■―回想のライブラリー(3)―

旧友胡啓立氏に招かれた旅ー日中関係悪化のなかでー

         初岡 昌一郎
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 この夏休みも終わろうとする8月31日に『60年安保』(森川友義編、同時代社)が出版された。これは当時の学生運動をリードした全学連の指導的立場にあった6人とのインタビューによって構成されたオーラル・ヒストリーである。その対象となっている時期は主として1955年の砂川闘争から60年安保前後までで学生運動が最も高揚した頃である。その当時の経験や活動の一部を共有している私などにとっては極めて興味深い記録である。

 今回の冒頭にこの本をとりあげたのは、この本自体を論評するためではなく、本書の語り部として登場している3人と9月4日より10日までの1週間、共に中国を訪問したからである。その3人とは、小島弘(全学連副委員長、現世界平和研究所参与)、小野寺正臣(全学連書記長、現在は会社経営)、篠原浩一郎(社学同委員長、現在は途上国援助活動をするNPO事務局長)である。篠原は、このメールマガジン「オルタ」第12号のインタビューでそのNPO組織と活動を語っている。

 『60年安保』のトリの語り部、森田実(政治評論家)はこの本全体を通じて登場する主役の一人で、当時の全学連で島成郎(故人)と並ぶ最高の実力者であった。森田は多忙な所用のため残念ながらこの訪中団に参加できなかった。

 『輝ける全学連』委員長だった香山健一(学習院大学教授)はすでに故人となっており、博子夫人にこの訪中団の名誉団長となるよう依頼した。香山夫人や小島、小野寺両兄と訪中するのはこれで二度目だった。1998年、故人の遺志によってその蔵書が香山文庫として中国社会科学院に受け入れられることになり、その開設記念式に学習院の先生方や香山ゼミ生たちと共に出席したからであった。

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 北京を初めて訪問したのは日中国交回復前の1972年8月で、故岡田春夫(社会党代議士、元衆議院副議長)の紹介によって、中国共産党対外連絡部を頼り、全逓石井平治委員長(当時)と二人、パリからエアフランス機で入った。文化大革命が終息期に入りつつあり、機能停止していた総工会の組織的回復の兆しがかすかに感じられるようになっていた時だった。北京空港から市内に向かう道は暗く、自動車はほとんどみあたらず、文革のスローガンが所々に翻っていた。出迎えに空港に来てくれた孫盛泉、陳瑞華の両兄とはその後、長い付き合いが続いた。しかし、孫さんは高齢で病気療養中、今回は会うことはできなかった。陳さんは作家陳舜臣の従弟で、神戸生まれ、解放後に中国に帰った人である。

 その後の北京の変化は短期の一旅行者にとっても目をみはらせるものがある。北京ホテルに泊まるのは今回で4回目だったが、その周囲の変化にはその度に驚かされた。このホテルは解放後ソ連が記念に寄付して建設されたもので、外見の立派さに比較して居住性は良いものではなかった。しかし、今回はすっかり見違えるようにリノベーションされ、近代的なホテルに生まれ変っていた。とはいっても、木で鼻をくくったようなレセプションの態度にはいささかも変化がない。事情通のコメントによると、これは官僚主義の残り滓というよりも、高級幹部の息子や娘が多くコネで雇用されているからだ。彼らの態度はデカク、サービス感覚などないのだという。

 庶民の暮らしからみた北京の変化については、陳真『北京暮らし今昔』(里文出版、2005年2月)という好書があるので、一読をお勧めしたい。著者は東京生まれで、台湾において育ち、国民党に追われて北京に逃れ、1949年以来北京放送局で日本向け放送を担当してきた人である。この本にはNHKの「中国語講座テキスト」に同じタイトルで24回連載された随想がまとめられている。陳真はガンとの闘病生活の後、本年1月にそのドラマティックな生涯を閉じた。彼女の人生については、この本に序文を書いている野田正彰が『世界』に「陳真-戦争と平和の旅路」という、感動的な文章を2005年2月号から5回にわたって連載していたので、毎回楽しみにして読んだ。この連載はその後、岩波書店より1冊の本として出ている。

