【海峡両岸論】

「受け身」から「主導」に転換~日本の台湾政策の背景

岡田 充


 安倍政権の台湾重視政策が目立つ。2017年初め、日台交流の窓口機関「交流協会」の名称変更に続き、3月末には現職副大臣が日台断交後初めて公務で訪台した。日本の歴代内閣の台湾政策は、1972年の日中共同声明など「四つの基本文書」[注1]に基づく基本方針の中で、状況対応型の「受け身」だった。一方、安倍政権は第二次政権発足後、日中関係と対中世論の悪化を背景に、「主導的」な台湾政策に転換した。日中国交正常化と日台断交45年の日台関係を振り返りながら転換の背景を探る。

◆◆ 「重要パートナー」と踏み込む外相

 安倍晋三首相と台湾との関係は極めて緊密である。特に目立つのは「非中国化」(去中国化)を進める民主進歩党(民進党)への親近感。「中国包囲網」政策と、民進党政権の対日期待はぴったり接合する。半世紀以上も前の岸信介・蔣介石の「反共同盟」と同様、イデオロギーで結びつく関係である。安倍は自民党在野時代の10年10月、羽田―松山(台北)間の航空便就航を記念する団を率いて訪台し、李登輝・元総統と会談。翌11年9月にも台北の民主進歩党(民進党)本部を訪れ、蔡英文主席(当時)と会談した。

 第二次政権発足後は、14年7月の李登輝来日と蔡英文の15年10月来日の際、東京のホテルで二人と「密会」した、とメディアは伝えた。次期総統当選が確実視されていた蔡は、実弟の岸信夫・外務副大臣の案内で、故郷の山口県を訪問したほどである。安倍の二人への対応は、同じ台湾総統でも中国との関係改善を果たした国民党の馬英九への「儀礼的態度」とは対照的だった。
 蔡が総統に当選すると、岸田文雄外相は「台湾は我が国にとって、基本的な価値観を共有する重要なパートナーであり大切な友人。日台間の協力と交流の更なる深化を図る」と、関係強化を強調する異例の談話[注2]を発表した。日本の外相が台湾総統選で談話を発表したのは初めてだった。岸田は安倍政権発足直後の13年1月に「台湾は基本的価値観を共有する重要なパートナー」と、初めて「重要パートナー」の形容詞を使った(「交流協会」への祝辞[注3])。これは、安倍の台湾重視を体現する修辞である。

◆◆ 関係格上げ狙った赤間訪問

 その「交流協会」は16年12月末「日本台湾交流協会」に名称変更すると発表した(写真1)。変更理由の公的説明はないが「地域を示す名称が付いておらず不便。認知度が低い」と、利便性を理由に挙げる声は以前からあった。だが断交45年後の今、というタイミングの説明にはならない。「日台関係強化をアピールする狙い」(毎日新聞)[注4]など、安倍と蔡の「蜜月関係」を象徴する主導的な政治判断とみていいだろう。

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  (写真1 台北での看板架け替え)

 3月に台北でインタビューした許信良・元民進党主席[注5]は「台日関係を主導するのは台湾ではなく日本。日本が同意しなければ台湾が一方的に主張してもどうしようもない」と、日台間の政治力学を説明した。中国外務省は発表直後「強烈な不満を表明する。台湾当局に間違ったシグナルを送り、中日関係に新たな障害をつくり出さないよう求める」と、強い調子で非難した。

 一方、赤間二郎総務副大臣は3月25日、日帰りで台湾に出張した。日本台湾交流協会が主催する台北の食品・観光イベントの開幕式への出席が目的。1972年断交後、副大臣が「公務で」台湾を訪問するのは初めてである。農林水産省の宫腰光宽・副大臣も06年8月に訪台しているが、「私人の身分」であり「公務」ではなかった。菅義偉官房長官は28日「日本と台湾の経済関係、人的往来を深める観点で意義があった」と、訪台を積極的に評価した。一方、岸田外相は「わが国の基本的な方針に反するものではない」と、日本政府の「一つの中国」政策に違反する訪問ではないと述べた。
 では宮腰の際は、どんなコメントを出していたのだろう。当時、小泉政権の官房長官だった安倍は「(台湾との関係は)日中共同声明にある通り、非政府間の実務関係として維持するもので、この立場に何ら変更ない」と述べた。日中関係の大枠を維持し「政策変更ではない」と“弁解”していることに注意してほしい。二人の副大臣の訪台についての政権の反応を比べると、安倍政権が「受け身」から「主導」へ転換したことがみてとれる。

 トーンの違いは鮮明だ。赤間訪問は、台湾との交流レベルを「格上げ」する実績づくりと見ていい。中国外務省の反応は厳しい。「訪台は、台湾とは民間の地域間の往来のみを維持するという日本側の約束に明らかに反し、中日間の四つの政治文書の精神に厳重に背いている」「台湾問題は中国の核心的利益であり、挑戦は許さない」(華春瑩・副報道局長 3月27日)とのコメントは、訪問を日中関係の大枠を崩そうとする「挑戦」と見做していることを示している。

◆◆ 「72年体制」への挑戦?

