■「巷間見聞録」(上)  中野 紀邦

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自分では天下の素浪人のつもりだが、女房から見るとただの風来坊にすぎない。 風来坊らしく巷間を彷徨っていると世の中様変わりだ。日本の社会は大きく変

化している、しかも現在進行形だ。 考えるに、たかだか50年間ほどで、衣・食・住をこれほど変えた民族は、強制的な例は別であるが、歴史に無いのではなろうか。下部構造の変化が上部構 造に変化をもたらしている。

日本の社会は『明治維新』や『太平洋戦争敗戦』に匹敵する社会の変化に遭遇していると思っているが、人によっては千年単位の激変と見ているようでもある。往時を偲び嘆く人もあるが、昔に戻ることは絶対に無さそうだ。

傍観者の立場としては、どのくらいのステージで一つの時代を迎えるのかというぐらいの関心はある。これから先の形がおぼろげながら見えればと思う。

一、気候変動と人心の変化は同調するのか

ある激しい雨の夜のこと、銀座の小料理屋の女将が我々を見送りながら「天気 も、人も狂ちゃって」と言われたことが気に掛かっている。人の言動がおかし いのは自然界の変動によるものなのか。

講談本によると、戦国時代は地震が多かった。日本の伝統的な技は安土桃山時 代にその基礎がほぼ出来ていたらしい。そうであれば戦国時代は産業の生産力 も上がっているはずであるし、生活は豊かであったと思われる。それでは何の ために領地争い権力争いをしたのであろうか。天地の変動の際は生き物が蠢き 騒ぎ出す。あの騒乱は天地変動に対する人間の潜在的な予知が人心の動揺を招 き、引き起こしたのかもしれないとも思うことすらある。

四十年前に東京へ出てきた時に、こちらの雨は九州に比べて小粒で静かに降っ ていいた。さすがに雨も洒落ているなと感心したものだ。ところが最近の東京 の雨は大粒だし荒っぽい降り方だ。

永いこと日記を書き続けている人の話では、子供の頃、夏の最高気温が 30度を越すようなことはめったになかったと言う。

山を歩いていると、ここ数年で「季節が一、二ヶ月前倒しになっているのでは ないか」と思われる。

四年前だったと記憶しているが一月に雪深い西丹沢を下りてきた時に酒屋の婆 さんが「こんな大雪は生まれて初めてだ」と言う、御年は七十幾つの方だった。本来、関東の大雪は春先に南の暖かい湿った空気が冷たい空気とぶつかって起こる春の雪と聞いている。大雪が二ヶ月は早い。かって東京で、四月に大雪が降り、新聞の見出しが「雪に弱い大都市」となっていたのを思い出す。

夏が長いというか、春が二ヶ月早くなり、秋が二ヶ月遅くなっている。つまり 冬が極端に短くなっている。

スズメバチの活動期が長くなった。例年だと 8 月と 9 月に注意しておればよ
かったが、昨年ごろから11月になってもスズメバチの被害が出ている。

これは環境問題になるが、日本海沿岸では枯れた松の木が多い、鯛やアワビそ れにサザエが獲り放題だった新潟県の粟島では二年ほど前から小生の腕の力量 を差し引いても不漁となった。生き物の生態変化は枚挙にいとまない。

気候の変化、温暖化も地殻の活動と関連して起こっているとは言えないだろう か。日本列島は長崎・雲仙普賢岳の噴火以来、地殻変動の活動期に入っている ということだ。

今年二月に三宅島に渡った。三宅島は綺麗な円錐状の島であった。それが台形に見える。当初は標高六百メートルの雄山の火口が八百メートル沈下したという。現在、火口は海抜二百メートルまで上がっているそうだ。マイナスになったエネルギーはどこへ行ったのだろう。エネルギーが解消した形は三宅島にも近海にもない。素人目では、三宅島の噴火は未だ結末を迎えていないと見えた。

今年は熊の被害が続出、台風などでドングリなどのエサ不足が原因だと言われている。はたしてエサだけの問題で怖い人間の住むところに出没するのであろうか。何かしら得体の知れないことを、熊は山の中で感じて放浪していることではないのであろうか。地震の前触れではないか、熊の出没地帯をマッピングして検証するのもおもしろそうだ。

アメリカのペンタゴン・レポートによれば、 「2020年までの間に気候変動(温暖化と思われるが)で数百万人が死亡する。ヨーロッパの主要都市は海面下に水没、イギリスはシベリア化、日本は熱帯化する」そうだ。眉唾だとも言い切れない。

