今、『ハンナ・アーレント』から何を受け取るか

福岡 愛子

第25回東京国際映画祭コンペティション部門
原題:ハンナ・アーレント [ Hannah Arendt ]
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
2012年 ドイツ 113分
(同映画祭HP:http://2012.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=215

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◆2012年10月と2013年10月の『ハンナ・アーレント』
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 私が初めて『ハンナ・アーレント』を観たのは、2012年10月の東京国際映画祭だった。作品についての予備知識は全くなかったが、アーレントが、『全体主義の起源』や『イェルサレムのアイヒマン』等の著作で知られる亡命知識人だということは記憶していた。

 映画は、「アイヒマン裁判」前後のアーレントに照準した作品だった。1906年ドイツ系ユダヤ人の旧家に生まれた彼女には、恩師ハイデガーとの恋やナチス体制下での亡命ユダヤ人援助活動、そして逮捕の危険が迫るなか自らもフランスへ、またアメリカへと亡命した体験など、映像化しやすいエピソードが少なくない。しかし、1942年生まれの女性監督は、もっぱらアーレントが夫や友人たちとかわす英語・ドイツ語・ヘブライ語による議論をとおして、アイヒマン逮捕がもたらした衝撃を描いていた。

 そのため日本語字幕を追うことに気をとられ、映像的には、アーレントがしきりに点けるライターの火と、公私の別なしにくゆらせ続けるタバコの煙の印象だけが、鮮明に残ることとなった。それでも、効果的に挿入されるアイヒマン裁判のドキュメント映像は印象深かったし、ハーレントが学生たちに語りかける最後の講義には胸を打たれた。

 だから『ハンナ・アーレント』が昨年一般公開された時には、是非また観ようと思っていた。しかし、何度も上映館の前を通りながら、数々の事情のために結局見逃してしまった。その後になって、専門家から一般の観客までが様々な媒体でその作品について語り、ミニシアターが連日満席になるわけを論じていることを知るに及んで、輸入盤DVDを買い求めてまで見直す気になったのである。
(2014年春も全国で順次公開。
 オフィシャル・サイト:http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

 2012年10月の映画祭で静かな注目を浴びた『ハンナ・アーレント』と、2013年の秋に異例の大ヒットとなった『ハンナ・アーレント』との間には、2012年12月の安倍政権誕生がある。ネット右翼の街頭行動が際立って勢いづき、「ヘイト・スピーチ」の名にさえ値しない「差別罵詈」が横行して、「レイシズム」の険悪さが可視化されるようになった。第二次安倍内閣の発足以来、戦争のできる日本を取り戻す動きは止まるところをしらず、2013年10月25日には「特定秘密保護法案」が閣議決定された。『ハンナ・アーレント』はその翌日に一般公開され、初日の岩波ホールは毎回満員の盛況となったのだ。その後も長らく、朝早くからチケットを求める人々が列を成したという。
 観客の大多数は中高年だった、との指摘もある。そしてその人気の秘密として、人間の重要な資質は思考する能力、それを放棄した時に悪が生まれる、というメッセージが鮮明であること、組織の論理に従って思考停止に陥る危険にわが身を振り返る人が多いこと、などがあげられている。排外的な動きが危惧される日本社会で、アーレントの言う「凡庸な悪」を考えるきっかけが求められているのではないか、と推察されたりもした。
(週刊現代 映画『ハンナ・アーレント』どこがどう面白いのか 中高年が殺到!
 2013年12月09日(月)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37699
(WEBRONZA http://webronza.asahi.com/culture/2013120500003.html

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◆「考えること」というキーワード
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 確かに「考えること」は、この映画の全篇を貫くキーワードである。学生時代のハンナ・アーレントは、その方法を求めてハイデガーの教えを乞うた。ハイデガーは、映画の半ば以降に、アーレントが回想する憧れの哲学者として、また愛人として登場する。
 終盤に近い回想シーンでは、ハイデガーがナチス政権下のドイツでフライブルク大学総長に選出され、ナチス党員としてナチス賛美の演説を行ったことに対するアーレントの幻滅が示唆されている。彼女は久しぶりに再会した彼に向かって、考えることを教えてくれた人がまるで考えることのできない愚か者のように振る舞った、となじるのである。

 アイヒマン裁判のモノクロ映像の効果も、相変わらず印象深い。見れば見るほど、アイヒマンの表情からは、神経質で生真面目そうな小役人気質がうかがわれるばかりで、何百万もの人々を強制収容所へ移送した指揮官の面影はない。さらに彼は、法を守り命令に従い管理手順に則って遂行した仕事について、実にハキハキと答える。自分はごく一部の責任しか追っていないと主張し、実証できないもののために責めを負うことの理不尽ささえ訴える。「葛藤はなかったのか?」「良心は捨てられるものなのか?」と問われると、「はぁ?」と聞き返す。ユダヤ人生存者が証言台に立って、口にするのも耐え難い記憶に苦しむ姿を目の当たりにしても、彼はわずかに口元をゆがめるだけである。

 1960年、アーレントはアイヒマン逮捕の報道を知ると、それについて書くことを『ニューヨーカー』誌に自ら申し出て、翌年裁判傍聴のためイェルサレムに派遣された。そしてその法廷のやりとりを、世界中から集まったジャーナリストとともに別室で見守る。彼女が最初に懸念したのは、この裁判がイスラエルによって政治ショーにされることだった。

