行会館である集会があった。これは社会党の集会ではなく共産党系の集会で、会
合の名前はたぶん「戦犯追求人民大会」だったと思うけれど、僕も若かったので
そこへ出かけていった。司会したのは、後の日共幹部の黒木重徳氏で、彼は壇上
で戦犯名簿を次々と読み上げていった。その名簿のトップに昭和天皇があり、そ
れを彼が最初に「裕仁!」と呼び捨てで読み上げたとき、満場のどよめきと拍手
が起きたのを覚えている。会場はほとんどカーキ色の軍服または国民服だったと
記憶するが、ともかくすごい熱気だった。これはまだ45年10月10日に共産党
の「獄中18年」の政治犯の幹部たちが釈放される前のことです。だから、労働
者とか一般の民衆の間では、敗戦の現実とあわせて、天皇制や軍国主義に対する
不満が非常に強かった一面があったことは間違いない。しかし、そういう大衆の
反戦意識や天皇への反発も、この社会党案には反映されていない。

――そういう社会党案などに比べてみると、これまで見てきた憲法研究会の案は、
限界はあっても、やはり画期的であったわけですね。

河上> 画期的ではある。いまお話に出たような状況の中で、よくこれだけのも
のをつくったということは、はっきり言えます。しかもその担い手は、高野さん
や森戸さんが社会党側の人間であり、鈴木安蔵がマルクス主義者であるとしても、
それを除いたら、室伏高信、岩淵辰雄といった思想的にはむしろ、やや保守的な
人たちだった。それを考えても、国民主権、平和主義、一般的な基本的人権に加
えて、社会権的基本権までを視野に入れた憲法研究会の「改正草案要綱」という
のは、非常に進んだものだった。そういう特筆すべきものを、社会党の周辺でつ
くって残したということですね。占領期の日本の政治に詳しい福永文夫教授から
聞いた話ですが、アメリカ側に残っている資料によれば、それに先立って1945
年10月に森戸辰男はGHQから意見を聴取され、象徴天皇制が必要だと主張し
た、ということでした。


●国会審議での主な関心は「国体」の行方


――このオルタの企画は「憲法研究会の草案をめぐって」ということが主題です
ので、国会での憲法制定過程のことは、詳しく取り上げられないのですが、この
後、衆議院でも貴族院でも、かなり時間をかけて政府提案の憲法草案の審議をし
ていますね。なかでも「国民主権」をめぐる貴族院での質疑が知られていますが。

河上> 日本国憲法の草案について熱心に仕事をしたのは、貴族院での宮澤俊義
さんの質疑が皆さんのご記憶にあると思うのですが、今から思うと南原繁さんが
一番頑張ったと思う。質問というけれども、学術論文か学術講演みたいなもので、
要するに「軍隊のない国家は政治学者の良心として認めることができない」とい
うことで論陣を張りました。それに対して、吉田茂首相が「あーだ、こーだ」と
逃げる。それで後になって、南原さんが今度は「憲法擁護」で立ち上がるものだ
から、「曲学阿世」という言葉が吉田茂から出てきたんです。これはある意味で
はパラドックスなんですが、「敗戦から冷戦へ」という戦後史の転換がその根底
にあったわけです。衆議院の方で南原さんと同じような意見を述べたのは野坂参
三ですが、野坂さんのは、「革命のための正義の戦争はある」という論理で、こ
れは全く感動をよぶようなものではなかった。

――宮沢俊義の貴族院での質疑は、このまえ河上先生も出された「ポツダム宣言」
の受諾を踏まえたものですが、それを「天皇主権か国民主権か」という問題に集
中して、憲法の、というより戦後国家の核心に関わる質問をされていますね。非
常に高いレベルでの議論をやっていたという気がします。

河上> そのころの国会の議論では、「国体は変わったのか、変わってないのか」
ということが保守派の方からしきりに出されました。それで、政府の口から「変
わった」と言わせたら、「それは認めないぞ」というのが保守派の議論なんです。
宮沢さんのはそれとスタンスが違って、むしろ「変わったんだということをしっ
かり認識しろ」ということだった。

――宮沢さんの質疑内容は、のちに『憲法の原理』(岩波書店、1967年)という
本に、彼の国民主権の考えを定式化した「日本国憲法生誕の法理」や、尾高朝雄
氏とのいわゆる「国体の変更」をめぐる論争などと合わせて収録されているんで
すが、要は、「ポツダム宣言の受諾で基本的に国体は変わった。国民主権になっ
たんだから、天皇主権であるそれ以前の国体や旧憲法の延長という考え方は根本
的におかしい」ということでした。
彼はその論拠を、「ポツダム宣言」第12項の規定や、政府がそのポツダム宣言受
諾に関連して連合国に問い合わせた45年8月10日の質問への連合国の回答、―
―「日本の最終の政治形態は、ポツダム宣言のいうところにしたがい、日本国民
の自由に表明される意志によって定めるべきである」(The ultimate form of
Government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration be
established by the freely expressed will of the Japanese people.)という文言に
求めています(「日本国憲法生誕の法理」)。これは、河上先生が言われた“subject
to”、――つまり「服従する、従属する」というのと同じ回答文にあるのですが、
それを日本政府がそのまま受諾したことによって、「天皇主権」の古い国体は放
棄され、全く新しい「国民主権主義」が国の根本建前になったんだ。それは「憲
法を超えた変革」であり、法律論的には「革命」であると言っています。――い
わゆる「八月革命論」ですね。
 
 こういう貴族院での質疑のまえに、政府の憲法改正案は46年6月20日開会の
「第90帝国議会」に提出され、衆議院でも相当突っ込んだ議論がされたと言わ
れています。ただ、そこでどういう議論が行われたか、衆議院での具体的な憲法
改正論議についてはこれまで一般によく伝わっていなかったのですが、先日のN
HKの特別番組では、特別委員会での議事録が最近公開されたということで、例
の森戸辰男氏の「日本国憲法」第25条の生存権についての質疑の様子や、義務
教育にかかわる議論などが、かなり詳しく取り上げられていました。

河上> 衆議院についても、当時の委員会の議事録は全部ちゃんと残っています
からね。ただ私の記憶では、今も言ったように、衆議院では「国体が変わったの
か、変わらないのか」の議論で終始していたという印象がある。いまでも覚えて
いるのでは、「川の流れは変わったが、水は変わっていない」とか(笑い)、「国
体は変わっているように見えるかもしれないけど、変わっていない」とか、政府
はもっぱら、そんなことで誤魔化していた。「天皇制護持の約束が破られている
んだ」という保守派からの攻撃にどう対処するかに終始していたように思います。

