■ 映画紹介
「母べえ」の実感 加藤 宣幸
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1937年(昭和12年)12月15日の早朝5時はまだ暗い。その暁闇を衝いて
ドンドン。ドンドン。と激しく玄関のガラス格子戸が叩かれる。大勢の刑事たち
がドヤドヤと家の中に踏み込んでくる。二階の部屋にあった父の書棚から大量の
書籍類を運び出し、2~3台の黒色箱型乗用車に次々と積み込む。それを見つめ
た記憶や、玄関が叩かれる音は今でも鮮明に残っている。その時、私は13歳、
妹は9歳で強い衝撃を受けたが、母は「なんでもないのよ。お父さんは困ってい
る人を助けるために働いているのだから」といつもと同じ言葉で、おびえる子供
たちを励ました。映画「母べえ」で1940年(昭和15年)2月6日、ドイツ文
学者野上滋(巌)教授が治安維持法違反で検挙される様子、建物の造りや屋内の
模様にいたるまで私の記憶とそっくりである。とくに玄関前に乗り付けられた黒
塗りセダンの不気味さは鮮烈であった。
ただ私の父加藤勘十は、国会派遣皇軍慰問団員として上海から長崎に帰国し、
上陸と同時に逮捕され、東京に護送されているから、野上教授のように家族の眼
前で手縄をかけられてはいない。国会議員で日本無産党委員長であった父は新聞
各紙が主な逮捕者の顔写真入り号外を出して大々的に報じたいわゆる「人民戦線
事件」の首魁として鈴木茂三郎・高野実・荒畑寒村・山川均氏ら446人に及ぶ
仲間と全国一斉に検挙されている。
映画「母べえ」は監督脚本山田洋次・原作野上照代・撮影長沼六男・美術出川
三男・音楽冨田勲・ソプラノ佐藤しのぶというスタッフと主演に吉永小百合、助
演として浅野忠信などを配するメンバーで、戦時下における「家族」の物語を描
いている。山田監督による吉永小百合というビッグネームの起用も話題だが、注
目すべきは、そのキャステイングではない。原作者野上照代さんが実際に逮捕さ
れた野上厳(映画では野上滋)教授の長女であり、原作は「父へのレクエム」(後
に「母べえ)と改題」(中央公論新社)という少女時代の自叙伝(実話)を山田
監督が映画化したことにある。
『骨のうたう』という詩で知られる天才詩人竹内浩三は映画人になることを熱
望し、巨匠伊丹万作に長文の手紙を何通も書いたが、フイリッピンで戦死してし
まう。『戦死やあわれ、兵隊の死ぬるやあわれ』で始まる『骨のうたう』は美し
く哀しい表現のなかにも戦争を激しく憎む思いがこめられた詩である。山田監督
は長い間、この詩の映画化を考えていたが、野上照代さんもまた、自分と同じよ
うに映画人を志しながら戦争に斃れた竹内浩三について深く調べていたのだ。野
上照代さんは、映画『羅生門』以後の黒澤明監督の全作品にスクリプター(映画
の進行・記録係り)として参加した黒澤組の中心メンバーである。その野上さん
が伊丹監督夫人から預かった竹内浩三の手紙について山田監督と語り合う中で、
「父へのレクエム」を監督に見せたことから、この映画化が決まる。
主役に原爆詩の朗読会をボランテイアーで20年間も続けている吉永小百合の起
用は自然であった。本人も希望したというからこれ以上の適役はない。この作
品は黒澤明、伊丹万作という両巨匠を後景に、山田洋二・野上照代・吉永小百
合の3人を竹内浩三の詩が結び、それが戦争を憎む思いを凝縮させている。声
高に戦争反対を叫ぶのではなく「家族愛」をきめ細かく描くことに徹する。し
かし背景に映し出される「戦争の時代」には誰もが強くその不条理を感じるの
だ。平和憲法の下で育ち、戦争を知らない若い世代の人たちには特に観て貰い
たい映画である。
この映画の中での野上照代さんは1927年生まれで父親が逮捕された時は13
歳だ。1924年生まれの私も1937年に同じ治安維持法違反で父親を逮捕されて
いるから偶然にも同じ13歳で逮捕劇の衝撃を受けたことになる。当時すべての
思想犯は警察の留置場をたらい回しにされたあと、未決囚として拘置所に送られ
ている。残された家族は経済的な苦しみだけでなく、「非国民」の家族として周
囲の冷たい視線を浴びながら戦時下の暗い日々を耐える。野上家の家族は父親を
信じ、拘置所に差し入れと面会を続けながら釈放の日を待つのだが、私たちの家
族もまったく同じであった。野上家の母親佳代は小学校の代用教員になって必死
に家計を支え、子供たちを育てる。私たちの母も産婆(助産師)になり、同じよ
うに夜昼なく働いた。無念にも野上滋(巌)教授は1942年2月に獄死し、私の
母も1941年10月に病死する。私の父は2年有余の拘置所生活の後、一審、二
審を特高警察の監視下で長い裁判生活を戦うが懲役4年の実刑判決を受ける。
映画の中で、拘置所の独房や警察の留置場の様子が映されている。独房につい
ては分からないが留置場については、私自身が1944年に北海道旅行の帰途、持
っていた本がけしからんというだけで青森水上警察署に4日間ぶち込まれた経