上記レポートが話半分としても、大地が動き、天が騒ぎ出す、人心の動揺はこ れから未だ未だ激しくなりそうだ。

二、日本人の肉体的変化

先般、スペイン王立音楽院ギター科の主任教授に会ったのであるが、身体が我々日本人と変わらない。来日した名ギタリストのイエペスやゴンザレスも小柄だった。ところが街の中では大男、大女がかなり居る。出身地や人種が違うのかと聞いたら、体格が良くなっているのは若者で戦後の栄養事情ではなかろうかということだった。日本も同じだ。若者の肉体的変化は著しい、世代十年ごとに違っている。

太平洋戦争前後に生まれた世代、高度経済成長に入った頃に生まれた世代、高度経済成長が安定期に生まれた世代、そして、それぞれの世代が生んだ子供たちの体格はかなりの違いがある。街では胴長短足の若者は見かけない。

随分前の話であるが、ある航空会社の幹部が「スチュワーデスが腰痛手当て要求してきた」と言う。多分、原稿にしたらどうかという事のようで腰痛手当ての根拠を聞いた。それによると、スチュワーデスがお客にサービスする際、腰をかがめてトレーなどを渡したりしていると腰が痛むそうだ。そんな柔な事があるのかと聞いたら、最近は子供の頃、雑巾で拭き掃除をしないからだと言う。体格とともに体力や体質も変わってきた。

街をうろついていると人とぶつかりそうになることが多い。当方も歳老いて、よたよた歩いているのかとも思ったが、観察するに最近の日本人は周りを見ていないのではないか、駅のホームでも、多くの人は自分が乗るエスカレーターしか認識していない。 身障者が向かっていようがいまいがお構い無しだ。

電車の中で読書中、どやどや乗り込んできたオバタリアンどもが空席がかなり あるのにグループで席を確保したいのだろう、小生に「席を移動してください」と言ったので、「なんで俺が席を移動せねばならないのか」と言ったら、逃げて行った。

読書が中断されると、相手の時間を奪うのだとは全然思ってもいない風情だった。要するに周りの人がいま何をしているのか見ていない、頭の中にあるのは自分が何をしようとしているのかという事ばかりである。

会社の事務系などを訪問すると従業員は一斉に背中を丸めてパソコンのモニターを覗きこんでいる。電車の中では携帯電話に目を寄せて身体が固まっている客が多い。このような日常生活が一点しか見ない人間を作ってきたのだろうか。

前方しか見ていない、周りを見ないというのは動物以下だ。野生の虎はテリトリーを守る、同族でも 10 メートル以上離れて行動しているらしい。 四国で宿が無く、タクシー会社に頼んでラブホテルに泊ったことがある。部屋に入って目を見張ったのは、自動販売機である。壁二面にわたって、セックスを助長する機械や薬それにポルノビデオなどの販売機が並んでいる。考えるに我々の若い頃にこんな道具立てが必要だったのであろうか。若い男にパワーがなくなっていることは、うすうす感じてはいたが実態を垣間見たように思えた。

テレビのドキュメンタリー番組で見たのであるが、ライオンの集団が夜間にヌーの暴走に出会った。子供のライオンはヌーの下敷きとなって全滅、大人のライオンも相当な痛手を被っていた。雌ライオンの悲しむ姿を見ながら百獣の王も弱いものだと思っていたら、次なる展開は生き物の根源を見せ付ける感動的なシーンとなった。雌ライオンがお尻を上げてオスの前に立ち塞がるのだ。

雄ライオンは雌に乗りかかった。子供を亡くしたばかりなのにすさまじいものだ。生殖と子育ては生き物の根幹だ。

今の若者は動物からかなり離れている。少子化対策で政府は鳴り物入りの政策を打ち出しているが、恐らく効き目は無いだろう。

日本男児の生殖能力の減退を女性が潜在的に感じていることからだろうか。いまやヨン様始め、韓流ブーム。誰が仕掛けたのかは知らないが、日本の女性にこれを受け入れる下地があったからだろう。

ここ数年で何回か韓国を訪問する機会があった。訪韓の際は必ず青瓦台に行く。

車で通過するだけのことであるが、あの凛々しい警護兵の顔と姿を見たいためである。へなちょこな日本男子とは一味違う野性味を感じる。一般の韓国男性もキリットしている。これは日本男児のライバルになるなと思っていた。

また若い日本女性の旅行者もよく見かけた。韓国ブームは数年前からあったわけだが、日本女性は無意識のうちに韓国男性のフェロモンに引き寄せられていたのだ。また、これは相当前からの傾向だが日本の男性の韓国旅行は韓国女性が目当てというのが多かった。理由は男性化する日本女性を潜在的に避けていたのかも知れない。日本人は生殖能力の低下と子育ての意欲を喪失している。

