■ 海外論潮短評(55)                  初岡 昌一郎

失敗に帰したドリーム・原子力発電

   ―原子力エネルギー特別報告―
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  イギリスの代表的週刊誌で、世界的に知識層の間で広く読まれている『エコノ
ミスト』の3月10日9号が、論説欄のトップに「失敗に帰したドリーム」のタ
イトルで原発問題を取り上げている。福島以後、原子力発電は失敗に終わりそう
だとみている。

 その理由として、問題が安全性にだけではなく、コストにもあるとしている。
さらに、この号は巻央に同じ見出しの長文の特別報告を掲載している。この14
ページに上る特集は、原発の歴史、安全性、核廃棄物、コスト、展望の5章で、
包括的に問題点を洗い出している。さわりの部分のみをここに要約紹介する。

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  原発は全廃されないとしても、
  ますますマージナル(非主流・限界的)に
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 原発がチョコレート工場と同じように安全だ、という神話は吹き飛んでしまっ
た。これまで、日本の“原発村”はチェルノブイリのように独裁国家の腐敗した
官僚に管理されていたところとは違うと、政治家、官僚、事業家が説明してきた。
しかし、原発に対する熱意が、弱体な規制、安全軽視、リスクの無視を隠蔽し、
安全神話を広範囲に振りまいていたことが今や明らかになった。

 全ての民主主義国が日本ほどお粗末な管理体制で原発を運行しているとは思わ
ない。しかし、安全性に疑問を国民が抱いている民主主義国では、原発が今後減
少の一途をたどるだろう。

 将来原発に対する最大の投資を予定している中国の管理体制は、福島事故を教
訓としてオーバーホールされるだろう。その新原発が最も近代的技術で設計さ
れ、安全性に最大の考慮が払われるとしても、安全は確保できない。安全にとっ
て必要なのは最良の技術だけでなく、独立した規制・監視機関や、批判を許容す
る文化である。それらがあって初めて、さもなければ看過されるリスクを絶えず
点検できる。

 いかなる国においても、産業が国家によって管理されている場合、独立した規
制は至難の業である。しかし、国家の後ろ盾なしにリスクとコストの非常に高い
原発に手を染めようとする民間企業は皆無である。チェルノブイリ以後の原発は
安全だけでなく、低コストであるという主張は現実とかけ離れていた。多くの政
府が国民世論に押されて稼働中の原子力発電所を閉鎖し、計画を中止しているの
は、安全性のリスクからだけではなく、経済性に疑問が生じているからである。

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  原子力発電コストの急上昇が原発ルネッサンスの幕引き
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 中国は原子力発電の容量を急拡大しており、向こう10年間に原発大国フラン
スを追い抜く勢いであった。しかし中国自体からすると、電力全体に占める原子
力発電量の割合を今の2%弱から5%に引き上げるだけで、依存度は低い。福島
以後は新原発の承認をストップしており、既設と建設中の原発の再点検が行われ
ている。

 ロシアによるガス市場支配が政治問題化しており、電力が依然として規制され
ている東欧諸国では原発が許容されるかもしれない。チェコは新原発の入札を行
う予定だし、ポーランドも計画を進めようとしている。

 アメリカでは事情が全く異なる。福島の事故に加えて、安価なシェール・ガス
の開発が原発にとどめを刺した。エネルギー価格が自由な競争で決まるところで
は、原子力発電はコスト的にすでに競争力を失っている。エネルギー価格が規制
緩和されているところでは、原子力発電所を計画しようとする企業はゼロである。

 世界的に見て、原子力発電所の建設コストはいずれも当初見積もりよりも増大
している。10年前には低コストで安全な原発技術がC02を抑制して温暖化防
止にも役立つとして、原発“ルネッサンス”が語られていた。だが、西欧では低
コストは実現せず、ルネッサンスは行き詰まった。

 原発のような資本集約型産業では、資本調達のコストが建設費を左右するが、
リスクの大きな投資の資本コストはますます上昇するので借り入れは容易ではな
くなっており、ガス・プラントの建設と同じような形の見積もりはできない。ス
イスの銀行、UBSは、原発のような長期投資の資本コストが欧米で総コストの
75%に上ると計算している。

