【コラム】風と土のカルテ(108)

「昭和の華岡青洲」梁瀬義亮医師の功績

色平 哲郎

 われわれの身の回りには化学物質があふれている。それらは便利な生活に欠かせない半面、「吸い込む」「触る」「飲み込む」ことで重篤な健康被害が起きるケースがある。農村で働く医療者にとって、常に気になる化学物質の1つが「農薬」である。

 高度成長期、過疎化が進む農村では、生産性の向上、人件費の削減、効率的な作物管理を図ろうと殺虫(鼠)剤や殺菌剤、除草剤といった農薬が大量に使われた。
 例えば、強い毒性が認められている農薬のパラチオンなどは、1950年代から使用量が急速に増え、それに伴い中毒事故や、故意の使用による自殺・他殺例も大きく増加した。
 もともとパラチオンは、ナチス・ドイツ統治下で開発された有機リン化合物の毒ガス「サリン」を参考に作られ、第2次世界大戦中にドイツのメーカーが開発したものだ。

 当時、佐久総合病院の院長だった若月俊一医師は、日本農村医学会と連携して調査を進め、13年間で2033の症例を集めた。農薬散布者の4人に1人に、頭痛・頭重、めまい、吐き気・嘔吐、倦怠、食欲不振などの症状が表れていた。

奇妙な患者の受診に気付く

 若月医師と親しかった梁瀬義亮(やなせ・ぎりょう)医師も、地元の奈良県五條市を中心にいち早く、農薬汚染の実態を世に訴えている。梁瀬医師は、1920年にお寺の三男として生まれ、京都帝国大学医学部を卒業後、軍医としてフィリピン戦線に従軍。激しい戦闘の中、九死に一生を得て帰国し、五條市で開業した。

 梁瀬医師が奇妙な患者の受診に気付いたのは、1957年ごろだった。肝炎のようだが、 口内炎が激しく、脳障害や神経障害を訴える患者が多かった。西日本を中心に起きていた 「森永ヒ素ミルク中毒事件」(ヒ素が混入した粉ミルクによる乳幼児の中毒事件)の患者の症状に似ており、「毒物」が原因ではないかと考える。思案に暮れた梁瀬医師は農家の友人を訪ね、出荷する野菜にホリドール(パラチオン)の1000倍希釈液を噴霧して、見た目の鮮度を保っていることを突き止めた。

 もっとも、文献にはホリドールは散布後2週間ほどで分解されると書かれている。行政も使用に歯止めをかけていなかった。だが、全身倦怠を訴える患者が後を絶たない。そこで梁瀬医師は、自ら「人体実験」を敢行する。その様子が、林真司『生命の農梁瀬義亮 と複合汚染の時代』(みずのわ出版、2020)に次のように記されている(p.68)。

 動物実験ではわからぬ現象が、人体で起こっているのではないだろうか。そう思った梁瀬は、思い切って自分自身の身体を使って、残留農薬の人体実験を決行することにした。畑のキャベツに1から14までのナンバーを振り、1番から毎日ひとつずつ、ホリドールの1000倍溶液を撒布した。14番に撒布を終えた翌日から順番に、1番からキャベツの葉をとってすりつぶし、その搾り汁を飲みはじめた。葉をとったキャベツには、新たにホリドールを撒布していく

 その結果、4、5日間は特に変調はなかったが、15日を過ぎると下痢が始まり、夜中に目覚めて倦怠感が募る。怒りっぽくなって、人をなじる。1カ月で実験を打ち切ったが、 体調が戻るまで3カ月かかったという。

自ら農場を経営し「解」を示す

 梁瀬医師は、農薬に関する知見を保健所に伝える。1959年4月、新聞記者の取材を受け、「農薬の害」が報じられた。大阪中央卸売市場から五條の野菜が締め出され、苦境に立たされた農家や青果店の関係者は梁瀬医師を呼び出して吊るし上げる。

 それでも梁瀬医師は屈せず、科学的事実を発信し続けた。サンデー毎日(1961年2月21日号)が「臨床記録によると、ホリドールなど有機燐製剤の農劇薬は浸透性が強く、植物体内で同化作用を起こして分解し、洗っても煮ても消えない。農作物にごく微量ついても 食べて、1、2ヵ月後に中毒症状が現われ」と記事化して反響が起きる。
 農民の多くも梁瀬医師に賛同。やっと規制へと潮目が変わったのだった。その後、国内でのパラチオンの販売・使用は禁止されている。

 五條市を流れる吉野川(紀の川)を少し下ったところにある和歌山県紀の川市は、江戸時代に世界初の全身麻酔による乳癌手術を成功させた華岡青洲の生誕の地として知られる。『華岡青洲の妻』(新潮社、1970)を著した有吉佐和子は、著書『複合汚染』の中で、開業医として地域を守りながら、患者を苦痛から解放させるべく試行錯誤を重ねた梁瀬医師を華岡青洲と重ね合わせたのか、次のように記述している。

 青洲が世界で最初の乳癌摘出手術を行った相手は、五條の藍屋利兵衛の母親であった。小説『華岡青洲の妻』の作者が、こうして吉野川と紀ノ川の接点で、昭和の青洲に出会うとは、なんという因縁であろうか。私には感慨深いものがあった。
(新潮社[文庫版]、1979)

 その後、梁瀬医師は、自ら直営農場を設けて、完全無農薬、有機農法の啓発と実践に取り組んだ。警鐘を鳴らすだけでなく、自ら「解」を示したところに医師の気概が感じられる。

※本稿は、佐久総合病院の夏川周介名誉院長による「協同の系譜 若月俊一=農村医学の父=」その12「農薬中毒抑止に一石」(日本農業新聞23年4月20日)を参考にさせていただきました。

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2023年4月28日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集事務局にあります。

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202304/579438.html

(2023.5.20)
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