 断交後の日本の台湾政策を振り返る。歴代内閣は「中華人民共和国政府が中国唯一の合法政府であることを承認する」とした日中共同声明に基づき、国交のない台湾とは「非公式な窓口機関を通じ実務問題を処理」してきた。外務省は、日本の台湾政策についてHPで「日本の基本的立場は、日中共同声明にある通りであり、台湾との関係について非政府間の実務関係として維持してきています。政府としては、台湾をめぐる問題が両岸の当事者間の直接の話し合いを通じて平和的に解決されることを希望しています」と書く。
 つまり台湾とは「政治関係を持たない」という意味である。これが日本政府の「一つの中国」政策の内容であり、「72年体制」と呼んでもいい。具体的には、①台湾独立および国連加盟は支持せず、②台湾問題の話し合いによる平和的解決、③一方的な現状変更の試みは支持せず―などの政策をとってきた。②③は中国による統一や武力行使を牽制する含みがある。

 岸田外相が「わが国の基本的な方針に反するものではない」というように、赤間訪台は「72年体制」を直接崩すわけではない。中国側も「四つの政治文書の精神に厳重に背いている」と「精神に背く」と批判しているのであって、「文書違反」と言っているわけではない。ポイントは華副報道局長の「挑戦は許さない」という「クギ差し」にある。

◆◆ 「正名運動」の成果

 「交流協会」に台湾の名称を入れなかったのも、台湾問題を目立たないようとの配慮だった。公的機関や公営企業の名称を「正す」運動を「正名運動」と呼ぶ。陳水扁政権時代の2002年、台湾独立派は「中華民国」という公的な名称を「台湾」に改めるよう要求する「正名運動」を開始した。それを受け陳政権は03年、表紙に「TAIWAN」と記した新旅券を発行した。続いて07年には「中華郵政」「中国石油」「中国造船」の3社の社名を「台湾郵政」(馬政権で「中華郵政」に戻る)「台湾中油」「台湾国際造船」に変更した。「団塊の世代」の中には、文化大革命の最中、紅衛兵が米大使館のある道路名を「反帝路」と名付けたことを思い出す人もいるだろう。
 正名運動は在日台湾人が中心の「李登輝友の会」や右翼団体が日本でも展開した。12年から「外国人登録証」に代わって発行された「在留カード」で、台湾出身者が「台湾」と表記されるようになったのは一例。当初、正名運動について台湾独立を実現できない欲求不満の「はけ口」「代償行為」と見ていたが、それは甘い見方だった。陳水扁政権は2008年2月「台湾」の名称で国連加盟申請をする公民投票を提起して政治問題化し、米ブッシュ政権や日本政府から「見放される」結果を招いた。

 正名運動を進める勢力の立場はどのようなものだろう。「台湾研究フォーラム」の永山英樹会長は「台湾に領土的野心を抱く中国の『台湾は中国の一部』と言う宣伝に日本人が騙され」「かつて日本人は生命線・満蒙防衛のために血を流した。その民族の気概を取り戻せ!」「台湾は日本の生命線!」などと主張する。
 彼らの台湾認識は、植民地化した時期から全く変化なく連続し、台湾を「宗主国日本」の道具(ツール)と見做し続けていることが見てとれる。彼らの運動の目標が、台湾問題に積極的に介入し「台湾は中国の不可分の一部とする中国の立場を十分理解し尊重する」(日中共同声明)とうたう「72年体制」を崩すことにあるのは明白である。正名運動は、こうした目的を達成するプロセスにある。交流協会の名称変更について「台湾研究フォーラム」は「日台新時代が到来」と高く評価した。かつては一部右翼と独立派の主張にすぎなかったものが、いまは政権を動かすようになった。世論の軸が大きく右にずれたことを示している。

