「戦争の終決に接して」    大宮一朗 

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 支那事変開戦から既に八年を経過し、広大な太平洋上、アジア西南部まで戦場
を拡大していった日本軍は、昭和十七年六月から敗戦の方向に戦局が転換して、
昭和十九年七月サイパン島、同八月テニアン島玉砕、日本本土への空襲が連日行
われる状況となり、政府は国民総武装を決定、竹槍訓練を指令、陸軍は十七歳以
上が兵役編入となる。昭和十八年五月末には北方のアッツ島玉砕、昭和二十年三
月硫黄島玉砕、三月十日東京、十一日名古屋、十三日大阪、十八日九州、四国、
十九日阪神、呉が大空襲され、三月二十六日から沖縄決戦が始まり、六月二十三
日日本軍全滅、牛島指令官、島田県知事自決する。比島は既に二月十一日陥落、
同日、米、英、ソ連ヤルタ会談を行い、ソ連参戦を決定。四月ソ連は日ソ中立条
約延長を日本に通告。

六月八日天皇臨席のもと、最高戦争指導会議を開き、本土決戦方針を決定、第
八十七臨時国会で国民義勇兵法可決、男子十五歳から六十歳、
女子十七歳から四十歳までを義勇戦闘部隊に編成し、全軍特攻玉砕法を決定する。
また名古屋以東を杉山元帥指揮の第一総軍に、以西は畑俊六元帥指揮の第二総軍
に編成、一挙に六十七個師団を増加、全軍で百七十一個師団編成とし、海軍は総
隊長指揮のもと陸戦隊、水中特攻、水上特攻隊と残存潜水艦四十隻を米軍上陸予
定地に配し、陸・海軍全航空兵力を統括する航空総軍を編成し、武辺正三大将を
指揮官とし、総数三、二○○機と、特攻機五○○機、敵輸送船攻撃用海軍機三、
七○○機を準備する。七月二十六日、独ベルリン郊外のポツダムでアメリカ、ト
ルーマン大統領、イギリス、チャーチル、後にアトリー首相、ソ連、スターリン
首相が集まり、ドイツの戦後処理、ヨーロッパの再建問題と、日本の全面降伏を
要求するポツダム宣言の内容を協議する。

アメリカでは原子爆弾実験成功の報がスチムソン陸軍長官から、トルーマン大
統領に通報があり、ポツダムの大統領は八月三日以後投下することを太平洋陸
軍戦略空軍指令官スパーツ大将に命じて、ポツダム宣言を通告、七月二日会議
は終了する。日本では七月二十七日以降、陸海軍、政府閣僚の間で、宣言受諾
か、徹底抗戦か激論が交わされ、結論が出ぬまま、鈴木首相名を以て「ノーコ
メント」と連合国に伝えられた。そのため宣言の中ほどにある、日本がこの宣
言を受諾しない時は、日本の軍隊および日本国土の完全なる破壊をする旨書か
れている。

その主旨が明白に理解されず、遂に八月六日八時十五分広島に原爆が投下さ
れ、尚降伏がないため九日午前十一時二分長崎に第二の原爆が投下された。こ
の時のラジオ放送は新型爆弾が投下され被害は大きいと初めて軍は損害の大な
ることを認める放送を認めたのであった。ソ連は八月八日満州国に進攻を開始
する。東郷外相は天皇にアメリカの情報などを上奏し天皇も戦局を憂慮して、
十日終戦を決意する。八月十五日はお盆の休みで家にいるとラジオで正午重大
放送が行われるので国民は聞くようにとの放送があり、その時間を待った。天
皇の声でポツダム宣言を受諾する旨の放送が流れたのであった。

 私は昭和十二年八月から、二回召集令状を受け、約五年ほど軍隊に在籍し、実
戦場でのつらい経験、生命の危険など多くを体験し、国内の物資不足の生活も実
際に体験していたので、この放送を聞いて、安堵と、同時に緊張が抜けていった。
その後、日本の政府や軍部はこんな小さな国で資源もないのに、一億玉砕の寸前
まで戦わせたのか、その責任の重大さを痛感しているのかと思ってみた。とにか
く命が、私は助かったのだ。天皇を現御神などにして、人の命は鳥の羽より軽く、
命を天皇に捧げるのが日本人の美徳だなんて明治時代の代表的人物が逐次植民
的政策を進める方策として考えたのであろう。私は平和と、命を大切にして戦争
に反対してきた革新的政治に替えて行かなければならないと、日本社会党に入党
し活動して行こうと自分の意志を固めて長野県連林虎雄書記長に仕える決意を
固めたのであった。
          (日本社会党結党以来の党員、91歳、諏訪市在住)

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