■「危険な独身女たち」あるいはフエミの嫌いな殿方たち 堀内 真由美

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◇ はじめに


 柳澤大臣の「失言」が騒動になった。けれども、日本では結婚している女は(不
妊を除いて)産んでいるという事実や、事実婚(は統計上シングルに入る)やシン
グルは産まない(産めない)という事実が議論されないのはとても不思議だった。
成人女とみれば誰かの妻で、自動的に「産む役目の人」(柳澤)だと認識する人
が多い。とりわけこの「美しい国」の殿方たちにいたってはその傾向が強いよ
うだ。なぜなんだろうか。産まない女は、ただ産まないからだけではない理由
で嫌われているんじゃないだろうか。そんなことを考えさせられた。


◇強制的異性愛主義


 昨春、『イギリス近現代女性史研究入門』という本が出た。総勢19名の研究
者が分担執筆したものだ。私も一節を担当した責任上、11月末の合評会に大阪
から上京した。多くのコメントに耳を傾けたが、勉強になるものとそうでない
ものとがあり、後者が続くと暖房の良く効いた会場で睡魔に襲われること数回。
前者のなかには、しかし、休眠中の背筋が思わず伸びるものがあった。アメリ
カ女性史研究の立場からなされたそのコメントは、日本における西洋女性史の
課題のひとつを見事に突いていた。
 
 コメントの主であったアメリカ女性史研究者は、第2波フェミニズムと女性
史の興隆との関連性を述べたあと、今回出版された書物が「近現代女性史研究
入門」とうたいながら、第2波フェミニズムの重要な議論である「異性愛批判」
に触れていないことを、奇異に感じると指摘した。「異性愛批判」、英語を直訳
すれば「強制的異性愛主義」、というものに異議申し立てをしたのが、1970年
代以降の欧米フェミニズムだった。世の中、女と男の性愛しか「愛」ではない
かのような思い込み、またそのような「愛のかたち」を最上のものとする価値
観の押しつけを、フェミニストたちは厳しく批判した。
 
1990年代の初め、当時パリ・オペラ座からロンドン・ロイヤルバレエ団に移
籍したてのプリンシパル、シルヴィ・ギエムの「ロミオとジュリエット」の振
り付けが、「あまりに異性愛至上主義すぎる」とフェミニストたちに批判され、
論争になったことがある。実際、「問題の舞台」と知らずにギエムの「ロミ・ジ
ュリ」を見た私にも、「そないにベタベタされたらかなわんなあ」と思えるくら
い、二人の愛のシーンは、いままで鑑賞したどの「ロミ・ジュリ」よりも過剰
で胸焼けがした。少なくともイギリスのフェミニストたちの間では、「強制的異
性愛」は現在でも議論の中心をなすものであり、しばしばその議論はイギリス
社会全体を巻き込んできた。
 
ひるがえってわが「美しい国」である。映画、ライトノベル、Jポップなど、
とくに若者向けの文化には「異性愛至上主義」が蔓延しているし、私の知る限
り、新聞、雑誌にもそのことをあえて問題視するような批評はまずない。読者
層の限られるメディアに載ることはあっても、『タイムズ』が「ロミ・ジュリ」
論争を報じ、識者が紙上で論じあうというような形にはまずならない。日本で
は、ゲイ・レズビアン文化が亜種とされ、かれらの発信している言説が「大新
聞」や「文芸雑誌」で取り上げられにくいという事情もある。ときたま掲載さ
れた記事も、左派高級紙の「人権尊重路線」の一部としてしか扱われず(そもそ
もそのような新聞社の記者は、男性、有名大卒、異性愛者と相場が決まってい
る)、結果的に異性愛至上主義を疑う機会へとは発展しにくい。


◇分断される女たち


 女もまな板に乗せよう。女といっても女性史研究にたずさわる女たちである。
複数の論文や自著で、異性愛至上主義という切り口で女性史を描いてきた女性
の女性史研究者はほとんどない。イギリス女性史に限っていえば、「取り組むべ
き女性史の課題」として認識している研究者はいるかもしれないが、活字にな
ったものを私は知らない。もちろん、女性史を異性愛至上主義批判の観点から
必ず描かなければならないということではない。労働、教育、福祉、政治、環
境、性(しばしば産む性としての)など、女性史は多様な切り口でしぶとく研究
されてきた。しかし、と前述のアメリカ女性史研究者は言いたかったのだ。こ
のような多様な切り口をそろえながら、なぜ異性愛主義批判をはずすのか、と。
 
