【コラム】
風と土のカルテ(82)

「海と毒薬」の真実

色平 哲郎

 新型コロナウイルス感染症の治療に当たる医療現場は、しばしば戦場にたとえられるが、まさかウイルスと医療者の戦いを本物の戦争と同一視する人はいないだろう。コロナ治療は、平和だからできているのである。

 弥生3月は先の大戦の記憶を呼び起こす。1945年3月10日、東京の都市部はアメリカ軍による無差別攻撃で、一晩に8万4,000人以上の命が奪われた(警視庁史編さん委員会編『警視庁史 昭和前編』、1962)。この東京大空襲で、一夜にして東京市街地の東半分、区部面積の3分の1が焼失し、大量の戦争孤児が発生している。

 つくづく戦争とは恐ろしいものだと思う。平和あっての医療であり、戦争は医療をすさまじく、ねじ曲げる。

 作家・遠藤周作の『海と毒薬』という小説をお読みになった方は多いと思う。これは太平洋戦争末期、九州の大学附属病院における米軍捕虜の生体解剖事件を小説化し、「日本人はいかなる人間か」を追究した作品だ。
 どのような精神的倫理的な真空が、医師を残虐行為に駆り立てたのか、重い問いを投げかけてくる。

 遠藤は、この続編を書こうとして断念している。事件に関係した人たちから手紙をもらい、小説によって自分たちに裁断を下し、非難したと抗議されたようだ。「罪」以降を生きている当事者にとって、内面的な「罰」は、日々、続いている。そこを暴かれた気がしたのだろうか。続編を書けば、さらに傷に塩をすり込むことになりかねず、遠藤は断念したと思われる。

 実は、事件の当事者の1人の手記『戦争医学の汚辱にふれて──生体解剖事件始末記──』 (文藝春秋 1957年12月号 平光吾一著)がネット上の電子図書館「青空文庫」で公開されている。
  https://www.aozora.gr.jp/cards/002008/files/59172_68021.html
 これを読むと、フィクションではない、本当の事実関係が見えてくる。

 そもそも戦争中、大学医学部は「戦時医学の研究」を軍から命じられていた。傷病兵の治療などを通して、大学と軍は馴れ合う。西部軍司令部には、米軍飛行士が捕縛されていた。そこに大本営から「米軍飛行士の中、無差別爆撃を行った事実あるものは速かに断罪すべし」と命令が下る。西部軍法務部は30数名の捕虜に死刑を宣告し、一部の捕虜は福岡大空襲の翌朝、斬殺された。一方で西部軍首脳部には捕虜処刑をもっと有意義な方法で断行すべきだとの意見があり、「戦争医学」を進歩させる実験台に捕虜を使うこと、いわゆる生体解剖が実行されたのだった。

 執刀した外科部長は、取り調べ中に自決し、正確な記録を残さなかった。手記の著者は、こうつづっている。

 「彼(外科部長)のとった手段はやり過ぎだったとしても、決して捕虜を徒殺したわけではなかった。たゞ惜しむらくは、この手術に関する記録を全く残しておかなかったことである。第二次大戦中ドイツのブラントという博士は、石山氏と同じく捕虜に対する実験手術を行い、その助手と共に絞首刑に処せられたが、彼はその時の研究記録一切を残していた。そのため、戦後のドイツ外科医学は、それによって大いに向上したという例があるからである」

 平時の倫理観からすれば「戦争医学」のための生体実験が許されるはずもない。しかし、筆者は次のように真情を吐露している。

 「無差別爆撃し、無辜の市民を殺害した上、捕縛された敵国軍人が、国土防衛に任ずる軍隊から殺されるのは当然だと思った。まして当時たゞ一人の伜をレイテ島で失った私にすれば、それが戦争であり、自然の成行きなのだと信じていた」

 戦争は報復の連鎖を生み、人間を内面から破壊する。
 平和あっての医療である。

 (長野県佐久総合病院医師・『オルタ広場』編集委員)

※この記事は著者の許諾を得て『日経メディカル』2021年02月26日号から転載したものですが、文責は『オルタ広場』編集部にあります。
 https://nkbp.jp/3urrQZo
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