 上海における3日間の滞在ではさらに変化の印象は強烈だった。僅か2年前にも3日ばかり上海には行っているのだが、その時は浦東地区のホテルで行われた会議にほとんどの時間を費やしたので、この新開発地区がシンガポールのような新しい近代的な街として整備され、高級マンションが軒をつらねているのにただ驚くばかりだった。

 今回、杭州に自動車で日帰り観光をした時には、上海から進む高速道路沿いの両側に、3階から6階の新しい個人住宅が点在しているのが目を惹いた。伝統的な農家らしい建物はまったく見あたらない。高級住宅風の建物はほとんど農家だという。しかも、実際の農業労働を担っているのはこの高給住宅の主ではなく、内陸地方からの出稼ぎ労働者だというのだから、こうした変化を手放しに喜ぶことはできないだろう。

 経済の近代化と発展が貧富格差を拡大していることは既に指摘されているが、ハードな面での変化に比して人間の意識などソフト面での変化は目につきにくい。しかし、携帯電話の目覚しい普及とIT技術の大胆な採用などは、意識の変化を加速させずにはおかないだろう。高速道路のサービスエリアにある売店をのぞくと、単行本や雑誌が派手でカラフルになっているのに気づく。もちろん、言論の自由は制限されており、政治的限界はあるのだが、いわゆる内幕物や、風水とか占いの本が流行しているようだ。

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 今回の訪中の契機は私的なもので、回想の世界につながっている。私たちの招待者は、旧友の胡啓立であった。

 胡啓立といっても、日本ではそれほど一般的に知られたひとではないかもしれないが、中国では知らない人はまずなく、政界の一線から引退してかなり年月が経った今でも、特に知識層から強い尊敬を受けている指導者である。

 1961年の冬から春にかけての3カ月余り、胡啓立と私は「世界青年フォーラム」準備書記局のメンバーとして、モスクワのホテルで一緒に暮らしていた。

 この書記局にはヨーロッパとアフリカから各3名、米州とアジアから各2名の青年団体の代表が半年余り常駐していた。私は社青同代表だったが、全学連や総評、民青などからなる協議会の推薦を受けて派遣されていた。国際書記局には非共産党系は私を含め4名だったが、社会民主主義系は私一人で、アジア地域の他に西欧の非共産党系青年団体との連絡も担当した。そのおかげで、北欧やフランスなどにはじめて行く機会にも恵まれた。

 今と違って、この頃は外国に行く機会は非常に制限されており、外貨の持ち出しは僅か200ドルしかできなかった。横浜港から貨物船でソ連極東の港ナホトカに渡航し、そこからハバロフスクへ汽車で一日、ようやく飛行機でモスクワに向かうという旅だった。

 その前年の1960年9月、このフォーラムの国際準備会のためにモスクワに行った旅は、さらに大変だった。それは、私にとっては初めての国外旅行だった。ようやく捜し当てたロシアの貨物船が八幡から出るので、東京から夜行で北九州に行ったものの、雨が降り続いたために鋼板の荷積みが1週間も遅れ、そのうちにモスクワでの会議に間に合わなくなってしまった。カンパをもらい、東京駅で盛大な見送りも受けて発っているので、いまさら後戻りもできず、シベリア経由でモスクワに到着すると、ホスト側から、日本が中国とともに常任書記局に選出されたことを告げられた。

 帰路はシベリア鉄道で10日間かかってナホトカにつくと、日本行きの船が幸運にもすぐに出るという。何処行きかと問うと、「船は船長が動かす。日本は小さいからどこでもあまりかまわないでしょう」という返事。乗船してはじめて、その貨物船が石炭を積んで室蘭に向かうことがわかった。おかげで北海道に初めて足を踏み入れることになったが、何分、八幡の船待ちで僅かな有り金を使い果たしていたので、東京に帰る旅費がない。そこで札幌の社会党書記局に駆け込み、はじめて会った河野さん(後に本部婦人局勤務)に切符を手配してもらった。