十年ほど前のことであるが、長崎の華僑の婆さんに「日本はどうね」と聞いた ら「親が子供ば殺すってあんね」と即座に言われた。小生は会話を次に進める ことが出来なかった。現在は親が子供を殺すばかりではない。子供が親を殺し。爺さんと孫の間にも殺人が起こっている。

お袋がこんな話しをしてくれた。最近、近所の人が子供から『老いては子に従え』と言われたが、「納得できない、あんな子供に従えますか、どうして従わないといけないんですか」と悩んでいたということだ。

三十代半ばの若者が「二十代の若者は怖いですよ、エイリアンです」と言っていたが、若い世代間でも価値観の違いが大きくなってきている。それが社会の連帯感を阻害し始めている。

日本人の感情までもが動物以下に思えてならないドキュメンタリーをテレビで見たことがある。アフリカのチンパンジーの新種ボノボを研究するために、トウモロコシで餌付していた。ある日のこと、離れサルのボノボがその餌場に現れた。前から餌付けされていたボノボは慣れたもので両脇にトウモロコシを抱え二本足で歩いていた。

離れボノボは一本も取れない。相当お腹がすいていたのであろう、トウモロコシを両脇に抱えてむさぼるボノボに近寄るが、そっぽを向かれる。しかし、先達のボノボはトウモロコシを食べ終えた頃、離れボノボにトウモロコシを投げ与えた。サルにもこうしいた気持ちがあるのに、最近の犯罪では弱いものから物を奪うようになった。

中国の哲人が「子供が川に流されているのを見たら、人は川に飛び込み助けるであろう」というたとえ話から性善説を説いていたが、困っている人や弱い者を助けようという気持ちは、本来動物には備わっているようだ。

いや現代はボランティアが流行っているではないかと反論されるであろうが全部が全部とまでは言わないがボランティアの実態というのも鼻つまみ者である。実際、新潟中越地震ではボランティアに紛れて泥棒が侵入していた。

現代人は正座や胡坐を組むことが苦手である。座るという基本動作が無くなると、身体動作についての伝統文化が無くなる。現代人の歩き方、呼吸のし方、感情のコントロール方法などが変わった。

しからば良い伝統は残そうじゃないかと色んな活動も見られるが、良い伝統も悪い伝統も残れる環境がない。例えば和服の帯は単に着物をまとめるという機能ばかりでなく、身体の中心である丹田を押さえる働きもある。ただし今の若者は和服が着れない体型となっている。

三、女性が社会をリードする時代へー男女の中性化

街の中で女性のスカート姿がすくない、二、三割だろうか。女性に言わせれば「植草教授みたいな人がいるじゃないですか」つまり自己防衛ということであろう。しかし、この風景は 10 年以上前から顕著である。

女性がスカートを拒否しシャツにズボンそしてスニーカー姿というのは、女性たちにとっては無意識であろうが、女を放棄しているようにも見える。

半年ほど前のことだが、山手線のシルバーシートに座っていたら、目黒駅から4、5人の女子高生が争ってシルバーシートに駆け込んできた。残念ながらシルバーシートには空席が無かった。車両の連結部分を占拠して「ワー、ワー」 始まった。しばらくすると何かしら雰囲気が変わった。

「柄がいい」とか言って含み笑いが始まった。なんだろうと覗くと、連結部分にベタ座りした女子高生がお互いの下着を品定めしていた。余り色気も感じないので目を反らしたが、この程度で驚いてはいられない。

これも電車の中の話。朝、電車がチョット込んでいた時に「触った」、「触らない」と男女がやり合っていた。ついに女が大声で「スカートの中に手を入れて、触らなかったと言うの」と言うと、男はすごすごと電車を降りた。一発で決まりであった。

ラッカデオ・ハーンだったと思うが、その著書の中で「日本の女性は汽車の中で眠る時にハンカチや扇子で顔を覆っている」とその奥ゆかしさに感銘を受けていた。今時は電車のシルバーシートに若い女が大股拡げて寝たふりをしている。携帯でも鳴ろうなら、仏頂面がニコニコ顔のお多福に豹変、会話の内容から推察しても、何がうれしいのか当方には理解できない。

アテネオリンピックでの女性陣の活躍は言うまでもないが、一般的には若い世代では女の子の方が元気いい。

一方、男のほうはどうであろうか。離婚した若い女性に理由を聞いたら、旦那が頼りないからだと言っていた。街の夫婦連れを見ていると、老年も中年も同様だ。大体、女が何事もリードしている。

こんなことがあった。お店のレジで清算をしていたら、オバタリアンがなんとか、かんとか言いながら割り込んできた。店員はレジを中断してオバタリアンと対応し始めたので、旦那とケンカになってもいいと思いながら「今レジをやっている最中じゃないか」と一喝した。旦那は何も言わず、自分の女房が他人に怒鳴られても黙っている男。これも風潮か。