*編集部注:戦後の憲法制定過程における国体論争を、憲法学者の鵜飼信成氏は、
この国会審議から10年ほど経ったあとの著書で次の三つに整理している。――
(1)佐々木惣一と和辻哲郎の間での象徴天皇をめぐる論争、
(2)尾高朝雄と宮沢俊義の間の国民主権と天皇制に関する論争、
(3)第90帝国議会貴族院における多くの議員と政府(とくに金森憲法担当大臣)
との論争。国体論争の問題点は、要するに天皇親政制、天皇神聖制、天皇象徴制
(国民主権制)のそれぞれが截然と区別されるべきものか、それとも本質を同じ
くするものとみるべきか、にあったという(岩波全書『憲法』1956)。


●核心のところで姑息な意図的ごまかし


加藤> 「ポツダム宣言」の受諾ということがあったにもかかわらず、多くの指
導者たちが、議会でも学会でも、まだ「国体は変わらないんだ。国体の保持を認
められたんだ。天皇制は認められたんだ」というような議論をしていたわけです
ね。

――そもそもあの「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ…」という、「終戦の詔勅」その
ものがそうですね。「国体を護持されたがゆえに、この宣言を受諾する」という
言い方だった。

河上> 昭和20年8月15日の敗戦までの間に、そういう論議をやっていて、
広島の原爆投下からでも約10日間過ぎちゃったわけです。そして、その間に何
十万人という人が死んでいる。7月26日に「ポツダム宣言」が発表されたのに、
日本政府は8月10日になって、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含
シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス 帝国政府ハ右了解ニシテ誤リナキヲ信シ
本件ニ関スル明確ナル意向カ速ニ表示セラレンコトヲ切望ス」という文面で、い
わば質問つきの「ポツダム受諾に関する日本国政府申入」というのをやったんで
す。
 それに対する返事が8月12日に来て、その返答の中の“subject to”というの
を、外務省はあえて「制限の下に置かれる」というふうに訳した。ところが陸軍
にだって英語ができる人はいるから、「この訳はおかしい」というんで、もう一
度問い合わせようとした。しかしそれを問い合わせることは拒否したのも同じこ
とになるから、止めようとか言っている間にまた時間がすぎて、結局8月14日
に受諾の返事をするわけです。
 『日米関係資料集』というのがあって、そこには「対日降伏文書」からはじま
り、「マッカーサーの権限」、そして降伏後におけるアメリカの「初期対日方針」
と、詳しく出ているんですが、そのいちばん肝心な“subject to”という部分は、
8月12日のバーンズ国務長官の回答で既にはっきり示されている。「川の流れは
変わったけど、水は変わってない」とか、そんなもんじゃない(笑い)。

――その“subject to”と同じような話ですけど、新憲法制定の過程においても、
GHQ とのやり取りのあと、最終的に議会に提出された「憲法改正草案」の第1
条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、
日本国民の至高の総意に基く」となっていた。しかしこれは、GHQに示した英
文の憲法草案には“… deriving his position from the sovereign will of the
people”となっている(もともとGHQ草案からそうだった)。ふつうは「主権」
と訳される“sovereign”を、日本国民の「至高の総意」とすることによって、主
権在民をぼやかそうとした。これが衆議院の審議の過程で問題になり、修正によ
って「主権の存する日本国民の総意に基く」になったとされています。みんな翻
訳に際して、意図的に姑息なごまかしをしている。 


●憲法審議のための勅撰議員任命


河上> ところで、これはその日本国憲法制定過程での単なるエピソードかもし
れないんですけれども、私の体験した出来事を一つ紹介しておきます。私が今で
もはっきり覚えているのは、昭和20年の暮、おそらく12月くらいかもしれませ
んが、当時リベラルと考えられた人を貴族院に勅撰議員として入れるという動き
があったんです。それは明らかに憲法改正論議に備えてであろうと思うんですが、
そのなかに社会党結党を呼びかけた3人――先ほどの高野岩三郎と、安部磯雄、
賀川豊彦ですね。この人たちが勅撰議員の対象になっていたんです。
 
それで初冬の寒くて体ががたがた震えるような日だったんですが、父の河上丈
太郎が安部磯雄先生のところを訪ねると言って、文京区の彼のアパートまで行く
ということがあった。そのとき私もついていったんですが、アパートの中に2人
で入るというわけにもいかないので、寒い戸外で待っていた。やがて父がやや上
気した顔で出てきて、「安部先生はやっぱり偉い方だ」と、こう言うんです。そ
のとき父が言ったのは、安部先生は勅撰議員に薦められたけれども、二つの理由
で断わられた。一つはそのとき既に七十幾つでいらしたから、もう年寄りが出る
幕ではない。もう一つは、「自分は若いときに貴族院廃止を党の綱領でうたった
んだ。その者がいかに世の中が変わったにしても、貴族院に入るわけにはいかな
い」と言われたと。そのときには私は、それが何党のことかわからなかったんで
すが、のちにわかったのは明治34年(1901年)、6人の発起人で「社会民主党」
を結党したときに、綱領を実際に書いたのが安部磯雄なんです。河野密さんの『日
本社会政党史』を読みますと、宣言的な部分のあとに政策綱領が列記してあって、
その28の具体的な公約の25番目に、ちゃんと「貴族院を廃止すること」と書い
てある。
 
なぜ、父がそんな勅撰議員の話を安部先生のところに持っていったのかと、そ
の当時には聞かなかったし、いまも疑問のままなんですが、じつは高野先生にも、
その話が行っているんです。しかし高野先生はただ老齢の故をもって、年寄りの
出る幕ではないという、それだけの理由でやはり断っている。おそらく共和国憲
法を書いているものですから、そんなばかばかしい、ということだったんだと思
うんですが。
 その背景には、じつはこういうことがあるんです。今までは貴族院の勅撰議
員というと、だいたい古手官僚ぐらいしかならなかったのが、昭和21年から新
憲法ができるまでの間の貴族院議員には、田中耕太郎、高木八尺、高柳賢三、南
原繁、古垣鉄郎、牧野英一、宮沢俊義と、こういう人たちが勅撰議員に選ばれて、
貴族院で明治憲法改正の審議に参加しているんです。そういう一環として、社会
党結党呼びかけ人の安部、高野の二人を貴族院の勅撰議員に推そうという動きが
あったわけですが、これはGHQに対する盾として使おうと、一種の抱え込みを
しようとしたのではないかと思っているんです。その中で面白いのは、三番目の
結党呼びかけ人である賀川豊彦さんには、その時に話はなかったのですが、後の
記録によりますと、翌1946年3月にその話があって、彼はあっさり勅撰議員を
受けているんですね。賀川さんの側近の話によると、全国鉄道パスがもらえるな
ら、それでもいいんじゃないか。これで全国を伝道で走り回れるからと(笑い)。
まあ、半分冗談でしょうけれど。