 この1カ月ばかりの留守中に二つの出来事があった。一つは10月に社会主義青年同盟(社青同)結成大会があり、その全国準備会組織部長兼東京準備会書記長だった私は、全国中執兼本部専従書記局員に選出されていた。もうひとつは、社会党浅沼書記長の暗殺事件だった。シベリア鉄道でハバロフスクまで辿り着いた時、この事件の第一報をソ連側より知らされた。しかし「アメリカ帝国主義の手先によって殺された」という抽象的な話で、要領を得なかった。東京に帰った翌日には、浅沼書記長暗殺に抗議する大デモがあり、「社会新報」に載った写真では、その先頭の一団に私の姿も写っていた。

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◇(4)
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 話をもとに戻すが、60年代初めのモスクワの生活は、貧しかった戦後をようやく抜け出し、高度成長期のトバ口に入ろうとしていた日本とそれほど格差がなかった。フルシチョフ全盛時代で、スターリンの暗黒政治からの「雪どけ」を迎え、対外的には「アメリカに追いつく」という野心的な政策がとられ、ようやく社会に明るさが見えはじめていた時期だった。私たちはレニングラードスカヤホテルの一室を無料で提供され、月給800ルーブル(当時の交換率は1ルーブルが400円)を書記局から支給されていた。ルーブルの交換レートは人為的に高く設定されていたし、兌換性はなく、物価は日本と比較してはるかに高かったが、日本で大学卒の初任給がまだ2万円前後だったことからみれば、すごい高給のように思えた。

 書記局会議では、すでに中ソ論争が影を落としており、平和共存路線を批判する中国代表の胡啓立は孤立していた。当時、私は25才の若輩だったが、胡啓立は31才ですでに大人の風格を持っていた。彼は英語は堪能で、国際学連副委員長としてプラハにも常駐した経験を持ち、国際関係に明るかった。書記局では、英、仏、露の3カ国語で会議や作業が行われたが、彼はフランス語通訳を本国より同行しており、正式な場では常に中国語で発言していた。

 私は政治的には中国の立場と一致していなかったが、彼には人間的魅力を感じていたので、彼を敵にまわすような議論には距離をおいていたし、夕方には他の仲間とは別に彼とよく一緒に食事に出かけた。たいていは市内の北京飯店だったが、すでに中ソ関係は相互の技術者引き揚げの段階に進んでおり、モスクワの中華料理はロシア化が顕著であった。5月のメーデーのために彼が帰国する時、一緒に北京に行こうと招待してくれた。私も心が動いた。しかし、ソ連をはじめ他の書記局員から「アジアデスクが二人とも不在になるのは困る」と反対を受けて断念した。4月末に帰国した胡啓立はついに二度とモスクワに帰任しなかった。中ソの対立はその後決裂状態に突入し、青年学生運動もその波をもろに受けることになっていた。

 胡啓立は、当時中国共産主義青年団(共青)書記で、第一書記が胡耀邦であった。彼はまた中国全国青年学生連合会副主席として国際関係の責任者でもあった。彼とはその年の秋、プラハの空港でバッタリと会い、短い言葉を交わしただけで別れた。そして、その後再会するまでに30年以上の歳月が流れた。

 文化大革命が党と共青幹部に集中的に攻撃を加え、彼は寧夏自治区の辺境に下放(追放)され、強制的な労働を課されたことを後に知った。私が72年に訪中した時、まず彼の消息をたずねたが、「地方で活躍中」という答しか得ることができなかった。

 しかし、73年秋に復活した総工会の招待を受けて単身訪中した際には、胡啓立は名門の精華大学副学長として復帰していたが、アメリカ旅行中で会うことはできなかった。彼はその後、共青第一書記、天津市長、党中央弁公室長と急速に権力の階段を登った。そして、盟友で、共青第一書記の前任者であった胡耀邦が党第一書記に就任した時には、党中央書記兼政治局常務委員としてその右腕になり、後継者とみなされるようになっていた。

 彼が公職に復帰してまもなく、私が出した賀状に直ぐ返事が届き、賀詞の交換は復活した。しかし、1989年6月の天安門事件で、彼は趙紫陽首相と共に鄧小平等によって引責辞任に追い込まれ、再度の失脚を経験することになる。その後、アメリカの外交誌『フォーリン・アフェアーズ』に全文掲載された「天安門文書」はこの間の事情を詳細に伝えている。この文書の信憑性を疑問視する向きもあるが、私はこれを読み、さもありなんと納得させられたものである。

