【追悼】

「河上民雄先生を囲む会」の想い出           飯田 洋

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 私が河上民雄先生とお近づきになったのは、先生のお父上の河上丈太郎先生が
ご存命中の1950年代の後半の頃のことであった。当時私はまだ大学院に籍をおい
ていたが、丈太郎先生とともに社会党河上派の重鎮として活躍され、後に衆議院
副議長になられた三宅正一先生の知遇を得て、しょっちゅう衆議院議員会館に出
入りをしていた関係で、何度か丈太郎先生の部屋にもお邪魔し、すでに秘書を辞
めて教鞭についておられた民雄先生ともご挨拶をする機会を何回かいただいた。

 1960年には安保阻止闘争が闘われ、国会の周辺では連日大規模なデモが続き、
デモ隊と警官の衝突が起きていたが、当時ブントの端くれであった私も、毎日の
ように国会周辺のデモに参加していた。その渦中で丈太郎先生は、デモ隊の陳情
を受けている最中に暴漢に襲われ重傷を負い、その4ケ月後には、浅沼委員長が3
党首立ち合い演説会での演説の最中に暴漢に刺殺された。

 その後、民雄先生にお会いした時、今日本で何が起きているかを冷静に観察
し、真の大衆運動とは何なのか、真の政治的指導者は何をなすべきかを考察して
おいたほうがよいという意味のアドバイスを受けた記憶がある。晩年、民雄先生
から「安保闘争で右翼の凶刃の対象となったのは、二人とも社会党の右派に属す
る政治家だった。彼らはいかに大衆の前面に立って闘ったかという証拠だ」とい
う言葉をお聞きして、改めて大衆とともに戦う上でのリーダーシップのあり方に
ついて考えさせられることがあった。

 民雄先生とより親しいおつきあいをいただいたのは、先生が初めて衆議院に議
席を持たれた1967年以後のことである。実は私が師事していた三宅先生も、前回
の選挙で苦杯をなめ 同じく同年の選挙で復活した。かたや1年生議員と13回当
選の大ベテラン議員ではあったが、民雄先生は長年、丈太郎先生が存命中に議会
にいらしていたこともあり、お互いにしょっちゅう議員会館の部屋を行き来され
ていた。

 民雄先生の部屋は他の議員の部屋とは全く雰囲気が異なっていた。一般に議員
の部屋は選挙区の人々、陳情者、役人などがしじゅう出入りし喧噪をきわめてい
るのだが、先生の部屋は静寂そのもので春風駘蕩の感さえあった。私は先生が国
会や選挙区がえりで部屋を留守にされている時にはよく部屋を使わせていただき
読書したものである。三宅先生が1980年に引退されてからは民雄先生の部屋を使
わせていただく頻度がふえた。

 ある時、例によって先生の部屋を占領して読書をしていたところ、突然先生が
予定を変更して帰ってこられた。いきなりドアをあけて入ってこられた先生は開
口一番「これは失礼しました。私は秘書室にいますからどうぞごゆっくりお使い
ください」とおっしゃって出ていこうとされた。あわてた私はびっくりして部屋
をあけたのは当然だが、いかにも民雄先生のお人柄をしのばせる嘘のような話で
あった。

 民雄先生のお人柄をしのばせるエピソードをあげればきりがないが、小文は先
生を中心として活動した「河上民雄先生を囲む会」(以下「囲む会」)について書
くことが本旨なのでそちらに話題を移したい。「囲む会」が発足したのは何分古
いことなので正確なことは朧だが確か1998年前後だと記憶している。

 当時私は会社勤めの終盤にさしかかっていたが、ある日、故三宅先生の秘書で
あった須田儀一氏が会社に来られ、「有志が集まって政治を中心とした勉強会を
結成しないか」とのお誘いを受けた。当時、会社の業務にかまけて日本をとりま
く政治や経済の状態に疎くなっていた私は一も二もなく賛成して須田氏に会の実
現を依頼した。

