■ 「沖縄密約事件の現在~情報公開請求訴訟をめぐって」   北岡 和義

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 相模湾に浮かぶ初島が遠くに見える。夜明けである。山の向こうで天空が明る
みを増している。流れる雲々の造形を刺し照らして自然の巧まざるアートだ。
  時間がゆったり過ぎてゆく。そんな黎明の時空に若かった過去の様々が甦って
くる。
 
歴史を刻むような刻々は、自分が新聞記者であっただけに想い出す事件は多い
。そんな時、ぼくの想念に必ず浮かび上がってくるのは38年前の事件、しかもそ
の記憶はいつまでも苦味を帯びている。
  国会議事堂の裏手にある衆議院第二議員会館の一室である。若い議員とぼくは
「沖縄協定」について話し合っていた。1971年の秋、弁護士稼業も未だ身につい
ていないような、青い書生っぽい生真面目な代議士だった。彼はいま、衆議院副
議長という国権の最高機関の長の座にいる。

 ことし3月、元毎日新聞記者、西山太吉や琉球大学教授、我部政明、ノンフィ
クション作家、澤地久枝、東大名誉教授、奥平康弘、密約ドキュメントを制作し
た元琉球朝日放送ディレクター、土江真樹子らが国家を訴えた。沖縄返還協定を
めぐる密約の文書を公開せよ、という文書開示請求訴訟である。原告団は25人、
ぼくもその一人として参加した。
 
初公判の日、ぼくは講義の合間に三島から上京し、原告席に座った。隣に澤地
、国会いた頃、彼女に代議士と対談してもらったことがある。アメリカへ取材に
来たときはロサンゼルスで旧交を温めた。昭和史を探る数々の作品で、戦争と権
力の非道を告発してきた。今は大江健三郎らと「9条の会」の運動を展開、中心
メンバーの一人だ。
 
この公判で杉原則彦裁判長の訴訟指揮が俄然、注目された。
  出版ニュース社からこの初公判について原告の立場で原稿を書いてほしいと言
ってきた。編集者の面識はない。締め切りは翌日だという。予定していた仕事は
どっさりあった。でもその依頼は断れない。早朝、起き出してパソコンを叩いた。

 ぼくは大学を出て新聞記者となった。以降、現在までひたすらジャーナリスト
の道を駆け抜けてきた。職業柄、様々な大事件、事故に遭遇し、それを報道する
ことに誇りを感じて生きてきた。ジョン・F・ケネディの暗殺の報は未だ大学生
だったが、号外ニュースとして名古屋総局の掲示板に貼り出した。東京オリンピ
ックは記者1年生で聖火リレーを道端で取材しただけで原稿は書かせてもらえな
かった。日韓条約反対のデモを取材していて、公安警察の刑事と間違われた。全
日空機羽田沖墜落、昭和天皇の北海道行幸、札幌医大で日本初の心臓移植、燃え
盛った全共闘運動・・・いずれも「歴史」の1ページを刻んだニュースだった。
 
歴史に対し誠実で正直でありたいと思う。人間、自分の歩んできた人生で、「
歴史」に関わる重要な事件の当事者となれば、自己の知りうる正確な情報を後継
の世代に語り継ぐことの任務と責任を自覚すべきだ。
  沖縄密約事件と呼ばれる37年前の国家権力のウソが、いま、法廷で裁かれよう
としている。

 2009年6月16日午後4時、東京地裁705号法廷は、凛とした緊張に包まれた。
  開廷冒頭に杉原裁判長が淡々と言う。
  「文書不存在という被告の主張ですが、(原告が開示を求めた)文書が無い、
という事実の合理的説明を被告はしてください。アメリカ側に(密約の)文書が
存在する限り、被告(国)には少なくともその関連文書が存在するはずである、
という原告の主張は理解できますね」
 
杉原裁判長の訴訟指揮は納得のゆく真に順当なものであった。被告席にずらり
並んだ法務省検事たちの顔が強張った。動揺の視線をぼくは見逃さない。
  杉原裁判長は、新聞記者に密約を証言した元外務省北米局長・吉野文六につい
ても言及した。
「吉野さんの話をお聞きしたいですね。(吉野を証人として法廷に招くことが)
可能ですか」と原告代理人で聞いた。吉野は現在、90歳の高齢、出廷できるか
どうか健康状態が懸念される。
 
