■ 集団自決と軍命

━産経新聞7月6日の秦郁彦氏の文章にふれて━

                         西村 徹
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● 集団事件報道のあり方


 産経新聞7月6日のコラム「正論」に秦郁彦氏が「沖縄集団自決をめぐる理と情」と題する文章を書いている。7月6日は旧聞である。下旬の政変で様相は大きく変わった。わずか20日ほどの間に、どれほど変わったかを確認するためにも、あえてこの旧聞を検証しておく。
  沖縄防衛の組織的戦闘が終った昭和20年6月23日、その日を慰霊の日として今年も沖縄戦の死者を慰霊する式典が行われた。「しかし今年は、住民の集団自決をめぐる高校用教科書の検定で『軍命令による強制』が削除されたことについて、県議会が検定意見の撤回を求める意見書を採択したこともあり、『騒然たる』慰霊の日となった」が、その式典の模様を伝える各紙には「生き残りの体験談を軸に情緒過剰な詠嘆調の記事が並んだ」という。しかし「今や生き残りといっても、当時は10歳前後だった人たちが主だから、要領をえないあやふやな証言ばかりになってしまった」ともいう。
  そんなあやふやな証言を鵜呑みにして「沖縄の心」におもねるだけの記事を書
いてはダメだとし、ダメな例として当日付けの朝日新聞社会面記事と社説を挙げる。社会面記事についてつぎのように述べる。
 《 県の意見書のまとめ役になった当時8歳だった議員の体験談は「200人ほどの住民と壕に隠れていたところ、3人の日本兵が来て、泣き続けていた3歳の妹といとこに毒入りのおむすびを食べさせるよう迫った。敵に気づかれるのを恐れたため」(6月23日付朝日)というのだが、記者は不自然さに気づかなかったのだろうか。
  激戦のさなかに毒入りおむすびを作る余裕があるのか、毒と告げて親が食べさせるものか、食べたとしても、苦悶(くもん)の泣き声に変わるだけではないのか、そんなことをしなくても、200人も入っている広い洞穴なら奥へ移ればすむのではないか、と疑問の種はつきない。問題はそうした検証をいっさい放棄して、記事に仕立てた記者の資質にある。》


● 資料批判のあり方


 記者の前のめりに対するこの苦言は、資料批判を重んじる歴史学者として一先ず自然であろう。傾聴に値することを認めるとして、これでケリがつくというものでもないように思う。体験談というからには伝承の過程でテクストの崩れが生じたというのではないらしいが、「毒入りのおむすび」はじつは違ったものであったのかもしれない。記憶の経年変容ということもありうる。体験談の内容は単なる創作あるいは妄想として切って捨ててよいものでもない。真実は、これを記そうとすればペン先が紙に触れたとたんに燃え上がるとエドガー・アラン・ポーはいう。言葉そのものの持つ虚構性からは誰もまぬがれることはないだろう。事柄の究明は言説の表層にのみ終始せず、内在的になさるべきことのように思う。
 
 「毒と告げて親が食べさせるものか」は異常な状況のなかではありえなくはなかったかもしれない。2005年度日本ジャーナリスト会議賞受賞作品で終戦60年企画として作られた『沖縄  よみがえる戦場~読谷村民2500人が語る地上戦~』というNHKのテレビ番組があった。そのなかで知花カマドさん(当時26歳)が証言している。チビチリガマのなかにいたところ米軍が上陸して30分後に発見されて自決することになり、こどもに布団をかぶせて石油をかけて火をつけたという。それやこれや秦氏自身の疑問そのものもなお検証の余地があるかもしれない。極限状況下の人間の行動は、よくよく当事者に身を寄せて共苦を志さない限り、体験の外にあるものには理解困難なことが多い。
  つぎに軍の「関与」について、社説についても同様の批判を氏は述べる。

 《 兵器不足に悩み、兵士に竹槍まで持たせていた日本軍にとって、手投げ弾は貴重な攻撃用武器だった。現地召集の防衛隊員(軍人)に持たせていたものが家族の自決に流用されたのに、16歳だった語り部の元短大学長が「手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語るのを、朝日が社説(6月23日付)で「悲惨な証言」と信じ込み、引用しているのはいかがなものか。》

 これもざっと見て一先ずこのようにいえるだろうとは思う。しかしながら、これはちょっと待てとも思う。沖縄に行ったこともなく、ろくに沖縄についての知識もない者には大きな口は利けないが、それでも僅かな資料を見ただけでも、これはこのまま鵜呑みには出来ないと思う。検証を必要とすることのように思う。