 須田氏の構想では、講師格のキャップは民雄先生にお願いし、他に新聞社のO
Bや編集長クラスを中心とするジャーナリストを中心にしてそのほかに何名かの
官界、経済界のメンバーからなるあまり気のおけない会にしたらどうというもの
で、私は民雄先生への依頼や他のメンバーの人選を一任した。したがって、メン
バーがどのような経緯を経て選ばれたのか、会の性格や、様式がどのようにして
決められたのか私はあずかりしらないが、須田氏の提案から二、三ヶ月後に会は
発足した。名称は「河上民雄先生を囲む会』、開催は二ヶ月に一度、場所は霞が
関ビルの東海大学学友会館(通称44階)だった。

 メンバーは河上民雄先生を座長にし、ジャーナリストおよびそのOBが十名前
後、実業界から二名、官界OBから一名、元衆議院議員秘書が二名といった顔ぶ
れだったと記憶している。さしさわりがあるといけないのでここでは氏名は明ら
かにしないが、あえて失礼をかえりみず申し上げると当「オルタ」に毎号健筆を
ふるわれている朝日新聞出身の羽原清雅氏、コロンビア大学教授のジェラルド・
カーチス氏なども有力メンバーであった。民雄先生の選挙区の関係で神戸新聞の
関係者も二名ほど参加した。

 昼食と少々のビールを飲みながら約二時間半の会では毎回特に決められたテー
マはなかったが、メンバーの構成上どうしても政治問題が話題になることが多か
った。 特にジャーナリストのメンバーには、ミスター・チャイナというあだな
がつくほど中国問題に詳しい人や、元ワシントン支局長経験者、元首相の番記者
などその道の大ベテランが多く、当時はオフレコで聞けなかった歴史の裏側など
毎回びっくりするような秘話が披露され皆をびっくりさせた。

 ひととおり話題がもりあがるとメンバーのそれぞれが必ず口にするのは『この
問題について河上先生はどのようにお考えでしょうか』という質問だった。それ
に対して先生はいつもの静かな口調で、豊冨な知識に基きながらご自分の考えを
述べられるのが常であった。

 時には、多少のアルコールと会のさっくばらんな雰囲気も加わって、乱暴な意
見が出る場合もあったが、それらにたいしても先生は相手の立場を尊重されなが
らいつも微笑を絶やさず懇切丁寧に自分の信ずるところを披歴された。そして先
生の話が終わるとだれもが何故か納得したような気分にさせられるのである。こ
れが本当の人徳のなせる業なのだろうかと私はいつも思っていた。

 今考えてみると、メンバー全員にとって「囲む会」の最大の目的と喜びは民雄
先生の「思想」「歴史観」に触れられることにあったような気がする。その意味
では、会は「河上学校」とでもいえるものだった。もし、民雄先生がまだご存命
であったならば、今年の総選挙における民主党の壊滅的な敗北と安倍自民党の復
権をどのように分析され評価をくだされたであろうか、その機会を永遠に失って
しまったことは残念でならない。

 このようにして「囲む会」は民雄先生がご病気で入院するまでほとんど休会す
ることなく十数年にわたって続けられた。その間先生も何度かご体調がすぐれな
いことがあったが、時には奥様が会場までつきそってこられたこともあった。先
生の責任感と几帳面さにあらためて驚きを禁じえないが、あるいは私たちのよう
な出来の悪い後輩が勝手なことを発言して困らせるのを先生も楽しみにされてい
たのではないかとふと感じたりしている。

 先生の没後、何回かメンバーの間で会の今後が話し合われたことがあったが、
先生のいらっしゃらない会ではたんなる懇親会に終わってしまってあまり意味が
ないのではないかという意見が多く、進んではいない。どうやら「河上民雄先生
を囲む会」はその存在意義を終えたようである。今、この文を書きながら、改め
て故河上民雄先生の偉大さに尊敬と敬慕の念をおぼえざるを得ない。

 心からご冥福をお祈り申しあげます。

          (筆者は元パラマウントベッド専務)