「はい、コンタクトしております。(法廷に)出てくださるかどうか、大変、
高齢ですので・・・」と裁判長に応答したのは原告団事務局長・飯田正剛弁護士で
ある。
  飯田弁護士ら原告弁護団は事前に吉野会って話を聞いている。話の内容はテー
プに収録した。
  この初公判における訴訟指揮は異例ともいうべき具体性を持って、法廷で密約
文書の存否を審査しようという意欲が感じられた。

 原告団を代表して桂敬一(原告団共同代表)と我部政明が意見陳述を行った。
我部は琉球大学で日米関係を研究しているが、ワシントンに行き米国立公文書館
で交際された密約文書を見つけ出した本人である。
  桂は目を患っている。法廷で濃いサングラスをしている理由を説明、裁判官に
非礼を詫び、陳述に入った。桂は言う。
 
「・・・毎日新聞の西山太吉記者が、国家公務員法違反容疑で逮捕されたとき

衝撃を、今も忘れることができません。当時私は、日本新聞協会に事務局員とし
て在籍しており、取材活動を違法の『そそのかし』と断じ、記者を処罰のために
逮捕した政府の乱暴な弾圧に、新聞界が挙って抗議の声を発する、騒然たる場の
まっただなかに投げ込まれることになったからです。また、それだからこそ、こ
の外務省沖縄密約機密漏洩事件を、裁判の進行過程でまたたく間に、外務省内情
報源の女性職員と「情を通じた」西山記者の不当な『そそのかし』の事件、西山
事件と俗称されるものに変えてしまった政府の悪辣な手口にも、怒りを感じない
わけにはいかなかった。それは今なお、言論界の多くの人々の記憶に残る思いな
のです」
 
桂は本事件を丁寧に追った『密約』の筆者、ノンフィクション作家・澤地久枝
、沖縄返還30周年を期して改めて沖縄密約をドキュメントとして映像化した琉球
朝日放送のディレクター・土江真樹子、交渉当事者である元外務省アメリカ局長
、吉野文六の密約存在証言をスクープした北海道新聞の往住嘉文記者らの名をあ
げ、本事件が忘れ去ることなく広く国民に伝える努力を重ねてきたジャーナリス
トの労苦を法廷で陳述した。

 廷内で西山太吉本人も澤地も土江もぼくも桂の陳述を深い感慨で聞いていた。
  沖縄返還の立役者であり、「核抜き本土並み」を宣言した佐藤栄作首相の歴史
的犯罪とも言うべき密約は、アメリカが支払うべき基地復元補償費400万ドルを
日本側が支払うという約束を密かに取り交わしただけではなく、もっと深刻な、
日本人として決して許すことのできない核兵器持込に関する密約にも桂は言及し
た。
  "宰相の密使"と言われ、佐藤首相の指示で秘密裡にワシントンを訪れた裏交渉
の当事者、若泉敬・京都産業大教授(故人)が、遺著『他策ナカリシヲ信ゼムト
欲ス』で核の再持ち込みに対する政府同意の密約を明らかにしている。若泉家に
居候していた元外務省事務次官・谷内正太郎政府代表の証言をスクープ(『週刊
朝日』2009年5月22日号)した『週刊朝日』編集部記者・諸永裕司の名も出して
、桂陳述は具体的に佐藤政権のウソを暴き、「本裁判がそれを促し、国民の知る
権利を満たし、政府に対する信頼の回復に資する役割を演じられんことを、私は
期待する」と結んだ。

 我部陳述は自ら調べた沖縄返還協定に関する秘密文書で、近年、アメリカで公
開された外務省関与の2文書と旧大蔵省(現財務省)が関与した1文書の存在を
具体的に説明した。それは公表されることのなかった5つの「取り決め」の中に
、「秘密(Confidential)」扱いとされる返還協定4条3項の規定による基地の
原状回復費用を日本が負担することを記す取り決め(1971年6月12日付け文書)
と当時、「極秘(Secret)」扱いとされるVOA(Voice Of America)移転経費の
日本負担を記す取り決め(1971年6月11日付け文書)が存在することを指摘した

  前記二つの文書に加えて、今回の訴訟で公開を求めたもう一つの文書は財務省
が関与した大蔵省財務官・柏木雄介と米財務省特別顧問、アンソニー・J・ジュ
ーリック(Anthony J. Jurich)との間で取り交わされた了解覚書(1969年12月2
日付)である。

