【視点】

「複合インフレ」に備えよ

高成田 享

 オミクロン株の急拡大で明けた2022年、私たちの生活を脅かすのは、パンデミックだけではない。昨年から兆候の見えていた物価上昇は、ことしさらに加速化しそうだ。その原因をさぐると、需要の拡大が価格の上昇を引き出すデマンドプル・インフレ、原材料費や賃金の上昇が物価を押し上げるコストプッシュ・インフレ、さらには、過剰な国債発行や貨幣の供給による財政・信用インフレなどの芽を見ることができる。これらの芽が育てば、「複合インフレ」となり、ひとつの要因が改善されてもほかの要因がはびこり、長期化するおそれもある。デフレに悩んできた日本経済だが、これからは一転してインフレをおそれることになりそうだ。

 ◆ 猛虎伏草

 猛虎伏草とは、英雄が世に隠れているたとえだが、寅年のことし、草に伏していた猛虎が頭をもたげるイメージは、出現の機会をうかがっていたインフレが姿を見せる様子と重なる。

 すでにインフレの芽は出始めている。昨年後半から原油や天然ガスなどエネルギー価格が高騰し、昨年末には主要な消費国が原油の国家備蓄を放出することになった。“産業のコメ”となった半導体の不足は電子製品や自動車などの品不足と値上がりを引き起こしている。さらに、食料でも牛肉や小麦などの国際相場が値上がりしたり、ジャガイモのサプライチェーン(供給網)が細くなったため日本のマクドナルドがポテトフライを店頭で十分に提供できなくなったりしている。

 物価の上昇は、世界に及んでいて、2021年11月の主要国の消費者物価の上昇率(前年同月比)をみると、米国6.8%、ドイツ5.2%、英国5.1%、韓国3.7%など、軒並みに好ましいインフレ率とされる2%を超えている。日本は0.6%と低いが、それでも2020年の0.0%よりは高い水準になってきている。

 ◆ デマンドプル・インフレ

 インフレの第1の要因は、需要の回復だ。ワクチン接種が進んだ国では、ロックダウンなどの厳しい行動規制を緩和したことで、それまでの反動から消費需要が大きく回復している。需要が拡大する一方で、ワクチン接種が遅れている途上国などでは生産の回復が遅れ、需要の拡大と供給の不足が物価上昇を引き起こしている。

 半導体の品不足と値上がりは、スマホから家電品、自動車など幅広い分野に及んでいるが、その根底にあるのは、自動車のデジタル化の加速、スマホやゲームなどの高性能化などによる需要の増加に対して、半導体の世代交代に応じた設備投資の遅れに、コロナ禍による東アジアの生産工場の停止や米中摩擦による中国製半導体の供給不安などの要因が加わっている。

 需要の拡大に供給が追い付かない状態は、景気の拡大を示すもので、物価の値上がりも供給が追い付くようになれば解消されるので、こうしたデマンドプル・インフレは好ましいインフレと言われている。

 インフレ率と反比例する(フィリップ曲線)傾向がある失業率の推移をみると、各国ともコロナの影響で高くなっていた2020年の失業率が改善されていて、「良いインフレ」の側面もうかがうことができる。

 ◆ コストプッシュ・インフレ

 しかし、今回の値上がり要因はこればかりではない。エネルギー価格上昇も、中国や日本などの原油輸入国の消費回復がきっかけだが、それだけでなく、産油国が脱炭素の流れに対抗して、原油の産出量をふやさず価格上昇で稼ぐ政策を取り始めたことも影響している。これは意図的な供給抑制であり、こうした政策が継続するようなら、かつての石油ショックのように原油価格が新しい水準になったとみるべきで、インフレの第2の要因であるコストプッシュ・インフレになりかねない。

 不気味なのは天然ガスの値上がりで、産出国のロシアがウクライナ経由のパイプラインで欧州へ流すガスの供給を減らしているのが根底にある。ウクライナをめぐるロシアとNATO諸国との綱引きが反映されているよう、この地政学的リスクが高まれば、エネルギー価格全体を引き上げることにもつながりそうだ。

 コムギやトウモロコシなど穀物、牛肉など食肉価格の国際市況の値上がりは、干ばつなどの天候不順にコロナ禍による食品工場や運輸業での人手不足、経済力を増した中国の牛肉などの輸入増などが原因としてあげられる。

 ◆ サプライチェーン危機

 半導体を使う商品群だけでなく、クリスマス商戦の雑貨や服飾品の品不足で明らかになったのは、世界的な製品や部品の供給網(サプライチェーン)の脆弱さである。これもコストプッシュ・インフレを引き起こす背景になっている。

 携帯電話などの電子製品は、部品ごとに供給企業が異なる水平分業が進み、電子製品の心臓ともいえる半導体では、設計・前工程・後工程などの製造プロセスで、それぞれ得意な企業が異なり、それが国や地域を超えてひとつの製品ができている。どこかで生産が滞れば、またたくまに供給不足が生じる仕組みになっている。

 自動車製造で発達したできるだけ在庫を持たないジャストインタイム方式、スマホの製造などで広がった製造工場を持たないファブレス方式のアキレス腱がサプライチェーンだったことが露呈した。これまでコスト削減になっていた生産方式が逆流しはじめたことは、長期的なコスト増につながっていくものとみられる。

