偲ぶ会の御礼ご挨拶

加藤 真希子

 本日はご多忙のなか、大勢の方にお集まりいただきまして感謝申し上げます。
 まだ寒い2月17日朝に父が亡くなってから、早いものでちょうど2か月、桜の季節も終わり、新緑のまぶしい季節になりました。

 この間、多くの方からメッセージや追悼文をいただきありがとうございました。これは次号のメールマガジン「オルタ」に掲載させていただく予定でおります。その中で、「宣幸さんは、穏やかな表情でよく話をきいてくださった」、と書かれたものが多くありました。父からは、社会党に入ったばかりの22歳のなにも知らない若者が、車座になって、様々な経験を積んだ年上の方々の話を伺う機会が多く、一人ひとりの話をじっくり聴くことを学んだ、というようなことを聞いたことがあります。聞き上手になったのは、生来の優しい性格に加え、そのような体験が若い時にあったからかもしれません。

 また、70代後半から母を介護するようになったことも、父の人間をみる目を優しく、深くさせたように感じています。当時、毎朝よろける母にシャワーを浴びさせたり、何時間もかけて食事を食べさせたりと娘からみても、本当に頭の下がる思いでした。

 晩年の父にとって、特にオルタを始めてからでしょうか、セミナーなどに出かけては、「今日もお友達が増えたよ」、と話してくれました。若い友人も増え、その話をお聞きしたり、新たなつながりを発見するのも楽しそうでした。古くから今日まで、その一つひとつの出会いが、父の人生を豊かにしてくださったものと思います。心から感謝いたします。

 加藤宣幸は、社会党の時代の方には「せんこう」さんと呼ばれていましたが、その名前を「宣伝の宣に、幸せ」と書きます、「人々の幸せを願い、広く伝える」という意味だとよく言っておりました。父にとってそれは、「幸せ」を伝える「メディア」を作ることにつながったのだと思います。それは、社会党時代の機関紙発行や、出版社新時代社での書籍の発行、メールマガジン「オルタ」でのメール発信につながっていきました。

 本日、父にとって最後のメディアである、メールマガジン「オルタ」に父がこの14年間書いてきた「編集後記の1と2」をお持ち帰りいただくように準備いたしました。少々重くなって申し訳ございません。編集後記集1は、100号のときちょうど米寿に重なり、私がまとめて印刷してサプライズで父にプレゼントしたものです。最近、まだ残りの部数があるがどうするか、と話したところ、200号記念の時に配るつもりだからといっていました、が、残念ながらそれはかないませんでした。
 編集後記のNo2は、101号から本年2月の170号までの分をまとめたものです。内容もさることながら、各号末尾に行動日誌がありますので、それを見ながら、加藤宣幸と会って話したことなどを思い出していただければ何よりです。
 また扉にのせた、ガンジーの「永久に生きると思って今勉強しよう、明日死ぬと思って今日行動しよう」という言葉は、父が数年前に出会った言葉です。本人が今年の手帳に書いたものをそのままコピーしました。この言葉に出会って以来、本を読んだり、人と会ったりすることにさらに拍車がかかり、心臓にも負担が大きくなったようです、が、後悔はないものと信じています。

 さて、父が晩年、住居兼編集室としたところは、千鳥ヶ淵にも近く、ベランダから桜の花も臨むことができます。今年の花見の時は誰に声をかけようか、と楽しみにしていましたが、それも実現できずに逝ってしまいました。
 皆様には、これからは、千鳥ヶ淵の桜が満開だというニュースを聞いた時には、加藤宣幸のことも思い出していただき、九段に立ち寄り、思い出や近況などお話しいただければうれしく存じます。

 1979年から87年にかけて、ロシアのミハイル・バフチンという思想家の著作集を、新時代社で出版いたしました。彼のいう「広場の思想」というのがあるそうです。「広場」とは、年齢も性別も地位も人種も問われることなく、一人ひとりが、自立した個人として出会う場、出会うこと、という意味だそうです。父はずっとそのような理念を体現した人生を送ったように思います、父の住まいも、「オルタ」もまた、今後もそのような「広場」のようになっていけば父も本望だと思います。

 どうぞご遠慮なくお立ち寄りいただき、「広場」を広げ、またご支援いただきますようお願いいたします。

 最後になりましたが、皆様の末永い健康と、お幸せを心よりお祈りしております。
 本日はありがとうございました。
  2018年4月16日  加藤宣幸を偲ぶ会において、
  長女 加藤真希子

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