【コラム】
フォーカス:インド・南アジア(27)

「ヒンドゥー・ナショナリズムによる新しいインド社会」への危惧

福永 正明

 <一>

 インドにおける政治・社会・経済の大混乱は、前回掲載号(2019年12月)以後も継続している。特に重要であるのは、首都デリー(Delhi)が諸問題や騒動の焦点となり、「ヒンドゥー・ナショナリズムによる新しいインド社会」を建設する試みの進行である。

 12月以降の重要事象は、12月11日に連邦議会上院での「2019年改正市民権法(The Citizenship(Amendment)Act., 2019、以下、CAA)」の可決と同月12日施行、1月5日発生したデリーにある国立ジャワハルラル・ネルー大学での学生自治会メンバー襲撃事件、2月11日開票のデリー準州議会選挙でのナレンドラ・モディー首相率いるインド人民党(BJP)の大敗、2月24日から2日間のトランプ米大統領訪印、トランプ大統領の訪印期間するなか勃発し多数の死傷者をだした「2020デリー北西地域暴動事件」がある。

 これらの根本には、2014年連邦議会下院総選挙で圧倒的多数を獲得し、社会を大きく揺るがしたBJPの「ヒンドゥー・ナショナリズム」による強権的手法での政権運営・国家再構築の動きがある。
 もちろん、このような強権政治の圧迫対象は、経済的下層や底辺層の人たち、ヒンドゥー教徒以外の宗教の人びと、女性・子供・LGBTの人たち、辺境の地方在住の人びとなどである。社会身分制での最下位集団に属する人たちも、独立から70年以上も経過してもなお、差別に苦しむ状況が続いている。

 民主主義的な選挙による政権交代が実践されてきた歴史から、インドは「世界最大の民主主義社会」と称せられてきた。だが、2014年と2019年の連邦議会下院総選挙での「ヒンドゥー・ナショナリズム」を主張するBJP圧勝の過半数獲得」の結果が、圧政を生じた要因であると指摘できる。もちろん、今日のインドにおいては選挙民の信任により国政運営されているのであり、「民主主義の本質である民意反映」の結果であることは否定しない。

 だが本来の民主主義とは、「過半数議席を得た政党と政権」の無謀な政治や行政を許すものではない。とりわけ、インドや日本のように議会選挙で小選挙区制を採用する社会では、一般の人びと、少数派の声、すなわち「死票となった民意」を積極的に反映する必要がある。
 既に多くの識者が指摘しているが、投票結果と民意の乖離は、インドだけでなく世界各国の政治における重要な問題である。

 <二>

 19世紀以後のインドの英植民地支配からの独立運動は、「セキュラリズム(Secularism、宗教的世俗主義)」によるインドと、イスラームを国教とするパキスタンとの分離独立として帰結した。
 1947年8月のインド独立以後、憲法において国家が特定の宗教を有さず、支持せず、すべての宗教を等しく扱うとの「セキュラリズム」が規定された。

 『2011年国勢調査』による総人口の宗教比率は、ヒンドゥー教徒79.8%、イスラーム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、スィック教徒1.7%、仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%である。
 こうしたなか、ヒンドゥー教、イスラーム教、など上記の各宗教の重要祭礼日や教祖・開祖の生誕日が、中央政府指定の祝日に指定されていることは、「セキュラリズム」の具体例の一つである。またインドの国家元首は形式的な名誉職の要素が強い「大統領」であるが、その地位にはヒンドゥー教徒以外のムスリム、スィック教徒、女性などが起用された歴史がある。それは、ヒンドゥー教徒を主体とする社会ではあるが、異教徒も「包み込む」寛容な社会であることを示していた。

 独立運動時代に創設された「会議派」こそが、パキスタンとの分離独立後もインドを「セキュラリズム」国家とし、あらゆる宗教を等しく扱うことを基本方針とし、国是と定めた。これはヒンドゥー教の「包み込む」思想の代表例と考えられる。
 異なる宗教や民を排除せず、そのなかに入れ込んでいく、そして共存を認めるということになる。だからこそ今日のヒンドゥー教徒たちの多くは、仏教の開祖である釈迦(しゃか)も「もともとはヒンドゥー教徒である」と主張する。唯一絶対の神、必読の聖典など存在しないヒンドゥー教は、時代により変化し、異なるものを広く取り入れ変化してきた。だからこそ、独立後インドでは、「セキュラリズム」社会の建設に取り組んだのである。