あの合評会の会場にいた執筆担当者のうち、何人が「痛いところをつかれた」
と思っただろう。異性愛至上主義批判が第2波フェミニズムの大きな論点だっ
たということすら、知らない人がいたかも知れない。なぜか。それは日本の女
性史研究が、必ずしもフェミニズムによって喚起され、フェミニズムの議論に
影響を受けたわけではないからだ。欧米における女性史研究の歩みとは様子が
ずいぶん違う。この点に関しては、阪大の荻野美穂さんが、「アエラ・ムック」
の『歴史学がわかる。』のなかでわかりやすく説明されているので参照していた
だければと思う。
 
第2波フェミニズムを知らなくても、あるいはその議論に興味がなくても、
またあるいは「フェミ嫌い」でも、少なくとも日本では女性史研究は成立する。
その方がかえって「学問的客観性が保たれる」として、男性の先生方には評価
が高いかもしれない。実際に「フェミニズムに対するスタンス」にこだわると、
煙たがられる傾向もある。しかも、著名な女性史研究者が、そのようなこだわ
りを表明するヴェテランの女性史研究者を疎んじるのを見聞きするに及んでは、
新米の私の困惑は大きくなるばかりだ。前者はたえず「男の先生方」に気を使
い、後者はたえずフェミニズムと女性史の発展を気にかけているという違いが
ある。「強制的異性愛主義」は、こうして女性史研究の世界をも侵食する。
 
「強制的異性愛」批判は、異性間の性愛だけを問題にしているのではない。
つねに異性の存在に気を配り、みずからの行動や規範までも規定してしまうこ
とこそを問題視する。そしてその傾向は、残念ながら「男女共同参画社会」に
あってはますます女に強く表れる。「合評会も女だけでやったらよかったのに」
と思った私は、逆差別主義者といわれるかもしれない。一方で、そう思いたく
なるくらい、たかだか男性が半数を占めるような場面になると、女性史研究の
場もとたんに「強制的異性愛」の空気に包まれることは事実なのだ。そしても
っと悪いことには、この場合、女たちはいともたやすく分断されてしまう。
 
 女って簡単に仲間割れするんだな、とお思いの男性もいらっしゃるだろう。
女の内輪もめがすべて「男性の存在」を原因としているのではない(と思いたい)
が、「男女はつねに仲良くしなくちゃ」という脅迫観念にも似た空気に起因して
いることは、近年、言語社会学や教育社会学でも議論されている。にしても、
そんなことくらいでグラつく女の仲というのもずいぶんヘナチョコではある。

ただし筋金入りのフェミなら、「男性の存在」があろうがなかろうが、自身が異
性愛者でも同性愛者でもビクともしない。辻元清美や福島瑞穂など「媚びない
女」は、この女分断の装置をよく理解しているからだ。ついでながら、私は異
性愛者だ(と今のところは思っている)が、そこそこのフェミなので、もし日本
が沈没して、私と高市早苗と中川昭一の3人になって、救命ボートが二人乗り
なら、迷わず高市の手をとって助かろうとするだろう。賭けてもいい。
 さて、男性中心の社会を想定していただこう。その社会にとって、どちらの
タイプが「都合のいい女」だろう。男女の(性的)融和を最優先だとは思わない
女たちが批判の的となる。そんなことをよく表す昔話がある。

「余った女」とフェミニズム
 第2波フェミニズムというのは、あたりまえだが、第1波の次という意味だ。
女性参政権運動でおなじみの、19世紀後半から20世紀はじめにかけての女性
運動とそれを支えた理論は、「第2波」から見てその前なので「第1波フェミニ
ズム」とのちに名づけられた。イギリスでの「第1波フェミニズム」は参政権
運動を中心に語られることが多いが、同時代のフェミニストたちの運動によっ
て女子教育も劇的に変わっていく。
 
