【コラム】槿と桜(108)

「キラー問題」

延 恩株

 韓国には日本の大学共通テスト(その前身は「大学共通第1次学力試験」、「大学入試センター試験」)に相当する「大学修学能力試験(修能(スヌン 수능)」(1994年度入学予定者(1993年に改正実施)から実施)という入試制度があります。韓国の大学受験では、国立大学、私立大学いずれもこの「修能」の点数が合否判定の大きなカギを握ることになります。
 日本では、「大学共通テスト」を重く見ない大学も多くあり、実際、さまざまな入試選抜方法が各大学で実施されています。しかも日本での大学進学率(短期大学を除く)は、2022年度は56,6%(文科省「学校基本調査」)で、高等学校卒業者の半数近くは大学には進学していないことになります。一方韓国では、同じ2022年度の大学進学率は73,3%で、日本より16,7%も高く、高等学校卒業者の4分3近くが大学に進学していることになります。
 この数字からも韓国が学歴社会と言われるのがよくわかります。さらにどの大学を卒業したのかによって、就職できる企業や収入額の多寡が決定されてしまう傾向があまりにも強く、大袈裟ではなく「人生が決まる」と見られています。
 この点は日本にも「出身大学で人生が決定づけられる」と考える人がいないわけではないでしょうが、社会全体がこのように捉えているとは思えません。
 しかし韓国では「SKY」とよく言われますが、韓国の大学ランキング1位(서울대학교 ソウル大学校 S)、2位(고려대학교 高麗大学校 K)、3位(연세대학교 延世大学校 Y)の超難関大学に入学してこそ、将来、明るい人生が歩めると考えている人が多くいます。
 そのため多くの受験生が先ずは「SKY」、次にはソウル都市圏の大学合格を目指して、これまた大袈裟ではなく生まれたときから熾烈な競争を続けていくことになります。その受験勉強の成果を試し、どのレベルの大学に進学できるのか判定されてしまうのが、冒頭に書きました「大学修学能力試験(修能(スヌン)」なのです。
 「SKY」に入学できる受験生はスヌンの成績上位1%程度と言われていますから、いかに狭き門なのかがわかります。将来の人生安泰を獲得するためにがむしゃらに受験勉強して、「SKY」を目指すのはサムスン(삼성)、LG(엘지)などの財閥系大企業と中小企業の給与や雇用条件での格差があまりにも大きいからです。

 「大学修学能力試験(修能(スヌン)」は、文字通り受験生を選抜するための試験ですから試験結果を1等級から9等級までに分け、最上級の1等級者を選抜するためにはかなり難しい問題も出題されます。と言いますのは、必死に受験勉強している受験性は「かなり難しい問題」も解いてしまうため、問題の難易度が上がり超難問も出題されるようになってしまっています。
 「キラー問題」(킬러 문항(項目))とは、そのような超難問題のことを指す、韓国独特の受験に関係した言葉なのです。
 高等学校で教えない、大学教員でも解けないような問題が出題されるわけですから受験生からすれば、学校で教えない内容なのだから塾で教えてもらうしかない、となるのは当然でしょう。こうして韓国では一般の高等学校等を「公教育」(공교육)と呼ぶのに対して塾のような教育施設を「私教育」(사교육)と呼び、「私教育」産業が日本以上に盛んです。
 受験生は通常の学校の授業が終わると「ハグォン(학원)」と呼ばれる塾に直行して講義を受け、さらに深夜まで自習します。また個別指導を受ける受験生もいます。
 2023年6月26日に行なわれた李周浩(イジュホ 이주호)教育部長官の記者会見で「キラー問題」が取り上げられたのですが、そのなかで2022年度の小中高生1人あたりの私教育費は月額41万ウォン(日本円で約45,000円)だったそうです。この数字は2007年から教育庁が統計を取って以来の最高額で、私教育を受けている小中高生の割合は、2022年は78,3%に達したとのことでした。
 韓国の大学入学以前の子どもを持つ保護者の8割近くが子どもを塾に通わせていることになります。でも、こうした塾に通わせる金銭的余裕のない家庭にとっては格差による社会的不平等感が大きくなるのは当然ですし、たとえ塾に通わせることができても生活費に占める教育費が保護者には重くのしかかってきています。
 そればかりか子どもにとっても幼稚園から激しい競争にもまれ、精神的に心安まる時がないとも言われています。また、保護者の経済的な負担は非常に大きく、子どもを持てば教育費の支出が圧倒的に増えて、生活の維持が困難になると考え、子どもを持つことをためらうようにもなっています。韓国の出生率が下がり続けていて、2022年度には0,78%にまで下がり(日本は1,3%)、さらに下がるだろうと言われています。さらには結婚しないことが自分の生活水準を保ち、貧困生活を回避できると考える若者たちも増えています。

 韓国では、大学入試制度改革は政治問題と言われているのも納得でき、実際、歴代の大統領はさまざまな改革案を打ち出してきました。
 上述しました李周浩(イジュホ)教育庁長官の記者会見では、尹大統領が「キラー問題」について、「大学修学能力試験(修能(スヌン)」で出題しないようにと指示していたにもかかわらず、6月の「修能」模擬試験(6月と9月に実施)でキラー問題が出題されてしまったとのこと。そのため尹大統領は大学入試担当局長を更迭し、尹大統領の要請を受けて9月の模擬試験と11月の本番の「大学修学能力試験」ではキラー問題を排除することを決定したことが発表されました。
 大学教員でも解けない問題に取り組むために、受験生は塾(私教育)に通わなければならず、私教育への依存がますます高まってしまっています。そのため、「キラー問題」排除は、社会的、経済的弱者が「キラー問題」を解く機会が得られない(塾などに行けない)不公平、不適切な状況を解消し、私教育による経済的負担を軽減することが目的とされています。  
 確かに塾に通ったり、個別指導を受けることのできる受験生が大学受験で優位に立てる問題が出題され、それが解けてこそ目指す大学に入学できるという現在の韓国の受験競争は異常とも言えます。
 尹大統領は、労働改革、年金改革、教育改革の「三大改革」を政権課題として掲げていますが、いよいよ「大学修学能力試験(修能(スヌン)」に対して「キラー問題」排除という改革を打ち出しました。
 「公教育」の教育課程内での出題は当然でしょうし、受験生を評価する問題は作れるはずだと私は思っています。その意味では尹大統領が「キラー問題」排除を打ち出したことは歓迎できます。
 
 ただし、教育改革はこれだけでないことは言うまでもありません。たとえば今回、取り上げました大学入試だけでも、なぜ韓国では高校生がこれほど大学への進学を望むのか、なぜ熾烈な競争を生まれたときから始めなければならないのか抜本的に考えなければならないと見ています。大きく言えば、韓国の教育改革は韓国という国の形をどのようにするのかと密接に結びついた大きな改革です。
 今後、尹大統領が教育改革でどのような政策を打ち出していくのか、期待を込めて注視していきたいと思います。

大妻女子大学教授 

(2023.9.20)
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