●象徴天皇制の源流


――憲法研究会の憲法草案を中心に、その周辺の問題を含めて、これまで日本国
憲法の制定過程を辿ってきたわけですが、ここでもう少し視野を広げて、憲法研
究会の「憲法草案要綱」や、成案となった「日本国憲法」の中に、どんな思想が
流れ込んでいるかということについて、少しお話を伺いたいと思います。
 まず「日本国憲法」がその前文で、この憲法は「人類普遍の原理」にもとづ
くものであるとうたっているように、また高野岩三郎がその「日本共和国憲法私
案要綱」の冒頭に掲げているように、今日私たちが持っている憲法の基礎には、
やはりアメリカの憲法(権利章典)やフランス人権宣言、あるいはワイマール憲
法など、欧米の国民主権の政治思想があることは、これまで見てきた憲法制定過
程からも明らかだと思います。しかしそれと同時に、現憲法には、日本の明治時
代の民権憲法の考え方や、大正デモクラシーなどの民主主義的な思想が受け継が
れていると言われていますね。

河上> 「象徴天皇制」というのは、先ほどもちょっと話に出た植木枝盛の憲
法草案、「日本国国憲草案」(「東洋大日本国国憲按」)にもちゃんと打ち出されて
いるんですね。もちろん、そういう言葉自体はありませんけど、それに通じるよ
うな考え方は、より制限された形であるにしても、あったんです。また、その他
いろいろな民衆憲法制定の運動があったことも、歴史学の上で確かめられていま
す。そして、そういう民権期のいろんな政治的論争に終止符を打ったのが「大日
本帝国憲法」であったわけです。
 それで、こういうエピソードがあります。今の日本国憲法ができたときに、
アメリカ側の誰でしたかが記者会見に臨んで、「これは植木枝盛の思想を参考に
したものだ」ということを言った。新聞記者は植木枝盛といったって全然知らな
かったものだから、びっくりしちゃって、どんな字を書くんですかと(笑い)。
あわてて植木枝盛をあっちこっち探して、まず名前の字を間違えないようにした、
というような話があります。だから、アメリカ側で憲法草案の作成に関与してい
た人たちの間では、民権期の憲法論議というのは、もちろんそれをそのまま参考
にしたわけではないけれども、一つの考え方として前提されていたんです。ライ
シャワーをはじめとして、アメリカ人の日本研究家は、そういうことには、下手
な日本人より詳しいくらいでしたからね。

――植木枝盛の憲法案の先進性については、今はよく知られていて、先ほどもち
ょっと出た抵抗権・革命権を思わせる次のような条文がたしかにありますね。

 ■「東洋大日本国国憲按」
 第70条 政府国憲ニ違背スルトキハ日本人民ハ之ニ従ハザルコトヲ得
 第71条 政府官吏圧制ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得 政府威力
ヲ以テ擅恣暴逆ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得
 第72条 政府恣ニ国憲ニ背キ擅ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨ク
ルトキハ日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得
(引用はhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/risshisyakennpou.htm

加藤> 以前、僕らが中国に行ったときの通訳の人が、日本の高知大学に留学
に来ていた人でしたが、その彼が「自由民権運動と日本の現代政治」の研究テー
マで高知に留学したと言っていましたね。とくに外から見ると、日本の戦前の民
主主義運動、明治以来の自由民権運動の流れが、戦後に受け継がれているという
ように、つながって見えるのかもしれない。

河上> ただ、日本の自由民権運動の一つの矛盾は、国内では民権、外では帝
国主義――これが当たり前になっていたんですね。だから改進党の大隈さんが中
国への「21カ条要求」の時の大隈首相であり、明治政府の板垣退助は「韓国打
つべし」という主張だったわけです。板垣はそれが受け入れられなくて、征韓論
で敗れてから、野に下って自由民権の指導者になるんだけど、そういう考え方は
基本的には残っている。そこが自由民権運動の摩訶不思議なところで、それから
免れているのは勝海舟くらいです。植木枝盛にしたって、彼の憲法草案では、皇
室典範に当たる部分で側室制度をちゃんと認めているんですよ(笑い)。
 
それから、これはちょっと突拍子もない飛躍した意見かもしれませんが、「象
徴天皇制」というのは、植木枝盛なんかより前に、じつは徳川慶喜が官軍によっ
て追放される直前まで描いていた新日本の国家構想の一つなんです。彼の考えは
大統領制、そして上院・下院の二院制で、上院の議長を大統領が兼ねるという、
アメリカの制度をちょっとつまみ食いしたようなものだった。天皇は今の象徴天
皇よりもっと制約の多い、祝詞ばっかりを唱えているような天皇制を想定してい
た。坂本竜馬などもそのような考えだった。

同じような考え方は、福沢諭吉の『文明論之概略』の中にも出てくるんです。
つまり、日本という国は、最も尊いという「至尊」と、最も強い「至強」が一体
化すると、国は亡びると。だから武家政治時代のように別々のものが担うべきだ
と書いてある。もちろん彼は、それから10年もしないうちに天皇崇拝者に変わ
ってしまうんですが、それは福沢諭吉だけじゃない。当時の世相がみんなそうな
んです。あっという間に――15年か20年ぐらいの間に変わっちゃうんですけど、
あの福沢諭吉も、「至尊と至強」が一致すると、将来が心配だということを考え
ていた時期があったんです。しかし、そういう「象徴天皇」の伝統的な考え方と
ちがう「明治憲法の時代」が長くありすぎために、日本はある意味で回り道をし
て、敗戦後の昭和21年、22年に象徴天皇制の「日本国憲法」に立ち至ったんだ
ということは言えなくもない。


●日本のデモクラシーと社会運動の影響


――大正デモクラシーの影響についてはどうですか。

河上> それはもちろんある。憲法研究会のメンバーの人たちには大きな影響
があるし、それよりも占領時代にマッカーサー司令部が行なった民主化改革のほ
とんどは、じつは大正デモクラシー時代に起こったさまざまな運動を前提にして
いるんです。そういう伝統がない、外からの単なる輸入では結局長続きはしない。

――たとえば戦後の農地改革など、その典型ですね。

加藤> あれは、もともと農林省で用意されたものだったということですね。

河上> のちに社会党の副委員長になった和田博雄がそのときの農政局長だっ
た。戦後の民主改革のほとんどはGHQの覚書で始まるんだけど、農地改革はそ
れがない。そういう中で幣原内閣の松村謙三農林大臣のもと、和田博雄を中心に
第一次農地改革をやった。第二次農地改革は、第一次だけでは不十分だという
GHQ覚書の方針でさらに進められたが、和田博雄は、今度は吉田第一次内閣で
農林大臣になっている。GHQの担当者は和田を非常に高く評価していて、「和
田がいなかったら農地改革はうまくいかなかっただろう」と言ったというんです
ね。