 アイヒマンへの尋問が始まって、彼の表情を映し出すモノクロ映像と、そのテレビ画面を見つめるアーレントの表情のクローズアップとが交互に連なる場面は、緊張感に満ちて圧巻である。アーレントは、そのナチスの親衛隊将校のなかに、わかりやすい悪を見出すことができずに戸惑い続ける。やがて、彼は怪物でも悪魔でもない普通の官僚だったのだという事実を受け入れ、ごく平凡な人間が犯し得る恐ろしい行為を、考えることを放棄したことから生じる悪ととらえるに至るのである。

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◆知識人の孤独
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 しかしDVDを丹念に観るうちに、この映画のより多様なメッセージが伝わって来た。
 アイヒマン裁判を機にアーレントが発見し指摘したのは、アイヒマンは反ユダヤ主義者ですらなかったこと、本当の恐ろしさは動機も悪意もなしに実行される悪にあるのだということ、そしてユダヤ人指導者のなかにもナチスのユダヤ人絶滅に協力した者がおり、彼らの役割なしにはあれほどの大量虐殺はできなかった、ということだった。

 それは、生き残ったこと自体に苦悶し若い世代からの責めや無関心に悩むユダヤ人にとって、受け入れられるものではなかった。アイヒマン裁判のあり方そのものを問う彼女の報告が『ニューヨーカー』に掲載され、本となって世に出ると、彼女は厳しい非難を浴びる。自宅には少数の賛辞と大量の中傷・罵倒が届いた。どんな激しい議論の後でも再び笑い合えた友人たちでさえ、次々と彼女に背を向けていった。

 それでも彼女は屈しなかったが、そのことは、信念を貫く孤高の知識人像として賛美されてはいない。むしろ映画のエンディングに向けて、タバコだけが友としか思えないほどの孤独が、一層強調されているように思われる。大量の裁判資料を前に一行も書き出せずにいた当初の彼女は、ハイデガーの言うとおり「考える」という孤独な仕事の苦しみを味わった。しかし書きあげた後は、自分が考え抜いて書いた事そのものに対する批評が一つもないことに孤立感を深める。そして何よりも、自分が書いたことが多くの人々を傷つけたことに、深く心を痛める。

 教鞭をとっていた大学でも辞職が勧告され、アーレントは最後に超満員の講堂で講義を行う。若い学生たちの拍手を受けて教壇を去る時、彼女は聴衆のなかに学生時代からの旧友を見つけて駆け寄る。しかし彼は、アーレントがアイヒマン裁判を哲学の授業に変えてしまった、その超然たる冷徹さを責める。「まるでドイツ知識人のようにユダヤ人を見下している」「自分がドイツに裏切られたことを決して認めようとしない」と、彼は「ハイデガーのお気に入り学生」との訣別を宣言するのである。

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◆今、『ハンナ・アーレント』を観ることの意味
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 私はどの民族も愛さない、私が愛するのは一人一人の友達だ、とアーレントは言う。彼女は民族や国家に絡めとられない立場を選択することによって、アイヒマンを擁護したのではなく、あれほどの悪の正体をつきつめて理解しようとしたのだ。ユダヤの同胞の辛さをわかろうとしなかったのではなく、自分にとっても辛い暗黒時代の記憶が、新しい国家の支配のために利用されることを拒んだのだ。

 そこにこそ、私たちがこの映画に触発されて考える拠り所があるような気がする。考えるということの現実的な意味を掘り下げれば、それはいつの時代も反権力につながるということだ。権力の側にとっては、考えることを放棄した者ほど、あるいは単純な解に飛びつく者ほど、支配しやすいからだ。しかし、考えれば考えるほどどうしようもなさを悟るだけだとしたら、その絶望や諦めもまた支配する側の望むところだろう。

 今そんなふうに考えるのは、東京都知事選の結果がどんよりと尾を引いているせいかもしれない。原発にしても秘密保護法にしても改憲や基地問題にしても、安倍政権の暴走をこれ以上許すわけにはいかないと考える者にとっては、有権者の半数以上が投票を放棄または拒否し、あるいは投票者の多数が事実上安倍政権支持の意志表示をしたことは、信じがたいが現実だ。茫漠たる原野に立つような寂寥感をかみしめた上で、それに打ち勝って出直さなければならない。

 私(たち)は、考えることを生業としている哲学者ではない。まして今や、日常性を超越した知識人ならではの鋭い言論によって大勢を動かせる時代でもない。

 私たちは既に、悪が特殊な邪悪性のせいにできないのと同様に、権力が抑圧性を剥き出しにするわけではないことも知っている。日常性のなかに潜む目に見えない力にいかに敏感に抗えるか、社会の至る所にどのような接点をもち、どれだけ多様な人々と自分らしくつき合いながら心通う日常的な言語で政治や哲学を語れるか。それぞれの持ち場で自分の頭で考え続けるしかない。絶望に陥らないための慰めと刺激は、図書館にも映画館にも、そして仲間内の議論や愚痴の言い合いにも、求めることができる。問題は、そこを出てからだ。

 (評者は東京大学大學院人文社会系研究科研究員)


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