 韓国は福島以前の日本と同じく、電力の約30%を原発に依存しており、工業
国ではフランスに次ぐ韓国では、電力会社、KEPKOがフランスに競り勝ち、
2010年に初めて原子炉をアラブ首長国連邦(UAE)と契約した。対外競争
を意識してコストを低めに見積もっていたので、KEPKOは予算通りに原子炉
をUAEに提供するのに失敗した。中国でさえも国内価格で外国に原発を建設す
るのは困難であろう。

 中国でも石炭に比較して、原子力発電のコストは高い。他の国もほかに経済的
なエネルギー源を見つければ、原発に対する需要は減少する。ベトナムは今のと
ころ原子炉に熱心だが、地震帯に位置している他の国、特にインドネシアとフィ
リピンは慎重になっている。

 南アフリカは原子炉の購入を検討している。インドは机上では壮大な計画を立
てているが、原発設計建設者(運用者より以上に)に事故責任を負わせる法律が実
施の妨げとなっており、いかに安価でも中国製を買うのは悪夢だという。中東で
も原発熱はあるが、電力料金の消費者向け補助金が撤廃されると経済性が失われ
るので二の足を踏んでいる。この地域では太陽熱発電のコストが年々下がってい
るので、そのウエイトが増している。

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  原発は“クリーン”な夢のエネルギーという神話の破綻
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 2020年までに排出される二酸化炭素は、20世紀全体に排出された総量を
上回ることになると予想される。このような規模の排出が続くことは、人間と自
然界の双方にとって破滅的な結果をもたらす。二酸化炭素の排出を伴わない原子
力発電は事態を改善するはずであった。それを理由に原発が推進され、巨額な補
助金が投じられた。

 だが、50年以内に石炭利用の火力発電量を代替するためにだけでも、現在の
原子力発電能力を3倍以上にしなければならない。それどころか、老朽化しつつ
ある世界の既設原子力発電所を更新するだけでも、いま中国が計画している原発
建設以上のスピードで新原発を増やさなければならない。それが仮に実現したと
しても、現在年率3%で増加し続けている二酸化炭素排出量の増加を4年間分遅
らせるにすぎない。

 いかなる技術も、技術自体で気候温暖化問題を解決できない。再生可能エネル
ギー、原発、エネルギー効率利用のすべての現行技術を動員しても、現在の生産
活動のレベルが続く限りそれは不可能だ。気温上昇を摂氏2度以内に抑えるため
には、2050年までにC02排出を80%削減しなければならない。この挑戦
の真の規模が理解されてはいない。その点から見ても、原子力の貢献度は小さな
ものである。

 再生可能エネルギーは高くつくが、原子力発電のコストも決してそれに劣らな
い。今日、原発の技術が向上し、これまでの欠陥や安全上の問題点が解決したと
いう人たちもいるが、それは自分たちの考えている技術問題の範囲内での議論に
すぎない。

 より大きな根本的社会政治問題がその議論には考慮されていない。原発は核廃
棄物を出すが、それを処理する問題は解決の糸口すら見えない。現在の技術では
低レベルの廃棄物が処理可能とみているにすぎない。最大の問題は原子力利用が
プルトニュウムを必ず生み出すが、これが核兵器の拡散につながることである。
原発が付随的にプルトニュウムを製造する能力が、政治的に足枷になっている。

 プルトニュウムを生まない“第4世代”の原発が開発中であるが、それも地球
上に存在しない原子を生み出す。また、その安全性も疑問である。この新技術も
実用化にはまだ少なくとも20年以上かるが、それもコスト次第だ。

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  “シンク・スモール” ― ちぢみ思考の時代
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 経費削減のための普及型小型原子炉、建設コストを抑えるサイロ利用の地下型
原発など、様々な工夫や改良型原発の提案が生まれ、安全性確保のための改善案
が研究されている。これまで(大)規模のメリットが主張されたが、今度は
(小)規模のメリットが主張される。だが、小規模原発10カ所を安全に運連す
るのが、
大規模な原子力発電1カ所よりも容易だと納得させるのは困難だ。工場の用地取
得とは、基本的に異なる。

 仮に現在の改良型ではなく、根本的に新しい技術がテイクオフしたとしても、
それは研究と開発という次元に基本的な問題があるのではない。実用化という観
点で考えられなければならない。

 新技術の実用化には、それとは無関係なさまざまな技術に依存している。それ
らは規制されていない市場で使われているもので、ベンチャー・キャピタルが生
み出したものも多い。発電は総合技術で単一の技術に依存しているものではな
く、一分野の改良や革新によってのみ安全性や経済性は保障されない。