◆◆ 台湾政策の質的変化

 日本の台湾政策は、陳水扁政権時代(2000~2008年)に少しずつ強化されていったことが分かる。その背景には、冷戦終結とバブル崩壊があった。日本が「30年」もの長い経済不振の時代に突入する一方、中国は米国と並ぶ大国へと台頭する時期に当たる。台湾政策の質的変化は、①1999年9月に起きた台湾中部地震への人道支援、②2001年4月の李登輝訪日受け入れ―が契機になった。質的変化とは、災害救助や治療など「人権」に関わる問題については、北京が主張する狭い意味での「一つの中国」の制約を受けないという意味である。ある日本の台湾研究者は07年に開かれたある研究会で、李登輝来日の決定を台湾政策における「主体性の目覚め」と呼んだ。状況変化に対応する「受け身」から、「人権」を理由に主体的な台湾政策を展開しても、世論の支持は得られるという自信を日本政府は持ち始めたという意味でもある。
 日本でバブルが破裂し経済不振の中で、自信喪失と不安感が強まる一方、中国の台頭で「中国脅威論」が横溢する。こうした背景から、中国の「軍事的脅威」にさらされている台湾への親近感が生まるのは、「判官贔屓」をよしとする日本的情緒からすると理解はできる。日本で芽生え始めた「ナショナリズム」は、大国化する中国と、「ならず者国家」北朝鮮の敵視によって成立する。

◆◆ 李登輝来日が契機

 「主体性の目覚め」となった李登輝来日を振り返る。「心臓病の治療」を建前にした来日に対し、北京がこれまで同様強く反発する一方、全国紙は社説で初めて来日支持の足並みをそろえた。総統を退任した1老人の訪日を阻止しようとした中国は、日本世論の中でまたもや「ヒーラー」のイメージを増幅した。中国の強圧的姿勢が日本の世論の「判官贔屓」を刺激し、李登輝の「親日」イメージもまた来日支持の世論形成に寄与した。来日が実現した4月は、小泉純一郎内閣の誕生した月でもある。中国の靖国参拝非難キャンペーンをはねつけ、参拝強行のたびに支持を上げた「小泉現象」も、「嫌中意識」を契機に高まる敵対型ナショナリズムと通底している。
 これを契機に日台関係は徐々に進展していく。①交流協会台北事務所への元陸将補の派遣②、池田維、斎藤正樹両氏ら元チャイナスクール外交官の台北事務所長起用、③台湾のWHOオブザーバー参加への支持―などである。「国益を主体的に判断する」政策が次々に打ち出されていく過程は、文末の脚注にある表[注6]を見れば一目瞭然だ。

 台湾政策の変化は、当時の最大野党だった民主党にも影響を及ぼした。02年5月、当時の菅直人代表は上海で開かれたシンポジウムで、台湾の国連加盟を支持すると発言し中国側を驚かせた。「一つの中国」の壁にまず、野党側が挑戦したのだ。これには伏線があった。民進党政権誕生後、民主党は仙谷由人氏(元官房長官)を中心に民進党との協力関係を摸索する動きを開始した。仙谷と枝野幸男氏(元官房長官)は02年11月、「民主党日本・台湾友好議員懇談会」の台湾訪問団(国会議員9人)を率いて、台湾・民進党が主催するシンポジウムに参加。陳水扁総統と李登輝元総統と会見するなど、両党間の交流を深めていった。
 その後も、前原誠二民主党元代表が「中国は現実的脅威」と、野党代表として初めて中国脅威論を展開した。自民党も、麻生太郎氏(元首相)が外相時代に「中国脅威論」を初提起する一方「台湾の教育水準が高いのは、植民地時代の日本の義務教育のおかげ」などと発言した。これも李登輝が振りまく「親日台湾」イメージの成果だろう。麻生発言について、台湾・外交部スポークスマンは02年2月6日「教育も植民政策の一環であり、目的は誰もが分かっている」と述べ、植民地統治の美化を暗に批判した。さらに「日本と中国、韓国の間には歴史をめぐって意見対立が生じている。われわれは台湾と日本の間に同様の事態が生じないよう希望する」と、植民地を美化する言動に懸念を表明するのである。

◆◆ 切れないカード「台湾関係法」

 正名化と歩調を合わせる「関係正規化」の動きをみる。安倍政治を支える「日本会議」所属の国会議員や識者は、李登輝や独立派に呼応して、日台関係を正規化し安全保障協力をうたう「日本版台湾関係法」[注7]策定を計画している。原案は日本の学者が04年に作成。14年2月には自民党の有志議員約70人でつくる「日本・台湾経済文化交流を促進する若手議員の会」(会長・岸信夫)が策定方針を確認した。
 これに対し中国側は、唐家璇・中日友好協会会長が16年5月、北京で高村正彦自民党副総裁に「日本の政治家はなぜ次々と台湾を訪問するのか」と苛立ちを隠さず、「台湾関係法」にも警戒感を示したという。中国外務省も14年2月19日「台湾問題は中国の核心的利益に関わる。中国は断固反対し日本が四つの政治文書の関連原則を守るよう」求めた。