 製品や部品の海上輸送では、コンテナやコンテナ船、さらには港湾労働者の不足から輸送運賃が高騰する一方、欧米の港湾では積み荷を降ろせない船舶や荷物を運ぶトラックの滞留が常態化した。

 こうした供給網の危機に追い打ちをかけているのが供給国や地域の人権問題で、高級綿花やシリコンの産地である新疆ウイグル地域で労働者への人権抑圧問題が国際的な非難を呼び、米国は昨年末にウイグル強制労働防止法を成立させ、ウイグル地区からの原材料の輸入を規制する動きを本格化させた。新疆ウイグル地区の原材料を使った製品を米国市場で販売する企業だけでなく、そうした製品を製造・販売している企業の社会的責任が問われることになる。

 こうした供給網危機を避けるには、在庫投資を積み増すという対処療法だけではなく、できるだけ自社や自国、友好国での製造能力をふやすことが必要になる。半導体では工場の自国回帰がはじまったが、企業にとっては、サプライチェーンの見直しや再構築はコスト増につながることもあり、これもコストプッシュ・インフレの要因になる。

 ◆ 財政・信用インフレ

 インフレで何よりも恐ろしいことは、その国の貨幣に価値がなくなることだ。ベネズエラの2021年のインフレ率は2,700%だった。1本100円のジュースが2,800円になるという感覚だろうか。とんでもない気がするが、これでもずいぶんと改善されたようで、2018年のインフレ率は65,374%だった。100円のジュースは65,474円という計算になる。

 貨幣が信用を失うのは、中央銀行が紙幣を大量に発券し、マネーの供給を膨張させる時で、中央銀行が国債などを大量に購入することで起こる。2008年のリーマンショックが世界恐慌を引き起こすことを警戒した米国の連邦準備制度理事会(FRB)は、債券や株式を大量に購入して通貨供給をふやす量的緩和政策を始め、これに欧州中銀、イングランド銀行、さらには日本も追随した。

 リーマンショックによる世界的な生産活動の縮小はすぐに収まったが、量的緩和政策は10年も継続された。各国の財政当局は金融政策を「正常化」させる「出口戦略」を模索していたが、2020年に新型コロナウイルスのパンデミックが起き、各国の政府は国債を大幅に増発したことで、中央銀行の出口から引き返すことになった。

 金融市場はこの間の量的緩和を背景に株価を上げてきた。しかし、量的緩和を長期的に続けることは、通貨の価値を貶(おとし)めることにつながるので、インフレへの警戒感が出てくるのも当然で、金価格は2016年ごろから上がりはじめ、2018年から2000年にかけて高騰し、現在も高値圏で推移している。

 先進国の政府・中央銀行は、国債発行や量的緩和がインフレを進行させないようにコントロールしているし、ましてベネズエラのようにはならないと思っている。昨年後半から消費者物価が上昇している米国は、FRBが金融の量的緩和の縮小に踏み切り、ことし中には政策金利の引き上げに踏み切るとみられている。欧州中銀もすでに量的緩和の縮小に入っている。

 アンダーコントロールと言いたいところだが、日本は大丈夫だろうか。国債発行残高が2021年度末までに1,000兆円を突破するのは確実で、地方債などを含めた日本の公的債務残高は2020年でGDPの256%に達し、G7では圧倒的に高い水準になっている。

 米欧の中央銀行が量的緩和をやめて利上げの構えを見せる時期になっても、従来の政策を維持するとしている。米欧とのスタンスの違いは、より通貨の価値を貶めている円の通貨安に反映し、今後、米欧が利上げに動けば円安はさらに加速する。為替は、国の経済力を示す指標でもあるから、円安の加速は輸入インフレだけでなく、日本の衰退をさらに早めることに働くだろう。

 ◆ 「複合インフレ」のゆくえ

 デマンドプル・インフレ、コストプッシュ・インフレ、財政・信用インフレと、これから予想されるインフレは、「複合インフレ」になるとの見方を示した。よもやベネズエラにはならないと思うが、コストプッシュ・インフレが色濃くなると、景気が悪化する中で物価だけがじりじりと上がっていく状態になり、1970年代の石油危機後に世界経済をおびやかした「スタグフレーション」に陥るおそれは十分にある。

 この言葉は、景気後退(スタグネーション)とインフレーションとを組み合わせた造語だが、日本がデジタルトランスフォ―メーション(DX)の波に乗り遅れれば、その可能性は高くなる。米欧では、コロナ禍のなかで、自宅からリモートで仕事をこなす労働者がふえた。日本でも非常事態宣言下での在宅勤務がふえたが、宣言が解除されると、出社する人がふえ、朝夕の通勤ラッシュも復活した。

 在宅勤務は、会社という空間的な場が働く場所ではなく、ネット空間が働く場所になるという大きな変化をもたらし、産業革命以降の会社や工場で働くという労働慣行を変えた。ビジネスの合理化や効率化、さらには働き方改革による生産性の向上や消費需要の拡大にもつながるはずだが、出勤が常態化すれば、元の木阿弥になる。

 「複合インフレ」が猛威を振るうのを妨げ、スタグフレーションを回避するのは、技術革新しかない。ことしは、日本がじり貧となるのを食い止める最後のチャンスとなるだろう。

 (経済ジャーナリスト、元朝日新聞論説委員)

(2022.1.20)
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