 女子教育といっても、あくまでも経済的に恵まれた一握りの階層の家に生ま
れたこども対象の話である。そんな「ええとこの子」の教育も男女では大きな
落差があった。男の子であれば、将来ジェントルマンとして生きていくことが
期待されたから、家庭以外に、学校、それも多くは寄宿制の男子校で高い教養
と、それなりの体力を身につけさせられた。一方、女の子に生まれれば、教育
はもっぱら家庭内で済まされた。国や地域をしょって立つ期待もなし、そうか
といって社会で生きぬく知力や体力を養うことも奨励されなかった。幼少期か
ら少女期までは父親が、結婚後は夫が彼女の保護者であり、「ええとこの女の子」
は自力で生きる必要がなかったからだ。
  
ところが世の中、想定内にはおさまらない。19世紀半ばの「国勢調査」の結
果がイギリス・ミドルクラス社会に激震をもたらす。100万人以上の若い女が
余っているという報告である。奇妙なことに、この当時、どの社会階層のどの
年齢層の女性人口が男性と比べて多いのか、正確に知る人はほとんどなかった。
にもかかわらず、なぜかミドルクラス層の女が大量に余り、結婚からあぶれて
しまうという強迫観念が人々を苦しめる。産業革命の完成期にあたるこの時代
には、新興企業への投資や投機的な株取引で破産する「負け組」ミドルクラス
も続出していた。他方、長子相続のため、土地持ちといえども、二・三男たち
はせまい本国に見切りをつけ、一旗挙げに植民地へと出て行った。だから「余
った女」は、娘をもつミドルクラス親父たちの実感を反映してもいた。娘が相
応の家に嫁げばいいが、それなりの持参金を出す余裕がなければ結婚させられ
ない。ふさわしい相手が植民地にいたり、妻子扶養のための経済力を持つまで
婚期を遅らせていたりしたら、これまた、娘は結婚の機会を逸することになる。
 
結婚しそこなった娘はどうすればいいか。ここでミドルクラスはジレンマに
陥る。そのまま独身でいてもいずれ親が先に死ぬ。男きょうだいがいれば居候
にはなれるが、女きょうだいだけならそれもできない。働けばいい。が、そう
もいかない。「ええとこの娘」は慈善活動以外、外での活動、それもお金をいた
だくような仕事をすべきでないと思われていたし、そもそもする必要がないか
ら「いいとこの娘」なのだった。年収何ポンド以上などという「ミドルクラス
の基準」があったわけではないから、娘の賃労働は、即、その家のミドルクラ
スからの転落を意味した。
 
 かくして「働いても見苦しくないような職業」が「余った女」から熱望され
る。それは裕福な家庭に住み込んでこどもの教育を担当する家庭教師、ガヴァ
ネスだった。「余った女」が声高に騒がれる以前からガヴァネスは存在したのだ
が、19世紀半ば、にわかに人気が出て、未婚のそこそこ教養のある女性がこぞ
ってガヴァネスを志願した。フェミニストが女子教育の向上を訴えたのは、ま
さにそんな時代だった。とくにフェミニストたちがめざしたのは、ガヴァネス
の質の向上だった。ガヴァネス志望者が多かったため完全な買い手市場で、少々
待遇が悪くても彼女たちは我慢を強いられた。一方で、雇った側にも、たいし
た知識のないガヴァネスが多いことに不満があった。ガヴァネスの待遇改善の
ためにも彼女たちの資の向上が急がれた。フェミニストたちは質のよいガヴァ
ネスを養成する教育機関の設立を訴えた。同時に、そのような養成機関が、将
来的には女子の高等教育進学への扉を開くことも期待した。実際、元ガヴァネ
スの養成機関でのちに女子中等学校になったものもある。
 
 フェミニストが女子教育を劇的に変えたといったが、厳密にいえば、このよ
うに「余った女」の言説、産業革命の影響などさまざまな要因があってのこと
だった。だが、そういう状況に乗じて、フェミニストたちはちゃっかり「女子
にもまともな教育を」と叫び、実際に政府機関を動かして、イギリス史上初の、
女子中等教育を誕生させていく。そしてフェミニストと、時代のフェミニズム
の空気を十分に吸い込んだ卒業生たちは、前進の歩みをやめなかった。やがて
男社会の機嫌をそんなにも損ねることになるとはおそらく予想もせずに。