――それは昭和一ケタ台、あるいは昭和十年代に、地主制ではもう行き詰ってい
た。だからもうそのころから日本の農地改革についての考え方の蓄積があったと
いうことでしょうね。

河上> なんといっても、無産政党時代の三宅正一さんや稲村順三さんなどが
やった農民運動が下地になっている。これがどの程度成功したかどうかは、人に
よって見方があるでしょうけれど、その体験があればこそ戦後の農地改革がうま
くいった。もちろん、広大な土地を持っていた地主がおとなしく引き下がったの
は、GHQという絶対権力があったからで、もし日本国内だけでやったら、そう
はうまくいなかった。しかし、小作争議に現わされた農民の運動や体験がなけれ
ば、ああはいかなかったことも事実です。なお、婦人参政権を
実現する1945年の「選挙法改正」と「労働組合法」も、日本側からのイニシア
チブが強いですね。

――先ほど「社会民主党」結党時に安部磯雄が書いた綱領のことを紹介されまし
たが、そういう戦前の社会運動も、日本国憲法や戦後民主主義への伏線として見
なければなりませんね。

河上> 戦前といっても、明治34年(1901年)ですからね。先ほど「貴族院
の廃止」についてだけ言いましたが、長くなりますけど全文紹介しますと、こう
いう項目が入っているんです。


 ■社会民主党綱領(明治34年5月20日)


 1.全国の鉄道を公有にすること。
 2.市街鉄道、電気事業、瓦斯事業等凡て独占的性質を有するものを市有とする
こと。
 3.中央政府、各府県、各市町村の所有せる公有地を払ひ下ることを禁ずること。
 4.都市に於ける土地は挙げて其都市の所有とする方針を採ること、若しこれを
速に実行する能はざる場合は法律を設けて土地兼併を禁ずること。
 5.専売権は政府にてこれを買上げること、即ち発明者に相当の報酬を与へ、而
して人民には廉価に其発明物を使用せしむること。
 6.家賃は其価格の幾分以上を徴収する能はずとの制限を設くること。
 7.政府の事業は凡て政府自ら之に当り決して一個人若しくは利益会社に請負
はしめざること。
 8.酒税、醤油税の如き消費税はこれを全廃し、之に代ふるに相続税、所得税、
及びその他の直接税を以てす。
 9.高等小学を終るまでを義務教育年限とし、月謝を全廃し、公費を以て教科書
を供給すること。
 10.労働局を設置して労働に関する一切の事を調査せしむること。
 11.学齢児童を労働に従事せしむることを禁ずること。
 12.道徳、健康に害ある事業に婦人を使役することを禁ずること。
 13.少年や婦女子の夜業を廃すること。
 14.日曜日の労働を廃し日々の労働時間を八時間に制限すること。
 15.雇主責任法を設け労働者が服役中負傷したる場合には雇主をして相当の手
当をなさしむること。
 16.労働組合法を設け労働者が自由に団結することを公認し且つ適当の保護を
与ふること。
 17.小作人保護の法を設くること。
 18.保険事業を一切政府事業となすこと。
 19.裁判入費は全く政府の負担となすこと。
 20.普通選挙法を実施すること。
 21.公平選挙法を採用すること。
 22.選挙は一切直接にして無記名とすること。
 23.重大なる問題に関しては一般人民をして直接に投票せしむるの方法を設く
ること。
 24.死刑を全廃すること。
 25.貴族院を廃止すること。
 26.軍備を縮小すること。
 27.治安警察法を廃止すること。
 28.新聞条令を廃止すること。
  (河野密著『日本社会政党史』1960年による)

――全体に今日の市場原理主義の対極にあるような政策発想ですが、この内容は
非常に具体的で、多くの条項が憲法研究会の草案や、日本国憲法のある部分と重
なりますね。しかもそれだけでなく、その後の都市問題の解決というような主題
にも、根本的でしかも漸進的というか、現実的なアプローチをしている。このよ
うな主題と運動の蓄積が、やはり根底のところで、制定当時の日本国憲法の考え
方につながっていた。そういうふうに見なくてはいけないですね。

加藤> 今から見ても、これは全部、勤労者市民の基本的な要求ですね。

河上> しかもそれが1901年だから、まさに20世紀の始まった年ですね。そ
の時、発足に同意したオリジナルメンバー6人(安部磯雄、木下尚江、河上清、
西川光二郎、片山潜、幸徳伝次郎=秋水)のうち、5人までは当時クリスチャン
で、ノンクリスチャンは幸徳秋水だけだった。――そういう、われわれの先輩が
やった業績というのは、もう少し尊重しないと、これから次のものは出てこない。


●明治憲法体制をどうみるか


――それともう一つ、これはちょっと逆説的な質問かもしれませんが、敗戦まで
の日本の政治秩序の根本規範であった「明治憲法」の、「日本国憲法」に対する
影響あるいは投影という視角はどうですか。というのは、今回、伊藤博文の『憲
法義解』を精読してみたんですが、明治憲法を設計した伊藤博文あるいはそれを
実際に書いた井上毅の考え方というのが、意外にというか、非常にしっかりして
いるんですね。それで、その明治憲法の要素が、現在の日本国憲法のなかに全く
ないのかどうか、ということなんですが。

河上> これは私の一つの意見なんですが、伊藤博文の『憲法義解』を読む限
り、彼が非常に心配したのは、天皇に責任が及ばないような仕組みをどうつくる
かということだった。一方では「統治権の総覧者」としての天皇を明らかにする。
しかし、天皇にすべて実権が集中しているままだと、間違いが起こったときに天
皇に全責任が及んでしまう。だから、それを防ぐことに非常に心を砕いている。
そこで「輔弼」(ほひつ)という概念――大臣は天皇をお助けする。それに基づ
いて天皇は統治権を行使する。しかし、国民に対して大臣は責任を負ってはいけ
ない。なぜならそうすると直ちに天皇に責任が発生する。だから輔弼をする――
という概念です。それに「天皇の無答責」という、もう一つの概念がくっついて
いる。これは、天皇はその統治について、臣民に対して一切の責任を負う義務が
ないということです。
こういう考えがなぜ出てきたかというと、伊藤はビスマルクに非常に憧れを抱
き、それに学んでいる。しかしビスマルクのような大宰相だと、それが失敗した
場合、天皇に波及するというので、総理大臣の権限を非常に弱くした。その結果
として何が出来たかというと、政治決定をする人がどこにもいないという体制が
出来た。これこそ丸山真男が「無責任の体系」と定義づけたものなんです。だか
らあの憲法は非常によく出来ているんで、プロシアの体制を模しながら、しかし
天皇に責任が及ばないということに全力を注いだ力作だと思います。