 「この文書は、1972年の施設権返還まで続いた沖縄統治の責任機関であった米
陸軍軍事史センターが、沖縄統治の歴史を記録するために収集した記録のなかに
存在していました」「1988年に沖縄統治の一時期(1945年ー1950年)をまとめて
出版、その際に収集された公文書は、その後、米陸軍軍事史センターの記録とし
て、米国立公文書館へ移管され、連邦政府の各機関の記録と同様に通常の公開手
続きを経て、現在では、米陸軍参謀記録(RG319)の一部として、一般に閲覧が
可能となっています」
 
我部の陳述は「意見」という性格を越え、まさに本訴訟が公開を求めている文
書が存在している具体的証拠を公判で提示したものだった。
  それを認めた杉原裁判長は、なんと我部陳述を裁判の正式の記録文書として採
用したのである。興味深いことに我部陳述を記した文書が被告席に渡ったのは公
判開始とほぼ同時だったため、内容の具体性に被告席検事は慌て、裁判長に「原
告陳述は事実主張であり、『意見』」ではない」とクレームをつけたのである。
「意見陳述」より「事実」の方が法廷でははるかに重要であることは言うまでも
ない。
  法廷における被告のクレームを事実上、裁判長は却下、正式に裁判文書として
採用することを声明した。しかも次回公判を決める際、被告は「2ヶ月後」を主
張したが、裁判長は「裁判は早く進めたいので1ヶ月後ではいけませんか」と被
告の譲歩を促した。被告席でひそひそ相談した挙句、「やはり2ヶ月いただきた
い」と当初の主張を取り下げなかった。

 杉原裁判長は被告の要請を採用したが「2ヶ月もあるのですから(答弁書は)
充実したものを期待します」と異例ともいうべき訴訟指揮だった。第二回公判は
8月26日と決まった。
  第一回公判は30分を過ぎたが、原告席を埋めた原告団と訴訟代理人でぎっしり
。裁判官3人が退席すると原告席は第一回公判が思わぬ展開を見せたことに皆、
興奮気味にざわめいた。
 
この日午後6時から東京地裁に隣接する弁護士会館5階で、記者会見と公判報
告集会が開かれたが、報告は裁判長の積極的な訴訟指揮にフォーカスされた。
  澤地が「もし(被告が主張するように)文書が存在しないというなら西山さん
は、存在しない文書の漏洩で有罪となったのですか」と被告主張の矛盾を衝いた

 沖縄の祖国復帰を果たすことで歴史に名を残そうとした内閣総理大臣・佐藤栄
作の有名な演説がある。
  「沖縄の祖国復帰なくして戦後は終わらない」
  現代史に記録される佐藤の誇り高く聞こえた宣言。しかも「核抜き本土並み」
を沖縄の人々は真に受けて本土復帰を喜んだ。あれから37年の歳月を経て、沖縄
の現在が物語る厳正なる事実は、「核抜き」でもなく、「本土並み」でもなかっ
た。実際、沖縄はベトナム戦争、イラク戦争の出撃基地として使われたことはだ
れでも知ってる。米海兵隊員は沖縄から戦地に出向いていった。
 
第二次大戦下、敗北寸前の日本本土攻撃をめざした米軍は沖縄に上陸、迎え撃
つ沖縄守備隊は非戦闘員を巻き込んで、20万人を超える犠牲者を出した。沖縄戦
の悲劇は今なお語り継ぎ、非戦平和を祈る島が、米軍の極東戦略基地として使用
されている歴史の皮肉を容認したのが、沖縄返還協定であり、日米密約だった、
と言えないか。

 そして・・・在日米軍基地の75%を沖縄が引き受けさせられている絶望的状況が2
009年の現実である。沖縄住民は佐藤に騙された。その悔しい歴史を実感し砂利
を噛む心境で、本訴訟を注視している。
  西山太吉が長い年月の封印を解き、「悪いのは政府だ」と国賠訴訟を提起した
2005年4月以降、密約報道に精魂傾けている琉球新報や沖縄タイムスの記者の息
遣いをぼくは胸痛む気分で眺めてきた。

 1970年2月26日の夜、横路孝弘はススキノの小料理屋にぼくを呼び出した。
  「(政治の)仕事を手伝ってくれないか」
  その場でぼくは当選したばかりの彼の秘書になることを承諾した。外に出ると
道都・札幌に粉雪が降り注いでいた。横路と別れて馴染みの飲み屋に行き、報道
課長宅に電話を入れた。
  退社を告げると課長は絶句した。
  一家4人、トヨタの空冷エンジンのパブリカで列島を南下し上京、国会議事堂
を仰いだ。若武者といった感じの青年代議士は29歳、実父・横路節雄の急逝で、
地盤を受け継ぎ、衆議院選に出馬、国会入りした。