 胡啓立に私よりも先に会い、つきあいを始めていたもう一人の日本人が、1956年にプラハの国際学連会議に出席した香山健一であった。二人とも、当時はそれぞれ自国の全学連委員長であった。彼らの関係が復活したのは、胡啓立が共青第一書記に復帰しており、香山が学習院大教授として、大平首相の、次いで中曽根首相の日中関係のブレーンとなっていた1980年代初めのことであった。香山の提言によって、1983年の日中青年大交流や、日中21世紀交流推進事業、日中賢人会議などが相次いで実現したが、これは相手側に胡啓立があってその信頼関係からはじめて実現したことであった。

 天安門事件からしばらくして胡啓立が機械工業部長(大臣)として政治舞台に返り咲き、日本を訪問した時(90年代中頃のことだが、正確に思い出せない)、彼と私の再会を手配してくれたのは香山だった。すでに姫路に通っていた私は、大阪ロイヤル・ホテルで30年以上の歳月の後に再会することができた。先に述べた香山文庫開設式には胡啓立が主賓として出席した。その時私が参加したのも、このような縁があったからだ。

 その後は、北京に行くたびに連絡し、その都度、夕食に招待を受けて個人的に会うようになった。彼が、日中国交回復30周年記念の5千人代表団名誉団長として来日した時にも、大使館を通じて連絡があり、大阪で彼と夫人に個人的に会うことができ、彼の滞在の最後の夜、夕食を共にした。その後、政治協商会議副主席を最後に胡啓立は政治から引退するが、「友人として招待するので、都合のよい時期に来るように」と彼からいわれていた。

 今年の初め、小島弘さんと日中関係の現状について話し合った時、中国に一緒に行こうということになった。早速彼にEメールで意を伝えると、その翌日には招待状がメールで届いた。こうして今回の訪中があっという間に実現するはこびになった。その間、10回ばかりのEメールをやりとりしたが、昔のように英語でお互いの意思を伝え合えるので、連絡はまことにスムース、かつ迅速だった。

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 胡啓立は、現在、宋慶齢基金と中国福祉会という二つのNPOの会長をつとめている。この団体の前会長は鄧小平であった。これは、いったんは天安門事件で追放された胡啓立をその才能と人柄を惜しむ鄧小平が再度復活させたという話を裏付けている。今回の滞在中に、これらの団体の他に、共青と青年学生連合会、中日友好協会などを訪問したが、どこに行っても共青団出身で胡啓立と苦労を共にしてきた人々が中心となっていた。胡錦濤をはじめ、党中央や地方第一書記クラスの幹部は共青出身が目白押に進出していることにいまさらながら気付かされた。

 もう一つの新しい発見は、日本の宋慶齢基金会の会長が、私のICU時代の恩師武田清子先生だったことだ。先生は80代後半に入っても矍鑠としておられ、この10月には先生が顧問だったICU社会科学研究会(リベルテ)の同窓会が外国人記者クラブで行われることになっているので、土産話をするのを楽しみにしている。

 日中関係の最近年における悪化については今さら詳述する必要はなかろう。今回の衆議院選挙結果は、日中関係の改善と東アジア共同体の現実化をさらに遠くに押しやるのではないかと心配だ。

 日中関係は政府レベルだけではなく、他のレベルにおいても危機的になっていることを痛感した。たとえば、青年学生レベルにおける全国規模での民間交流はほとんどみあたらず、わずかに政府関係の協力事業団や交流基金による共同作業がみられるだけとなっている。かつては活発だった労働団体の交流も中央レベルでは断絶状態となっており、今年10月の連合大会にも中国総工会は代表を送らないようだ。

 私はかつては主として国際労働組合運動で国際自由労連とそれと連携する国際産業別組合の活動に従事してきたので、日中関係の仕事をした経験は浅い。それにも拘わらず、というよりも、それだからこそ、グローバル化する世界において存在感を増している中国に背を向けている日本の現状と将来を憂慮している。

           (筆者は姫路独協大学教授・外国語学部長)