――これは私見なんですが、その議論にちょっと同意できないところがあるんで
す。たしかに丸山真男などもそういう考え方だと思うんですけど、明治憲法にお
ける天皇権限は「実体的に」もう少し、というか、はるかに強いように思うんで
す。条文にはもちろん詳しく書いてないんですけど、これを設計した伊藤博文の
『義解』自体の論旨の進め方でいうと、天皇が実際に権限をもっているものは、
ものすごくいっぱいありますね。そして強い。しかもその権能は、宮沢俊義氏な
どは「神勅主義」とか「神権主義」と言っていますが、じつは非常に地上的です。
「皇宗の神霊」なんて持ち出しているのは、憲法制定のときの「御告文」くらい
のもので、システムとしては、実際には非常に現実的な近代国家としての憲法秩
序になっているように思うんです。

河上> 憲法上の権限としてはたしかに強いですね。天皇大権ですから。その
とおりなんだけれども…。
――ただ、天皇の権限は憲法的にそのように強いんだけれども、その憲法が、同
時に天皇の専権をチェックする仕組みにもなっているんじゃないかと読めるん
です。つまり、あの憲法の構造上は、租税とか兵役とか軍備とか、戒厳令とか、
宣戦講和とか、基本的なものは全部天皇が決定を下せるわけです。そのほか国会
を召集するのも、法律の裁可も、官吏の任免も、みんな天皇がやれる。ところが
その権限は一々憲法に明記されていて、しかもそれが、さっきの「水の流れ」じ
ゃないですけど、「体と用」とか称して(岩波文庫版『憲法義解』P27)、その権
限を使うときには、憲法の条文に従ってでなければ駄目だ、というような歯止め
を掛けるわけです。だから、実際は天皇の権限は法的にも実体論的に非常に強い
のに、それがあんまり強くなっては困るから、その暴走を止めるために、憲法の
条文で制御するという要素があるような気がする。天皇が責任から免れていると
言われるけれど、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の第3条にしても、『義解』
が言っているのは、「故に君主は固より法律を敬重せざるべからず。而して法律
は君主を責問するの力を有せず」なんです。

河上> たしかに明治憲法では、何かというと、「何々の定むる所により」とな
っておるし、第4条のように、「この憲法の條規によりこれを行う」というふう
になっている。そういう意味ではおっしゃるとおりです。それが美濃部博士の天
皇機関説や、北一輝の国家改造計画の根拠なんです。


●「天皇の大権」と責任の所在


――そうなると、結局明治憲法のどこがおかしいかというと、そういう天皇の実
権があって、しかもそれに憲法的な歯止めをかけているのに、その天皇大権と憲
法的な歯止めとの間というか、真ん中のところが曖昧になっている。その真ん中
というのは、結局、「輔弼」があって「決済」があるんだけど、それを本来なら
最終的に天皇が全部やっていいはずなのに、実際は天皇はやっていないことに、
なんとなくなっている。じゃあ誰が実際はやっているかというと、憲法ができた
ときに枢密院をつくっています。その枢密顧問というのは結局、あの憲法を起草
した自分たちなんですね。伊藤博文自身がその枢密院の議長になっている。しか
も憲法第56条の枢密顧問についての条文は、「枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇
ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」となっているだけであって、『義解』の説明
も、内閣については非常に詳しく書いているのに、枢密顧問については実質上「憲
法又は法律の一の屏翰たるの任に居るべきなり」と言っているだけです。だから
極端に言えば、天皇の名において自分たちが国家を自在にコントロールできるよ
うな領域をつくったんじゃないか。

河上> その意味では、昭和天皇は明治憲法の権限に忠実に、いわゆる「天皇
親裁」というのをやっていますね。ただしそれは、昭和11年(1936年)の「二・
二六事件」のときと、その前の昭和4年(1929年)の「張作霖爆殺事件」のと
きと、それから昭和20年(1945年)の「終戦」のときだけだと私は思っている。
あとはだいたい立憲君主制の形をとっている。

――それがどうも怪しいような気がするんです。この明治的な立憲主義の体制が、
そういう不透明な領域を中枢のところに残していたために、設計者である伊藤博
文の死後、――とくに大正昭和になるあたりから、その歯止めそのものが、天皇
という機関もふくめてだんだん利かなくなっちゃったんじゃないかと。

河上> それはちょっと意見が違うかもしれないんだけど、「昭和の過ちは明治
に発する」というのが私の考え方なんです。司馬遼太郎は、「明治はよかったが
大正昭和は駄目だ」というんですが。

――それは河上先生のおっしゃるとおりで、そもそもの近代国家のつくり方から
間違いだと思いますけど、その基本コースの上でも、いま言った明治憲法的な
(「憲法義解」的な)立憲君主制の裂け目というか、権力の曖昧になっている中
枢領域がだんだんコントロールできなくなって、それぞれの機関が暴走していっ
たのではないか。しかし、それは少なくとも憲法的には、天皇にすべて責任があ
る。

河上> これは「二・二六事件」が起きる前のことですが、ゾルゲが日本の国
のシステムについて、「政治的決定を下す人が一人もいない。したがって政治家
はその訓練を受けていない。だから農村がこれだけ疲弊しているのに誰一人この
問題に自分たちの責任として取り組む者がいない。したがって農村出身の子弟で
ある兵士と絶えず接触している青年将校が立ち上がって、クーデタを起こすであ
ろう」という論文を書いているんですね。それからまもなく「二・二六事件」が
起こる。そういう意味ではやはり、明治憲法を真面目にやると天皇も制約される。
いっぽう総理大臣も制約されている。いずれも制約されているんだからというこ
とで、責任を取らないという体制だと私は考えているわけです。

――話を少しそらせてしまいましたが、お聞きしたいことは、そういう、いわば
天皇機関説的なメカニズムをつくった『憲法義解』の枠が、象徴天皇制といわれ
ている「日本国憲法」の第1章に天皇を持ってきたことと関係があるのではない
かということなんです。どうもあれは戦前の憲法とのつながりがありそうな気が
する。本来の国民主権なら天皇を最初に、真ん中に持ってくる必要はないわけで
すから。

河上> ないです。「国民の主権」が第1章第1条でなければいけない。

――それに対して憲法研究会の憲法草案のほうは、前回、河上先生が最初におっ
しゃったように、国民主権を第一にもって来ています。「日本国ノ統治ハ日本国
民ヨリ発ス」が始まりです。そして「天皇ハ国政を親ラセス国政ノ一切ノ最高責
任者ハ内閣トス」、天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」云々となっている。だから主権
在民から始まっているんです。これが憲法研究会案と日本国憲法との一番大きな
違いであると思うんですが。

