■書評 

「在日 姜尚中」         講談社  1500円

                                                                               加藤 宣幸─────────────────────────────

姜尚中氏といえば、複眼的思考で日韓・在日問題の枠を超え、内外の社会問 題についてTVを中心に活発な発言をしている東大教授のパブリック・コメンテ ーター=言論人である。クールさの中にも温かみを感ずる発言内容に共感する 人も多い。

 本書は在日2世として生まれ、日本社会から疎外され苦闘する父母の姿を見 ながらも自らは「永野鉄男」として育つ。アイデンテイテーを求める苦しみの 旅路をたどりながら、遂に「姜尚中」として生きるにいたる心の葛藤を描いた 異色の自伝である。

「自伝」というより、むしろ自分の生い立ちを語ることに寄せて「在日」問題 の所在を訴えるドキメンタリーだというべきだろうか。 私を含め、多くの日本人は「在日韓国・朝鮮人」を単に「日本に居住している 外国人で韓国・朝鮮国籍を持つ人」としてとらえがちである。

 それは「在日」 は此処の者(インサイダー)であり、他所の者(アウトサイダー)でもある。 というデリケートなとらえ方ができないからだと思う。故郷(ホームランド) を持った外国人が日本にきて生活するのと「故郷」を外に持たずに日本で生活 する「在日」とは「外国人」として同じように括れないものがあると著者はい う。

 それは、《「在日」に関して言うと、戦前の植民地支配の意識が完全に断ち 切れていないため、日本人に限りなく近く、しかし、「非日本人」にとどまると いう微妙な距離感が作られているのである。

 その意味で、「在日」はほかの定 住外国人や民族的少数者と違うきわめてデリケートな位置に置かれている。そ のことが逆に、「在日」が自分たちに特殊なアイデンテイテイを与えようとす る動機にもなっている。

 

 そこには、差別と同時に、語弊があるかもしれないが、 非常にゆがんだ「従属的な」依存関係が成り立っているのである。》  このように著者は「在日」について深く関心を寄せようとしない日本および 韓国社会に問題を提起しつつ、同時に「日本国民の在日化」という現象をつぎ のように《「在日」が、セーフテイーネットなき時代を生きながら、やがて日 本社会の中に埋めこまれ、「市民」や「住民として生きていけるような可能性 がみえてきたとき、逆に日本の平均的な国民が、あたかも「在日」的な境遇に 近づきつつあるのだ。》と鋭く指摘している。

 また、著者が「在日」の立場から社会的に発言することについてはエドワー ド・W・サイード(パレスチナ生まれで現代アメリカの代表的文芸評論家)が 『知識人とは何か』の中で知識人とはつねにアマチユアである。と言い切って いる。つまり、《つねにどっぷりとインサイダーの中に浸からずに、どこかで アウトサイダー的な面を保ち続けることは困難がともなう。アウトサイダーで 社会にいるということは、つねにアマチユアである》。という考えに根拠を得 た。

 というのはサイードがパレスチナとアメリカでインサイダーであり、同時 にアウトサイダーである立場を生きた人であることを著者のそれと重ねれば当 然のこととも思われる。

 最後に著者はかっては「在日」を国家の枠組みの中だけで考えていたが、東 北アジアに300万人もいるコリアン系マイノリテイーが日朝・日韓・中韓さら にロシアとの関係まで考えて国と国、境界と境界を仲介するような広域的な ネットワークの一部として役割を果たすことによって「在日」としてのアイデ ンテイテイは「東北アジアにともに生きる」なかにこそ確立できると強く訴え る。

 

 日米二国間関係ばかりにとらわれ続ける日本にとって「東北アジアにとも に生きる」ために、このコーリアンネットワーク300万人との連携は欠かせな い筈である。私たち日本人こそ「在日」の枠を超えた「在日」問題の提起を深 く受け止め「東北アジアにともに生きる」糧とすべきである。著者の発言がま すます活発になるよう期待したい。                                    

                                  (加藤 宣幸)