験があるので、不潔でスリやヤミ屋で一杯な留置場が「牢名主」に支配されてい
る模様など私の記憶通りである。「母べえ」の佳代は拘置所の野上教授に外国語
の原書を何回も差し入れているが、私の母も頻繁に本の差し入れに通った。どの
ような本であったのか子供の私は憶えていない。ただ父が出所したあと、ページ
をめくる部分が指の手垢で黒くなっている分厚い大英和辞典や、本のページをめ
くるため着物の右袖だけが擦り切れているのを見せられ、お父さんはこんなに勉
強していたのよと母に教えられて驚き、感心したのを覚えている。子供の初子が
母親と一緒に警察に面会に行く場面があるが、私の場合は警察にも拘置所にも母
と同行したことはない。ただ、父が釈放された日、母と巣鴨拘置所の門まで出迎
えに行った。よわよわしい足取りで門を出てきた和服姿の父は、肩が落ち、すっ
かり痩せて、顔は白っぽく、声はか細い。そこには警官に囲まれても屈せず、大
勢の聴衆を前に甲高い声で大演説する労働運動の指導者「火の玉勘中」の威厳は
まったくなかった。待ち構えた私たちは変わり果てた父の情けない姿に驚くのと
出所できた喜びとが交錯し涙がいつまでも止まらなかった。
野上教授や父が裁判にかけられた治安維持法とは一体何だったのか。この法律
は「国体の変革」「私有財産の否定」を目的とする活動に関与した者を最高刑は
死刑とするとして1925年に施行された。戦後発表された諸資料によれば1928
年の改定以降、検挙された者約6~7万人、起訴された者約5~6千人である。
当初は非合法の共産党活動を弾圧するものだったのが次第に合法的に活動する
社会運動家や社会主義・自由主義思想を抱くと思われる学者や宗教者などにも対
象を広げ、やがて戦争や国家に少しでも疑念持つ者などを容赦なく拘引した悪法
である。
この法律のために、この映画で描かれた野上教授をはじめ、哲学者三木清など
多くの知識人が獄死したり、教壇から追われるなど悲惨な生活を強いられた。し
かし、約6000人も起訴しながら正式裁判ではほとんどが無罪であった。「人民
戦線事件」では446人が検挙されたが二審までには父を含む数人が有罪となっ
た以外は全員無罪であった。ちなみに父は1943年に懲役4年の判決を受けたが
上告審理中に終戦となり、治安維持法そのものが撤廃されてしまう。未曾有の宗
教弾圧とされる同じ治安維持法違反の「第二次大本教事件」(1935年12月8日)
でも、全国一斉検挙で5百人以上が逮捕されるが正式な裁判では全員が無罪にな
り、幹部は不敬罪だけが有罪となる。(出典;「大本襲撃―出口すみとその時代」
毎日新聞社刊)しかし首魁の出口王仁三郎は6年半も獄に繋がれ、保釈された者
も特高警察の監視下で裁判を争う。検察側は警察や拘置所に拘禁し、あるいは監
視下に置くから、この法律は長期間一切の活動を許さないためのもとも思える。
父の場合、人民戦線事件での主たる容疑は1935年5月28日に渡米したとき、
1935年7月25日にモスクワで開会されたコミンテルン第7回大会が決めた『反
フアッショ人民戦線』戦術を野坂参三から指令されたというものだ。確かにパン
フレットを一杯詰め込んだ大きなトランク4個を持って9月3日に帰国し、その
トランクは2年後1937年12月の家宅捜索で証拠品として押収される。父は野
坂参三とアメリカで会ったことを1992年3月彼の「100歳を祝う会」のスピー
チで公表している。当時野坂参三はコミンテルンからアメリカに派遣され、日本
向け宣伝パンフレットの作成にあたっていたから指令はともかく、パンフレット
は彼から受け取ったものだろう。私は日本共産党の議長から名誉議長になってい
た野坂参三が1992年12月27日に、日本共産党組織自体からスパイとして除名
されるという異常さには非常に驚いた。
しかし、その後、野坂参三をめぐる研究が進み、ソ連時代の秘密文書が公開さ
れ、彼が二重三重のスパイ(日本の官憲・ソ連の赤軍・NKVD・そのいずれかの
傘下のゾルゲ機関・アメリカや延安に行った時のコミンテルン、さらに米軍。
出典「闇の男―野坂参三の百年」文芸春秋刊。「野坂参三と宮本顕治」新生出
版刊。)であったことが立証されている。父を労働運動の代表としてアメリカ
に招き、大量のパンフを渡す。それを証拠に検察が合法左翼全体の摘発に乗り
出すという図式はあまりにも出来すぎていて野坂参三が内務省警保局のスパイ
としてやったのではという疑念が生まれる。「第二次大本教事件」の場合、当
時内務官僚として絶大な権力を握っていた唐沢警保局長と相川保安課長が謀
り、2年間の内偵の後に全国一斉検挙に持ち込み大本教を壊滅させている。こ
のヤリ口を見ると、『人民戦線なき人民戦線事件』といわれる「人民戦線事
件」について当時の内務省が佐藤優氏の言う『国家の罠』を仕掛けたのではと
考えられるのだ。
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