河上> それはおっしゃるとおりですね。それが憲法研究会の草案の大きな特
徴の一つなんです。それに対して日本国憲法は、前文で「ここに主権が国民に存
することを宣言し、この憲法を確定する」とはっきり宣言しているにもかかわら
ず、本文の第1章を「天皇」から始めている。あれだけ時間をかけた国会審議が
行われ、その間にいくつかの「国体論争」などがありながら、結局、こういう憲
法の条文構成に落ち着き、それがさほど大きな問題とならなかった。日本国憲法
に明治憲法からの継承と断絶の両面があることの反映だと思います。


●「明治憲法」と「マタイ伝」を合本にしていた田中正造


河上> 明治憲法については、こういうエピソードもあるんです。足尾鉱毒事
件に立ち上がった田中正造は、いつも合切袋を持っていたんだけど、その彼が亡
くなったときに、その合切袋の中に、「大日本帝国憲法」と新約聖書の「マタイ
伝」を自分で綴って合本にして入れていた。これは何を意味するかというと、彼
自身の解説はないんですが、一つは聖書が彼の戦いの武器になっていた。しかし
同時に、それと離れがたく明治憲法が結びついていた。われわれから見たら、明
治憲法がそんなに人民の権利を保障しているとは思われないんだけれども、田中
正造の意識の中ではそれが矛盾なく結びついていたんですね。
 
 明治憲法の第27条は「日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ」となって
います。彼はおそらくこの条文を拠り所にして、しかもその所有権というものを
自由権にまで拡大して解釈していたのかもしれない。しかし田中正造が本当に願
っていた憲法の条項は、「大日本国帝国憲法」にはないわけで、それこそ戦後の
「日本国憲法」の第25条もその一つだし、それから第11条、第12条、第13
条――生命、自由及び幸福追求の権利。こういったものの登場をまたねばならな
かったはずだと思うんですね。しかし彼は死ぬまで「大日本帝国憲法」と新約聖
書の「マタイ伝」を自分で綴じて合本にして持ち歩いていた。
 
 そういう意味では、明治以降の人の場合、天皇に対する気持ちというのは複
雑ですね。田中正造なんか議員活動を10年間やって、これではどうしようもな
いというので、議員を辞職した。しかしそのすぐ次にやったことは天皇への直訴
です。彼には徳の豊かな天皇なら、この鉱毒問題を解決してくれるんじゃないか
という期待感みたいなのがあったわけです。また徳富蘆花の「謀叛論」なんかで
も、輔弼の任にある「閣臣の輩」が、幸徳たちを大逆罪で死刑と決めた。それを
明治天皇の名において、24名の死刑の半分を救ったけど、中途半端じゃないか。
全部の命を救うのが本当の天皇ではないか、という言い方です。これもやっぱり
明治時代の人に共通するものであると思いますね。

――そういう天皇観の問題を含めて、やはり現行憲法の象徴天皇制というものを、
明治憲法における天皇制の問題ともう少し関連させて考えてみていいのではな
いか。これは素人的な発想なんですが、明治憲法は、本来は普通思われているよ
りずっと立憲主義的なんだけれど、その後の憲法学者たちの「解釈をめぐる論争」
や、とくに天皇機関説攻撃などを通して、「天皇神聖」の国体観が肥大化してし
まった。しかもそれが「天皇は君臨すれども統治せず」という先入見と入り混じ
って一般化して、整理されないままに、なんとなく戦後の憲法制定過程での「象
徴天皇制」の考え方にまで引き継がれてしまった。しかしその根底では、明治以
来の天皇制の考え方から根本的に離脱できておらず、また天皇の存在も、明治憲
法的な「大権」はなく、戦争中のようなファナティックな性格もないけれども、
やはり機関説的な意味合いで「象徴」という名において生き延びたのではないか。
そこで「新憲法」の第1章に、当たり前であるかのように「天皇」が置かれてし
まって、しかもそれを誰もあまり不自然と思わなかった。

河上> それはやっぱり、高野岩三郎の「囚はれたる民衆」の精神構造が、実
際に憲法を制定した人たちの中に、最大公約数的に残っていたということなんだ
と思いますね。しかし、そういうものを越えて、成文となった「日本国憲法」が、
曲がりなりにも国民主権や基本的人権という普遍的原理を確保していることも
間違いのない事実であって、その上にこの憲法は、世界に誇りうる「戦争放棄」
の原理をしっかりと保持している。その点がこの憲法をとらえるうえでのポイン
トだと思いますね。


●「戦後レジームからの脱却」という考え


――さて、これまで憲法研究会の「憲法草案要綱」を軸にして、日本の戦後政治
の枠組みをつくった1945年から46年にかけての憲法制定過程を、その背景に
ある日本近現代史の問題なども踏まえて語っていいただいたわけですが、終わり
に、いま安倍政権の下で急に押し出されてきた「日本国憲法」改正の動きをどう
見ておられるか、またそれにどういう姿勢で立ち向かったらいいのか、――この
点について、今回のお話の締め括りとしてお聞かせください。

河上> 小泉政権時代に比べて、安倍政権になってからのほうが、国家戦略に
関するかぎり、政策、政治行動は非常に論理的である、というのが私の受け止め
方なんです。それは安倍首相が、「戦後レジームからの脱却」とはっきり言って
いるからで、小泉時代の政治では、これがやや情緒的に唱られておったのと、経
済改革にかなり矮小化されていた。それに対して安倍総理の方が、「戦後レジー
ムからの脱却」というスローガンを掲げているだけに、政治の進め方が非常に論
理的であるというのが私の見方です。
 
その彼の言う「戦後レジーム」の骨格をつくったのは、第一は「日本国憲法」
であり、第二が「皇室典範」であり、第三は「教育基本法」です。これがいわば
三位一体となり、お互いに結びあって、これまで一つの民主主義的なものとして
あったのだと思います。そして、この戦後的な三位一体が、「明治時代のレジー
ム」――つまり明治22年、23年に完成したレジームであるところの、「大日本
国憲法」「皇室典範」「教育勅語」の三位一体とちょうど対応していた。この明治
的な三つのものを「扇」の形にたとえれば、それをパッと裏に返したのが「戦後
レジーム」なんですが、安倍首相はそれをさらにまたもう一度裏返そうとしてい
る。しかしこの21世紀の世界の状況の中で、また「戦後レジーム」が生まれた
以後の世界の歴史の大きな流れの中で、それが可能なのか。この問題がいま提起
されていることなんです。だがそれが不可能でもやりたいという衝動が、今の安
倍政権にはある。
そのように「戦後レジームの是非」ということが問われているときに、ただ「日
本国憲法は日本人がつくったんだ」というふうに主張するだけでは、それをただ
「アメリカの押しつけなんだ」と言うのと同様に、これまで見てきたような実態
にそぐわないだけではなく、やっぱり歴史というものを必ずしもを正しく受け止
めていない、と私は思っているんです。