◇「男並み」になった女子教育


 女子教育が劇的に変わった、というのは、つまり中身が限りなく「男並み」
になっていったということである。家庭内での作法中心のお勉強から、学校と
いう場所で大学をめざしてガンガン勉学に励む、そういう変化がわずか20年
くらいの間に起こった。
 女子教育改革の黎明期、1850~60年代に誕生した女学校は、「レディの養成」
を学校目標にしていた。ただ、女校長や女教師たちが腹の底からそう思ってい
たかというと、ちょっとちがう。「女権拡大」を訴える女が話題になり始めたと
はいえ、自分の娘をキャリア・ウーマンにしたいと願うミドルクラスの親が急
増したとは思えない。あまり進歩的な教育目標をかかげて、生徒が集まらなけ
れば元も子もない。加えて、学校運営に資金援助をしてくれる理事たちの顔色
も気になる。理事会はほぼ100%男性で占められている。たっぷり蓄えたカネ
の一部を、「社会善」に使うことがジェントルマンだと思ってくれるありがたい
人々に気持ちよく援助をしてもらいたい。それには、かれらに通じることばで
学校目標を設定する方が得策だ・・・どうやらこういう事情があったらしい。
 
「レディ養成」の看板をかかげて歩みだした女学校、つまり女子別学の中等
学校は、1870年代になると、カリキュラムに数学や古典語など、従来の「女子
向け」ではない教科の指導に重きを置くようになった。それは、女学校のリー
ダー的な学校の女校長らが、高等教育機関の女子への門戸開放を訴えるフェミ
ニストであったことも大きく作用している。ちなみにケンブリッジに女子カレ
ッジができるのは1869年で、1880年代になるとロンドン大など主要大学でも
女性の入学が可能になる。受け入れ先ができると、女子中等学校の学力主義に
さらに拍車がかかっていった。
 
20世紀に入ると、女校長たちは、大学入学者数や学位取得者数を他校と競い、
優秀な教師を確保すべくリクルート合戦も繰り広げる。その一方で、彼女らは
ときに激しく教育行政当局とも対峙した。イギリスでは第1次大戦中に2段階
の試験制度が整備される。中等学校終了時に受ける試験と大学進学希望者が受
ける予備試験である。当時、女子にだけ家政科の必修が余分に課せられていた
のだが、なぜか終了試験に家政科を選択しても合否には関係がないというケッ
タイな決まりになっていた。
 
 どこかの国の「必修モレ」のような話。進学校と化した女学校では、男子と
競争することになる予備試験の準備に一刻もはやく取りかかりたかった。だか
ら家政科の授業をちょろまかしたいのだが、もし運悪く視学官の抜き打ち視察
にぶつかったら私学助成は打ち切られてしまう。ただでさえ学校を支える経済
力は男子校に比べて貧弱だった。偉くなって母校に寄付する卒業生数の差を考
えても明白だ。しかも思春期で体調が不安定な少女たちの体力が、男子と同じ
条件で厳しい受験勉強に耐えうるかが心配されていた時代。女校長たちは激怒
した。そうか、結局なんやかやいうても大学は女を入れたないんやナ、教育院(イ
ギリスの文科省)は大学人の気持ちを斟酌しやがったナ、と。まあ、大半がケン
ブリッジ女子カレッジ出身のジェントル・ウーマンだった女校長がこうも口汚
くののしったわけではないが、当時の新聞、雑誌には、かなり厳しい口調で現
状を批判する女校長たちの姿がある。結局、女校長たちは、1930年代後半に実
現するまで、中等教育終了試験の科目選択の是正を粘りづよく訴え続けた。
 
そのほかにも、女性参政権を訴える声明を出したり、粗製乱立ぎみの公立中
等学校の共学化に反対したりした。後者の学校群は、資金的に、当時の伝統で
あった男女別学体制が維持できないという理由で男女共学制をとっていた。女
子は女性が男子は男性が教えるのだが、男女教師の待遇格差は顕著であり、女
校長会はここでも、教育当局に現状の是正を訴えた。こうして「レディの学校」
は、統率力のある女校長がリードする女子進学校となり、女校長たちは、全国
500以上の女子校を束ねる女校長会をつうじて、男社会に物申す、うるさい「お
ばちゃん圧力団体」を形成するようになった。