 そして独立後の初代首相ジャワハルラル・ネルーから、10年間政権を担当し2014年総選挙で大敗したマンモーハン・スィンフ首相まで、インド政治の主軸を担ったのはインド国民会議派(以下、「会議派」)であった。もちろん、1990年代末にはBJPによる連合政権でのヴァイジパイ首相、さらに少数政党の連合政権の時代もあった。

 だがインド政治の「軸」は、ネルー首相から娘の故インディラ首相(異教徒であるパルシー教徒と結婚)、その長男の故ラジーブ首相と3代による「ネルー・ガンディー家」が代表する「会議派」政権の歴史である。マンモーハン・スィンフ首相の時代、ラジーブ元首相の妻でイタリア出身(キリスト教徒)のソニア夫人が「会議派」総裁として与党連合代表を務めた。また2014年総選挙ではラジーブ・ソニアの長男ラフール・ガンディー氏(独身)が選挙戦を戦い敗北、次いでラフール氏の姉で長女のプラヤンカ氏が「会議派」の顔である。
 こうした複雑多様な「ネルー・ガンディー家」に率いられた「会議派」が支持層としたのはヒンドゥー教徒だけではない。積極的に「セキュラリズム」社会のなかでの平穏な暮らしをムスリムたちに保障し、ムスリム票も取り込むことにより支持層としていた。

 <三>

 インドのムスリムは、日本総人口より多い2億人以上が暮らしいている。インド政府が2006年に発表した『インドにおけるムスリム・コミュニティ報告書』によれば、ムスリム・コミュニティの生存環境は長期悪化傾向が継続している。
 ムスリムたちは、日常生活の多くの分野で安全に不安を感じ、差別を受けてきたと感じた。被差別感が背景にあるからこそ、小さな居住区での集住を続け、それが生活環境を低下させる悪循環となったのである。
 絶対的多数であるヒンドゥー教徒に対して、ムスリムたちが異議を唱えることは少なく、前述の通り「会議派」の支持層となっていた。つまりムスリムは、現政権に不満を持ちながらも、野党に投票することも出来ず、候補者擁立すらできない。

 1980年代以降、このようなムスリムの苦境に敏感に反応したのは、失業に苦しむ青年たちであり、かれらが不満を募らせテロ事件を多発させた。過激なムスリム青年たちは、パキスタンが独立直後に第一次印パ戦争で失ったカシミール地方を奪い返すことだけでなく、イギリスにより消滅させられたムガール帝国のように、インド亜大陸全体のイスラーム化をめざした。そこで、少数派の多数派への反撃として武装とテロへ発展した。また隣国パキスタンからの武装集団の侵入も続き、爆弾事件の発生も続いた。

 <四>

 独立後のインドにおいてヒンドゥー教徒たちは、ムスリム人口の増加を脅威と考え、「いつの日か、ヒンドゥー教徒がムスリムの言うことを聞かなければならないのか」との不安、社会への不信感を抱いていた。それは、冷戦期に社会主義的な路線を選択し経済低迷が続き、さらにソ連と親しい立場からアメリカとの対立、パキスタンと中国の接近などによる外交面での孤立感と重なっていた。
 そのようなヒンドゥー教徒の不安と危機意識を拡大したのが、BJPの支持母体となる1923年創立の「民族義勇団(以下、「RSS」)」による「ヒンドゥー・ナショナリズム」、ヒンディー語ではヒンドゥトヴァ(Hindutva)であった。

 総人口の8割を占めるヒンドゥー教徒たちの強い批判は、「なぜ、多数の我々が我慢しなければならないのか?」と要約できよう。すなわち、ヒンドゥー教を基盤とするインド社会では、異なる宗教の存在は認める。だが、ヒンドゥー教と他宗教は対等ではなく、最大限に尊重されるべきはヒンドゥー教であり「ヒンドゥー教徒の権利が擁護されなければない」と主張する。
 すなわち、単純に反イスラームではなく、「インドをいかにヒンドゥー教徒の国とするか」を問い続けてきたのが、「RSS」でありBJPであった。大衆扇動に優れた技法を有する「核となる集団」としての「RSS」は、子どもから大人まで同じ制服を身につけ、集団での会合や訓練を重視する。