 横路節雄は札幌師範卒の教員で、戦後、教員組合運動の指導者として頭角を現
し、1960年の安保国会では「極東の範囲」で時の岸信介政権を鋭く追及、"社会
党の飛車"と呼ばれた。余談になるが横路節雄の急逝の記事を書いたのは他なら
ぬ現役の記者だったぼくである。
  横路の当選がぼくの6年間の新聞記者生活の終わりとなった。
  横路とぼくに未だ若い精気が横溢していた。書生っぽく言えば正義感の塊りの
ような気迫で国会活動に取り組んでいた。ちっぽけな車で国会へ通うのが楽しか
った。
  1971年秋のある日、代議士はぼくに毎日新聞を見せた。
  「米国と取り結んだ沖縄返還協定に復元補償費に関する密約がある」という、
比較的地味な解説記事だった。
  沖縄返還協定を議論するため日本社会党(現・社会民主党の前身、当時、野党
第一党だった)は沖縄協定プロジェクト・チームを編成した。地方行政のベテラ
ン、安井吉典代議士をチーフに衆議院では楢崎弥之助、大出俊、中谷鉄也、横路
孝弘、参議院で田英夫、上田哲ら人気の論客が勢ぞろいした。
 
中でも弁護士出身の横路は弱冠30歳、最年少ながら真面目な勉強家で、沖縄協
定の問題を調べていた。横路がぼくに示した密約の記事は西山太吉が書いたもの
だった。ぼくはその記事が語る重大な内容に気づき瞠目した。ブンヤの感覚で言
えば「いいネタ」だ。
  西山と四谷の天ぷら屋で会う手はずを整えた。もちろん機密を要する隠密行動
だったから、横路は独りで行き、ぼくは西山と会っていない。

 その年12月、衆議院沖縄協定特別委員会は協定の批准をめぐって与野党が鋭く
対立した。西山の書いた「基地復元補償費400万ドルの支払いに密約」という情
報は協定の欺瞞を暴くのにメガトン級の爆弾のような、重要なネタである。横路
はさすが法律家、この点を衝こうと国会図書館に通い勉強した。
 
沖縄協定では返還される基地の復元補償費はアメリカが支払うことになってい
るが、真相は密かに日本側が払う、という密約がある。横路の追及に福田赳夫外
務大臣は全否定した。横路の追及の根拠はパリで行われていた返還交渉の経過を
本国に報告した極秘電文だったが、政府答弁は電文の存在をきっぱり否定、井川
条約局長は「その問題は高度に政治的判断を要する重大な問題だったので報告は
電話でやった」とウソをついた。国会機能を平然と無視した食言である。しかし
それ以上、政府を追及できる証拠が横路の手元にはなかった。

 横路の国会質問がなんとなく尻切れトンボで終わったことを傍聴席のぼくは悔
しい気分で眺めていた。
  その後3ヵ月余経って、突然、チャンスがやってきた。3月27日の衆議院予算
委員会は、質疑の最終局面で横路の質問が予定されていた。午後1時過ぎだった
か、院内にいた横路から議員会館438号室に電話がかかってきた。
  何も言わず「すぐ、院内に来てくれ」という。声を押し殺したような、緊張し
た雰囲気が電話線に伝わってきた。何かあったな、と咄嗟に思った。
  社会党の控え室は議事堂の2階にあった。大部屋である。後部の長テーブルの
脇で横路は待っていた。
  ぼくを見つけると横路は内ポケットから書類を取り出した。
  「手に入ったよ」と言った。
  瞬間、ぼくは理解した。あの、密約電報のコピーに違いない。
  「どうしよう」

 横路は迷っていたようだ。質問通告は別のテーマで政府側に渡っていた。
  しかしその日の予算委員会で持ち出さないとチャンスがなくなる。沖縄協定は
すんなり予算委員会で可決、本会議を経て批准されるだろう。横路が出せば国会
はこの極秘電報めぐって混乱すること必至だ。倒閣に追い込めるかもしれない。
ぼくは強く言った。
 
「やってください、絶対やるべきです」
  午後4時を過ぎていたと思う。予算審議は衆議院第一委員会室、院内最大の部
屋を使う。大臣席には佐藤栄作総理、すぐ脇に福田赳夫外務大臣が並んでいた。
予算委員席もぎっしり詰まっていた。ぼくは傍聴席の後方から質問席の横路を凝
視していた。