◇ フェミ・バッシングと「危険な女教師たち」


 ぐいぐい前進する女校長会率いる女子教育の行く手に、さえぎるものなどな
いかに思えた。実際、第1次大戦が終わるころまでは、ささいな批判が新聞・
雑誌に載ることはあっても、女子校の「男並み」化の方向性に影響を与えるよ
うなものはなかった。様子が変わりはじめるのは戦後である。
 
1918年に大戦が済むと、男たちが産業界に復員してきた。男性労働の穴を埋
めていた女たちのうち大半は即時撤退を強いられるか、より単純な労働に回さ
れ低賃金に辛抱するしかなかった。教職の場にもそのような現象は起こったが、
もともと別学体制の中等学校では、復員による露骨な女性排除はなかった。戦
後の経済不況のもとでも、女教師のサラリーは男性事務職の平均よりずっと良
かったし、彼女たちの8割以上が独身だったから、扶養すべき家族がない場合、
経済力をもっぱら自分のために使えたのである。さらに、女校長たちは、男女
平等賃金、女性の結婚退職制の撤廃などを要求し続けた。当然、男性教員組合
からは批判を受け、ときに激しい論戦が繰り広げられた。ところがそういう批
判が、1920年代以降になると、なぜか「性的」様相を帯びてくる。
 
 女子校の目的は処女性の保持であり、そのため男子から隔離をしようとする。
しかし社会とはもともと男女が共同して成り立つものだから、この隔離は同性
愛を促進するという犠牲を払う。同性愛の教師は、女生徒たちが異性愛に向か
うことを好まないので、性に関することを教えたがらない。結婚後の妻たちが
陥る性的不感症も、女子校時代の性的無知が原因である。異性愛をみずから実
践していない教師たちが教えていることが、そもそも誤りである。

 どんな人物の著作からの引用か見当がつくだろうか。一読して明白な異性愛
主義。またその裏返しとして示される、女だけの集団への憎悪にも似た感情。
実はこれ、「進歩主義教育」実践家として名高い、アレグザンダー・ニールとい
う人物の『問題の教師』(1939)という本の一節である。
 彼が1930年代に設立した金持ち相手の学校、「サマーヒル・スクール」は、
男女共学の実践、固定カリキュラムの排除、自然の中での作業をとおした自己
解放など、従来のお堅いパブリック・スクール教育に対抗した「新しさ」を売
りにした。ちなみに日本でもニール信奉者は少なくない。関西地方にもたしか
「ニールの学校」を模した実験校があったはず。西洋モノの日本輸入時にあり
がちな話で、ニールの「進歩性」ばかりが賞賛されエゲツナイほどの彼の女性
観には触れられてはいないけれども。
 
 同時代にこの種の発言をしたのは教育者であった彼だけではない。とくに第
1次大戦後の「進歩的知識層」に受けの良い「新しいフェミニスト」と呼ばれ
た女たち、日本でも翻訳がよく読まれた「性科学者」ハヴロック・エリス、「性
の指南者」ヴァン・デ・ヴェルデなどが、こぞって「異性愛に喜びを感じない
女は異常である」という言説を撒き散らした。かれらの言説は一見すると「科
学的」な体裁をとりながら、その実、女だけで女のための権利主張を展開した
フェミニズムへのバッシングだったと理解するのにさほど時間はかからない。


◇「新しいフェミニズム」と「古くさい女子教育」


 純粋に男女の平等と機会の均等を求めるフェミニズムがある。他方には、女
は社会で与えられた固有の役割があると考えるフェミニズムがある。その考え
方は、男が彼らにふさわしい役割を担うのが当たり前であると見なすのと同じ
理屈である。これら男女に固有の役割は、お互いに排除しあうのではなく敵対
的でもない・・・新しいフェミニズムは、古いフェミニズムが、ただやみくも
に男の基準を受け入れてきたことに異議を唱えるものである。