「戦後レジーム」を全部覆したい、扇をひっくり返したいというのは、岸信介
の孫としての安倍首相の、やむをえざる心情というか、ある意味で本音かもしれ
ない。しかし、それがどんなに不都合であっても、それは、やっぱり一つの「歴
史」として受け止めなければならないものなんです。われわれの「良いもの」、
「大切なもの」というのは、調子よくいった時に得られるものではなくて、むし
ろ悲惨な体験を通じて、初めて手にすることができるものだと考えた時に、いわ
ゆる「戦後レジーム」をどう評価するかという答が出てくるんではないか、とい
うのが私の考えです。


●「亡国の体験」からの再出発を


――ではそういう安倍内閣の動きに対して、どういう姿勢で私たちは立ち向かう
べきか。今までの憲法論をふまえてのお考えを、お話しいただきたい。

河上> まず、「われわれは亡国を経験したんだ」というところから、もう一度
出発しないといけないということです。あの戦後改革はアメリカの意向だったと
か、憲法第9条はちょっとした失敗だったとか、あるいはあの戦争は「一場の悪
夢」であって、なるべく早く忘れた方がいいということでは、この世界の中で生
きていけないのではないかということです。
 
 しかし、そこからもう一度出発するといっても、何かきっかけになるジョイ
ント(継ぎ手)のようなものがないと、なかなかできません。そこで私は、「明治
以来のアジア観を根本的に変える」という心理的・理論的作業をやることが絶対
必要だというふうに思っているんです。本当は、これは1945年の敗戦直後にや
るべきことだったのだけれども、まもなく冷戦状態に入って、しかもアジアの大
半が全部共産圏に属してしまったために、この作業は全部封印せざるを得なかっ
た。あるいは封印してもなんとか時を過ごすことができた。そのために、戦後
60年経った今になって、その作業をやらなくてはならないということになって
しまっているんだと思います。しかし、それは憲法を守るためにも、ここで乗り
越えないといけない課題としてある。
 
それにはまず、「アジアの指導者は日本だ」という意識を捨てることが必要で
す。そして中国が台頭してきているという事実、あるいは韓国にせよ北朝鮮にせ
よ、私たちの隣の国々が自立しようとしている事実を、まず認める姿勢が必要で
す。また、そういうアジアの国々をわれわれは侵略したんだという「これまでの
歴史」を変えることはできないのだということを、素直に冷静に認めることから
始めなくてはいけない。――その上に立ってはじめて、アジアとの新たな関係を
具体的につくりだすことができるし、また今日の世界の中で、「日本国憲法」の
前文が理想として掲げたような「国際社会における名誉ある地位」というものを、
自民党の政治家たちが意図的に誤解して使っているのとは別の意味で、ほんとう
に確かなものにしていくことができるのだと思います。
 
 ドイツの場合は第二次大戦のあと、それまでの独仏の「怨念の戦い」に終止
符を打つために、敗戦の中から、新しくヨーロッパの共同体構造をつくり上げま
した。まず経済共同体から出発して、それをアデナウワ-時代にやり遂げた。そ
の後、今度はブラント時代に東方外交を展開して、それまでいつもポーランドを
蔑視していた東方観を根本から変えた。それが今、EUという形で発展している
わけです。ところが日本の場合は、過去の不都合な事実をいまだにまともに正面
から認めていないために、今日までアジアで具体的な作業、仕組みを産み出せず
にいる。いまアジアでヨーロッパとまったく同じものをつくろうと思っても、な
かなか難しいとは思うけれども、何かそういう新しい関係をつくろうとうする努
力が必要だと思うんです。


●アジアとの新しい関係を築くために


――安倍首相が、戦後にそれまでの扇を一回ひっくり返したものを、もう一度ひ
っくりかえして元に戻そうとしていると言われましたが、これを、いま言われた
アジアとの関係の中に置いてみると、まさに大東亜共栄圏的な対アジアの関係に
なってしまいますね。

河上> だから、かつて竹内好が「大アジア主義」の研究の結論として、「日本
人のアジア主義というのは、つねに連帯と侵略が離れがたく結びついている。こ
れから脱却することが必要なんだが、それを言っている人は一人もいない」とい
うふうに言っていた。しかし彼は晩年に石橋湛山の「一切を捨つるの覚悟」とい
う考え方を知って、こんな人が日本人にいたのか、と驚いたわけです。ですから、
そういう昔の「アジア主義」の延長では駄目なんです。

――「戦後レジーム」の扇をそのままひっくり返すと、かつての大東亜共栄圏的
な「アジア主義」と同じ位相になる。しかし違うのは、今は日米同盟があるから、
そのひっくり返した先に、今度は日本独自ではなく、アメリカとの軍事同盟の中
での「アジア主義」が出てくる。そのうえ日本は、憲法をはじめ戦後の改革を事
実としてアメリカと結んでやってしまっているから、その意味でも単純なひっく
り返しではやっていけない。

河上> そのひっくり返したりすることをやっている世界が60年前と違うわけ
で、アジアそのものが全く変わっているわけです。

加藤> たしかに、「戦後レジームからの脱却」といっても、その日本の「戦後
レジーム」というのはアメリカも共同でつくったわけだからね。それが、いま慰
安婦問題やなにかで、安倍首相たちがひっくりかえそうと思っても、現にそのア
メリカの内部で問題が出てくるということにつながっている。

――考えてみれば、戦後に新憲法ができたこと自体が、アジア太平洋侵略戦争の
結果ですものね。逆説的に言えば、日本国憲法はそこから出てきたという面もあ
る。つまり憲法は、「アメリカが与えた」云々というだけでなく、また明治以来
のデモクラシーの伝統があるというだけでなく、アジアへの侵略戦争の結果とし
てできたということ――これをもっと深く考えなくてはいけない。

加藤> そういう意味では、日本の左翼とか社会主義運動は、戦前も戦後もア
ジアに弱かったのではないか。だからこれからの護憲運動というのも、いま河上
先生が言われたようなアジア的視点――そういう構想との連動の中での護憲と
いう視点が必要なのではないか。ただ「憲法を守れ」で、「護憲、護憲!」と叫
んでいるのではその護憲さえもできないというなかで、その活路のモメントはア
ジアだということ。それが河上先生がいつも言われる石橋湛山の「小日本主義」
とか、勝海舟の思想とか、そこからくるアジア観の転換ですね。いままでの単な
る日中友好運動などと違う、日中間や日韓の連帯を軸にしたアジア。それとのつ
ながりのある護憲運動の展開。――そういういうことだと思いますね。