 原子力の寿命とその影響は何世紀にもわたるのに、自らの基準から見てもその
技術はまだ若すぎる。核の寿命と慣性からみて、フクシマのような破滅的事故の
可能性を排除できない。エネルギーを全体的に見て、関連諸技術は相互的に何十
年もかけて成熟し、成功を収めてきた。原子力技術は究極的にはより大きな役割
を果たすかもしれないが、その歩みは遅々としたものであろう。原子炉内部では
ミリセコンドで変化するが、その外部では変化に何世代もかかる。


●●コメント●●


 自分が熟知していない問題を扱った長大な報告を紹介する困難と不安を今回は
少なからず味あうことになった。要約はもとから意図していなかったが、技術的
な議論はよく理解できないので、取り上げるのを最小化したが、それでも問題の
性格から見て避けることはできなかった。

 保守リベラル的な立場をとる『エコノミスト』が従来原発に否定的な論を掲げ
たことはなかったが、今回は社説でも明らかにしているように、それ自体に否定
的なニュアンスを含む、明確な慎重論を打ち出している。これは、欧米で支配的
となりつつある世論を反映しているし、この報告の持つ影響は国際的に大きいだ
ろう。

 しかも、その慎重論が政治的な配慮によるものではなく、問題の本質と技術の
限界的な制約の考察から派生している。原子力が永続的な寿命と影響を持ってい
るのに、その制御技術はいまだ未熟である。それだけでなく原子力利用には原子
力制御技術だけではなく、他分野の既存諸技術に依存している。ここに安全上の
もう1つの落とし穴がある。

 この報告が指摘している原子力発電のデメリットは、3つの側面にわたってい
る。第1が技術の未成熟と人間が完璧でないことからくる安全上の不安、第2が
原子力発電のコストは上昇しており、経済的メリットが失われていること、間接
的なコストを考えるともはや原発は企業化に不適であり、国策のみに依存してい
ること、そして第3は、原子力発電が核兵器の製造に直結していることから、核
兵器の拡散につながる必然的な危険である。

 本報告は、地球温暖化と環境問題が、原発を含め、技術的な解決のみでは不可
能なことを指摘している。エネルギー問題も、生産活動と消費生活の効率化と抑
制、環境調和型ライフスタイルの普及定着なしには解決できない時点に、とっく
の昔に逢着していることを認識せざるを得なくなっている。このような解決は漸
進的なものではもはや間に合わず、大胆かつ革命的な転換が求められている。

 地球の資源や環境利用することに対する課税制や、環境破壊に対する「汚染
者・破壊者負担」の原則の法制化、それを助長する行動や言説に対する制裁も必
要かつ不可欠である。

 末尾に、本稿と直接に関連しないが「人気のある、もっとも意味のない会議」
という見出しの記事が『エコノミスト』3月25日号に掲載されているのに触れ
ておきたい。それによると、ジュネ―ヴ軍縮会議はこの15年間、日本を含む6
5各国によって毎年24週間(約半年間)も開催されてきた。

 全く何等の結論も合意も生んでいない会議が打ち切られずに延々として継続さ
れてきたのは、会議の大義名分が世界的な支持を受けていることによるだけでは
なく、満場一致制による運営のために、会議で結論が出ないことに安心して、各
国代表団はスイスでの公費長期休暇(?)を楽しんでいるからのようだ。「人気
がある」のは、会議参加者にとってだけだとこの記事は皮肉っている。

 去年はノルウェーやオーストリアなどの努力によって、核軍縮に焦点を絞り、
結論が出なくとも会議の討論内容を国連総会に報告する案が出されているが、そ
れすら宙に浮いたままである。今年の会議にエジプト新政府代表団が、核拡散防
止の合意を追求する非常に幅広い作業プランを提案し、ほとんど合意ができた
が、最後にパキスタン政府だけの反対によって葬られたという。

 多くの近年の政府間国際会議は、多数決を否定して、満場一致の前提のもとに
組織されている。環境関係の会議にそれが圧倒的に多い。よく言えば、すべての
国が安心して参加できるのだが、その半面何事も決められない会議、ただ参加と
演説だけの国際会議がますます増加している。

 それだけに、一般市民やマスコミの関心も惹かず、会議参加者には緊張感や義
務感がなくなる。原発問題もこのような国際会議に委ね、何年、何十年にもわた
り参加者だけが楽しむ討論会を組織することによって、当面の責任と結論を回避
する動きもある。

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