 これは女の発言。しかもイギリス最大の女性参政権運動組織の親玉とくるか
らツライ。条件つき女性参政権が実現されたのが1918年。翌年には公職、上
級公務員、裁判官などに女性であることを理由に採用しないことが違法とされ
る。そして引用の発言が飛び出すのが1926年。20年代に入ると、イギリス社
会に「男女平等も、もうこの辺でエエやろ」という空気が漂い始める。加えて
前述のような戦後不況での男女の仕事の取り合いが「セックス・ウォー」など
とメディアで騒がれる時代。うわべだけでも女の味方をしてくれていた男性知
識層の反応の変化を読んだ女リーダーは、運動の基軸を「新しいフェミニズム」
におくと宣言したのだ。リーダーはこのあと、既婚女性の母としての権利を主
張し、夫の扶養手当を直接母子に支給することなどを国に要求していく。

 その一方で、男女の権利の平等にひた走ってきた「母ではない」女たちは、
この「新しいフェミニズム」への転換期に取り残される可能性が大となった。
およそ85%が独身であり、しかも大半が大卒で高給取りの女教師の世界に、ま
っさきに「異性愛主義」から繰り出されるオゲレツな性的妄言が炸裂したのも
偶然ではなかった。30年代には大学人からも女子教育批判が起こる。ここへ来
て急に思想を転換させたというのではなく、男女平等が法的制度として整えら
れていく頃にはよもや口に出せなかった本音を、時代の勢いに乗って言ってし
まえるようになった、ということだろう。バーミンガム大学副学長を務めた歴
史家であり教育者でもあった大学人による批判は典型的だ。

 (いまや時代は)男女の性にねざした違いや特性が、男女の方向性の違いを再
認識させている。女子はもはや伝統的な女子ならではの選択を覆すために、あ
るいは男女平等を主張するために、わざわざ、そうではないキャリアを選ぶこ
とを義務だと感じなくなるだろう。そうすれば、愚かな男女間の争いも減らす
ことができるだろう。

 男子校並みに大学やキャリアをめざす女子教育は、「愚かな男女間の争い」を
引き起こしたと認識されるにいたった。女が、女が、と叫ぶ「古いフェミニス
ト」を養成してきたのが女子校だったというわけである。こうなると、ニール
のような女子校危険論など、言いたい放題である。おりしも、30年代の不況に
よる教育予算の削減で、公立学校では男女別学校の維持が難しくなってきた。
そこで男女共学制を正当化する言説にも都合よく利用される。「共学こそ男女の
役割を学べる場」とか「男女共学は民主主義の砦」とかいう政治的脚色まで飛
び出した。今日にいたる「女子校は偏狭で保守的」とのイメージの誕生である。
仕上げは女教師へのレッテル貼り。女教師の待遇改善と女生徒への柔軟なカリ
キュラム編成が保障されないような男女共学制を断固拒否していた女教師には、
「時代おくれの化石のような処女たち」との呼び名がつけられた。

 女性と教育との関わり方を劇的に変化させ、時代の先端を走っていた女子中
等学校が、いつしか「時代おくれ」とされたうえに、男女の性的融和という新
時代の男女関係を阻害する、「古いフェミニスト集団」と見なされるようになっ
た。男女共学になれば「学校現場にフェミニスト思想が侵入してくる」と懸念
する男性校長もいたが、時代は、もはやフェミニストを恐れることよりも、新
しいレッテルを貼ることで社会から孤立させることを選んだのである。

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◇おわりに


 これで昔ばなしはおしまい。古今東西、「女の分」をわきまえない女は嫌われ
てきた。だからどうしても権力側にすべり込みたければ「過去の私」を全面否
定して生まれ変わらないといけない。たしか現・内閣総理大臣補佐官の山谷え
り子サン、某・生活情報誌編集長の頃、働く女のための社会改革を訴えたはっ
たと思うんやけど・・・。いまではすっかりジェンダー・フリー・バッシング
と「伝統回帰」の急先鋒。あなたと救命ボートにはよう乗らんなあ、私。
 さて、この先の女教師たちの運命はというと、国内のバッシングが激しくな
るのとほぼ同時期に、アフリカ植民地にあらたな活路を見出そうと動きはじめ
る。彼女らの植民地へのまなざしは、被抑圧者が抑圧者になるという典型を物
語るもうひとつの昔ばなしになる。そこらあたりは、またいつかの機会にでも。

(ほりうち・まゆみ 大学非常勤講師、イギリス近現代女性史・ジェンダー論)

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