 「昨年12月の沖特で私が指摘した基地の復元補償費に密約がある、という問題
ですが、政府答弁は否定されましたね。・・・今もあの政府答弁に変わりがありま
せんか」横路が切り出した。ぼくは固唾を呑んだ。
  福田外務大臣は小バカにしたように「政府答弁になんら変わりありません」佐
藤首相も同じことを言った。何をいまさら蒸し返すのか、と。
  「ならばここにある文書を持って質問します」
  横路は初めて極秘電報を懐から出し、密約の事実を改めて質した。
 
委員会の部屋にピーンと緊張が走った。カメラのフラッシュがばかばか光る。
ニュース・カメラが回る。佐藤は答えない。ムッとした表情で腕を組んで天井を
睨んでいる。答弁席に座る者がいない。吉野文六アメリカ局長が¥「委員長!」
と叫んだ。青ざめて答弁席に走り寄った。
  「横路先生がお持ちの電報とはどういうものなのか、理解しかねます」
  答弁不能で委員会は暫時休憩となった。横路の質問が終わったら採決が予定さ
れ、72年度予算が予算委員会を通過することになっていた。が、政府は答弁でき
ない。爆弾質問に委員会は混乱し、休憩のまま委員会は翌日に持ち越された。

 その夜、プロジェクト・チームの主要メンバーが集まり、今後の攻め方を話し
合った。暴露した極秘電文を公表するかどうか重苦しい議論を重ねた。出せば漏
洩元の詮索が行われ、不知の人に飛び火する可能性が高い。もちろんその認識は
横路にもぼくにもあった。慎重論が出た。
  しかしぼくは断固、公表すべし、と言い張った。なぜなら公表しなければ政府
は「怪文書」だと逆に横路を攻撃し、逃げ切るだろう。
 
文書には極秘のスタンプが押され、右上に文書回覧の氏名とサイン欄が並んで
いた。安川壮外務審議官のところが空白だった。未処理を意味する。外務審議官
の上は外務事務次官と外務大臣だ。この文書は担当者から上に上げられ、安川審
議官のところまでは決済済だった。
  この点、よく「横路は弁護士のくせに不用意に機密文書を振りかざした」とい
う批判がある。これはまったく当時の雰囲気を知らない者の一方的な批判だ。ぼ
くらは政府をどう追い詰めるか、必死で議論し公表に踏み切らざるを得ない、と
いう結論に達した。国会議員には重大な国家犯罪であることを国民に報せる義務
と責任がある。

 ぼくは親しい新聞記者と深夜、某メディア関係の編集室に走った。そして極秘
電文のコピーを相当量再コピーした。翌日、野党記者クラブで配ることを決意し
た。
  法廷で杉原裁判長の落ち着いた訴訟指揮を聞きながらぼくは、あの夜の議論の
張り詰めた場面を回想し、そこに「歴史」を実感した。
  もちろん第一回の訴訟指揮が被告を正す、といった内容だったから本訴訟が原
告勝訴といった短絡的に考えているわけではない。ただ、われわれ原告団が司法
に訴えた「国民の知る権利」は日本国憲法次元の問題を包摂している。

 沖縄県民の苦しみの根源と言うべき沖縄返還協定の実相を問う作業は、歴史に
誠実でありたいと願う原告団の熱い想いと国賠提訴の法理を構築し、国家の犯罪
を指弾しようという若い弁護団のチームの熱情に駆られたモノと言えよう。
  少数ながら本訴訟を息を詰めて見守っている若いジャーナリストがいる。
  原告訴訟代理人・小町谷育子弁護士や沖縄から弁護団に参加した岡島実弁護士
ら弁護団の大半が事件当時、幼児だった世代である。彼らは毎日新聞記者・西山
太吉が沖縄協定の密約を世に報せた記事を書いたことに畏敬の念を抱いている。
それは許せない国家のウソを明らかにし、法廷で断罪すべき法曹家の責務なのだ
と考えている。
  同時に37年前、権力に葬り去られた一新聞記者の復権と権力監視の番人として
のメディアの再生こそ本訴訟を提起した原告団の強固な意志である。ジャーナリ
スト、学者、法律家、市民ら25人の日本人の憲法と民主主義を実践する終わりの
ない闘いなのである。
  (筆者は沖縄密約情報公開訴訟原告団・日本大学国際関係学部・特任教授)

 註 この原稿は著者が「出版ニュース」6月号に寄稿されたものに加筆された
ものです。

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