● 手榴弾は何に使われたか


 手榴弾も破壊力を持つ以上攻撃用であることはいうまでもない。防御用でないことは明らかである。しかし銃弾と違って擲弾筒を使わないかぎり手で投げても届く距離はわずかだ。戦時中体力章検定というものがあった。銃を背に掛けて城壁をよじ登って越えるとか手榴弾投擲とか、さらには水泳(渡河作戦用か?)まで加わり、すべて中国大陸侵略を前提にした兵員能力を計るものであった。初級、中級、上級とあり、主として手榴弾投擲の飛距離によって選別されたように記憶する。いずれにせよ大した距離は出なかったと思う。
  野球の硬式球は142グラム程度である。手榴弾は97式が450グラム、99式は300グラム、戦争末期の沖縄で多用された陶製の四式は450グラム。飛ぶのはせいぜい3~40メートルだろう。ほとんど防戦に終始した沖縄戦で米軍の圧倒的な火力を前に、至近距離でしか有効でない手榴弾が使われる攻撃機会はどれほどあったのかという疑問が残る。
  手榴弾は幾種もの金属を必要とする銃弾のように複雑でない。仕組みは簡単で、陶製は金属を必要としない。小さな町工場でも容易に大量生産が可能であった。ろくに兵器のなくなった末期の軍にも手榴弾だけは不足しなかった、というより無用の長物だったのではないか。ただしこれは推測に過ぎない。いかなる書証もない。
  


● 手榴弾と自決


 しかし中国戦線では軍は退却するとき病院などを負傷兵ぐるみ焼いたが、焼くヒマのないときは負傷兵に手榴弾を渡して自決を指示したという。自決するヒマもなしに八路軍に救出された人から聞いた。だから手榴弾は自決用に多用されていたらしく思われる。それを裏付けるかのような証言が沖縄戦の生き残りによってなされているのに接した。
  去年か一昨年か9月ごろNHK-BS 1の別番組『地獄~沖縄戦最後の33日』によると、5月20日米軍が那覇に突入、南端の喜屋武半島に一足先に逃れた住民を追うかのように、22日同半島に撤退して徹底抗戦を決定した32軍もなだれこんだ。渡野喜屋に収容中の住民を日本軍が襲い35人が殺されるという事件が起こった。米軍から支給されたメリケン粉を配っているところをスパイであるとして日本軍に捕まり、まさに「男性は残忍な方法で殺され」た。ある者は胸や首を刺されたうえ両膝のうしろを「日の丸だ」といって抉られたという。森杉多という人の『沖縄戦周辺』という著書に「隊長命令で処刑決定」とある。
 
 そしていよいよ手榴弾が登場する。9人家族中5人を殺された仲村渠(ナカンダカリ)美代さん(当時28歳)は証言する。4列横隊に並ばされ仲村渠さんは最前列最右翼に位置した。すぐ後ろに仲本政子さん(当時4歳)がいた。向かい合って日本兵が横一列に並びいっせいに手榴弾を投げた。仲村渠さんは伏せたので耳元を弾が掠めたが九死に一生を得た。仲本さんは血まみれになっていた。周りは首のない者、手のない者、修羅場だった。お二人は戦後再会互いを確認しあった。仲本さんは顔の傷を見せ、弾の破片の浮き出す腕を示した。自決か虐殺かといえばいずれでもあって、まさに軍の強制つまり虐殺による自決であった。命令書があろうがなかろうが命令が執行された。
  5月25日、軍の行動はいっさい秘匿のまま「県は速やかに与座岳以南において県民指導に当たられたい」という通達が島田知事に渡された。その結果生じたのがこれである。
  これでもやはり、朝日の社説についてつぎのようにいえるだろうか。
  《 朝日だけは突出した情緒論で終始している。他にも日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告し実行していったとか、捕らえられれば「女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた」と書いているが、いずれも事実無根に近い。》


● 事実無根?


 前出『沖縄 よみがえる戦場~読谷村民2500人が語る地上戦~』は、読谷村民は11歳から50歳までが防衛隊に徴兵されたとしている。32軍の発した「県民指導要綱」には「軍官民共生共死の一体化」と記されているという。
  奴隷狩りのように有無を言わさず住民を軍に徴兵したり、「県民指導」などと直接軍が民を指導して当然としていたり、民は言うに及ばず官の上にも軍は君臨支配していたことが明らかであろう。本土においても事情は似たり寄ったりだったから沖縄ではさらにひどかったであろうことは容易に想像がつく。「共生共死」を指導強制していたのに、常に軍は命令していたのに、常に命令を執行していたのに、いまさら命令書があったの、なかったのは笑止の沙汰ではないのか。
  ハワイで牧師をしている上原進助氏(当時12歳)は「自決をいさぎよしとする教育がなされた。天皇陛下のために、捕まって指切られたり目玉とられたり首切られたりでは天皇陛下に申し訳ないと、そういう教育」だったと言う。朝日社説にいうとおりであり、終戦の日若い紅顔の中隊長が「米軍に鼻を削がれても耳を切られても隠忍自重せよ。中隊長は(降伏が)ウソであってほしい」といってワッと泣いたのを私は見た。
  本土以上に「本土化」、皇民化、奴隷化が進んでいた法治国家以前のような軍独裁恐怖政治の「美しい国」で、まるで民主主義国家ででもあったかのように命令書があったの、なかったのなどの論議は意味をなさないだろう。

               (筆者は大阪女子大学名誉教授)

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