■【随筆】

「薄墨桜と諸葛菜」               富田 昌宏

───────────────────────────────────
  3月の中・下旬からわが家のだだっ広い屋敷に、諸葛菜の薄紫の十字花が一斉
に咲き出した。荒れ放題の植木場や裏手の栗林にも所狭しと咲き乱れるのである。
  四月に入ると、岐阜から取り寄せた六本の淡墨桜が可憐な花をつける。私はこ
の花を“モナリザの微笑”と名づけた。天上の桜花と地上の諸葛菜の色の対比を
楽しみながら、朝夕の散策に至福の一刻きを過ごす。
  そよそよと吹く風に、紫の花はさざなみのごとく揺れ、納屋も母屋も波に浮か
ぶ帆船のような錯覚を覚える。

        納屋浮かす紫の波や諸葛菜     昌宏

        モナリザの微笑淡墨桜かな     昌宏

  諸葛菜は、むらさき花菜、花大根とも呼ばれる。江戸時代に中国から渡来し、
草丈は40~60センチで全株無毛。土質を選ばず、こぼれ種でもよく増える。花期
は長く、五月頃まで咲き続ける。
  諸葛菜は、三国志の軍師、諸葛孔明が兵にこの種をもたせて兵糧としたり、戦
旅の道々にこの種を蒔きつつ進み、食糧としたと伝えられており、そこからこの
名がつけられた。いわば、諸葛孔明の野菜といってもいい。
  この花には秘話がある。ほぼ半世紀前の昭和41年の朝日新聞に、一婦人の投
書が載った。
「父は戦争中、南京の紫金山麓に咲くこの花の美しさに打たれ、のちにこの種を
送ってもらい栽培しました。これが花大根です。(中略)父はさらに多くの方に
種を蒔いていただき、日本中でこの可憐な花が見られたらと病床で願っていま
す。」
  この投書が載った2日後にその方の父君、山口誠太郎さんは亡くなられた。し
かし、花大根を求める声は澎湃として起こり、一万人にのぼる人々に種が送られ
たという。

山口さんは日中戦争当時、衛生材料廠長として活躍。中国の山野に散った人々
への鎮魂の心から、日本の山河をむらさきの花菜で埋めんと発願されたにちがい
ない。さらに、昭和60年に開かれた筑波科学博の時には「平和の花だいこんを
広める会」が結成され、来場者100万人にこの花の種が配られたのである。そ
の子袋には「この花の種は山口さんの平和を願う心がこもっています」という
趣意書が添えられてあった。

  さて、桜。淡墨桜に次いで染井吉野が開花し、ついで山桜。私の家は大平山、
晃石山と続くこの山脈一帯は“桜峠の万本桜”の名で知られる山桜の名所で、四
月上旬から中旬にかけて、千数百本の山桜が一斉に開花する。華麗というよりは
“心に染みる”美しさである。そして私の庭は八重桜へとつづく。
  これらの花あ次々と散り始め、諸葛菜の波間に漂うさまは、源平の合戦で壇ノ
浦で入水された安徳天皇を想起し、しばし、瞑想にふけるのである。
  そして、桜が散り始めるとたらが芽を出し、筍が頭をもたげる。この頃から早
起きして筍を掘り、近くの農産物直売所に出荷するのが日課の一つとなる。

         初筍秘仏のごとく掘られけり       昌宏

         筍の止めの鍬をそらしけり        昌宏

         竹の子の身ぐるみ剥いで釜茹に      昌宏 

                                                    目次へ