 2004年に樹立され経済発展に功績ある「会議派」のスィフ政権は、自由化と民営化の活用により、インド経済を画期的に上昇させた。だが10年間に人びとが感じたのは、「なぜ、ここまで至るのに60年もかかったのか?」との疑問であり、「中国に劣らない世界大国となるに相応しいインドが停滞したのは、ヒンドゥー教徒がおとなしすぎたからだ」とする。つまり、ヒンドゥー教徒のための社会、ヒンドゥー教徒を優先した社会が必要であり、その根本となるのは「ヒンドゥー教徒としての自覚によるインドの大国化」であった。

 2014年に政権を握ったBJPのモディー政権は、まさに「ヒンドゥー教徒を主体とする強いインド社会の建設」をめざしてきた。教科書での歴史記述の見直し、ヒンドゥー教徒としての意識を鼓舞するスローガン、反イスラーム的な政策の強行などが続いていた。
 そうした第一次モディー政権の「ヒンドゥー・ナショナリズム」を背景としての政策は、2019年総選挙における有権者の投票により支持された。つまり、BJPは大勝し第二次モディー政権となり、さらなる「インドを普通の社会とする諸政策」、すなわち人口の8割の人たちを優先した社会を造る政策が進められた。
 まさに、大多数主義による中央政府による社会変革の試みであり、「セキュラリズム」が多数者に我慢を強いていたことが強調された。つまり、必要であるのは社会的寛容ではなく、多数者の安定であることが優先されたといえよう。同時に反イスラームの言動が政治指導者から発せられ、「反ヒンドゥー教とは反国家」であるとの強調も行われた。具体的にはCAAが最大の問題であり、反対運動も燃え上がった。

 CAAは、インドの隣接する3つのイスラーム諸国(パキスタン、バングラデシュ、アフガニスタン)からの、ヒンドゥー教、スィック教、仏教、ジャイナ教、パルシー教、キリスト教に属する「2014年12月31日までにインドに入国した適法ではない移民」(すなわち、ムスリム以外の不法移民)について、宗教的難民として扱い、インド市民権を付与する条項追加を中核とする。また従来はインド国内での11年間の居住あるいは労働が市民権を申請する条件であったが6年間に短縮された。隣国からの「不法な侵入者」を排除するため、先祖のインド居住の証明書類により実施されるとした。

 これに対してインド北東部では、1971年のバングラデシュ独立以来、多くのヒンドゥー教徒の難民が逃れており、CAAでは市民兼を認めることとなる。だが、アッサム州内を中心として安価な労働力の流入により職が奪われたこと、独自文化が破壊されることなどを掲げて反対運動が激化した。
 さらに、ムスリムが多く居住する北部のウッタル・プラデーシュ州(UP州)、学生や知識人が多いデリーでは、ムスリム難民への市民権付与除外について、すべての宗教を等しく扱うとの「セキュラリズム」の原則に反すると主張された。さらに多くのムスリム市民が、市民権を失うこととなり、無国籍になるのではないか、あるいは先祖の居住証明書類の提示など無意味との批判が高まった。そして反対運動が燃え上がり、全国各地での反対運動に激化した。

 反対運動は学生や市民と、警察治安部隊との衝突での展開であったが、2月下旬には首都デリー北東地域での「ヒンドゥー対ムスリムの宗教暴動」に発展した。暴徒による住宅や商店の焼き打ちと暴行により死者50名以上とされ、負傷者数は不明である。実際、どのような経緯での衝突が、米大統領が滞在する首都での3日間の暴動となったかの詳細は不明であるが、警察部隊の対応と政府(中央とデリー準州)の対応は厳しく批判されている。

 投票で多数を得たのだから何でもできる、のは民主主義ではないことは明らかである。しかし、インドには「ヒンドゥー教徒の力」を具現するべきとの勢いが増している。
 次ぎには、イスラーム法の適用を認めるためインドには「統一民法」が存在しない問題が焦点となり、「インド国民は一つの法に従うべきであり、イスラーム法が優先されるのはおかしい」との主張が展開されている。

 インド情勢は見通し不明な状態であり、3月上旬には民間銀行の破綻報道もあり、今後も「インド思い込み」を脱却した冷静な注視が必要である。

 (大学教員)

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