●原爆体験を日本人の「理論」に


河上> それから、これはいつかも話したと思いますが、私は1994年頃、中国
の長春市の吉林大学にシンポジウムがあって行った。その時に向こうの若い学者
が、「広島を平和のシンボルのように言うのは、われわれ中国人として非常に耐
え難いことだ。広島こそ日清戦争以来、中国侵略の発進基地だったのではないの
か」という発言をしました。「原爆が落ちたのもその結論でしかない」というよ
うなことを言ったんです。そこで日本の代表の学者が、その人はむしろ左翼だっ
たんだけど、憤然と怒り出してひどく険悪な空気になったことがある。

それで私が「あなたが言うのも分かるけれど、しかし原爆というものが人類に
与える結果がどんなに恐ろしいものであるか、おぞましいものであるかという
ことを、本当に経験したのは日本人だけだ。チェルノブイリの原発事故が起き
たときに、地域の共産党の幹部が原発の高いところに上がって、赤旗を掲げ
て、「共産主義は亡びない、ビクともしない」と言った。それをカメラマンが
写真に撮ってニュースに流した。けれども二人とも10日後に放射能で死んでし
まった。
そのように放射能の恐さに対しての無知というのは大変なことであって、まし
てや一般の民衆にどんな被害が及んだか、十分に理解してほしい。それを本気
で言えるのは、広島を体験した日本だけなんだ。そういう意味でシンボルに
なっているんだ」という話をしたんです。
 
私が考えるところでは、「原爆」というのは未だ人類が経験したことのない、
そして今後、人類が総体として滅びるかもしれない、そういう契機をはらんだも
のである。そういう原爆が日本に二発も投下されたという事実と体験を、戦後の
日本人は自分の精神の中に、あるいは運動の中に、ちゃんと理論的に組み込んで
きたかどうか。――たとえば社会党の理論論争でもそういう議論はあまりなかっ
た。反核、反原発という人はいるけれども、それがわれわれの進路や、社会生活
の中や、理論の中に組み込まれているかどうか。これを率直に反省するべきだと
思うんです。


●日本国憲法の根本原則は変えられない


――最後に、これは改めてご意見をお聞きするまでもないことだと思いますが、
河上先生は「改憲」そのものに対してどうお考えですか。憲法を変えることに反
対ですか。それともより良いものに変えてもいいとお考えですか。

河上> もちろん反対です。今の憲法は、ちょっと細かく書きすぎているとこ
ろもあって、実態にあわないところが出てくるかもしれないけれど、しかし憲法
を変えることによって、原則が失われる方がこわい。それが私の基本的な立場で
す。

――憲法研究会の「憲法草案要綱」のいちばん最後には、「此ノ憲法公布後、遅
クモ十年以内に国民投票ニヨル新憲法ノ制定ヲナスヘシ」とありますね。このこ
とについてはどうですか。

河上> やはり国是というのは、百年単位で考えなければいけない。アメリカ
のように“amendment”という修正条項を加えていって、そこの部分だけ都合
が悪ければ変えられるというシステムの伝統があれば別ですけど、多少解釈的に
少し膨らむ場合があったとしても、やっぱり原則は変えないほうがいい。その憲
法研究会の「十年以内」というのは、はっきり言って少し早い(笑い)。おそら
く占領下ということで十分に条文を書けなかったから、そう書いているのであっ
て、占領がはたして6年で終わるかという自信もなかったのかもしれない。

――ちなみに、先ほど引用した鵜飼信成氏の『憲法』という本は、当時の鳩山首
相がやはり改憲に意欲を見せ、教育委員会法案をめぐって国会が紛糾した1956
年の4月に初版が出ているんですが、この本の中で、鵜飼さんは「憲法を変える
といっても、原理的に変えられない部分と変えていい部分がある。細かいところ
は変えてもいいが、それを変えることによって憲法の成立根拠を失うようなもの、
日本国憲法の根本原則に関する部分は、憲法第96条の改正手続きによっては変
えられない」ということを言っています。その変えられないものとして鵜飼さん
は、憲法前文を踏まえて、「憲法の基本的人権尊重主義と永久平和主義とは、国
民主権主義と不可分の一体をなしており、それを変更することは、当然に憲法の
同一性を失わせることになるだろう」と書いています。第9条の「戦争の放棄」
は、まさにその変えられない部分の核心にある。

河上> それが「戦後レジーム」の扇の根底のところにあるんだけれども、安
倍政権はその一番変えてはいけないところを、いま変えようとしている。

加藤> 安倍政権の目指している改憲というのは、天皇制問題までも見据えて、
また戻そうとしているのだろうか。

河上> そこまで行っていないと思うが、現に「天皇は、いまは国の象徴なの
に、外国の大使が来たら信任状を受けるじゃないか。これはすでに元首であるの
だから、明文化すべきだ」という議論があります。また、今回成立した「改正教
育基本法」(06.12.22公布・施行)では、戦後の教育基本法は「公」と「私」の
関係で、「私」に重点をおきすぎているから、「公」に比重をおくべきだというこ
とを言って、すでにそのように変わっているんですね。この「改正教育基本法」
を読むと、まずその冒頭に「教育基本法の全部を改正する」とはっきりうたって
いる。たいていの法律は一部改正なんですが、この教育基本法では、昭和22年
に制定された教育基本法の「全部を改正する」と宣言して変えているんです。も
ちろん実際には、全部は変えられないんだけれど、思想としては全部を改正する。
「本当は全部変えたいんだ。ただそうもいかないから、この程度にしておく」と
いう感じがそこににじみ出ています。しかし、いったい国会ではそういう議論が
あったのか、なかったのか。そういう意味では、事態は進んでいるのであって、
われわれは今こそただ叫ぶだけでなく、よく知り、よく考えて、そのうえで行動
することが求められている。

――では、こんなところで一応終わらせていただきます、ほんとうに長い時間、
有難うございました(了)。          (構成/文責=工藤邦彦)

*この記事の第一回で、「安部磯雄」を「安倍磯雄」と表記した箇所がありまし
た。お詫びとともに訂正いたします(編集部)。

◆この記事に出てくる憲法関係資料は、下記のホームページにより見ることがで
きます。

・国立国会図書館「日本国憲法の誕生」=
http://www.ndl.go.jp/constitution/index.html
・政府憲法改正草案(46.4.17)=
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/109/109tx.html
・憲法研究会案=
      http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052/052tx.html
・高野岩三郎案=
      http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/045shoshi.html
・日本社会党案=
  http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/084/084tx.html
・植木枝盛案=
  http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/risshisyakennpou.htm
・ポツダム宣言受諾に関するバーンズ米国務長官の四国回答文=
  http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/010/010tx.html#tc015
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