 同法は安倍イデオロギーと符合するが、政権が策定する気配はいまのところない。江口克彦・元参院議員が16年5月提出した「(同法)制定の検討の有無」を問う質問主意書に対し、内閣は「政府としてこれまでに検討したことはない」とする答弁書を出した。法案が採択されれば、歴代内閣が踏襲してきた「一つの中国」政策の否定という疑念を生むのは明らか。日中断交も覚悟しなければならない。日本政府も外交チャンネルを通じて、最近中国側に「策定しない方針」を伝えている。
 「予測不能」のトランプ登場によって、日本も中国も、対米関係の構築が最優先課題になった。日中関係と日台関係は、米中関係というより大きな枠組みに縛られ制約される。台湾関係法は、安倍が懐に忍ばせる対中カードの「切り札」であっても、実際には切るのが難しいカードである。

◆◆ 東京五輪でも「正名」

 こうしてみると「亜東関係協会」会長に、蔡の懐刀の邱義仁・元総統府秘書長(写真2)が就任した意味の重さが分かる。邱は第一次陳水扁政権で総統府秘書長や行政院秘書長などの要職を歴任した。また民進党最大派閥「新潮流派」のまとめ役でもある。17年1月3日台北で開かれた日本台湾交流協会への名称変更式典では「多くの困難を克服しついに正名を完成した」と挨拶した。

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  (写真2 邱義仁・元総統府秘書長/2016年3月 筆者撮影)

 邱は、日本政府や外務省高官とも緊密な関係を維持している。12年に邱が北海道大学の訪問研究員として、一年滞在したのも彼らの紹介である。交流協会の名称変更は、安倍政権の台湾重視政策を奇貨として、邱と日本側による呼吸のあった「合作」の結果とみていいだろう。

 赤間を台北の「食品・観光イベント」に送った背景には、福島周辺4県の食品輸入開放を渋る台湾世論に、日本産食品の安全をアピールする狙いもある。蔡政権が台湾世論の説得に成功して輸入開放すれば、台湾との経済連携協定(EPA)締結に向けた交渉を、水面下で開始する可能性がでてくる。正名運動について言えば、2020年の東京オリンピックで、国際オリンピック委員会(IOC)の正式名称である「中華台北」ではなく、「台湾」の名称にする「2020東京五輪台湾正名推進協議会」が3月末、東京で設立大会を開き気勢を上げた。IOC、JOCともこれを認める可能性はないが、「嫌中愛台」が浸透している日本の世論には、それなりの効果を発揮するかもしれない。 (一部敬称略)

[注1]「四つの基本文書」 ①1972年国交正常化の日中共同声明で「台湾は中国の不可分の一部」という中国の立場を「十分理解し尊重する」とした。②78年の日中平和友好条約で、「両国間のすべての紛争を平和的手段で解決」「武力や武力による威嚇に訴えない」ことを確認。③98年、江沢民国家主席が来日、小渕恵三首相と日中共同宣言を発表、両国関係を「最も重要な2国間関係の一つ」とし95年の村山富市首相談話の順守を明記。④2008年、胡錦濤国家主席が来日、福田康夫首相と「共同声明」を発表、「戦略的互恵関係」をうたい、両国首脳の定期的な相互訪問の仕組み作りが盛り込まれた。
[注2]「台湾総統選挙の結果について」(外務大臣談話)(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page3_001538.html
[注3]台湾情報誌『交流』1月号 (https://www.koryu.or.jp/taipei/ez3_contents.nsf/New/167A19D96266010D49257B040012D6A0?OpenDocument
[注4](http://mainichi.jp/articles/20161229/k00/00m/030/078000c
[注5]海峡両岸論77号「冷たい平和」はさらに続く (http://www.21ccs.jp/ryougan_okada/ryougan_79.html
[注6]画像の説明
[注7]米国の「台湾関係法」 1979年の米台断交後、台湾への武器供与の継続をうたった法律。米華相互防衛条約の失効によって、東アジアでの軍事バランスの変化を押しとどめ、両岸関係における米国のバランサーとしての役割を保証する根拠にもなる。

 (共同通信客員論説委員・オルタ編集委員)

※この記事は海峡両岸論第78号(2017.05.08発行)から著者の許諾を得て転載したものですが文責はオルタ編集部にあります。

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