とくに関西では女性がはばしい。電車の中でオジちゃんがオバちゃんに怒られていた。男が女の言うことにハイハイ聴いておれば世の中上手く納まるという時代が来るのを先取りしているかのように見えた。

若い男のメス化について、ある人が環境ホルモンのせいだと解説してくれたが、 女が男っぽくなったのも環境ホルモンであるのか聞き逃した。 ビヤホールでは若い女性がビールの大ジョッキを片手にくわえタバコ、酒屋の立ち飲みカウンターにも作業時姿の男性たちに混じって若い女性が姿を見せている。男性ホストの飲み屋が大繁盛しているようだ。男も女も違いが無い世の中になった。

将来、男女の服装の差もなくなるのではないか。目ざといアパレルメーカーがモノセックスの服を売り出すとぼろ儲けすること請け合いだ。帽子、鞄、靴などモノセックス産業の裾野は大きい、景気回復の目にならないだろうか。

女性が主役の時代に男は黙ってついていく。

四、ルールなき社会

酒に酔って深夜にタクシーで帰宅していたら、交差点で右折車が横切った。衝突は免れないと構えたが、上手く回避してくれた。運転手さんに技量を褒めると、「信号とか交通ルールは信用していない。常に周りで動くものがあるか神経を尖らせていて、回避できるように構えている」と言われた。

ある運転手さんは「事故があった場所はキチンと頭に入れておいて注意して運転している」と教えてくれた。

最近は交通ルールが守られていない。

細い道から出てきた車のドライバーが広い道の車に怒鳴っている。よく聞いていると、車は一台一台交互に道を譲るべきだと言うことだ。道路には優先権と言うものがあるはずだが、、、。

ウインカーを点けずに車線変更するのは当たり前。
一時停止のところでは車がズルズル動いている。
信号は無視ともいえない、確認はしているようだが左右を見て、車が来ないあ るいは抜けれると判断したら発進。信号は目安に過ぎないと思ったが良い。

これらのことについて警察関係者に聞くと「予測運転」と言っていた。つまり 交通ルールを皆が承知していると思って相手の車の進行を予測して運転すると いうことらしい。それは通じない世の中となった。車の社会では常識で行動し ていたら命を亡くしそうだ。

先般、幹線道路を走っていたら50、60メートル先の信号が赤となったので 減速していた。運転席の窓に人影がしたように見えたので振り向くと中年男女 が、もうセンターライン間じかに歩いて来た。常識を引っ剥がされた思いだっ た。

最近、車の右折よりも左折に時間がかかる。何故ならば、歩行者が歩行者用の 信号が黄色になっても赤になっても集団で道路を横断するからのようだ。

このように車ばかりか歩行者もルールを無視。

人間は集団生活の中でしか生きられない。集団には律がなければ成り立たない。 世の中、後戻りは出来ないだろうから、新たなルール、常識を作ることになる だろう。

五、責任なき社会

政治家や役人が責任を取らないのが当たり前のこの節、公的な組織の長までもが責任をとらない。「悪う御座いました」ですべてチャラの時代となった。

この風潮は子供たちにも影響している、凶悪犯罪を犯してもその言い草が「悪 かった」、「殺す気はなかった」と情状酌量を狙った裁判対策としか思えない 発言をしている。

JR バスの運転手が常習の飲酒運転であったことが判明。
核燃料の残債をバケツで処理、臨界点を誘発する。
常習的に欠陥車両を発売する会社。
居眠りか、携帯電話の応答中か忘れたが停車駅に止まらない新幹線。
鳥インフルエンザと疑ってもおかしくないのに流通させる会社。
これらは責任感の欠如ということだろうが、基本的には自分はどこの会社でどのような仕事に勤務しているのかお判りでない様だ。社会における自分の所在が分らなくなっている人たちが多くなっている。

責任なき社会は緊張なき社会を助長する。

国会議員の無責任さは基本的なことに現れている。それは会派の変更がいとも簡単に行われることだ。選挙で戦った政党を変更することは正に公約違反である。これが常々的に行われるのは異常なことだ。

戦時中の統制法律に匹敵する法律が小渕内閣から小泉内閣に至るまでに7割から 8 割成立していると言われている、国会議員の無責任さは明々白々である。

言論の府での言いっ放し、言われっ放しは日常茶飯事。これは、緊張なき社会がもたらしたとも言える。

「その任にある者がその任を認識せず」は上にも下にも当てはまる。 バレなければ良いという社会がバレても大丈夫の社会に変化しつつある。